竹林の愚人  WAREHOUSE

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流通革命の真実

2007-12-02 08:12:09 | BOOKS
渥美俊一 「流通革命の真実 日本流通業のルーツがここにある!」 ダイヤモンド社 2007.03.08. 

ダイエー創業者の中内功は日本の流通革命の母である以上に、偉大なる発明家であり、発見家、社会啓蒙家でした。 中内は2つの画期的な革命を成し遂げました。1つは、チェーンストアへの飛躍の基盤となるビッグストアづくり。もう一つは、日本で初めてチェーンの本部を独立してつくったことです。 1957年(昭和32年)に出店したダイエー1号店の大阪千林駅前店で、大きくならないと安く売ることができないとわかり、店数を増やそうと努力しました。店数を増やすために銀行から借り入れを起こすには、増資をし続け、収益性のいい企業でなければならないと考えました。 面積を拡大すれば、企業としての売上は増え、仕入れパイプは太るという考え方で、1年ごとに3倍以上の面積拡大をやり、どこよりも早くスーパーストア化と店数拡大とに取り組みました。さらに重要なことは、大衆品、実用品を売るという考え方に徹したことです。 昭和50年代後半から60年代前半は、日本のNBメーカーの勃興期で、そのNB商品を片端から扱い、ベーシック商品中心のセルフの大型店、つまり現在の総合店のモデルを誰よりも早く開発します。ダイエーは日本初のアメリカ型ショッピングセンターも開発しました。 中内さんはドラッグストアも、スーパーマーケットも、フードサービス業も、さまざまな業態を打ち出しましたが、チェーンストアのフォーマットの確立には失敗しました。 マーケティング上、TPOSごとに必要な商品の品質は違う、という問題に気づかなかったこと、メーカーとは違う形でトレードオフができなかったこと。この2点で、中内さんは技術的に失敗しました。 ダイエーは最大で800店規模まで店数は伸びましたが、マスの効果がまったく出ていません。ベンダーや取引先は、ダイエーが規模を急速拡大していくにつれて、異常なほどの協力体制を敷きました。ダイエーは1968年にコンピューターシステムを導入し、1971年には商品管理のための商品受発注システムを稼働させたこの分野の草分けです。しかし、商品の品目と量の決定ではベンダーが主導権を持っているため、店段階の商品管理体制の「標準化」が進まなかったのです。 減益となった1976年以降、決算期が近づくと根拠のない協力金や商品納入条件の変更など、ベンダーへの?特殊な頼みごと″をしてダイエーは堕落していきます。ベンダーから物流センターのセンターフィーをとるという悪しき慣習を最初につくったのもダイエーでした。何度か公正取引委員会の摘発を受けましたが、不当取引は25年以上続いてきました。その結果、バイヤーは理由のない値下げ要求を繰り返すだけで、品ぞろえも仕入れもベンダーへの包括委任に近い形になり、ベンダーにとってダイエーは死に筋商品の便利な押し込み先にもなったわけです。原因はバイヤーの道徳心の薄弱さではなく、マネジメント体制ができていなかったことにあります。 小売業としての人材の開発・育成に、どこよりも早く積極的に取り組んだことも歴史的な中内さんの偉業です。初めての労働組合結成から、労組と協調して労働条件や職場環境の整備にも取り組みました。 一般産業界からの40歳以上のスカウト人事を、最も早く多くやったのもダイエーです。しかし、マネジメントができる人ほど社内で優遇されず、長続きせずに辞めていきました。そういう意味では、ダイエーは野武士集団だったのです。 中内さんは爆発的な野性と鋭敏な感性、たくましい実行力を持ち、そのカリスマ性が、逆風時には最大の弱点になり、軌道逸脱があっても誰も反対できなくなりました。 残念ながら、ダイエーには、頑張リズムの権化はいっぱいいても、厳密なマネジメントシステムづくりのできる人材は育っていなかったのです。