ドナルド・キーンさんの「石川啄木」を読んだけど、
最後の文章がとてもよかったので書き写すね。
こんな本を読むともっと本を読まないといけないなぁと
いう気持ちになるよね。
最後の「ついには我々にとって忘れ難い人物となる」と
いう一文を見て、Jean Giono(ジャン・ジオノ)の
L'homme qui plantait des arbres(木を植えた男)を
思い出したよ。
冒頭の段落の最後に「忘れがたい人物を私たちは
目の当りにすることになるのだ(on est alors devant
un caractère inoubliable)」とう文章が出てくるよね。
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千年に及ぶ日本の日記文学の伝統を受け継いだ啄木は、
日記を単に天候を書き留めたり日々の出来事を記録する
ものとしてでなく、自分の知的かつ感情的生活の「
自伝」として使った。
啄木が日記で我々に示したのは、極めて個性的でありながら
奇跡的に我々自身でもある一人の人間の肖像である。
啄木は「最初の現代日本人」と呼ばれるにふさわしい。
日本で最も人気があり愛される詩人だった三十年前に
比べて、今や啄木はあまり読まれていない。
こうした変化が起こったのは、多くの若い日本人が
学校で「古典」として教えられる文学に興味を
失ったからだ。
テレビその他の簡単に楽しめる娯楽が、本に取って
代わった。日本人は昔から読書家として知られてきたが、
今や本はその重要性を剥奪されつつある。
入学試験で必要となった時だけ本を読む若い男女も多い。
啄木の絶大な人気が復活する機会があるとしたら、
それは人間が変化を求める時かもしれない。
地下鉄の中でゲームの数々にふける退屈で無意味な
行為は、いつか偉大な音楽の豊かさや啄木の詩歌の
人間性の探求へと人々を駆り立てるようになるのでは
という期待を抱かせる。
啄木の詩を読んで理解するのは、ヒップホップ・ソングの
歌詞を理解するよりも努力が必要である。
しかし、ファスト・フードから得られる喜びには
限度があるし、すぐに満腹になってしまう。
石川啄木の詩歌は時に難解だが、 啄木の歌、
啄木の批評、そして啄木の日記を読むとは、
単なる暇つぶしとは違う。
これらの作品が我々の前に描き出して見せるのは
一人の非凡な人物で、時に破ではあっても
常に我々を夢中にさせ、ついには我々にとって
忘れ難い人物となる。
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