ううう、ついにドラマ『舟を編む』、
第十話(最終回)の放送が近づいてまいりました。
私はすでに滝のような涙を流しておる!
最終回だなんて、さびしいよう〜。
ずっとドラマの登場人物のみなさまを
見ていたいから、
もう『大渡海』、完成しなくていいよう〜。
それはダメです、完成してほしい!
玄武書房初の中型国語辞書『大渡海』が、
最終回で本当に完成するのかどうかは、
現時点で予断を許しません。
まあ、「辞書を作るぞー!」って話を、
全十話かけて描いてきて、
ラストで「辞書は完成しませんでした」
って結論になるとしたら、
かなり斬新な展開というか、
型破りすぎる気がするけども。
ずっとドラマを見て、
登場人物を心から応援しつづけてきた我々の、
この気持ちの持って行き場はどうなるんだ!
と、暴動が起きるやもと案じられますな。
はてさて、
『大渡海』は無事に完成するのでしょうか。
ぜひとも、明日の夜10時から、
NHK BS/NHK BS4Kで、
『舟を編む』第十話をご覧ください。
どうぞよろしくお願いいたします。
「ネタバレ」について考える(唐突)。
みなさま、
『大渡海』は無事に完成するんじゃないかな〜
と、なんとなく思ってますよね?
いや、ご油断めさるな。
完成しない可能性もまだ残ってるわけですが、
それでもなんとなく、
ストーリーのセオリーとして、
完成するんじゃないかな〜
と思っている。
つまりさ(唐突にタメ語)、
「辞書を完成させようと奮闘する人々」とか、
「箱根駅伝に出場しようと奮闘する人々」みたいな、
わりと直線的な(「単純な」とも言い換えられる)
ストーリーラインの場合、
「完成させられるか否か」「出場できるか否か」が、
話の焦点ではあるんだが、
その結論を「ネタバレ」したからといって、
作品自体のおもしろさは削がれない。
みんななんとなく、
「登場人物たちがこんなにがんばってるんだから、
まあ、完成するんだろうな(出場するんだろうな)。
そうあってほしい」と、予想し、願っているから。
いやいや、ご油断めさるな。
その予想と願いを裏切って、あえて、
「完成しない(出場しない)」という展開に
持っていくケースもありえますからな。
それでもさ、
あえて裏切る展開に持ってく場合は、
もうちょっとまえから
(私の感覚だと八話ぐらいから。
小説だと、残り三分の一あたりで)、
「裏切る展開が、来るかも、来るぞ」って
予兆が濃厚にあるんじゃないかっていう気がする。
そうじゃないと、ややフェアじゃないというか、
登場人物たちを応援する視聴者や読者の気持ちを、
ほんとにただ裏切っただけになってしまうというか。
なにを言いたいかというと、
「なにかを成し遂げられるか否か」的な、
わりと直線的なストーリーラインの場合、
肝心なのは、
細部の強度である、
ということだ。
たとえば、「結論として、辞書は完成するんですよ」と
ネタバレされたとしても、
そんなことにはまったく影響されず、
楽しんだり涙したりできるぐらい、
登場人物の関係性や、ちょっとしたエピソードが、
丁寧に積みあげられているか、ということだ。
いやいやいや、ドラマの最終話で、
『大渡海』が完成するかどうかは、
ほんとにまだわかんないですけどね。
ご油断めさるな!
話をもとに戻すと、
「なにかを成し遂げられるか否か」的な
ストーリーラインで描こうとしていることの主眼は、
実は、「なにかを成し遂げられるか否か」ではない、
ということだ。
結果として辞書が完成しようと、完成しなかろうと、
どうでもいいというか。
むろん、完成してほしいけども。
肝心なのは、
なにかを成し遂げようとがんばったひとたちが、
その過程で、どんな経験や喜びや苦しみを味わい、
なにを感じたか、という「細部」のほうだと
個人的には思っている。
その部分は、決して「ネタバレ」しきれるものではない。
ざっくりと、かいつまんで、
「バラす」ことなどできないような、
微細にして繊細な「なにか」の積み重ねだからだ。
そここそが大事なんだよなあと、
ドラマを拝見して、改めて思う。
もちろん、
「登場人物たちはこんなにがんばってきたんだから、
報われてほしいな」と、心から応援している。
そう思わせてくれるぐらい、
細部が丁寧に積みあげられた
素晴らしいドラマだ。
でも一方で、「辞書が完成するか否かは、
もはや大きな問題ではない」とも思う。
表面的な結果よりも、もっともっと大事なことが
描かれているドラマだからだ。
私がたまに、「登場人物ががんばって、
なにかを成し遂げられるか否か」という
直線的な(単純な)ストーリーラインの話を
書きたくなるのは、
「なにかを成し遂げられないのは、
そのひとの努力がたりないからだ」という考えに、
「そうじゃねえ!」と言いたいからなのかもしれない。
結果や成果だけに重きを置いて価値判断する、
貴様(だれだよ)こそが単純なペラッペラ人間だ!
俺たち(だれだよ)は、結果や成果だけで
できてるんじゃねえ!
そういう気持ちと言いましょうかね、
ええ、ええ。
それゆえかわたくし、「ネタバレ」に関しては、
わりとゆるゆるな傾向があって、
推理小説の犯人をネタバレされても、
「あ、そうなんだー。まあ、推理の過程が
楽しいものだからな」と、あんまり怒りません。
……ネタバレされた犯人の名前を、
三秒後には忘れてしまってるから、
怒らないのかもしれない。
もしや、記憶力がやばいがゆえの寛容!?
唯一の例外は、映画『ラ・ラ・ランド』の結末を、
編集某氏がカット割りも含めて、
微に入り細を穿ってネタバレしてきたときで、
「まだ見てないって言っとるだろー!」と
激怒したのだが、実際に見てみたら、
某氏の説明から思い浮かべた
カット割りと全然ちがったので、
「ほうほう、なるほど」と楽しめた。
某氏の説明力(と当方の想像力)が
乏しいがゆえに、
救われる命(?)もあったというエピソードだ。
……なんの話だっけ?
そうだ、「ネタバレ」って、
そこまで厳禁にしなくても、
十二分に楽しめる創作物はけっこう多いよな、
という話でした。
美は細部に宿る。
創作物のキモは細部に宿る。
その事実を、私はドラマ『舟を編む』を
毎回、何度も何度も舐めるように拝見しながら、
改めて実感している。
ぜひ、最終話もお楽しみください。
はたして、『大渡海』は無事に完成するのか……!
(結局そこなの!? いままで書いてきたこと、
なんだったの!?)
第十話(最終回)の放送が近づいてまいりました。
私はすでに滝のような涙を流しておる!
最終回だなんて、さびしいよう〜。
ずっとドラマの登場人物のみなさまを
見ていたいから、
もう『大渡海』、完成しなくていいよう〜。
それはダメです、完成してほしい!
玄武書房初の中型国語辞書『大渡海』が、
最終回で本当に完成するのかどうかは、
現時点で予断を許しません。
まあ、「辞書を作るぞー!」って話を、
全十話かけて描いてきて、
ラストで「辞書は完成しませんでした」
って結論になるとしたら、
かなり斬新な展開というか、
型破りすぎる気がするけども。
ずっとドラマを見て、
登場人物を心から応援しつづけてきた我々の、
この気持ちの持って行き場はどうなるんだ!
と、暴動が起きるやもと案じられますな。
はてさて、
『大渡海』は無事に完成するのでしょうか。
ぜひとも、明日の夜10時から、
NHK BS/NHK BS4Kで、
『舟を編む』第十話をご覧ください。
どうぞよろしくお願いいたします。
「ネタバレ」について考える(唐突)。
みなさま、
『大渡海』は無事に完成するんじゃないかな〜
と、なんとなく思ってますよね?
いや、ご油断めさるな。
完成しない可能性もまだ残ってるわけですが、
それでもなんとなく、
ストーリーのセオリーとして、
完成するんじゃないかな〜
と思っている。
つまりさ(唐突にタメ語)、
「辞書を完成させようと奮闘する人々」とか、
「箱根駅伝に出場しようと奮闘する人々」みたいな、
わりと直線的な(「単純な」とも言い換えられる)
ストーリーラインの場合、
「完成させられるか否か」「出場できるか否か」が、
話の焦点ではあるんだが、
その結論を「ネタバレ」したからといって、
作品自体のおもしろさは削がれない。
みんななんとなく、
「登場人物たちがこんなにがんばってるんだから、
まあ、完成するんだろうな(出場するんだろうな)。
そうあってほしい」と、予想し、願っているから。
いやいや、ご油断めさるな。
その予想と願いを裏切って、あえて、
「完成しない(出場しない)」という展開に
持っていくケースもありえますからな。
それでもさ、
あえて裏切る展開に持ってく場合は、
もうちょっとまえから
(私の感覚だと八話ぐらいから。
小説だと、残り三分の一あたりで)、
「裏切る展開が、来るかも、来るぞ」って
予兆が濃厚にあるんじゃないかっていう気がする。
そうじゃないと、ややフェアじゃないというか、
登場人物たちを応援する視聴者や読者の気持ちを、
ほんとにただ裏切っただけになってしまうというか。
なにを言いたいかというと、
「なにかを成し遂げられるか否か」的な、
わりと直線的なストーリーラインの場合、
肝心なのは、
細部の強度である、
ということだ。
たとえば、「結論として、辞書は完成するんですよ」と
ネタバレされたとしても、
そんなことにはまったく影響されず、
楽しんだり涙したりできるぐらい、
登場人物の関係性や、ちょっとしたエピソードが、
丁寧に積みあげられているか、ということだ。
いやいやいや、ドラマの最終話で、
『大渡海』が完成するかどうかは、
ほんとにまだわかんないですけどね。
ご油断めさるな!
話をもとに戻すと、
「なにかを成し遂げられるか否か」的な
ストーリーラインで描こうとしていることの主眼は、
実は、「なにかを成し遂げられるか否か」ではない、
ということだ。
結果として辞書が完成しようと、完成しなかろうと、
どうでもいいというか。
むろん、完成してほしいけども。
肝心なのは、
なにかを成し遂げようとがんばったひとたちが、
その過程で、どんな経験や喜びや苦しみを味わい、
なにを感じたか、という「細部」のほうだと
個人的には思っている。
その部分は、決して「ネタバレ」しきれるものではない。
ざっくりと、かいつまんで、
「バラす」ことなどできないような、
微細にして繊細な「なにか」の積み重ねだからだ。
そここそが大事なんだよなあと、
ドラマを拝見して、改めて思う。
もちろん、
「登場人物たちはこんなにがんばってきたんだから、
報われてほしいな」と、心から応援している。
そう思わせてくれるぐらい、
細部が丁寧に積みあげられた
素晴らしいドラマだ。
でも一方で、「辞書が完成するか否かは、
もはや大きな問題ではない」とも思う。
表面的な結果よりも、もっともっと大事なことが
描かれているドラマだからだ。
私がたまに、「登場人物ががんばって、
なにかを成し遂げられるか否か」という
直線的な(単純な)ストーリーラインの話を
書きたくなるのは、
「なにかを成し遂げられないのは、
そのひとの努力がたりないからだ」という考えに、
「そうじゃねえ!」と言いたいからなのかもしれない。
結果や成果だけに重きを置いて価値判断する、
貴様(だれだよ)こそが単純なペラッペラ人間だ!
俺たち(だれだよ)は、結果や成果だけで
できてるんじゃねえ!
そういう気持ちと言いましょうかね、
ええ、ええ。
それゆえかわたくし、「ネタバレ」に関しては、
わりとゆるゆるな傾向があって、
推理小説の犯人をネタバレされても、
「あ、そうなんだー。まあ、推理の過程が
楽しいものだからな」と、あんまり怒りません。
……ネタバレされた犯人の名前を、
三秒後には忘れてしまってるから、
怒らないのかもしれない。
もしや、記憶力がやばいがゆえの寛容!?
唯一の例外は、映画『ラ・ラ・ランド』の結末を、
編集某氏がカット割りも含めて、
微に入り細を穿ってネタバレしてきたときで、
「まだ見てないって言っとるだろー!」と
激怒したのだが、実際に見てみたら、
某氏の説明から思い浮かべた
カット割りと全然ちがったので、
「ほうほう、なるほど」と楽しめた。
某氏の説明力(と当方の想像力)が
乏しいがゆえに、
救われる命(?)もあったというエピソードだ。
……なんの話だっけ?
そうだ、「ネタバレ」って、
そこまで厳禁にしなくても、
十二分に楽しめる創作物はけっこう多いよな、
という話でした。
美は細部に宿る。
創作物のキモは細部に宿る。
その事実を、私はドラマ『舟を編む』を
毎回、何度も何度も舐めるように拝見しながら、
改めて実感している。
ぜひ、最終話もお楽しみください。
はたして、『大渡海』は無事に完成するのか……!
(結局そこなの!? いままで書いてきたこと、
なんだったの!?)