先日、順番待ちしていたオルリー空港のイミグレーションにて、アバヤ(女性が体のラインを隠すために着る一枚の服。通常黒色)とへジャブ(頭にかぶせるスカーフ)をまとった、ずんぐりむっくりしたいかにもアラブのおばちゃんが、後ろを振り返って私に問う。
アルジェリアに行くの?
え?
何を唐突に。
私の顔には、そんなに色濃くアルジェリア色がのこっているのだろうか。
そしてアルジェリアでの人質事件を思い出す。
この件については、事件発生から今までずっと頭にひっかかっていたし、ずっと書きたいと思ってはいたものの、気持が重く、なかなか書けなかった。
とにかく、悲しい。
今回、第一報を受けた際、私は事件の詳細がいまいち掴めず、人質を拉致して、これから長い時間をかけて交渉に入るのではないかと、素人ながらに思ってた。
とにかく助かって欲しい。
けれど、その思いはすぐに叶わぬ願いに変わってしまう。
ここでは、事件の話をするつもりはない。
そんなこと、ニュースをみればいくらでも分かるから。
でも、話さずにはいられない私の思いをつづろうと思う。
私の色々をご存知の方は、知っていることだと思うけれど、私は、一年半ほどアルジェリアに住んでいた。
2008年から2009年にかけてのこと。
ベリーダンサーとして、単身派遣、アルジェのホテルで踊る毎日。
その間に知り合った人たちの中には、日本人もたくさんいて、日本が請け負ったアルジェリアの高速道路を作るプロジェクト関係者もいた。
そんな繋がりで、周りに何もない地域に高速道路を建設するため、長期間アルジェリアに滞在している日本人の人たちのために踊って欲しいというリクエストを受け、建設に携わる全てのスタッフが暮らす、コンパウンド(壁などで囲まれた地区=ここでは居住区)を訪れたことがある。アルジェから、飛行機に乗って移動する距離である。
この高速道路建設の居住施設は、プロジェクトを構築する上で携わる大勢のスタッフが安心して暮らすことの出来るはずのコンパウンド。敷地内には食堂があったり、ビリヤードや卓球などが出来る娯楽室があったり、各々の部屋があったりと、そんな施設にはじめて足を踏み入れた私は、その光景を今でも鮮明に覚えている。
家族をおいて、そして日本を離れ、長期間に渡り、アルジェリアの片田舎でプロジェクトに取り組む。孤独で、過酷な環境だと思う。それでもなお、人々は仕事に打ち込む。そんな中で、自分の部屋がある居住コンパウンドは、わずかでもホッとできる環境だったかもしれない。
今回のイナメナスの居住コンパウンドがそれと全く同様だったかは分からないけれど、少なくとも、遠いアルジェリアの地で仕事をする人たちの、束の間の安らぎの場であったのではないかと思う。
安心できるはずのコンパウンド内にて起きた悲惨な事件。
どんなに怖くて、どんなに辛かっただろう。
どんなに無念で、どんなに生きたかっただろう。
可哀想で可哀想で、考えるだけで苦しくなる。
居酒屋で飲んでいるスーツ姿の方を見るたび、犠牲になってしまった方たちも、こんな風に皆とお酒を飲んでいるはずの人たちだったと思うと涙が出る。
今回犠牲になってしまった方の一人は、高速道路建設にプロジェクトにも携わっていた事があるという。
もしかしたら、私の踊りを観てくれた方かもしれない。
分かりえないことではあるけれど、中には、アルジェリア繋がりで私のブログを読んでいてくれた人もいるかもしれない。
心から、ご冥福をお祈りします。