黒人グループのNEW EDITION(ニューエディション)を取り上げていた流れで、グループから離れソロとなったボビー・ブラウンの2ndアルバムの紹介です。
88年6月に発売されたボビーの2nd『ドント・ビー・クルエル』は、シングルヒットを連発し、瞬く間にアルバムチャートも1位になり、最終的には89年の年間アルバムチャートにおいて、当時バカ売れのニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック、ポーラ・アブドゥル、ボン・ジョビ、ガンズ・アンド・ローゼズを抑え1位に輝くアルバムとなります。
R&Bアーティストのボビー、19歳の彼がスーパースターの地位に上り詰める事となります。アルバムセールスは、USAでは700万枚を超え、全世界で1,000万枚を以上の売り上げを記録します。
そしてこの『Don't Be Cruel』は、その後のR&B(90年代)の流れを作ったアルバムにもなりました。中古CD屋でも200、300円のコーナーに陳列されているのを見かけたりする事もありますが、エポックメイキングなR&Bアルバムなのです。
いい作品がきちんと多くのリスナーに受け入れられるというUSAの良識も感じます。
このR&Bアルバムが、HOT100の1位を制した要因は、いくつかあると思います。
まずはボビー・ブラウンの個性(ビジュアル)とストリート感覚。今や、ボビーもブクブクに太ったおっさんとなり、キレキレDanceの当時の面影はありませんが、当時のボビーは日本でも社会現象になっていた。
おれもボビ男になって踊りまくったよ(←大嘘)
ボビーは、R&Bのティーングループ、ニューエディションのメンバーとして14歳の時にデビュー。ニューエディションは、ジャクソンファイブの後、空白だったバブルガムソウルの系譜を引き継ぎ人気となります。ニューエディション(NE)は、R&Bグループとして多くのヒットをうみますが、ボビーはソロ活動への欲求を日に日に募らせていたようです。
NEのリーダーであり、リードボーカルは、ラルフ・トレスヴァント。セカンドボーカルのポジションにも不満があったのかもしれませんが、ボビーの方向性はStreetに向いていた。ラルフに象徴される、ある意味優等生的なR&Bグループのスタイルに違和感ももっていたのかもしれません。
もし自分の心に従わず、グループに留まっていたらこの成功もなかったでしょう。
ボビーは、自身に染み込んでいるStreetの感覚を音楽に表現しようとした。90年代に入るとR&Bとヒップホップの融合は進みますが、ボビーはその先駆者の一人となった。
グループを脱退し86年にソロアルバムを発表します。
このアルバムからの1stシングル「ガールフレンド」は、ミディアムバラード。ニューエディションとは違う新しいスタイルを提示したかったであろうボビーの意志とは裏腹に、MCAレコードは、まずは無難なバラードをシングルにし、ソロデビュー曲としてとして注目された部分もあるのか、楽曲的にはそこまでのインパクトのないこの曲でもR&Bで1位になります。
ボビーとしての勝負曲は、キャメオのラリー・ブラックマンProduceのエッジの効いたファンク曲「Girl Next Door」だったかもしれません。しかしこの曲はR&B-31位に終わります。アルバムも、R&B12位から上がりません。
ビックヒットしなかった1stですが、アルバム収録曲は攻めまくってます。
当時、シーンではほとんどラップ曲はありませんでしたが、Bobbyは数曲でラッピンしています。そしてそれがボーカルよりものりまくっていてめちゃいい感じ。
ニューエディションではできなかったであろうスタイルです。しかし1stシングルの「ガールフレンド」しか聞いていないリスナーは、ボビーのNew Styleを知ることもなくこのデビューアルバムをスルーした人も多いように思います。
プロモーションとタイミングがあえばこの1stでももう少しブレイクした可能性があります。
ボビーもR&Bでシングルが1位になったのは喜びだったようですが、アルバムセールスは伸びず、シングルヒットが2曲で終わったのは不満だったようです。
そしてボビーは、次のチャンス(2ndアルバム)に向けて、ボーカルを鍛え、精神を磨いたといいます。
実は、2ndアルバム発表までのこの期間がとてもつらかったと述べています。しかしこの期間の努力が2ndアルバムに向けての土台になったのは間違いない。
ボビーの歌声にも成功の要素があったと思います。
ボビーはめちゃくちゃうまいボーカリストではないと思う(もちろん下手くそでもない)。めちゃくちゃソウルというボーカルではないけど、ソウルさはあり、さらにエモーショナルさがある。このアルバムに収録された楽曲は、20歳のボビーの、ある意味完成されていないボーカルが大人の一歩手前の男性のLOVE SONGとしてフィットした。
次にサウンドの仕掛け人たちの功績です。ある意味、伏線は引かれていたように思います。
それを手繰り寄せたのが、当時のMCAレーベルを牽引した敏腕A&R(アーティスト&レパートリー:アーティストを発掘・育成する人)ルイス・サイラスJr.とボビー自身。
LA&BABYFACEとTeddy Riley(テディー・ライリー)という2組の新鋭Producerの起用が見事に当たります。
LAリード&BABYFACEとテディー・ライリーというプロデューサーチームが、その後のR&Bの流れを作る斬新でキャッチーなスタイルを提示した。そしてボビー・ブラウンという個性と見事にスパークしたのです。
前述のボーカルスタイルも、LA&BABYFACE作品では、CoolでEmotinal、SweetなボーカルがFitした。
Teddy Rileyの生み出すGrooveにも、Bobbyに染み込んでいるStreetの体臭と溶け合い、ファンキーで荒削りなVocalがFitした。
この2組は前年の87年からR&Bチャートを中心にヒットを生み出し、注目されていました。
LA&BABYFACEは、ウィスパーズのRomanticミディアム「Rock Steady」で初のR&B1位となります。HOT-100でも7位に入るのも納得の素晴らしい楽曲です。LAリードとBABYFACEも所属するグループThe Deelの「Two Occations」(BabyfaceもVocalをとる)もR&B-4位、HOT-100で10位というヒットをうみます。
ボビー自身もこれらのヒット曲や87年のDeelのこのアルバムを好み、アルバムを手掛けたProducerチーム・LA&BABYFACEに注目していたといいます。Deelの『Eye Of A Stranger』にも『Don't Be Cruel』の匂いを感じれると思います。
テディ・ライリーは1966年・NY生まれ。ボビーの3歳上のちょっと兄貴的な感じ。テディーの周囲にはヒップホップカルチャーが溢れており、そんな音楽を吸収し育っていく。テディ自身も、84年にティーングループとしてデビューしますがヒットせず解散。その後、マネージャー&共同プロデューサーのジーン・グリフィンの元、プロデューサー/アレンジャーとして活動を開始。当初は、クール・モーディー、へヴィーD&ザ・ボーイズなどのラップ系アーティストを手がけていた。
そして87年、R&Bフィールドに活動を拡げ、最初に手掛けたキース・スウェットの「I Want Her」でビックヒット(R&B1位/Hot100-5位)。
87年はマイケル・ジャクソンの『BAD』が発売された年。しかし、88年の年間No1シングルはマイケルではなくTeddyが手掛けたこの曲でした。(アルバム『Make It Last Forever』も年間R&B1位アルバム)
テディーはテクノロジーを駆使しつつも、決して機械的な音にはならず(←これ、すごいとこ)、Hip Hop感覚あふれる斬新なリズムアレンジと特徴的なスネアを組み合わせ独自のGrooveを生み出した。それがニュー・ジャック・スウィングだった。R&Bとヒップホップの融合だった。
テディー自身も88年に3人組グループ『GUY』としてMCAからデビュー。R&BとHip Hopが自然に融合したNew Jack Swing全開の素晴らしいアルバムです。
テディーとボビーの接点は、MCAが仲介したかと思っていたら、松尾潔氏の『松尾潔のメロウな季節』の中で、ボビーがジーン・グリフィン(当時のテディーのボス)の元を訪ねアプローチしたとあり、ちょっと驚いた。LA&BABYFACE作品だけでも成功は約束されていたと思うけど、テディー・ライリーの参加がなければボビーは頂点に立てなかったと思う。
こうして、この乗りまくっている2組のProducerが集い、見事なタイミングで制作されたのが『Don't Be Cruel』でした。
以前にも、NEW EDITIONの『HERATBREAK』(Jam&Lewis Produce)でも取り上げましたが、88年7月16日という同じ日に古巣のニューエディションのアルバムとボビーの2ndアルバムをリリースするという大胆な戦略をMCAはしかけてきますが、これも成功したように思います。
それでは『Don't Be Cruel』のシングルカットをおってみます。
まず、1stシングルとなったアルバムタイトル「ドント・ビー・クルエル」。R&B-1位/HOT100-8位
当時のLA&BABYFACEサウンドです。ストリングスにクラッシックのTasteも融合させつつ、Bobbyもクールでエモーショナルに歌います。さらにこの雰囲気にラップがのるという。
このクラシック的なストリングスとR&Bが融合したスタイルは、前年のペブルスのガールフレンド(HOT100-2位のビックヒット)でも見られました。
チャートは、R&Bで1位。HOT100でも8位に入ります。
グラミーでも最優秀R&Bソングにノミネートされています。(受賞は、アニタ・ベイカーの「Giving You The Best That I Got」でしたが)
このシングルで、ボビーはR&Bだけでなく、POPチャートでも受け入れられシーンは一気にボビー・ブラウンという男に注目しはじめるのです。
そして2ndが「My Prerogative」。R&B-1位/HOT100-1位
New Jack Swingの代表格の曲です。テディーにとっても初めてのHOT100での1位曲となります(もちろんR&Bでも1位)。最終的に、89年年間シングル2位。
ボビーの求めていたStreet感覚を、テディーのNew Jack Swingと呼ばれるGrooveで見事に表現する。それがPOPチャートでも見事に受け入れられるからすごい。
テディーとボビーのヒップホップ魂がスパークした曲。曲の中で、ボビーがテディーに声かけし、テディーのファンキーなキーボードプレイが入るところはめちゃしびれる。とても打ち込みサウンドとは思えないライブ感を感じる。
アルバム『Don't Be Cruel』からは5枚のシングルヒットが生まれますが、Teddy Produceの曲はこの1曲のみですが、強烈なインパクトを残します。
3rdシングルが、「Roni」。R&B-2位/HOT100-3位
LA&BABYFACE作品なので、LAのリズムアレンジは入っていますが、Babyfaceのソングライティングが光る超Sweetなバラッド。
BABYFACEはシーンに名を刻むソングライターとなりますが、初期のBABYFACEの作品としてもこの曲は光る。
90年代に入り、マドンナの最大のヒットシングルにもなる「Take A bow」やテヴィン・キャンベルの「Can We Talk」、BoysⅡMenの「End Of The Road」、トニー・ブラクストンの「Breath Again」等Sweet&Sentimentalバラードヒット曲を連発しますが、「ロニ」もそれクラスの楽曲だと思う。
さらにボビーのボーカルがいい。さらにFlow的な感じでのラッピンもすごくいい。HOT100でも3位になります。
4thが「Every Little Step」 R&B-1位/HOT100-3位
この曲は、元々Babyfaceのソロアルバム用の曲だったそうですが、気に入ったボビーにせがまれてfaceが譲ったらしい。Faceのアルバムには同系統の「My Kinda Girl」という曲が入っているけど、断然「Every Little Step」の方がいいし、Babyfaceのシングル曲として出していたら、ヒットはした思うけど、ここまでのメガヒット曲にはならなかったと思う。この曲もアルバムにおけるポジションもかなり重要。
実は、アルバム収録バージョンとシングルバージョンは違います。
LA&BABYFACE、88年後半から機材を大幅に入れ替えており、89年6月リリースとなったこの曲は新しい機材で作り直されているのでさらにいい感じの仕上がり。
アルバムでは、ラップもなかったけど、シングルバージョンでは大きくフューチャーされた。全体的に明るい曲調なんだけど、センチメンタルな隠し味がいいんだ。babyfaceのバックボーカルもよい。
よくこの曲をNew Jack Swing的にとらえている意見を聞くけど、サウンド的にはNJSじゃないですから~。LAFACEサウンドですから~。Music VideoはNJS的なDanceだけど。曲もいいし、踊りまくるBobbyも最高。
Bobby Brown - Every Little Step
このスタイルは、グラミーでも評価され、この曲で89年の年間最優秀男性ボーカルと年間最優秀R&Bソングを受賞。
ボビーもグラミー受賞アーティストとなります。
「On Our Own」 R&B-1位/HOT100-2位 ★ミリオン
この曲は、アルバムからのカットではなく、当時話題となった映画『ゴーストバスターズ2』の主題歌をボビーが任された曲。
MCAもサウンドプロダクションは、ヒット曲請負人と化したLA&BABYFACEを起用。LAFACEプロダクションも新しい機材で作ったデジタル色も強い曲。
LAFACEの曲ですが、このベース感はNew Jack Swingを意識した曲でもあると思います。
映画の主題歌なので、そのイメージも損なわないようにしていると思いますが、イントロからBobbyのラッピンが入り、Bobby節も全開の曲でHOT100も2位まであがります。
5thは「Rock Wicha」 R&B-3位/HOT100-7位
アルバム『Don't Be Cruel』は売れ続けます。5枚目のシングルもきってきます。89年9月リリースですよ。アルバムが出て1年を経のシングルリリースもすごい。
それでもHot-100でも7位に入る。
これも、シングル用にリミックし直されます。この頃、LA&BABYFACEの完全バックアップでデビューした3人組ボーカルグループ、After7がバックボーカルをつとめる。
アルバムバージョンの「Rock Wicha」はマイケル・ジャクソンの「Rock With You」の空気感も感じれていけど、シングルバージョンもメロウ感をかなり強め、また違った魅力が出てる。
こうして『Don't Be Cruel』からは1年に渡ってシングルヒットが続きアルバムも売れ続け、最終的には見事に88年で一番聞かれたアルバムとなるのです。
アルバム収録楽曲は9曲で、シングルカットされていない楽曲(Teddyのもうひとつの曲も含め)はそこまでの輝きはないですが、この5曲の出来が素晴らしすぎます。
この1年の中で、プロデューサーのLA&BABYFACEとTeddy RileyもTop Producerの地位を確立した。
LA&BABYFACEは、前述したように88年の途中から機材を一新しています。
前の機材で制作した最後の作品が、88年10月リリースのキャリン・ホワイトのデビューアルバムだと思います。
このアルバムはLA&BABYFACEのアーバンなBlack Musicの魅力が満載です。3曲のR&B1位ソングを生み、HOT100でも3曲がtop10に入り、ミリオンセールスとなります。
キャリン・ホワイトも魅力的なアーティストですが、LA&BABYFACEの勢いを感じまくれるアルバムです。
(リマスター盤でDeluxe Editionも出ています。ヒット曲のRemixバージョンや、Jam&Lewisが手掛けた「Not Thru Being With You」のリミックスも収録されていてけっこう貴重)
そして新しい機材でリミックスした『Don't Be Cruel』のヒットシングルを収録したのがこのアルバムです。
『Don't Be Cruel』のヒットシングル(リミックス盤も含む)と「On Our Own」も収録されています。シングルバージョンより、ちょっとイジリが入ってて邪魔だなとおもう箇所もあるのですが、Another『Don't Be Cruel』的でもあり、お買い得な1枚だと思います。
多くのアーティストが、このボビー・ブラウンのスタイルに魅了されると同時に嫉妬感も覚えたに違いない。
LA&BABYFACEの洗練されたスタイルとRomanticなバラードを歌いたい思ったはず。
Teddy RileyのGrooveに身を委ねたいと思ったに違いない。
そして、その思いを強く持ったアーティストのひとりにマイケル・ジャクソンもいたのだと思う。
LA&BABYFACEは『Don't Be Cruel』の後、プロデュース依頼が殺到。POPアーティストのシーナ・イーストンも手がけたりします(「Lover In Me」はHOT100-2位)。
TeddyもR&Bフィールドを中心に多くのアーティストを手がけます。あのクインシー・ジョーンズやスティーヴィー・ワンダーもテディーにリミックスを依頼した。
でもこの両者を同時起用する、起用できるアーティストはなかなかいなかった。
King Of Popのマイケル・ジャクソン自身も、『Don't Be Cruel』のスタイルに大いに刺激を受けた。
クインシー・ジョーンズとの三部作契約の最後の作品『BAD』発表後の次のプロジェクトに向けて動き出したとき、LA&BABYFACEとTeddy Rileyというプロデューサーの名前はマイケルの頭の中に一番にあったと思います。(さらにマイケルはもうひと組の最強Producer、ジミー・ジャム&テリー・ルイスの起用も考えた)
そんな中、マイケルよりも先にこの2組のProducerを同時起用したのがThe JACKSONSでした。
LA&BABYFACEやテディーにとっても憧れのジャクソンファイブから声をかけられ、多忙であってもスケジュールの調整をつけ最優先で参加したとと思います。
ただし89年のこのアルバム(今となっては最後のジャクソンズのアルバムとなっている)には、マイケルとマーロンは脱退によりいない。
ここでもLA&BABYFACEが「Nothin」という最高のシングル曲を提供しますが、リードをとるのはマイケルではなくジャーメインでした。「ナッシン」は、「あなたは最高、あなたと比較できるものは何もない」というRomantic Dance曲なのですが、元々はBabyfaceが憧れるマイケル・ジャクソンに提供したかった曲ではなかったのかと推測してしまう。 楽曲は最高なのですが、R&B-4位のヒットにとどまります。
さらにテディー・ライリーも「She」という「My Prerogative」の焼き直し的な曲も提供しますが、ランディーがボーカルをとったこの曲はシングルにはなりませんでした。LA&BABYFACEとTeddyは最高の楽曲を提供し、これらの曲だけでも買いですがマイケルのいないジャクソンズにシーンは見向きもしなかった。偏見を感じます。
この後も、LAFACEとテディー・ライリーが同時起用されるアルバムはなかなか登場しなかった。
そして前述のマイケル・ジャクソンのニューアルバムの話です。
この最強三大プロデューサーに実際に声をかけたマイケルのプロダクションですが、ジャム&ルイスは、自身のレーベルを立ち上げスケジュールが合わず(次のアルバム『History』で共演しますが)。
LA&BABYFACEもレーベルを立ち上げ多忙、さらにレーベルの起爆剤、マイケルの兄・ジャーメイン・ジャクソンを手がけている最中。しかし、ジャーメインの怒りを買いながらもマイケルの所に出向き、「Slave To The Rhythm」という楽曲を作り上げます。最終的にはアルバムには収録されず、長い間、この曲は封印されていましたが、マイケル逝去後のアルバム『XSCAPE』に収録される事となります。
こうしたわけで、最終的にTeddy RileyがメインProducerとなり、『Don't Be Cruel』の時よりさらに進化しているTeddyとマイケルの才能がスパークし91年『DANGEROUS』ができあがり、世界を席巻します。
『Dangerous』と同時期にボビーは3rdの『BOBBY』を発表。
再びこのアルバムでLA&BABYFACEとテディー・ライリーが集います。『Don't Be Cruel』の後のアルバムなので、全世界が注目した。
しかし、テディー・ライリーのグルーブのインパクトも大分薄れ(マイケルの方では炸裂してるけど)、LA&BABYFACEの楽曲のクオリティーも『Don't Be Cruel』の楽曲群の水準までいかず、アルバムはダブルミリオンには輝きますが、シーンにあらたな衝撃を与えることはできませんでした。、
LA&BABYFACEとTeddy RileyとJam&Lewisの3組が同時集結したアルバムは(私の知る限り)これまでありませんが、ボビー・ブラウンは、96年のニューエディションのリユニオンアルバムで、ジャム&ルイスとも絡みます。ボビーは、マイケル・ジャクソンと同様、この最強三大プロデューサーと共演した数少ないアーティストの一人となります。
『Don't Be Cruel』、メガヒットシングル5曲を収録したすばらしいアルバムだと思います。リマスター・デラックス盤出せばいいのにね。
Whitneyも逝ってしまい、愛娘も失い悲しみに暮れるボビーを見て悲しい気持ちにもなったけど、この作品は間違いなくシーンに歴史を刻んだ名盤、これからも輝き続けると思う。
★『Don't Be Cruel』のメガヒットシングル5曲と「On Our Own」のExtendedやリミックスバージョンを1枚1枚の紙ジャケシングルで収録したボックスセット。かなりおすすめ!
88年6月に発売されたボビーの2nd『ドント・ビー・クルエル』は、シングルヒットを連発し、瞬く間にアルバムチャートも1位になり、最終的には89年の年間アルバムチャートにおいて、当時バカ売れのニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック、ポーラ・アブドゥル、ボン・ジョビ、ガンズ・アンド・ローゼズを抑え1位に輝くアルバムとなります。
R&Bアーティストのボビー、19歳の彼がスーパースターの地位に上り詰める事となります。アルバムセールスは、USAでは700万枚を超え、全世界で1,000万枚を以上の売り上げを記録します。
そしてこの『Don't Be Cruel』は、その後のR&B(90年代)の流れを作ったアルバムにもなりました。中古CD屋でも200、300円のコーナーに陳列されているのを見かけたりする事もありますが、エポックメイキングなR&Bアルバムなのです。
いい作品がきちんと多くのリスナーに受け入れられるというUSAの良識も感じます。
このR&Bアルバムが、HOT100の1位を制した要因は、いくつかあると思います。
まずはボビー・ブラウンの個性(ビジュアル)とストリート感覚。今や、ボビーもブクブクに太ったおっさんとなり、キレキレDanceの当時の面影はありませんが、当時のボビーは日本でも社会現象になっていた。
おれもボビ男になって踊りまくったよ(←大嘘)
ボビーは、R&Bのティーングループ、ニューエディションのメンバーとして14歳の時にデビュー。ニューエディションは、ジャクソンファイブの後、空白だったバブルガムソウルの系譜を引き継ぎ人気となります。ニューエディション(NE)は、R&Bグループとして多くのヒットをうみますが、ボビーはソロ活動への欲求を日に日に募らせていたようです。
NEのリーダーであり、リードボーカルは、ラルフ・トレスヴァント。セカンドボーカルのポジションにも不満があったのかもしれませんが、ボビーの方向性はStreetに向いていた。ラルフに象徴される、ある意味優等生的なR&Bグループのスタイルに違和感ももっていたのかもしれません。
もし自分の心に従わず、グループに留まっていたらこの成功もなかったでしょう。
ボビーは、自身に染み込んでいるStreetの感覚を音楽に表現しようとした。90年代に入るとR&Bとヒップホップの融合は進みますが、ボビーはその先駆者の一人となった。
グループを脱退し86年にソロアルバムを発表します。
キング・オブ・ステージ | |
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ビクターエンタテインメント |
このアルバムからの1stシングル「ガールフレンド」は、ミディアムバラード。ニューエディションとは違う新しいスタイルを提示したかったであろうボビーの意志とは裏腹に、MCAレコードは、まずは無難なバラードをシングルにし、ソロデビュー曲としてとして注目された部分もあるのか、楽曲的にはそこまでのインパクトのないこの曲でもR&Bで1位になります。
ボビーとしての勝負曲は、キャメオのラリー・ブラックマンProduceのエッジの効いたファンク曲「Girl Next Door」だったかもしれません。しかしこの曲はR&B-31位に終わります。アルバムも、R&B12位から上がりません。
ビックヒットしなかった1stですが、アルバム収録曲は攻めまくってます。
当時、シーンではほとんどラップ曲はありませんでしたが、Bobbyは数曲でラッピンしています。そしてそれがボーカルよりものりまくっていてめちゃいい感じ。
ニューエディションではできなかったであろうスタイルです。しかし1stシングルの「ガールフレンド」しか聞いていないリスナーは、ボビーのNew Styleを知ることもなくこのデビューアルバムをスルーした人も多いように思います。
プロモーションとタイミングがあえばこの1stでももう少しブレイクした可能性があります。
ボビーもR&Bでシングルが1位になったのは喜びだったようですが、アルバムセールスは伸びず、シングルヒットが2曲で終わったのは不満だったようです。
そしてボビーは、次のチャンス(2ndアルバム)に向けて、ボーカルを鍛え、精神を磨いたといいます。
実は、2ndアルバム発表までのこの期間がとてもつらかったと述べています。しかしこの期間の努力が2ndアルバムに向けての土台になったのは間違いない。
ボビーの歌声にも成功の要素があったと思います。
ボビーはめちゃくちゃうまいボーカリストではないと思う(もちろん下手くそでもない)。めちゃくちゃソウルというボーカルではないけど、ソウルさはあり、さらにエモーショナルさがある。このアルバムに収録された楽曲は、20歳のボビーの、ある意味完成されていないボーカルが大人の一歩手前の男性のLOVE SONGとしてフィットした。
次にサウンドの仕掛け人たちの功績です。ある意味、伏線は引かれていたように思います。
それを手繰り寄せたのが、当時のMCAレーベルを牽引した敏腕A&R(アーティスト&レパートリー:アーティストを発掘・育成する人)ルイス・サイラスJr.とボビー自身。
LA&BABYFACEとTeddy Riley(テディー・ライリー)という2組の新鋭Producerの起用が見事に当たります。
LAリード&BABYFACEとテディー・ライリーというプロデューサーチームが、その後のR&Bの流れを作る斬新でキャッチーなスタイルを提示した。そしてボビー・ブラウンという個性と見事にスパークしたのです。
前述のボーカルスタイルも、LA&BABYFACE作品では、CoolでEmotinal、SweetなボーカルがFitした。
Teddy Rileyの生み出すGrooveにも、Bobbyに染み込んでいるStreetの体臭と溶け合い、ファンキーで荒削りなVocalがFitした。
この2組は前年の87年からR&Bチャートを中心にヒットを生み出し、注目されていました。
LA&BABYFACEは、ウィスパーズのRomanticミディアム「Rock Steady」で初のR&B1位となります。HOT-100でも7位に入るのも納得の素晴らしい楽曲です。LAリードとBABYFACEも所属するグループThe Deelの「Two Occations」(BabyfaceもVocalをとる)もR&B-4位、HOT-100で10位というヒットをうみます。
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クリエーター情報なし | |
Unidisc |
ボビー自身もこれらのヒット曲や87年のDeelのこのアルバムを好み、アルバムを手掛けたProducerチーム・LA&BABYFACEに注目していたといいます。Deelの『Eye Of A Stranger』にも『Don't Be Cruel』の匂いを感じれると思います。
テディ・ライリーは1966年・NY生まれ。ボビーの3歳上のちょっと兄貴的な感じ。テディーの周囲にはヒップホップカルチャーが溢れており、そんな音楽を吸収し育っていく。テディ自身も、84年にティーングループとしてデビューしますがヒットせず解散。その後、マネージャー&共同プロデューサーのジーン・グリフィンの元、プロデューサー/アレンジャーとして活動を開始。当初は、クール・モーディー、へヴィーD&ザ・ボーイズなどのラップ系アーティストを手がけていた。
そして87年、R&Bフィールドに活動を拡げ、最初に手掛けたキース・スウェットの「I Want Her」でビックヒット(R&B1位/Hot100-5位)。
87年はマイケル・ジャクソンの『BAD』が発売された年。しかし、88年の年間No1シングルはマイケルではなくTeddyが手掛けたこの曲でした。(アルバム『Make It Last Forever』も年間R&B1位アルバム)
テディーはテクノロジーを駆使しつつも、決して機械的な音にはならず(←これ、すごいとこ)、Hip Hop感覚あふれる斬新なリズムアレンジと特徴的なスネアを組み合わせ独自のGrooveを生み出した。それがニュー・ジャック・スウィングだった。R&Bとヒップホップの融合だった。
テディー自身も88年に3人組グループ『GUY』としてMCAからデビュー。R&BとHip Hopが自然に融合したNew Jack Swing全開の素晴らしいアルバムです。
Guy (Spec) | |
クリエーター情報なし | |
Mca |
テディーとボビーの接点は、MCAが仲介したかと思っていたら、松尾潔氏の『松尾潔のメロウな季節』の中で、ボビーがジーン・グリフィン(当時のテディーのボス)の元を訪ねアプローチしたとあり、ちょっと驚いた。LA&BABYFACE作品だけでも成功は約束されていたと思うけど、テディー・ライリーの参加がなければボビーは頂点に立てなかったと思う。
こうして、この乗りまくっている2組のProducerが集い、見事なタイミングで制作されたのが『Don't Be Cruel』でした。
以前にも、NEW EDITIONの『HERATBREAK』(Jam&Lewis Produce)でも取り上げましたが、88年7月16日という同じ日に古巣のニューエディションのアルバムとボビーの2ndアルバムをリリースするという大胆な戦略をMCAはしかけてきますが、これも成功したように思います。
それでは『Don't Be Cruel』のシングルカットをおってみます。
まず、1stシングルとなったアルバムタイトル「ドント・ビー・クルエル」。R&B-1位/HOT100-8位
当時のLA&BABYFACEサウンドです。ストリングスにクラッシックのTasteも融合させつつ、Bobbyもクールでエモーショナルに歌います。さらにこの雰囲気にラップがのるという。
このクラシック的なストリングスとR&Bが融合したスタイルは、前年のペブルスのガールフレンド(HOT100-2位のビックヒット)でも見られました。
チャートは、R&Bで1位。HOT100でも8位に入ります。
グラミーでも最優秀R&Bソングにノミネートされています。(受賞は、アニタ・ベイカーの「Giving You The Best That I Got」でしたが)
このシングルで、ボビーはR&Bだけでなく、POPチャートでも受け入れられシーンは一気にボビー・ブラウンという男に注目しはじめるのです。
そして2ndが「My Prerogative」。R&B-1位/HOT100-1位
New Jack Swingの代表格の曲です。テディーにとっても初めてのHOT100での1位曲となります(もちろんR&Bでも1位)。最終的に、89年年間シングル2位。
ボビーの求めていたStreet感覚を、テディーのNew Jack Swingと呼ばれるGrooveで見事に表現する。それがPOPチャートでも見事に受け入れられるからすごい。
テディーとボビーのヒップホップ魂がスパークした曲。曲の中で、ボビーがテディーに声かけし、テディーのファンキーなキーボードプレイが入るところはめちゃしびれる。とても打ち込みサウンドとは思えないライブ感を感じる。
アルバム『Don't Be Cruel』からは5枚のシングルヒットが生まれますが、Teddy Produceの曲はこの1曲のみですが、強烈なインパクトを残します。
3rdシングルが、「Roni」。R&B-2位/HOT100-3位
LA&BABYFACE作品なので、LAのリズムアレンジは入っていますが、Babyfaceのソングライティングが光る超Sweetなバラッド。
BABYFACEはシーンに名を刻むソングライターとなりますが、初期のBABYFACEの作品としてもこの曲は光る。
90年代に入り、マドンナの最大のヒットシングルにもなる「Take A bow」やテヴィン・キャンベルの「Can We Talk」、BoysⅡMenの「End Of The Road」、トニー・ブラクストンの「Breath Again」等Sweet&Sentimentalバラードヒット曲を連発しますが、「ロニ」もそれクラスの楽曲だと思う。
さらにボビーのボーカルがいい。さらにFlow的な感じでのラッピンもすごくいい。HOT100でも3位になります。
4thが「Every Little Step」 R&B-1位/HOT100-3位
この曲は、元々Babyfaceのソロアルバム用の曲だったそうですが、気に入ったボビーにせがまれてfaceが譲ったらしい。Faceのアルバムには同系統の「My Kinda Girl」という曲が入っているけど、断然「Every Little Step」の方がいいし、Babyfaceのシングル曲として出していたら、ヒットはした思うけど、ここまでのメガヒット曲にはならなかったと思う。この曲もアルバムにおけるポジションもかなり重要。
実は、アルバム収録バージョンとシングルバージョンは違います。
LA&BABYFACE、88年後半から機材を大幅に入れ替えており、89年6月リリースとなったこの曲は新しい機材で作り直されているのでさらにいい感じの仕上がり。
アルバムでは、ラップもなかったけど、シングルバージョンでは大きくフューチャーされた。全体的に明るい曲調なんだけど、センチメンタルな隠し味がいいんだ。babyfaceのバックボーカルもよい。
よくこの曲をNew Jack Swing的にとらえている意見を聞くけど、サウンド的にはNJSじゃないですから~。LAFACEサウンドですから~。Music VideoはNJS的なDanceだけど。曲もいいし、踊りまくるBobbyも最高。
Bobby Brown - Every Little Step
このスタイルは、グラミーでも評価され、この曲で89年の年間最優秀男性ボーカルと年間最優秀R&Bソングを受賞。
ボビーもグラミー受賞アーティストとなります。
「On Our Own」 R&B-1位/HOT100-2位 ★ミリオン
この曲は、アルバムからのカットではなく、当時話題となった映画『ゴーストバスターズ2』の主題歌をボビーが任された曲。
MCAもサウンドプロダクションは、ヒット曲請負人と化したLA&BABYFACEを起用。LAFACEプロダクションも新しい機材で作ったデジタル色も強い曲。
LAFACEの曲ですが、このベース感はNew Jack Swingを意識した曲でもあると思います。
映画の主題歌なので、そのイメージも損なわないようにしていると思いますが、イントロからBobbyのラッピンが入り、Bobby節も全開の曲でHOT100も2位まであがります。
5thは「Rock Wicha」 R&B-3位/HOT100-7位
アルバム『Don't Be Cruel』は売れ続けます。5枚目のシングルもきってきます。89年9月リリースですよ。アルバムが出て1年を経のシングルリリースもすごい。
それでもHot-100でも7位に入る。
これも、シングル用にリミックし直されます。この頃、LA&BABYFACEの完全バックアップでデビューした3人組ボーカルグループ、After7がバックボーカルをつとめる。
アルバムバージョンの「Rock Wicha」はマイケル・ジャクソンの「Rock With You」の空気感も感じれていけど、シングルバージョンもメロウ感をかなり強め、また違った魅力が出てる。
こうして『Don't Be Cruel』からは1年に渡ってシングルヒットが続きアルバムも売れ続け、最終的には見事に88年で一番聞かれたアルバムとなるのです。
アルバム収録楽曲は9曲で、シングルカットされていない楽曲(Teddyのもうひとつの曲も含め)はそこまでの輝きはないですが、この5曲の出来が素晴らしすぎます。
この1年の中で、プロデューサーのLA&BABYFACEとTeddy RileyもTop Producerの地位を確立した。
LA&BABYFACEは、前述したように88年の途中から機材を一新しています。
前の機材で制作した最後の作品が、88年10月リリースのキャリン・ホワイトのデビューアルバムだと思います。
Karyn White: Deluxe Edition (Remastered) | |
クリエーター情報なし | |
BBR |
このアルバムはLA&BABYFACEのアーバンなBlack Musicの魅力が満載です。3曲のR&B1位ソングを生み、HOT100でも3曲がtop10に入り、ミリオンセールスとなります。
キャリン・ホワイトも魅力的なアーティストですが、LA&BABYFACEの勢いを感じまくれるアルバムです。
(リマスター盤でDeluxe Editionも出ています。ヒット曲のRemixバージョンや、Jam&Lewisが手掛けた「Not Thru Being With You」のリミックスも収録されていてけっこう貴重)
そして新しい機材でリミックスした『Don't Be Cruel』のヒットシングルを収録したのがこのアルバムです。
Dance Ya Know It | |
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Mca Special Products |
『Don't Be Cruel』のヒットシングル(リミックス盤も含む)と「On Our Own」も収録されています。シングルバージョンより、ちょっとイジリが入ってて邪魔だなとおもう箇所もあるのですが、Another『Don't Be Cruel』的でもあり、お買い得な1枚だと思います。
多くのアーティストが、このボビー・ブラウンのスタイルに魅了されると同時に嫉妬感も覚えたに違いない。
LA&BABYFACEの洗練されたスタイルとRomanticなバラードを歌いたい思ったはず。
Teddy RileyのGrooveに身を委ねたいと思ったに違いない。
そして、その思いを強く持ったアーティストのひとりにマイケル・ジャクソンもいたのだと思う。
LA&BABYFACEは『Don't Be Cruel』の後、プロデュース依頼が殺到。POPアーティストのシーナ・イーストンも手がけたりします(「Lover In Me」はHOT100-2位)。
TeddyもR&Bフィールドを中心に多くのアーティストを手がけます。あのクインシー・ジョーンズやスティーヴィー・ワンダーもテディーにリミックスを依頼した。
でもこの両者を同時起用する、起用できるアーティストはなかなかいなかった。
King Of Popのマイケル・ジャクソン自身も、『Don't Be Cruel』のスタイルに大いに刺激を受けた。
クインシー・ジョーンズとの三部作契約の最後の作品『BAD』発表後の次のプロジェクトに向けて動き出したとき、LA&BABYFACEとTeddy Rileyというプロデューサーの名前はマイケルの頭の中に一番にあったと思います。(さらにマイケルはもうひと組の最強Producer、ジミー・ジャム&テリー・ルイスの起用も考えた)
そんな中、マイケルよりも先にこの2組のProducerを同時起用したのがThe JACKSONSでした。
2300 Jackson Street | |
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Sony Australia |
LA&BABYFACEやテディーにとっても憧れのジャクソンファイブから声をかけられ、多忙であってもスケジュールの調整をつけ最優先で参加したとと思います。
ただし89年のこのアルバム(今となっては最後のジャクソンズのアルバムとなっている)には、マイケルとマーロンは脱退によりいない。
ここでもLA&BABYFACEが「Nothin」という最高のシングル曲を提供しますが、リードをとるのはマイケルではなくジャーメインでした。「ナッシン」は、「あなたは最高、あなたと比較できるものは何もない」というRomantic Dance曲なのですが、元々はBabyfaceが憧れるマイケル・ジャクソンに提供したかった曲ではなかったのかと推測してしまう。 楽曲は最高なのですが、R&B-4位のヒットにとどまります。
さらにテディー・ライリーも「She」という「My Prerogative」の焼き直し的な曲も提供しますが、ランディーがボーカルをとったこの曲はシングルにはなりませんでした。LA&BABYFACEとTeddyは最高の楽曲を提供し、これらの曲だけでも買いですがマイケルのいないジャクソンズにシーンは見向きもしなかった。偏見を感じます。
この後も、LAFACEとテディー・ライリーが同時起用されるアルバムはなかなか登場しなかった。
そして前述のマイケル・ジャクソンのニューアルバムの話です。
この最強三大プロデューサーに実際に声をかけたマイケルのプロダクションですが、ジャム&ルイスは、自身のレーベルを立ち上げスケジュールが合わず(次のアルバム『History』で共演しますが)。
LA&BABYFACEもレーベルを立ち上げ多忙、さらにレーベルの起爆剤、マイケルの兄・ジャーメイン・ジャクソンを手がけている最中。しかし、ジャーメインの怒りを買いながらもマイケルの所に出向き、「Slave To The Rhythm」という楽曲を作り上げます。最終的にはアルバムには収録されず、長い間、この曲は封印されていましたが、マイケル逝去後のアルバム『XSCAPE』に収録される事となります。
こうしたわけで、最終的にTeddy RileyがメインProducerとなり、『Don't Be Cruel』の時よりさらに進化しているTeddyとマイケルの才能がスパークし91年『DANGEROUS』ができあがり、世界を席巻します。
『Dangerous』と同時期にボビーは3rdの『BOBBY』を発表。
Bobby | |
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再びこのアルバムでLA&BABYFACEとテディー・ライリーが集います。『Don't Be Cruel』の後のアルバムなので、全世界が注目した。
しかし、テディー・ライリーのグルーブのインパクトも大分薄れ(マイケルの方では炸裂してるけど)、LA&BABYFACEの楽曲のクオリティーも『Don't Be Cruel』の楽曲群の水準までいかず、アルバムはダブルミリオンには輝きますが、シーンにあらたな衝撃を与えることはできませんでした。、
LA&BABYFACEとTeddy RileyとJam&Lewisの3組が同時集結したアルバムは(私の知る限り)これまでありませんが、ボビー・ブラウンは、96年のニューエディションのリユニオンアルバムで、ジャム&ルイスとも絡みます。ボビーは、マイケル・ジャクソンと同様、この最強三大プロデューサーと共演した数少ないアーティストの一人となります。
『Don't Be Cruel』、メガヒットシングル5曲を収録したすばらしいアルバムだと思います。リマスター・デラックス盤出せばいいのにね。
Whitneyも逝ってしまい、愛娘も失い悲しみに暮れるボビーを見て悲しい気持ちにもなったけど、この作品は間違いなくシーンに歴史を刻んだ名盤、これからも輝き続けると思う。
★『Don't Be Cruel』のメガヒットシングル5曲と「On Our Own」のExtendedやリミックスバージョンを1枚1枚の紙ジャケシングルで収録したボックスセット。かなりおすすめ!
RE‐MIX BOX | |
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ダブリューイーエー・ジャパン |
ドント・ビー・クルエル | |
ボビー・ブラウン | |
ビクターエンタテインメント |