久しぶりに、
(恋し焦がれていた♡)「澄まし処(すましか)」に参加。
(恋し焦がれていた♡)「澄まし処(すましか)」に参加。
主宰はふなちゃんと、「風の自然学校」のよっしぃ。
わたしがとっても信頼しているおふたりに会えるとなったら、参加しないわけにはいかない!
わたしはふなちゃんの「澄まし処」に何度も参加させてもらって、ほんっとに目の前の景色が変わった。
今まで、マジろくでなしだったんだけど、自分の話にも人の話にも「起承転結」を求めちゃっていた
話を聴く以上、そこにオチが欲しい。
オチがないならわたしがいじったりツッコミ入れたりして、その話を面白くせねばと思ってた。
けど、「澄まし処」に参加させてもらって、ただただ、15分間、語り手のことばに耳を傾ける経験を何度もさせてもらったら、こちらの立ち位置が大きく変わった。
そして、話し手の方がつむぐことばが、丸ごと愛おしく感じるようになってしまった。
最初に、
「今から15分間は◯◯さんのお時間ですので、ご自由にこの時間を使ってください」
と宣言する。
これは「話し手の邪魔しない」ことを、私が決めたということ。
邪魔をしないということは、
凹んだ話をしている方に「そんなことないって!」「大丈夫よ」なんて励ましたりもしなければ、「?」って顔をしたりもしない。
「?」って顔をしたら、話し手は
「あぁ、意味がわかんなかったかも。もっと詳しく説明しなくちゃ」
と絶対に思う。
そしたら「話し手の15分」ではなく「2人の15分」になっちゃう。
そして、優しい人ほど「沈黙」が堪えられない。
何か話題を振らなきゃと思うし、言葉に詰まったら、言いたかっただろう言葉を察して代弁しようとする。
けど、そんなことしたら、話し手が「本当に話したかったこと」を、奪うことになりかねない。
話し手が「絶望」ともとれる言葉を発した後や、沈黙が数分続いたとしても、誰かが「救ってあげる」ことなんてしなくても、邪魔さえしなければ、話し手が自分自身で立ち上がることができる。
そんな場面に何度も出くわした。
もちろん、これを日常でやらなきゃいけないのではなく、
「人に影響を与えない(ただただ話し手のありのままを伴走する)聴き方」
をするとどんなことが起きて、どんな気づきがあるのかの実験であり、トレーニングなのだ。
………
民宿のお仕事も、酵素風呂のお仕事も、ちんちゃんコンも、そのほとんどは
「話し手の言葉に耳を澄ます」
作業。
(質問されたり「どう思います?」って聴かれるまでは、あんまり自分の考えを伝えない)
さらに、ほぼ「守秘義務」なことばかりなので、「つい善かれと思って話しちゃった」みたいな失敗もなくなった。
そして、澄まし処を繰り返し学んで「話が聴けるようになった」ら、
「イジりすぎて傷つけちゃったかも」
「本当は別のことを話したかったのかも」
あたりで「アチャ〜〜〜〜〜〜〜」って後悔することもなくなった。
「口は災いの元」、若かりし頃はいっぱいあったなぁ。
夫婦関係も、友人関係も、親子関係も、仕事でも、ものすごく大切なことは
「聴き手」
の姿勢なんだろうなと思う。
「共感」「共鳴」しなくてもいい。
ただただ、ありのままを「聴かせていただく」だけ。
ふなちゃん、よっしぃ、あの場を貸してくださった中条さん、
一緒の時間を過ごしてくださったみなさま、ありがとう♡
「話を聴き合える」仲間の存在が心強く、とても幸せに感じました。
今年中に、ちんちゃん亭での「お泊まり澄まし処」をまた企画したいと思っております!