山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

花を買い来て

2020-04-01 04:57:11 | ジジババ世代の話

 昨日は家内の70+?回の誕生日だった。学制の入学ルールでは、約1年のギャップがある3月31日生まれは、人によっては1学年のハンディを持った学校生活となる場合がある。家内の場合は、それがそのまま当てはまったようで、小学生のころは、とりわけて身体が弱くて体育の授業などは特別扱いをして貰っていたと聞く。そのせいなのか、結婚して子供が生まれる歳になっても幼稚さが抜けずにいて、時々「知恵遅れ」などとふざけたコメントをすることがあった。

 それが、子育てが終わり、子離れの時間が経つにつれて、文化財のボランティア活動などに励んだりしている内に、いつの間にか知恵が増し始めたのか、今では知恵に苔むし始めた妖怪となりつつある。名づけて妖怪「小言ババア」という奴である。

 そんな悪たれを吐いている当方も次第にチョンボの回数が増えて、ついには妖怪チョンボジジイになり下がっている。まあ、二人で暮らすのには丁度いい加減なコンビということなのだろうか。妖怪同士のせめぎ合いは、他人様とは無関係ではあるけど。

 何年か前の3月31日、この日が何の日かを忘れて大チョンボをしたことがある。それなりの期待感を以て謎かけをしていたレストラン行を、あろうことにか全否定して「自分一人で行けば!」などとやってしまった。真に大忘却で、家内の誕生日をすっかり忘れ去ってしまっていたのだった。その大忘却に気づかされた後が大変だった。じわじわとまさに妖怪が迫ってくる感じで、もはや小言などではなく、肝いじりというのか、苦みではない嫌味が入り混じって膨らんだ小言を、しばらくの間云い続けられた。これにはかなり参った。弁明のセリフを探すも、どこにも見当たらなかった。深い後悔と反省が残った。 

 それで、今年のこの日は花を買うことに決めた。食べることへの情熱も失せて来ていて、鑑賞会などへ出掛けるのにも億劫さが増しており、ましてや今年は新型コロナウイルス禍の渦中にあり、花を買うくらいしか方法がない。

 どんな花がいいのかしばらく迷ったが、やはりこれは薔薇しかあるまいと思った。チューリップは庭に植えてあり、もうすぐの開花待ちであるし、菊の花というわけにもゆくまい。花売り場に行くとその他いろいろな花があるけど、どれも今一の感がする。花言葉なども調べてみて、少しオーバーな気がするけどやはり薔薇にすることにした。

 花を買うなどという行為は滅多にない自分なのだが、ふと啄木の歌を思い出した。「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ、花を買ひ来て妻としたしむ」という、歌集「一握の砂」のあの一首である。若かりし高校生のころ、自分は啄木に傾倒したことがあり、どういうわけなのかセンチメントの塊のようなものが我が身に取りついて、一夜に100首以上の歌をつくることにチャレンジしたこともあった。その頃は一握の砂の全首を覚えていたと思う。しかし、だんだんと世智の汚れに染まって、正気(?)を取り戻すにつれて、啄木の心情からは離れて来ている感じがする。

 この歌で、今一致するのは「花を買い来て」という箇所だけである。友がみなわれよりえらく見ゆる、などとはもはやどうでもいいことになっている。妻としたしむは少し係わりがあるかもしれないが、正確に表現すれば、「妻がしたしむ」であり、「と」の助詞部分はほんの僅かなので「が」が正解となる。

 啄木先生が傘寿まで生きておられて、成功者となっておられたら、このご自作の歌をどのように評価されるのかな、などと思ってしまう。昔は昔今は今、などと嘯(うそぶ)かれるのかもしれない。しかし現実はこの歌に誇張があったとしても、やはりその心情は哀しく思い通りにならない悔しさのようなものがあったのだと思う。

 そのような啄木先生には失礼千万なことだとは思うけど、花を買い来ての訳が、平凡な八十の翁妖怪となると、妄想は斯様なものとなり下がるということ。まことに他愛もない話だ。

 


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