常識というのは多くの人の物事に対する共通認識なのだと理解しているのだが、その理解を不可解とするような事象が起こった時、老人の神経はそれが異常なのではないかと反応する。
今日町内会の花見があった。年に一度のイベントである。場所は町内にある小さな公園で、地べたにブルーシートをひいて、自治会館にあるありったけの座布団を敷いての集まりだった。本来あるべき筈の桜の花は既に散り果てて、若葉がそよぎ出す風情の葉桜だった。生憎冷たい風も吹いていて、コンディションは必ずしも上々とは言えなかった。
自分たちはこのようなイベントにはとにかく参加することにしている。同じ地域に住む者として、コミュニティ形成のための大事な場だと考えているからだ。ただ住んでいるだけで、他の人は知らないというだけでは、コミュニティは成り立たないと思っている。名前は知らなくても、お互いが、どんな人が住んでいるのかをほんの少しでも知っておくことは、コミュニティ形成の最小限の必要事項だと思う。名乗りあって、お互いを確認するようなことまでしなくても、イベントに参加することによって、町内という小さな地域に住む者という安堵感というか、安心感のようなものが生まれて来るのだと思っている。
今日は子どもさんたちも含めて40名ほどの参加者があった。盛況というべきかどうかはわからない。参加者の多くは顔見知りの方たちで、その家族の方たちが多かったようだ。更によく見ると、参加者の殆どは町内会の何らかの役員を担う方たちとその関係者の様で、それ以外の人はあまり見かけられない感じがした。感じがしたというのは、自分自身もこの町内会の人たちをあまり知ってはいないからである。
昔の自分たちが育った村の集落の集まりとは随分違うなと改め思った。何が違うかと言って、村の集落のイベントは、知らない人などいなかったと言っていい。ところが今住む町の場合は、もう住み始めてから15年にもなるのに、知っている人はほんのわずかなのだ。自分たち老夫婦のこのコミュニティでの知り合いは、20人くらいだと思うけど、もしかしたらそれはかなり多い方なのかもしれない。
ここへ来て暮らし始めて感ずるのは、戸建の家であってもマンションに住んでいるのと同じ感覚で暮らしているということだ。あまり知り合わないことが暮らしの基本となっているようだ。自分などは、定住と決めて住み始めた限りは、できるだけ多くの方たちと知り合い、コミュニティとしての絆のようなものをつくり上げるのが当たり前だと考えていたのだが、町内会が主催する幾つかのイベントに参加してみていると、その考え方はもはや当たり前ではないというのが実態のようだ。
現代のコミュニティというのは、個人尊重、役割分担の平等化などの基本的考えのもとに、極めて制限された活動によって運営されているようである。関心があっても無くても役員は皆1年任期の持ち回りであり、それを遂行するのは責任と義務によるものとなっている。従ってよほどの熱意を持った人とか、或いは住民すべてが困惑するような出来事が起こらない限りは、コミュニティが新しい動きを踏み出すことはない。
その是非を問うのは難しい。新興住宅地の住人の多くは、様々な職業を持つ人たちで、その働き方暮らし方も皆違っている。お互いに干渉し合える余地は少ない。これは現代社会が創り出している当たり前の形態なのかもしれない。大都市では圧倒的にマンションやアパートでの暮らしが主流であり、その暮らしの感覚が守谷市のような近郊住宅地においても浸透して来ているのであろう。そう思わないと、この地では暮らしてゆけないのだなと、そう思った。
ま、そういうことで葉桜と化した桜を見ながら、世の中人のためなどというきれいごとは忘れることにして、今の世の中の常識を改めて確認したのだった。それでも知り合わないなどという「無関係」優先の発想には抵抗しながら、残りの人生を歩んで行こうと思った。
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