山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

「死」への階段の下り方

2020-06-25 06:21:04 | ジジババ世代の話

傘寿を過ぎると、「あと何年生きられるか」が気になり出す。他人事ではない。自分自身のことなのだ。ゴールである「死」は絶対的なものであり、何人もこれを避けることはできない。そこで自分自身のこれからのゴールに向かうプロセスを考えてみた。即ち、「死」への階段である。この階段は昇るものなのか、それとも降りるものなのか、それは定かでない。昇れば天国、降れば地獄ということなら昇る方を選びたいのだが、老人の体力・気力のパワーは昇るのは厳しく降るのは楽という矛盾がある。結果的にはやはり降る方へ行くのが常套のようだ。

さて、その階段というのはどのような形状なのかを考えてみた。普通我々が目にし、使用している階段といえば、古道の石段などを別にすれば、その殆どはコンクリート製で、概ね20cm前後の均一の高さでつくられている。これは一歩一歩同じペースで着実に昇降できるようにという考えがベースとなっているからなのであろう。中には高さや幅或いは踏み段の広さをランダムに変えてつくられているものもあるけど、それは地形に応じてつくられたものであり、それほど多くはない。

老人が降りて行く階段というのは、どうやら均一の高さでつくられてはいないようだ。或る所までは降り易くなだらかに下っていても、突然落差が大きくなって、ドンと落下する如く一気に地獄に近づいたかと思えば、その後しばらく階段が途絶えて平地を辿り、やれやれと思っていたら再び下りの階段が現れ、恐る恐る下りの足を運んでいたら、今度はいきなり崖のような落差のある箇所に落ち込み、ついにそのまま地獄の門を叩くこととなってしまう。その様なイメージが浮かんでくる。

つまり、「死」への階段は決してなだらかな傾斜ではなく、所々に思わぬ段差のある箇所が設けられているということなのであろう。老化というのはゆっくりと同じペースで進むのではなく、病や思わぬ事故などにより一気にスピードアップする場面が用意されているということなのだ。

自分は今これらの階段を降り始めていることは確実だ。幸い今のところは、順調に階段を降りていると思っている。しかし、糖尿という病も取り付いているし、新たな感染症などが押し掛けてきているので、いつ何時大きな落とし穴に足を突っ込むか知れたものではない。この頃は異常値に近づいている前立腺の病も気になるし、知人の中から運転免許証返上の話などが多く聞こえてくると、老化ゆえの事故などが我が身にいつやって来るか、これもまた知れたものではない。寸分も油断できない環境にある。

これらに対峙するには二つの方法があると思っている。一つは諦め戦略。もう一つは悪あがき戦略である。諦めというのは、いつ何時階段が終りになっても、ジタバタしない覚悟を決めておくことだ。今のところこれはまだ半分ほどにしか至っていない感じがする。つまりもう一つの悪あがき戦略の方が優先しているからである。

常に5年先までの階段の様子を伺いながら、せめて卒寿迄は生きてやろうと考えている。そのためにはまずは健康力の保持が基盤となる。運動と快食・快眠・快便の実現・実践である。それと「もの書き」への情熱を欠かさぬこと。これらの条件を慎重に保持してゆくことが悪あがき戦略の大要である。そして、これらの条件を満たせなくなったら、思い切って階段の最後に降りて、地獄の門を叩くことになるのだと思う。地獄の門を叩く時は、諦め戦略は出来上がっている。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿