山本馬骨:たそがれジジイの呟きブログ

タイトルを変更して、これからは自分勝手なジジイの独り言を書くことにしました。

新しい風はどこ吹く風(我が町の市政)

2017-09-17 04:09:03 | つぶやき

   明日(18日)は敬老の日だ。喜寿となった自分は、敬老などからは無縁のところにいる。世の多くの心ある老人(心ない老人は少ないと思うが)は、敬老の日というのを、果たしてありがたいと受け止めているのだろうか。受け止めている方がおられるのならば、その人は真におめでたい幸せな人なのだと思う。

 昨年の秋、守谷市長選挙が行われ、新しい市長が選出された。若手で元県議会議員だった人と市議会議長経験のベテラン市議との二人が立候補した。二人とも当然のことながら守谷の市政に新風を吹かせる様なことを公約に掲げて運動を行っていた。特にベテランの方は、自分自身が先日まで属していた新風が必要だった古い議会にいたことも忘れて、守谷に新しい風をというのを盛んに強調しながら、走りまわっていた。若手が新風ならわかり易いのにと思いながらそれらを見ていた。選挙の結果はさかんに新しい風を強調していたベテランの方が当選となった。

 その出来事があってから間もなく1年が近づいている。今、守谷市に新しい風は吹いているのだろうか。探して見てもどこにもそのような風は見当たらないようだ。古い者が新しい風を吹かせるなんて、土台無理な話なのであろう。今吹いているのは、どこ吹く風である。それどころか、そのどこ吹く風は、退行現象をもたらそうとしているかの様である。何もしないという現状維持の姿勢が退歩につながるというのは、現代では常識と言っていい。守谷市の現状はその退歩現象から更にズレてしまって、退行現象化しているかの如き印象がある。

 冒頭に敬老の日のことを掲げたのは、この守谷市のどこ吹く風の退行現象と深く結びついているからだ。いずれの自治体でも敬老の日には、対象となる世代の人たちを一堂に集めて、何やらのイベントを開催してるのだが、最近はその対象者が増える一方なので、その扱いを持て余して、取りやめたり変更したりしているところが多いようである。守谷市もその例に漏れない。

 守谷市は取止めにはしないけど、一括して行うのは止め、各地区にある自治会の上部団体の地区協議会というのに開催を預けて、予算だけを分配するという形となった。それで、先日敬老会の案内と出席希望者を募る紙が回ってきた。その内容を見ると、従来まで行われていた敬老会なるものと全く同じ内容で、来賓祝辞から始まり老人向けの体操を行なって、その後何やら地域の同好会の発表会みたいなことを行い、弁当を貰って解散といった様なものだった。

 勿論出席するつもりはない。現代の老人を、過去平均余命が70歳台だった頃の老人と一緒に考えている内容の企画なのだ。今の世の老人は、70代に入っても自分が老人なのだなどと自覚している人は少ない。健康障害を持つ人の一部は、老人を自覚せざるを得ないであろうが、元気で過ごしている人にはそのような自覚は不要であろう。何が敬老会だ。何が祝辞だ。というのが殆どの人たちの本心であろう。それで良いのだ。それが当り前なのだと思う。

 しかし、そう考えている人にも落とし穴があるというのが、この世代の弱点でもある。老に伴う健康管理を蔑ろにしたりして、その後の人生に思わぬ苦難を強いられている80歳代の老人は多い。だとすれば、そのような自覚不足の老人に対して早めの準備・啓発を促すような企画を打ち込む必要があるのではないか。市の行政の中にそのような発想は皆無の様である。

 敬老の日というのは、安穏と老人を祝うというようなものではなく、この後の人生を健康で全うするための智慧や覚悟を与える場とすべきではないのか。守谷市の新しい風の中にはそのような考えは微塵も見出せず、行政主体から自治会などという見当違いの団体に丸投げしてお茶を濁している。どこ吹く風なのだ。

 医療費や社会保障費が国や自治体の財政を圧迫していることは周知のことだし、さらなる拡大が懸念されていることも大きな社会問題となっている。大げさに言えば、この国は老人に食いつぶされるという危険に直面しているのである。個々の生き方は自由なのだから、病気になるのも自由、医者にかかるのも自由、保険料を払っているのだから医療費を補助して貰うのも当たり前、ということだけで良いのだろうか。その結果老人が国を食いつぶしても良いのだろうか。

 自分は老人には老人としての自己責任があると思っている。その責任とは、可能な限り医者などに行かず、活き活きとして生きながら、ピンピンコロリとあの世に逝くことだと思っている。生きていることすらも自覚できないような状態であの世に逝ってはならないのだ。その自覚と覚悟が必要なことを、今の世では、誰も、どこも老人に対して求めていない。

 今さら良いッ子ぶりするつもりなど毛頭ないけど、何の自助努力もせずに体調不良を自ら招いて、のうのうと医者通いをしている老人を見ていると、気の毒と思う以上に何だか腹立たしい気持になってしまう。敬老会をやるのならば、老人を甘えさせるだけではなく、厳しさも求めるべきではないか。それこそが老人世代に対する本物のプレゼントとなるのではないか。

どこ吹く風に当りながら、今の様な敬老会などくそ喰らえと思っている。それにしても、このようなどこ吹く風ばかりで、この人口増加中の6万5千人の町が本当に発展してゆけるのだろうか。新しい風はどこへ行ったのだろうか。


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