さよなら三角 また来て四角...日本編☆第二章☆

オーストラリアから10年ぶりに帰国。特別支援教育に携わりながら
市民農園・家庭菜園に励んでいます。

恐山に結ばれる思い

2009年11月11日 14時31分14秒 | Web log
恐山へのお参りが増える時期、「賽の河原」と称される
岩場の参道の一角に、枝という枝、幹という幹に
ビッシリ、手ぬぐいやタオルが結び付けられた
ところが現れるのです。

<中略>

恐山も夏は暑い。30度くらいにはなるわけです。
すると、あの世へ旅する、あるいはあの世からやってくる
祖先の霊、懐かしい人の霊も暑かろう。
暑ければ汗もかくだろう、というわけで、その汗を拭って
もらおうと、手ぬぐいやタオルを供養する、
というわけなのです。

(恐山あれこれ日記より、抜粋)

無神論者はこういうことをアホ臭いと思うだろうし、
宗教的に立場が違えば、否定的な見解を持つことだろう。

私個人的な感想を言わせてもらえば、ちょっと不気味な
感じがする。なんというか、そうすることで、死者の霊
の存在を現実世界にあるものとして、完全に肯定している
ような気がするから。

ま、本来、恐山というのはそういう場所なのかもしれませんが。

わたしとしては、亡くなった身内、親しい人なら、ぜひとも会いたい、
怖くもなんともない。

でも、何も関係のない他人の霊には全然会いたくない。

そんなもんです。

マイクに聞いたら、そういうものはイギリスには
存在しないと思うと言っていた。
もちろんキリスト教プロテスタントが主流だから、
根本的に死生観が違う。

でも、わたしが知らないところにそういうところが
あるのかもしれません。

とくにカトリックが主流の国とかなら。

カトリックは土着信仰を巧みに取り入れたし、言ってみれば
ハロウィーンだってもともとは、ケルト人のお祭りだったわけで
死者の霊が帰ってくる日とする日本のお盆と同じだし。

話はずれましたが、日本人の死生観というのを考えてみた。

仏壇のある家庭では、毎朝ごはん、お水、お花を供え、
お盆には、沢山のご馳走を備える。

まるで生きている人に対するように、である。

そこでは、死んだものと生きているものとが
形としてしっかりとつながっている。

もちろん、体はないわけだから、言ってみれば
生きているものの死んだものに対する、生きていて
欲しかったという願望がそういう形で現れている
ような気がしないでもない。

でも、願望なのだろうか?

もしかしたら、現実に限りなく近いのではないのだろうか?

亡くなった人に食べ物、生前好きだったもの、恐山では手ぬぐい
を備えることで、この世からいなくなってしまった人との繋がりを
保ち続けることで、関係性を維持、具現化しているかのようだ。

目の前にはいない、でも繋がっていると信じている。

信じている人にとって、それは『現実』なのかもしれない。
そして、供物を通して死者を慰めることによって、自分も慰められ、
それで心理的に救われている部分もあるような気がする。

父の墓の前に立つとき、わたしは心の中で父に話しかける。
そこにいないと分かっていても、である。

きっと通じてる、と心の中で強く願っている。
別にお墓の前でなくても、なんというか、気持ちは
通じているんじゃないかと思いたいのである。

墓石とか仏壇というのは、そういう意味で冥界とこの世の
接点としてあるような気がする。文化の中で、何らかの
機能を果たしている「シンボル」なのかな?と思う。

で、日本人(アジア人もかな?)には、生きている、
死んでいるに問わず、人に対する深い思いが
あるようにも感じる。

こういう感覚はぬぐいきろうにもぬぐいきれない、
DNAレベルに刻み込まれているんだろうな。

そういう感覚は、キリスト教(プロテスタント)を
主流とする西欧諸国とは、表面上違うような気がします、

が、イギリスなんぞは、プロテスタントの国とはいえ、
幽霊話が好きだし、チャネラーとかもいるし、
表面的にはクールに装ってても、心のそこには日本人と
似たような感覚があるような気がする。

きっと、亡くなってしまった人と会いたい、話がしたい、
というのは、国を問わず、誰の心にもある、普遍的な
気持ちなんだとも思います。

こうでなければならないことなんて、何一つない

2009年11月11日 11時42分38秒 | Web log
今も多少そうかもしれないけれど、思春期の頃、
なぜか思い込みが激しかった。

「こうじゃなきゃいけない」という思いがとても
強かった。

で、誰が一番つらかったか?

自分だった。

もちろん回りもさぞかし迷惑をこうむったに
違いない。

でもそんな私を暖かく見守ってくれたひとが
必ずどこかにいた。

中学、高校、大学と先生にはとても恵まれたと思う。

高校生のころ、「もしお前が全共闘時代に生まれていたら、
ゲバ棒もって戦ってたかもしれないなぁ~」なんて、言われた
こともある。

そんな時代に生まれてなくて、本当によかったです。

お世話になった先生にはよく話を聞いてもらった。
でも、自分が自分の思いに強いこだわりを持っていたので、
誰かのアドバイスを聞いても、心の底で、それを受け入れることが
できなかった。

別に、面と向かって反発したわけでもないけれど、
自分のこだわりを捨て切れなかった。

冷静に、客観的に別な考えを、一つの考え方として
受け入れ、比較して考えるという状態になかった。

自分にこだわり続けて、自分の道をつっぱしった。

今になって、こうでなければならないことなんて、
何一つないんだということが少しづつだけど分かって
きたような気がする。

心身共に日々成長しているジョナサンを見ていると、
過去の自分をみているような気持ちになる。

思い通りにならないと、泣く、怒る。
ちょっとしたことで落ち込む。
思い込みが強く、周りが見えていなくて
自分が黒だと思うと、全てが黒に見えてしまう。

でもだからこそ、本気で遊びに夢中になったり、
思いっきり笑ったり、できるんだろうなぁとも
思うのだけれど。

ジョナサンがわたしの子供だから、似ているだけで
子供がみんな、そうだとは思わないけれど、でも
そういう傾向は多かれ少なかれ、あるような気がする。

若いってのはいいことなのか?
いいこともあるし、そうでもないこともある。

一途さとか、あることに対する情熱の深さとか、
こだわりとか、それゆえの迷いとか。

しんどいだろうなぁと思う。

でも、その分、喜びとか楽しさとか、大人の倍
感じているような気もする。

ようするに、子供は振幅が激しい。

自分の感情の振幅の激しさに振り回されてきた
わたしにとって、年取って、よかった~と思うこと
しきりです。



そりゃ、たまに憤慨するときもありますけどね。

人間ですから。

でも、今が一番いいかも。

署名

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