恐山へのお参りが増える時期、「賽の河原」と称される
岩場の参道の一角に、枝という枝、幹という幹に
ビッシリ、手ぬぐいやタオルが結び付けられた
ところが現れるのです。
<中略>
恐山も夏は暑い。30度くらいにはなるわけです。
すると、あの世へ旅する、あるいはあの世からやってくる
祖先の霊、懐かしい人の霊も暑かろう。
暑ければ汗もかくだろう、というわけで、その汗を拭って
もらおうと、手ぬぐいやタオルを供養する、
というわけなのです。
(恐山あれこれ日記より、抜粋)
無神論者はこういうことをアホ臭いと思うだろうし、
宗教的に立場が違えば、否定的な見解を持つことだろう。
私個人的な感想を言わせてもらえば、ちょっと不気味な
感じがする。なんというか、そうすることで、死者の霊
の存在を現実世界にあるものとして、完全に肯定している
ような気がするから。
ま、本来、恐山というのはそういう場所なのかもしれませんが。
わたしとしては、亡くなった身内、親しい人なら、ぜひとも会いたい、
怖くもなんともない。
でも、何も関係のない他人の霊には全然会いたくない。
そんなもんです。
マイクに聞いたら、そういうものはイギリスには
存在しないと思うと言っていた。
もちろんキリスト教プロテスタントが主流だから、
根本的に死生観が違う。
でも、わたしが知らないところにそういうところが
あるのかもしれません。
とくにカトリックが主流の国とかなら。
カトリックは土着信仰を巧みに取り入れたし、言ってみれば
ハロウィーンだってもともとは、ケルト人のお祭りだったわけで
死者の霊が帰ってくる日とする日本のお盆と同じだし。
話はずれましたが、日本人の死生観というのを考えてみた。
仏壇のある家庭では、毎朝ごはん、お水、お花を供え、
お盆には、沢山のご馳走を備える。
まるで生きている人に対するように、である。
そこでは、死んだものと生きているものとが
形としてしっかりとつながっている。
もちろん、体はないわけだから、言ってみれば
生きているものの死んだものに対する、生きていて
欲しかったという願望がそういう形で現れている
ような気がしないでもない。
でも、願望なのだろうか?
もしかしたら、現実に限りなく近いのではないのだろうか?
亡くなった人に食べ物、生前好きだったもの、恐山では手ぬぐい
を備えることで、この世からいなくなってしまった人との繋がりを
保ち続けることで、関係性を維持、具現化しているかのようだ。
目の前にはいない、でも繋がっていると信じている。
信じている人にとって、それは『現実』なのかもしれない。
そして、供物を通して死者を慰めることによって、自分も慰められ、
それで心理的に救われている部分もあるような気がする。
父の墓の前に立つとき、わたしは心の中で父に話しかける。
そこにいないと分かっていても、である。
きっと通じてる、と心の中で強く願っている。
別にお墓の前でなくても、なんというか、気持ちは
通じているんじゃないかと思いたいのである。
墓石とか仏壇というのは、そういう意味で冥界とこの世の
接点としてあるような気がする。文化の中で、何らかの
機能を果たしている「シンボル」なのかな?と思う。
で、日本人(アジア人もかな?)には、生きている、
死んでいるに問わず、人に対する深い思いが
あるようにも感じる。
こういう感覚はぬぐいきろうにもぬぐいきれない、
DNAレベルに刻み込まれているんだろうな。
そういう感覚は、キリスト教(プロテスタント)を
主流とする西欧諸国とは、表面上違うような気がします、
が、イギリスなんぞは、プロテスタントの国とはいえ、
幽霊話が好きだし、チャネラーとかもいるし、
表面的にはクールに装ってても、心のそこには日本人と
似たような感覚があるような気がする。
きっと、亡くなってしまった人と会いたい、話がしたい、
というのは、国を問わず、誰の心にもある、普遍的な
気持ちなんだとも思います。
岩場の参道の一角に、枝という枝、幹という幹に
ビッシリ、手ぬぐいやタオルが結び付けられた
ところが現れるのです。
<中略>
恐山も夏は暑い。30度くらいにはなるわけです。
すると、あの世へ旅する、あるいはあの世からやってくる
祖先の霊、懐かしい人の霊も暑かろう。
暑ければ汗もかくだろう、というわけで、その汗を拭って
もらおうと、手ぬぐいやタオルを供養する、
というわけなのです。
(恐山あれこれ日記より、抜粋)
無神論者はこういうことをアホ臭いと思うだろうし、
宗教的に立場が違えば、否定的な見解を持つことだろう。
私個人的な感想を言わせてもらえば、ちょっと不気味な
感じがする。なんというか、そうすることで、死者の霊
の存在を現実世界にあるものとして、完全に肯定している
ような気がするから。
ま、本来、恐山というのはそういう場所なのかもしれませんが。
わたしとしては、亡くなった身内、親しい人なら、ぜひとも会いたい、
怖くもなんともない。
でも、何も関係のない他人の霊には全然会いたくない。
そんなもんです。
マイクに聞いたら、そういうものはイギリスには
存在しないと思うと言っていた。
もちろんキリスト教プロテスタントが主流だから、
根本的に死生観が違う。
でも、わたしが知らないところにそういうところが
あるのかもしれません。
とくにカトリックが主流の国とかなら。
カトリックは土着信仰を巧みに取り入れたし、言ってみれば
ハロウィーンだってもともとは、ケルト人のお祭りだったわけで
死者の霊が帰ってくる日とする日本のお盆と同じだし。
話はずれましたが、日本人の死生観というのを考えてみた。
仏壇のある家庭では、毎朝ごはん、お水、お花を供え、
お盆には、沢山のご馳走を備える。
まるで生きている人に対するように、である。
そこでは、死んだものと生きているものとが
形としてしっかりとつながっている。
もちろん、体はないわけだから、言ってみれば
生きているものの死んだものに対する、生きていて
欲しかったという願望がそういう形で現れている
ような気がしないでもない。
でも、願望なのだろうか?
もしかしたら、現実に限りなく近いのではないのだろうか?
亡くなった人に食べ物、生前好きだったもの、恐山では手ぬぐい
を備えることで、この世からいなくなってしまった人との繋がりを
保ち続けることで、関係性を維持、具現化しているかのようだ。
目の前にはいない、でも繋がっていると信じている。
信じている人にとって、それは『現実』なのかもしれない。
そして、供物を通して死者を慰めることによって、自分も慰められ、
それで心理的に救われている部分もあるような気がする。
父の墓の前に立つとき、わたしは心の中で父に話しかける。
そこにいないと分かっていても、である。
きっと通じてる、と心の中で強く願っている。
別にお墓の前でなくても、なんというか、気持ちは
通じているんじゃないかと思いたいのである。
墓石とか仏壇というのは、そういう意味で冥界とこの世の
接点としてあるような気がする。文化の中で、何らかの
機能を果たしている「シンボル」なのかな?と思う。
で、日本人(アジア人もかな?)には、生きている、
死んでいるに問わず、人に対する深い思いが
あるようにも感じる。
こういう感覚はぬぐいきろうにもぬぐいきれない、
DNAレベルに刻み込まれているんだろうな。
そういう感覚は、キリスト教(プロテスタント)を
主流とする西欧諸国とは、表面上違うような気がします、
が、イギリスなんぞは、プロテスタントの国とはいえ、
幽霊話が好きだし、チャネラーとかもいるし、
表面的にはクールに装ってても、心のそこには日本人と
似たような感覚があるような気がする。
きっと、亡くなってしまった人と会いたい、話がしたい、
というのは、国を問わず、誰の心にもある、普遍的な
気持ちなんだとも思います。