オータムリーフの部屋

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イラク派遣自衛隊員の28人が自殺

2014-04-16 | 政治

自衛隊のイラク派遣から10年。膨大な映像が初めて開示された。
武装した群衆に囲まれる車両、宿営地への攻撃、多国籍軍との活動。隊員が死亡した場合の準備まで極秘裏に進められていたことも分かってきた。
自衛隊任務拡大に向け、準備が進められている今、イラク派遣が残した教訓を未公開資料から探る---クローズアップ現代がいい企画をした。

この10年、公開されることのなかった映像記録が防衛省に保管されていた。これまで明らかにされてこなかったイラク派遣の実態が記録されていた。
宿営地に不測の事態に緊急で警戒にあたる体制がアナウンスされた。武装勢力が宿営地を攻撃するかもしれないという情報が現地警察から寄せられていた。自衛隊は派遣当初から武装勢力に狙われていた。1か月後、宿営地に向け迫撃砲が撃ち込まれた。こうした宿営地への攻撃は13回に及んだ。
イラク・サマーワは自衛隊が派遣されたイラクの非戦闘地域。こうした線引きをしたのは憲法9条のもと、海外への武力行使が禁止されているからだ。
そのために作られた「イラク支援法」で、非戦闘地域であれば、憲法に抵触しないとされた。

 路上に仕掛けられた爆弾で攻撃されたことを想定しての訓練が派遣後、1年半を経て行われた。イラクで多国籍軍を狙ったテロが一向に収まらなかったからだ。
人道復興支援の陰でこうした訓練を繰り返せざるを得ない状況が続いていた。訓練には多国籍軍も参加し、他国の軍隊と共に活動することが日常化していた。

イラクへ派遣された陸、海、空の自衛隊員は5年間で、のべ1万人。隊員の精神面にも大きな影響を与えていた。イラク派遣後、28人が自殺していたことが分かった。
自殺者の母親が取材に答えた。任務は宿営地の警備だった。帰国後、自衛隊でカウンセリングを受けたが精神状態は安定しなかった。
自衛隊はイラク派遣の任務が隊員の精神面に与える影響を当初から危惧していた。現地に派遣された医師が隊員の精神状態を分析した内部資料があり、宿営地にロケット弾が撃ち込まれた際の隊員の心境を聞きとっていた。「恐怖感を覚えた」、「緊張と恐怖が走った」や睡眠障害を訴える隊員もいた。
生死に関わる体験のあと、精神が不安定になる急性ストレス障害を発症していると診断された。睡眠障害や不安など心の不調を訴えた隊員はどの部隊も1割以上。
中には3割を超える部隊もあったと言う。

防衛省は28人がイラク派遣と直接因果関係があるかについては分からないとしている。派遣された多くの隊員は現地での任務にやりがいを感じていたという。
ただ、隊員の1割~3割の人が精神に不調を訴えていた事実は、今後の自衛隊の任務を考える上で忘れてはならない。

国に裏切られた元イラク派遣自衛官が警告
-安倍政権「集団的自衛権の行使」の行く先にあるもの
志葉玲 フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和) 2014年3月18日 8時44分

「もう、何度も死のうか、と思いました。でも、私のような経験をする自衛官をこれ以上出してはいけない。国に対して責任を認めさせなければ、死んでも死にきれない…!」
元イラク派遣航空自衛隊員の池田頼将さんは、そう静かに、だが固い決意を込めて語った。池田さんは2006年(平成18年)7月、イラク派遣部隊の一員として、イラク隣国クウェートの基地に滞在中、米軍関係車両にはねられた。だが、事件は隠蔽され、池田さんはまともな治療を受けられないまま帰国すら許されなかった。そのために、池田さんには重い後遺症が残ってしまった。

イラク戦争(03年3月開戦)を支持した日本政府は、開戦直後から自衛隊イラク派遣を推し進め、航空自衛隊は04年1月から、08年12月まで、16期にわたりイラクに派遣。池田さんが派遣されたのは、第9期(06年3月~7月)、クウェートのアリ・アルサレム基地へ派遣された。事故が起きたのは、06年7月4日。基地内での米軍主催のマラソン大会に参加した池田さんは、米民間軍事会社KBRの大型バスに後方から衝突された。意識を失った池田さんは、救急車で米軍の衛生隊に搬送された。池田さんにとって不幸であったのは、KBRのバスに跳ねられたことだけではなく、事故後、自衛隊による「裏切り」が幾度も続いたことだった。

「眼球の奥や、首、肩がすごく痛く、体を動かすことすらできなかったのに、米軍の衛生班には『異常なし』と診断されました。自衛隊側も『米軍側が異常なしと言っているのに、それと反する診断ができるわけない』という有り様。クウェートの病院に連れて行ってもらったのですが、言葉の違いもあり、私の症状をうまく伝えられず、治療はできませんでした」(池田さん)。

結局池田さんに対し、米軍、民間軍事企業側からも、謝罪や補償は得られなかった。その上、治療のための帰国を何度も上司にかけあったにもかかわらず、事故にあってから2ヶ月弱もの間、ろくな治療も受けられないまま、池田さんは帰国が許されなかった。

当時、池田さんの事故について情報を掴み、報道した記者は皆無だった。池田さんの事件が公表されなかったのも、彼の帰国が許されなかったのも、事故発覚による自衛隊イラク派遣への影響を防衛省-あるいは政府自体が懸念したからではないだろうか。池田さんが事故に遭ったのは2006年7月4日。航空自衛隊がそれまでイラク南部サマワ周辺までだった活動範囲を、中部のバグダッド周辺までに拡大した直前のこと。この、バグダッド周辺への空輸拡大には米国側から強い要請があった。航空自衛隊の任務は「国連など人道復興支援関係者や物資の運搬」という当時の日本政府の説明とは裏腹に、米軍など多国籍軍の兵員や物資の運搬が主だったものだった。

池田さんは帰国後も、事故の後遺症をめぐり、自衛隊内で執拗な嫌がらせを受け、肉体的にも働くことが難しかったため、2011年10月、退職。結婚していた池田さんだが、退職が原因となり、離婚した。池田さんは現在も深刻な後遺症に悩まされている。左腕は肩から上にあがらず、右手も力を入れると震えて、自分の名前すらまともに書けない。池田さんは、あごの蝶番となる軟骨円板を失ったため、1ミリ程度しか、口を開けることができない。一般の食事は一切取れず、わずかな隙間から流動食を流し込む。「眼球の奥や首、肩、腰などの慢性的な痛みに悩まされ、大量の睡眠薬を使って強引に眠らないと睡眠を取ることすらできません」と池田さんは言う。以前は、野球観戦に行くのが趣味だった池田さんだが、体が思うように動かず、今はほとんど自室に篭りきりだ。「自殺することを何度も考えた」と語る池田さん。その池田さんが辛うじて踏みとどまり、2012年9月、国を相手取っての裁判を起こした理由は「恐らく同じ様な境遇にいる自衛隊員がきっといる」という思いだ。池田さんの裁判は現在も名古屋地裁で係争中である。

元内閣官房副長官補の柳澤氏は「イラク派遣では交通事故のほかは一人のけが人もなく帰ってきた」と言っている。

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