アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

ミンダナオ島の暮らし

2011-12-27 | ボルネオの旅(-2009年)

フィリピン・ミンダナオ南部・ジェネラルサントス市内にて↓ 2010年6月撮影 


以前お世話になっていたNPO法人「アイキャン」から、フィリピン・ミンダナオ島の台風被害が深刻なのだと、即席の募金依頼書が届いた。
そこで初めて事の重大さに気づいた私は、大馬鹿ヤロウだ。

(最近のニュースはこちら↓)
http://japanese.ruvr.ru/2011/12/26/62899613.html

反省もかねて、今日5000円を振り込んだ。
引っ越し代が思ったより安くすんだから、せめてその分を…。
いつもはカネよりカラダで奉仕するのだけれど、さすがに今ミンダナオには行けないもんね。


いいところなんですよ。ミンダナオ島。

スーパーで売られているバナナのほとんどと、築地で売られているマグロの一部はソコから来てるしね。


今回被害が大きかったのは北部のらしく、私が去年7月に行ったジェネラルサントス市とは反対側のよう。
とはいえ、マニラやセブとは全く違う、ミンダナオ特有の素朴で穏やかな人々の笑顔が思い出される。
本当に魅力的な島なんですよ。

私の部屋の机の前には、今も、ジェネラルサントスで出会った青年が描いてくれた、マグロの絵が貼ってあるの。

元気かな、とふと思う。

彼は、幼い時に母親がDVを受けて家出し、次いで兄弟を2人亡くし、その後病気になった父親の面倒をみながら毎日働き、そしてようやくアイキャンの奨学金を受けて高校を卒業した男の子。
今は市内のスーパーでアルバイトしていると聞いたけれど、3年前に別れて以来、一度も会っていない。


世界のあちこちで災害が起こるたび、自分の財布の薄さと、懐の浅さを思い知らされて悲しくなる。
もう少し生活に余裕があれば…というのは現実だけれど、同時にそれは最低最悪の言い訳でもある。

災害は切りがなく、よって援助にも切りがない。

だけどね、このブログを書きながら思ったの。

「助けたい」と強く思う動機は、多分、正義感や倫理観ではなく、すごく個人的な思い出と、それによる想像力に拠っているんだろうなと。
だから多分、「助けたい」と思えることはすごく幸せなこと。
自分がそれまでにもらった、人々の優しさや笑顔や感動が、見えないエネルギーになって自分を突き動かすんだから。

お金ってのは不思議なもんで、意外と上手いこと、そういうのを表してんだよね。


……ってことは、私のミンダナオに対する幸福エネルギーは5000円分ってことか?
いやいや、それは違う。額ではない、額では!(ぶんぶん ←首をふる音)


来年は光の見える年になりますように…。


遅ればせながら、被災された方々のご冥福と、1日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。


熱帯雨林の現状はー

2008-05-24 | ボルネオの旅(-2009年)
地球温暖化が本気で懸念される今日。
私にとっては、ようやく・・・といった感だけれど、そう思いながらも未だ何の行動も起こせていないのは他でもないこの私。
とやかく言う筋合いがないことは分かっている。

とはいえ、どんどん崩れていく生態系に人一倍不安と焦りを感じていることも事実。

なので、調べた。
旅に出る前、また旅をしながら、インターネットがあれば重たい辞書を持ち歩く必要はない。本当に便利な世の中なんだから。


『13州の全てが熱帯材を輸出しているマレーシアでは、世界最大の熱帯材丸太および製材の輸出国である。(省略)国連食糧農業機関FAOは、年間約40万ヘクタールの森林が失われていると推定しているが、(省略)この速度での伐採は長期的には持続可能でない。』(http://www.jca.apc.org/jatan/trade/malaysia.htm)

『アジア・太平洋地域の原生林は65%以上がすでに消失しており、インドネシアでは7割以上が違法に伐採されたものと推定される(要点のみ)』
(http://www.dpj.or.jp/seisaku/kan0312/nousui/image/BOX_NOS0019.pdf#search='熱帯雨林%20違法伐採%20割合' グリーンピースの発表より)


パソコンをたたけば、こうしていろんな地域のいろんな情報を得ることができる。
けれど目的をもってそれをしなければ、こうした情報が向こうからやってくることはない。

私が知りたかったのは、10年前に教科書で習った「環境問題」が、今もずっと同じ状態なのかどうか。


『この数年間の間にも、インドネシア・スマトラ島内の森林環境は悪化し続けている。2005年末から2006年初頭にかけては、天然林の伐採によりすみかを追われたゾウが民家付近に出没する事件が多発。』
(WWF報告より http://www.wwf.or.jp/activity/forest/news/2006/20061027.htm)


インドネシアといえば、こんな報告も発見。

『日本は、7割以上の木材を違法に伐採しているかもしれないインドネシアから、実に8割以上の外国産コピー用紙を輸入している』
(http://www.jca.apc.org/~earth/sub1e.html)
つまり私たちが日常的に使っている白紙の半分ほどは、違法な手段で伐採された木でつくられているかもしれない、ということだ。


『世界銀行によると、(違法伐採による)世界の木材生産国の経済的な損失は100億ドル~150億ドル』『また2004年アメリカの林業業界がまとめた調査報告によると、国際的な木材価格は10%~10数%程度下落しているとのリポートが発表されている』
( http://www.dpj.or.jp/seisaku/kan0312/nousui/image/BOX_NOS0019.pdf#search='熱帯雨林%20違法伐採%20割合' FoE Japanの発表より)


国内で使われている木材の約8割を輸入に頼っている日本は、こんなに緑あふれる国でありながら、恥ずかしくも世界最大の木材輸入国だといわれている。
野菜や肉と同様「外国産の方が安いから」に他ならないが、木材が「安い」理由は物価や人件費だけではない、ということだ。







マレーシアの中で最も木材輸出量が多いサラワク州。
北端のサバ州に近い街、LAWAS(ラワス)から車で3時間ほど山を登ったところにMERINGAU(マリンガウ)という村がある。
住んでいるのは Lun Bawan(ルンバワン)民族。

村人の一人Davidの案内で、デコボコの山道を上下左右に揺られながら走った。
道は伐採した木材を運ぶためにつくられたもので、「ティンバーロード」または「ロギングロード」と呼ばれる。
その道ができる30年ほど前までは、村人は片道1週間かけて村まで歩いて行っていたのだという。


途中、丸太を積んだ何台ものトラックとすれ違った。
場所によっては、さほど大きくない丸太が道ばたに無造作に放り出されている。
伐採の拠点ともなっている木材の集積場を通り抜ける。
これらの多くが、日本に向けて送り出されている。


「ここで今最も深刻な問題は何ですか?」

Davidに聞いた。

「川の汚染だよ。この辺の村では生活用水の全てを川に依存しているけれど、今では汚くて飲み水に使うことはできない。見てごらん、真っ茶色でコーヒーみたいだろう?」

「何が原因なんですか?」

「伐採さ。木と一緒に土が流れ出るんだよ。大量にね。」


標高が高いところにある小川の水は全く透明で綺麗なのに、橋が必要な大きさの川になると途端に茶色に濁る。
その濁り様といったらまさに「濁流」といった感じで、雨が降ろうが降りまいが、大きな川は常に「茶色」というのがこの国では当たり前の光景だった。


インターネットによると、1本の成熟した木を切り出すのに11~65本ほどの若い木が無駄に切り倒されているらしく、それらを規制するのは困難とのこと。
また、伐採に使用するオイル等をそのまま川に放り捨て、公害の原因にもなっているのだとか。
( http://www.dpj.or.jp/seisaku/kan0312/nousui/image/BOX_NOS0019.pdf#search='熱帯雨林%20違法伐採%20割合')



伐採による木材の輸出が悪いのではない。
事実、村人の中には丸太を運び出す仕事に就いている人も多く、また村と街とを結ぶ公道の整備が進まない中で、伐採業者が荒々しくつくったティンバーロードが村人の唯一の交通路になっている。

問題なのは、伐採の仕方とその管理。
そしてその根底にあるのは、そこで暮らす人々に配慮することのできない人間の、心の貧しさだ。







取り締まるべきところはどこか。

木材を輸出している国々もさることながら、それらを買っている側の国にも責任はある。

私たちにできることといったら、違法伐採によりつくられたコピー用紙を買わない、安すぎる外国産の木より国産の木を選ぶ、違法伐採を摘発しているNGO等を支援する、といった地味なことくらいだが、知らないふりしてやらないよりはやった方がマシってもんだ。
なぜなら、「これくらい、まぁいいか。」と思って反対の選択肢を選ぶこと自体が、違法伐採業者と全く同じ類いの “貧しい” 人間になり下がることと同じなのだから。





コピー用紙に関する情報はコチラ→http://www.jca.apc.org/jatan/ipp/sales.html(JATANホームページより)

マングローブに積もった砂

2008-05-23 | ボルネオの旅(-2009年)
マングローブ と呼ばれる森は、陸と海との境目にこんもりと茂る、実に不思議な森。

樹々は、どこからともなくにょきにょきとタコ足のような根を伸ばし、必死で自らの巨体を支えている。

地面からは、双葉のない芽のような、はたまた地獄絵に出てくる救いを求める手のようなグロテスクな根を空中に向かって生やし、まだ吸い足りない酸素を必死で体内に取り込んでいる。


訪れたのは、サラワク州の州都・クチンからバスで1時間ほどの場所にある、バコ国立公園。鼻がやたらでかいサルの生息地で有名なところで、特に欧米人観光客に人気のスポットだ。


友達のアズナンは、サラワク州立大学で今年から博士課程を履修している元教師。
とはいっても、“教員に対する環境教育が専門” という、ちょっと変わり種の先生だ。

彼によると、各教科を環境問題や自然と結びつけて教える方法がまだ確立されていないらしく、またそういった各教科の先生達を熱帯雨林に連れ出して、自然のシステム等を現場で教えることも、まだ始まったばかりなのだという。
・・・全く、日本と同じ状況だ。


バコ国立公園は、クチンからバスで1時間ほど、更に小型船で30分ほどのところにあった。
船でしか行けないため、熱帯雨林は一度も破壊されずにそのまま残っていて、しかも観光をメインにした国立公園らしく道や施設がきれいに整備されていた。
熱帯雨林を味わいたければ、シロウトもクロウトも充分満足できる“おススメ”の場所だといえる。





そんな完全に保護された国立公園でも、深刻な環境問題があるのだという。

「マングローブ」・・・つまり海辺に茂る熱帯の森が、ところどころ立ち枯れているのだ。


アズナンによると、原因は “砂の堆積” らしい。

地下から上向きににょきにょきと生えているマングローブの根は、酸素を取り込むためとはいえ、一定時間以上海水に浸っていないと枯れてしまう。その根を覆うように沖合からの砂が堆積し、ついには高潮をも拒むようになる―。

実際、立ち枯れた樹の周辺には潮のストライプ模様が残され、徐々に高潮のラインが後退していったことを窺わせた。





「なんで砂が増えたの?」

不思議そうに聞く私に、アズナンが言った。

「気候の変化だよ。マレーシアは乾期と雨期があるけど、今では乾期にだって大雨が降る。それらが山から砂や泥を運んでくるんだ。」


私はハッとした。
飛行機から見た、茶色い大河を思い出した。

ボルネオ島を流れる大きな川は、どこだって同じように真っ茶色。
人々はそれを「天然のコーヒーだ」といって皮肉る。なぜなら、その色はまさに、熱帯雨林の伐採によって大量の土が流出した結果だから。


気候の変化と伐採による土の流出。
このダブルショックで、海辺に生きるマングローブの樹々が静かな悲鳴を上げている。

「環境問題」とは、こんなにも大きく、複雑で、ややこしく、予想外の影響をもたらすものなのか・・・。
きっと見えないほど小さな例を挙げれば、もっと頭が痛くなるほどたくさんの変化や “死” が、至る所にあるに違いない。ただ、今はまだ見えていないけれど。







アズナンが研究している「環境教育」。
日本でも、言葉だけは数年前から取りざたされているのに、一般社会にはなかなか浸透していかない。
その原因は、きっと先生たちが “現場” に行かないからなんじゃないか?
「環境」や「自然」は、写真や教科書だけで学べるようなものではないんだから。


「マレーシアでも、地元の人ほど熱帯雨林には足を運ばないよ。自然の恩恵や、自然に感謝するということを知らないんだ。」


森を見て、その仕組みを知って、空気を吸って、風を感じたら、きっと少しは森の生命に思いを馳せることができる。
その積み重ねが「感謝の気持ち」となって、どうしたらそれらを壊さずに済むかを考えるきっかけとなる。
きっとそのことが「環境教育」なんだろう。

森を歩きながら、そんなことを考えていた。



家族の意味を知る。

2008-04-29 | ボルネオの旅(-2009年)
ここボルネオ島に来て、新しい家族ができた。

といっても、結婚したわけじゃない。

父さんは数年前に公務を退職して趣味のリサイクル等に明け暮れている。
母さんは中学校の現役校長。早朝から深夜まで忙しそうに動き回っている。
兄弟は5人。
一番上と四番目は、仕事と学校のため首都のクアラルンプールに住んでいる。
二番目の兄貴はジャングルの中。自分達の母語・クラビット語の辞書をつくっている。
三番目は私より二歳年下の弟で、年齢も顔立ちもスタイルも驚くほど実の弟にそっくり。大学の事務を仕事にしている。
そして末っ子が唯一の妹。高校生ながら母さんに変わって家事を完璧にこなし、それでいて兄貴たちへの甘え方もパーフェクト、という尊敬し得る愛しい妹だ。

ちなみに私の名前はキジャン。
友人が付けてくれた、クラビット族の名前。


ホームステイのお客さんだった私は、いつの間にか彼ら家族の一員になった。
家族の仲間入りをさせてもらった。

そして少しずつ、その意味や今まで感じることのなかった大切な感情を、彼らと過ごす日常の中でじんわりと学びとっている。


   +++++++++++++++++++++++++++++


「コミュニケーション」という言葉。
日本語に訳せば「会話」だけれど、もうちょっと英語のニュアンスを含めれば「交信」の方が近いような気がする。

私の苦手とするところ。

いや、正直にいえば、今までは得意だと思っていた。
実際、誰とでも話ができる。すぐに仲良くなれる。プライベートでだって友達はたくさんいる。

だけど、唯一苦手な相手があった。
それが自分の家族。
特に両親とは、反抗期が始まった若かれし頃から未だに上手く話ができない。
フツウに話をしようとしても、なかなか上手くいかない。

なんでだろう?と、ずっと思っていた。
原因はいくつか思い当たる。

私が幼稚だから。大人になりきれていないから。幼い頃に両親が仲良くなかったから。元々あまり話をしないから。両親が忙しくて話を聞いてもらえなかったことがトラウマになっているから。そもそも話をしたいと思えないから。

そして結局到達するところは、そんな自分の幼稚さを嘆き、両親を恨む醜い感情だった。



ここにきてようやく学べていることはそういうことだ。

「コミュニケーション」とは単なる言葉のやりとりではない。
お互いが心を開くこと、そのものだ。

「家族」というのは、そういう状態を完全に無条件で受け入れ合える間柄のことで、つまりだからこそ、自分が最も自分らしく居られる大切な場所(であるべき)なんだろう。


幸運にもマレーシアで得た私の家族は、別にこれといって私に優しくしてくれる訳ではない。
彼ら同士もまた、フツウに喧嘩をし、不平を言い、そして食事を共にし、フツウに笑い合う、きっと何ひとつ特別ではない、どこにでもいるフツウの家族。ただただ私という一人の日本人を受け入れ、また彼らのありのままを隠さずにさらし、君もそのままでオッケーだよ、とその一部として存在を認めてくれている。そのことがどんなに有難く、居心地がいいか―。


改めて思う。
「家庭を築く」ということは、お互いが心を開き、受け止め合える関係をつくることだ。

家族同士の会話や、スキンシップや、家族旅行はそのためのもので、単に多くの時間を共有すればいい、という安っぽい話ではない。だから簡単に心を開けないタイプの人は、きっとそれなりの努力をするしかないんだと思う。自分の「家庭」が欲しければ。



・・・ということは、どういうことだ?

私は自分の本当の家族に、心を開いていると言えるのか?

私を含めた家族の誰か一人でもが、今までにそういった努力をしてきたか?



会話が上手くできないのは、きっとそれが問題だ。
私は家の中で、頑なに心を閉ざしている。


一体どうしたらいいんだろう?

その答えを、私はマレーシアでの生活の中で見つけようとしているのだ。
それは簡単に言葉にできるようなものではなく、“なんとなく” 分かるような分からないような、まさに雲を掴むに等しい話なのだけれど、彼らの何気ない会話を聞いているうちに、相手の存在を認めることとか、自分が気に入らなくても許し合えること
とか、フツウでいることと自分勝手とは違うこととか、とにかく “なんとなく” そういった感覚を学んでいるのだ。

だけどもはや、いつまでも学んでばかりはいられない。
あとは実行あるのみ。
自分から心を開くことは容易ではないけれど、今なら、幼稚な私にもやればできるような気がする。

それはきっと、他でもない自分のため。
自分が自分を失わずに、いつも自分らしくあり続けるためだ。


がんばれ、自分。







「コミュニケーションが下手くそだ」と言われる現代の日本人。
暴力や殺人に露呈する「家庭」の問題も甚だしい。

本音と建前を使い分ける古き良き伝統とは別に、「コミュニケーション」の研究や教育がもっと盛んになってもいいんじゃないかと思う。それはきっといろんな事柄のすごく根本的な問題で、特に近所付き合いや親戚付き合いが少なくなってきている今の日本では、それらに代わる学びの場がもっともっと必要なんじゃないだろうか。

「建前のコミュニケーション」じゃなくて、「本音のコミュニケーション」。

本当の自分をどうアピールするか、そして相手の本音をどう受け止めるか。


いつか自分の家庭を築くときには、家族皆が心を開き合えるような、良い関係をつくろう。
マレーシアで学んだ “なんとなく” の感覚を思い出しながら。



オイルタウン・Bintulu

2008-04-23 | ボルネオの旅(-2009年)
サラワク州の州都・クチンと第二の街・ミリとのちょうど真ん中くらいに、ビントゥルという街がある。
ミリから長距離バスに揺られること約3時間。

そこは、石油会社・シェルが大規模に開発を手がけている、オイル産業の一大スポットだ。

その様を一目見たくて、私は一人、早朝の格安バスに乗り込んだ。
価格はミリから30リンギット(=約1020円)。3時間なら悪くない。





到着して市街地をぐるっと眺めた。

・・・想像していたよりつまらなさそうな印象。

コンクリート造りの同じような建物が並ぶ街並は、昔からこの辺りを牛耳っているんであろう華僑のにおいをプンプンと漂わせ、近くを流れる川や、その川辺にあるマーケットも、どことなく乱暴で煩雑とした雰囲気を持ち合わせていた。

「向こう岸に行くには、どうしたらいいんですか?」

川の向こうに、大量の丸太が積み上げられているのが見えた。

“とりあえず、行くっきゃないだろ。” 
そう思った私は、岸辺にいた見知らぬ人に船着き場の在処を聞いて回り、ようやくたどり着いた乗船場で客船をチャーターすることに成功。約10分間のチャーターで20リンギット(=約680円)という安さで船を独り占めすることになった。







伐採した木材の製材所は、見渡せる範囲で3ヶ所あった。いずれも川岸。

熱帯雨林から船で運ばれた丸太は、大海原に出る前にこうして加工されるらしい。
そしてそれら製材所に挟まれるように、この辺りに元々住んでいるマレー人の村があるのだった。


つまりそれはこういうことを表していた。

街をつくりあげている華僑(市内に住む人口の90%以上は中国人だという)が、 オイル産業や伐採企業らと共にこの地域経済の中心にいて、元々住んでいたマレー系の人たちは、未だ近くの村で川に依存した生活を送っている。
伐採のために茶色く濁った川辺で魚を獲り、育てた野菜を市内で売り、この地域自体はオイルマネーで潤っているはずなのに、彼らの村や生活が発展することはない。


翌日、私は そのKampung Jepakというマレー系住民の村を訪れるため、対岸に上陸した。






そこには、市内とは一転して穏やかな景色が広がる、とてもチャーミングな村があった。

行き交う人たちは、見慣れない顔の私に笑顔を向け歓迎してくれる。
溢れる緑、カラフルな家、青く広い空、ゆったりと流れる空気、朗らかに笑う村人たち、そして外から来た人間を受け入れるだけの余裕と、その中で感じる居心地のよさ。

Bintuluというこの街ははまるで、どんどん移り変わっていく世界経済の歯車と、それによってどんどん取り残されていく人々の生活とを上手く並べて絵に描いたような場所だな、と私は思った。

大きな川で隔てられたその対比は見事なもので、例えばこの川を毎日船で渡って学校に通う村の子どもたちや、街に働きに行く大人たちや、買い物に出かける若者たちは、一体どんな気持ちで街の発展を眺め、どんな気持ちで村に帰ってくるんだろう・・・。そんなことを想像したりもした。







ところで肝心のオイル・ステーションは、市内から村の反対側にタクシーを走らせること約30分。
メタリックなガス灯からオレンジ色の火を吹いている工場みたいなところが、LNGと呼ばれるシェルの一大オイル基地だ。

数年前までは丘の上から全貌が見渡せたらしいのだが、今は立ち入り禁止になっていて残念ながら丘に上ることはできない。それでもできるだけ工場に近づき、初めて見る石油の生産基地をこの目でしかと確認。
・・・だから何だ?という話ではあるが、自分の日常生活で最も頻繁に使っている石油の元に一歩でも近づけたかと思うと、何となく “見てやった!” 的なプチ満足感に浸れたりするのだった。





ビントゥルでは、更に郊外にある小さな村の近くで、数年後からアルミニウムの精製工場が始動することになっている。

帰りのタクシーの運転手によると、さすがにアルミニウムの精製には華僑(中国人)市民も反対らしく、深刻な公害が起きないかが懸念されているのだとか。


“つまらない” 街だと思ったビントゥルだが、これから郊外の村々がどう変化していくのかは注目されるところだ。

是非、何とか、村の人たちの笑顔が消えてしまうことだけはないように願いたい。



ホームステイにしませんか?

2008-04-14 | ボルネオの旅(-2009年)
ボルネオ島の北部・サバ州は、キナバル山をはじめ何かと観光資源が豊富なところだ。

そこで、観光旅行の際のおススメ情報をひとつ。

ボルネオを訪れるなら、宿はホームステイにするといい。
観光に力を入れているマレーシアでは、民家に泊まって生活や文化を丸ごと体験できる「ホームステイ」に力を入れていて、個人で看板を上げている宿のほかに、国家プロジェクトで4つの地域が支援されている。


私が訪れたのはそのうちのひとつ。
サバ州の首都・コタキナバルから車で40分ほどのところにあるPAPAR(パパー)という町。
その一角にあるコミュニティで、6年前にホームステイプロジェクトは始まった。





ホームステイというと、外国人を一般家庭に招いて数泊の間面倒を見る、というのが日本でのイメージだが、ここでは「ホームステイ=民宿」の意味合いだ。
つまりホストファミリーはいつでも宿泊客を受け入れられるように部屋や観光プログラムを用意していて、ただホテルと違う点は、その地域ならではの家庭料理が食べられること、そして家族との会話を楽しめること。

更にPAPARでは、ひとつの家庭だけではなく複数の家庭が一緒に客をもてなす “地域ネットワーク” もつくられていた。


日本でも同じようなニーズがボチボチと高まっているところ。
“田舎暮らし体験” や “農業体験” “グリーンツーリズム” の先には、民家に泊まってその土地の人と触れ合うことが期待されているし、農水省も田舎の活性化につながるとして、その受け皿づくりに力を入れている。


けれど、「地域で客をもてなす」というのは一体どういうことなのか・・・?

英語では「Community Business」と呼ばれるその具体的な取り組みを、私はここPAPARで初体験することになったのだった。





まず私が宿泊した家は、ここの地域ネットワークのコーディネイターを務めているウィリアム家。家主である彼が、この地域全体のホームステイ客の誘致と割り振りを行っている。

各ホームステイ先の家族はオペレイターと呼ばれ、必要に応じて会議が開かれたり役割分担されたりする。
そして集落の中心にあるインフォメイションセンターでは公式なイベントが開かれる他、集団で訪れた観光客への文化披露なども行われるという。


私が宿泊した1日目の夜。
ウィリアムが近所のオペレイターを夕食に招き、大勢での即席歓迎パーティの開きとなった。

ウィリアム家は仕事を退職した夫婦2人だけだが、他のオペレイターが家族を連れてやってくることで子どもから大人まで様々な顔が揃う。
この辺りにはどんな人が住んでいるのか、どんな近所付き合いをしているのか、地域のことをまだ良く知らなくても、彼らの表情や話し方を見ているだけで一気にその地に深く入り込めたような気分がする。

そして、この地域の主要民族であるKadazan(カダザン)族の衣装を着て写真撮影。
黒くてごついキツキツの布地にカラフルな刺繍、頭には農作業で使う菅笠のような素朴な帽子をかぶり、皆にはやし立てられながらご近所家族の若い息子さんとツーショットを撮ったり・・・。

こうして地域の人たちの顔を知り、彼ら同士の絆を見て、さらにKadazan族の文化を体験することもできるのだ。




そして3日目の夜。
再びオペレイターの家族や近所の人が集まり、今度は伝統食のSago(サグ=ヤシの一種)やココナッツを使った料理と、民族ダンスの披露が催された。








ちなみにこの Sago というは白い粉みたいな形で売られていて、それをお湯に溶かして練り、スープに浮かべて皿に盛られる。味は淡白で「美味しい!」という感じでは・・ないが、まぁ、こうした質素な食事が伝統なんだな、ということを舌で理解することができる。
ちなみにちなみに、ココナッツの内皮を削って焼いたものも、まぁ、「美味しい!!」という感じでは、残念ながらない。





ところでこうしたサプライズはどうやらプログラムのひとつとして用意されていて、どこかの家に客が来れば皆が協力して文化体験を提供することが、この地域の売りでもあるようだ。
そしてその収益は地域コミュニティの収入として還元され、メンバー同士の結束を強めていく。

またコーディネイターのウィリアム氏は、観光客にひとつのホームステイ先だけでなく複数の家に泊まってみることを勧め、各オペレイターにお金が回るよう配慮していた。
それは文化体験でいろいろな人の顔を見れるからこそできることで、観光客にとっても、次は誰々の家に泊まってみたい・・とリピート率を上げる結果になる。

実際、次はダンスを教えてくれた若い家族の家に泊まろう~♪と、近々再びPAPARを訪れる約束をしている私・・・。

「地域を知る」ということは、「地域に住む人を知る」ということだ。
そしてそれが最も観光客の心に印象を残し、“また来たい” と思う原動力になるのだと思う。





PAPARを訪れる日本人観光客は年間100人ほど。その一部は何度も足を運んでいるリピーターだという。
この地域の人が日本語を話せるわけではなく、旅行代理店が宣伝しているわけでもない外国の田舎町に、毎年100人の人が訪れているのだ。


ボルネオ島にいらした際にはホームステイにお泊まりなさい。
近所付き合いや親戚付き合いが希薄になっている日本で、ここを訪れる日本人観光客の多くが深い感動を味うことを、私が保証いたしましょう。

そして日本でも、人のつながりに感動できる温かいグリーンツーリズムが広がるといいなぁ。

・・・田舎にできることは、まだまだあるんだ!


ジャングルでもインターネットを!

2008-04-08 | ボルネオの旅(-2009年)
少数民族が暮らす小さな村にエコツーリズムを!という目的で各地域を巡回している、私たち「The Heart of Borneo」プロジェクトチーム。

しかしもっと具体的に説明すると、まず目標として掲げているのは、各地に「テレセンター」という名の情報拠点をつくることだ。つまり、インターネットができる場所を村の中心につくろう、というわけ。


・・・え?
 どうして昔ながらの生活をしてる人たちにインターネットが必要なの??

とつい思ってしまいがちだが、なんとその意外性こそが “ポイント” なのであります。


つまりこういうこと。

ジャングルの中に人知れずたたずむ小さな村ほど公的サービスや教育が行き渡りにくく、“時代遅れ” な感染病や不衛生な生活環境を改善できずにいる。
 ↓ 
衛星を使ったインターネットで外界とのつながりができれば、村の人は容易に情報を得ることができる。
 ↓
政府も保健/教育などの公的支援をしやすくなる。

                  というわけだ。


インドネシアのMalinau(マリナウ)という村で活動しているWWFのドイツ人スタッフは言った。

「ウチの優秀なスタッフの中にも、一体どうしてジャングルの僻地にインターネットが必要なのか、このプロジェクトのメリットを疑う人がいるわ。そういう人にはこう言ってやるのよ。もし、私が村の人とコンタクトをとらなきゃいけないときに、いちいち手紙を書いて、それを届けてくれる人を探して、一日かけて届けてもらって、更に一日かけて返事をもらう、そんなこと今どきやってられる?ってね。」





10年ほど前、Barioに変化をもたらしたのが「テレセンター」だった。

「eBario」という名のそのプロジェクトでは、村の中心にインターネットカフェのような部屋をつくり、事務所を構え、政府筋を呼んでセレモニーを開き、その延長線上で少しずつ観光客用のホームステイが整備されていった。
今ではヨーロッパを中心に口コミでBarioの名が広がり、村で観光客の姿を見ることは全く珍しいことではない。
(観光客は年800人ほど。私が訪れたホームステイ先で月平均10人ほどで、2週間の滞在中に村で出会った欧米人は5人だった。・・・商店街さえないような小さな村での話である。)


同じくサラワク州でジャングルの真っただ中にある村 Meringau(マリンガウ)。
テレセンターはまだなく、まさにこれからその設置にむけて調査が始まろうとしている。

「村一番の問題は貧困です。コミュニティ全体がとても貧しいのです。」

退職後に村に戻り農業を始めたDavid氏は言った。

「小学校は近くにありますが、それ以上になれば若者は街に出て教育を受け、仕事を探します。勉強せずに仕事にありつけなかった落ちこぼれだけが村に戻り、酒を飲んではたむろするようになっているのです。」

村にテレビのアンテナはあるようだが、実質、主な情報源はラジオのみだという。
私が村に到着したときにも、10人ほどの若者が何をするでもなく教会の前にたむろし、外国人の私を物珍しげに眺めては手を振っていた。





このプロジェクトの主要メンバーであり、僻地での観光ホームステイを研究・推進しているDr. Roger(ロジャー博士)は言う。

「昔はリッチな人がインターネットを使うことができた。でもこれからはその反対が大事なんだ。つまり、リッチになるためにインターネットを使う。特に情報が乏しいこういった僻地では、健康面でも収入面でも文化を受け継いでいくためにも、インターネットを導入して、さらに使いこなせるように村人をトレーニングしていくことが必要なんだよ。」



都市部を中心に全てが発展してきた陰で、農業や環境や文化といったアナログな分野では、どの地域でも多くの問題が負の連鎖によって悪循環をくりかえしている。
特にジャングルに囲まれた僻地では、特有の文化が残る一方で、村自体の存続さえ危うい状況に追い込まれている地域も少なくない。

David氏の言葉が胸を突いた。
「私たちは村の回りにあった森を奪われ、河を汚され、獲物もいなくなって、代わりにもらったものはトラックが走った後の埃だけです。」



連鎖を好転させるには、どうしたらいいのか?

インターネットやテクノロジーに少しでもその可能性があるとしたら、それらが成熟しつつある今こそ、まさに時代の変わり目に違いない。
森林の伐採や生物資源を利用する代償に、政府や企業がインターネット環境を整備すること。もしくはNGOなどがそれを支援すること。それによって村人が、今の時代に必要なIT技術を身につけ、自ら仕事を生み、外界から公的サービスや人を呼び寄せることも可能になること。・・・それは間違っても “マイナス” じゃない。



モノゴトは少しずつゆっくりとシフトする。
10年前にスタートした「eBario」でも、インターネットへの接続は未だあまりに遅くて居眠りできてしまうほど。
・・・根気強く、少しずつ、あきらめずに続けることが大切なんだろうと思う。

そうして、村に住む人々が、少しでも希望をもって自分たちの生活や文化を受け継いでいってほしいと祈っている。



言葉を守る。

2008-04-05 | ボルネオの旅(-2009年)
Kelabit Highlandと呼ばれるエリアは、ボルネオ島サラワク州の北東に位置する。ちょうどインドネシアとの国境に近いエリアで、昔は民族争いや領土争いが頻繁に起きていた。

ここ一帯に住んでいる Kelabit(クラビット)民族は、人口5000~6000ほどの少数民族で、20以上の民族が共存するサラワク州の中でも決して多い方ではない。


私がお世話になっているホームステイ先のLaban家では、母親のLucyと息子のLianが、自分たちの血筋であるKelabitの言葉を記録し、後世に伝えるプロジェクトを立ち上げている。Lucyによれば、学校の教科に入っていない Kelabit 語は、家庭で親から子に受け継がれるしかなく、それが今、危機的な状況にあるのだという。

「気づくのが遅すぎたのよ。Kelabit 語がまさに消えつつあることをつい数年前に気付いて、私自身、今パニックに陥っているの。」



言葉が消えてしまう・・・。

つまりそれがどういうことで、どれほど深刻な問題なのか・・・、その時、日本人の私には今いちピンとこないテーマだった。



話を聞いた翌日のこと。
Lucyに頼まれて、村にある2つの保育園に写真撮影に出かけた。

各保育園には、就学前の4歳前後の子どもたちが6~8人通っている。
保育園なので基本的におもちゃで遊んだりモノをつくったりして時間を過ごし、その合間に先生が簡単な単語や数え方を教えているのだが、つまりその「単語」が Kelabit 語(であるべき)で、訪れた2つの保育園では、Lianお手製の教科書(挿絵つき単語帳)や、マレー語を Kelabit 語に置き換えてつくった教材を使っていた 。





「小学校や中学校で習うのはマレー語と英語だけ。あと中国語や人口が多い民族の言葉は選択授業で習うことができる。でも Kelabit みたいな少数民族の言語は教科書さえないわ。」

保育園でも Lucy たちが関わっていないところでは教材がなく、先生が Kelabit 語に精通していなければ、正しい発音や文法さえ上手く教えられないのが現状だという。ましてや、都会で他の民族と同じ学校に通う子ども達はなおさらのこと。
そんな状況が、気づけば今までずっと続いてきた。







何年にも渡って公立小学校の校長を務めているLucyは、そんな現状に長らく気づかなかった自分を責めているようにも見えた。

「私でさえ、Kelabit 語をあまり上手くしゃべられないのよ。夫のDavidは、文法はあまり上手くないけど、単語はとてもよく知ってるわ。私は文法はできるけど、単語はあまり知らないの。」


文法、単語どちらともに精通している年配の Kelabit 族が健在なうちに、正確な言葉を記録し、教科書や辞書をつくらなければ、今や口伝えで確実にモノゴトが伝わっていくほど甘い世の中ではないということなのだろうか。



ふと、自分の母国語である日本語について思い返した。
小・中・高と国語を習ったにも関わらず、私は自由自在に日本語を操れている・・とは口が裂けても言えない。未だ自分の気持ちや伝えたいことを表す言葉の選択に、四苦八苦している。
・・・12年間みっちり国語を習った私がこの有り様。
教科書さえない Kelabit 語の継承が容易でないことは、想像に難くない。



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小型飛行機で約30分の街・Miriに、2週間ぶりに下り立った。

同行していた Kelabit 族の友人と、市内にある大衆食堂で夕食をとる。ふと友人の知り合いが通りがかり、相席することになった。
母親は Kelabit 族。聞けば、明日は娘さんの結婚式だという。
夫は父親と同じ中国人だ。


話が盛り上がる友人同士を横目に、娘さんに聞いた。

私「あなたは Kelabit 語わかるの?」
娘「家では、父親とは中国語、母親とは Kelabit 語で話してるんです。」
私「じゃあ、中国語と Kelabit 語とマレー語と英語、4つも話せるのね!」
娘「そうですね(笑)でも、Kelabit 語が一番好き。」
私「・・・じゃあ、もし子どもができたら、何語を教えるの?」
娘「それはまだ分かんないです(笑)」



ようやく、彼らが直面している問題の深刻さが分かった気がした。


飛行機でしか行けないジャングルの中にポツリとある小さな村でも、時代の波は確実に押し寄せる。「教育」の中に取り込まれない文化や言葉や慣習は、自ら意識的に継承していく他はない。



「言葉」とは何か。

きっと単に物事を伝えるだけの手段ではない。

ときに思考を促し、思いを共有し、文化をつくり、そして人々は “自分は何者か” を知る。
母国語の崩壊が意味するところは、つまり自分たちのアイデンティティや心の拠り所や誇りを失うことに等しいのだろう。



Lucyが言った。

「他の少数民族も、全く同じ問題を抱えているのよ。」


いくつもの民族が共存する国、マレーシア。
ダンスや民族衣装が観光の目玉としてもてはやされる一方で、その文化の核ともいえる言葉やアイデンティティがどんどん薄れていっているのは、何とも皮肉で悲しい現実だ。


「言葉」を記録し継承するLucyたちの取り組みは、まだまだスタート地点。
“生物多様性”と同様、せっかく生まれ育まれた多様な言葉の文化が消えてしまわないうちに、それらの価値が認知され広がっていくことを心から願っている。



人生で最も醜い足

2008-04-05 | ボルネオの旅(-2009年)
何より「聞いて~!!!」って感じなこと。

・・・・・この醜い足ですよ。



あまりキレイな画像ではないので小さめにしましたが、よく見るとしわくちゃです。
ジャングルを歩くとこうなります。

そしてこれが、ヒルに噛まれたあと。



足からふくらはぎ、更に首もとにまで(!)ヒルは這い上がって来ました。
今でも足に10個ほど痕が残っていて、むっちゃかゆい!!!!!

痛いのは噛まれた瞬間だけで、何がイヤかってそのあとかゆい!のがたまらんのです。
しかも噛まれ傷はなかなか消えず、蚊に刺された痕と相まって足がブツブツに。。。
きたねぇ~・・・・・。

気づけば常に足の甲の辺りをポリポリしている私です[:あせあせ:]


ちなみに「ヒル」は3種類ほどいるようで、ひとつはフツウの茶色いやつ。
もうひとつは横腹に黄色い線が入ったタイガーヒルという種類で、こっちの方が強烈らしい。



私もいくつも噛まれました(苦笑)

そしてもうひとつが葉っぱから人の腕や首などに侵入してくるヒルで、これは緑色をしているらしいのですが、まだこの目で見たことはありません。


ということで、しばらくスカートは履けない私。(もともと履いてないっちゅうの!)
早くヒル痕が治らないかなぁ~。

ジャングルに生きる。

2008-03-25 | ボルネオの旅(-2009年)
プナン族の家族がハンティングに出かけるというので、着いていくことにした。

隣村のPa’ Lunganから戻った翌日のことでいささか疲れていたけれど、又とないチャンスだと思い、自らの体力の限界に挑戦!・・・とはじめから意気込んでいたのなら良かったのだが、「まぁせいぜい1~2時間の道のりだ」と聞かされていた(もしくは聞き間違えていた)ので、ほんの軽い気持ちで同行を決意したのだった。

誘ってくれたのは、ホームステイ先の家主でリアンのお父さん、デイビッド。
「僕は年寄りだから歩くのが遅い。僕と一緒に来れば大丈夫だよ。」


そして私たちはジャングルに分け入り、冒険は始まった。





Bario村を出てしばらく歩くと、だだっ広いバッファローの放牧地がある。そこを横断するように突っ切った先に、突然ジャングルの入り口は現れた。

どんどん狭くなっていくけもの道。

雨が降り出し、カッパを羽織る。

ところどころでは、木が荒々しく切り倒されて道がつくられていた。茶色く濁った川にはただ一本の丸太や竹がかけられていて、下を見ないように真っすぐ前を向き、そろりそろりとバランスをとって渡った。

森の様相は場所によって大きく異なる。細くて低い木ばかりのところもあれば、まさしくジャングルといった雑多で深い森が続くところもある。
ブッシュをかき分け、横たわる大木を乗り越える。けもの道は次第に小川に変わり、聞こえてくるのはビチャビチャという自分の足音だけ。水をしたためた粘土質の赤い土と、白くて砂状の柔らかい土がぐちゃぐちゃになって足元をすくう。もはや、靴や靴下やズボンの裾など気にしていられなくなる。


「もしかして・・・、来ちゃった?私???」


進んでも進んでも更に奥へと続いているけもの道をひたすら歩きながら自分に問いかけた。


“これは・・夢?・・・それとも罰ゲーム? っていうか、マジ???”





彼らが目指した目的地までは、結局5時間の道のりだった。しかも休憩は1回のみという超ハードウォーキングで。(3回の休憩込みで4時間かかったPa’ Lunganまででさえ相当キツかったのに!)
ちなみにプナン族の彼らだけだったら、2時間で到着しているところだという。ジャングルに育てられた強靭な足腰に、乾杯。。。


着いた先は、デイビッドの別荘ほか5棟ほどの小屋が建ち並ぶPa’ Berang (パバラン) という場所だった。



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プナン族、正確には Penan族の人たちは、家族単位で森の中に住んでいる。
生活の中心は “狩り”で、獲物を求めて移動するのが常だという。

デイビッドによると、プナンの人口は約1万人ほど。Barioなどの村で暮らしているクラビット族が約5~6千人だというから、その2倍近くの人口がジャングルに点在していることになる。


私が体力を押し切って彼らに同行したのは、何を隠そう彼らにインタビューを申し込む絶好のチャンスだと思ったからだ。
木材の伐採企業に抵抗し続けている彼らの言い分や状況について。またジャングルでの生活を貫くポリシーについて・・・。


私が日本を発つ前、インターネットで知り得たニュースには、こんな記事が載っていた。

『2007年3月、マレーシア・サラワク州の熱帯雨林に住むプナン民族は、マレーシアのサムリン社による伐採に抗議するため、再び道路封鎖を設置した。』by ブルーノ・マンサー財団

つまりプナン族の人たちは、1980年代から伐採操業を阻止するための道路封鎖を度々行っていて、伐採企業やマレーシア政府との対立が続いているのだという。
(参考:http://www.jca.apc.org/jatan/trade/malaysia.htm 、http://www.kiwi-us.com/~scc/ )

ちなみにここでいう『プナン』とは Punan族のことで、私が同行した Penan族とは異なる民族らしい。が、いずれもジャングルで狩りを中心に生活していることに違いはなく、伐採による被害を被ってることも変わらない。


彼らの生活圏であり生活の全てでもある熱帯雨林を荒らし、資源を奪い取ろうとする伐採企業。彼らは当然、並々ならぬ怒りと不満を抱いているに違いない・・・と、私は安易に想像した。
そしてその背景にいる私たち先進国の人間に対しても、もしかしたら強い憤りを感じているかもしれない。私たちは何も知らずに、相変わらず輸入材を大量消費しているけれど・・・。


   +++++++++++++++++++++++++++++++


翌日の朝。
デイビッドの通訳の元、インタビューは実現した。

答えてくれたのは、一家の主である父親のタマ・ライ氏。
私「伐採企業との対立は、今どんな状況なんですか?」
タ「対立している地域もあるけれど、ここにはまだ来ていないよ。」
私「もしここにも伐採の手が回ってきたら?」
タ「どうしようもない。どう対抗すればいいのか僕たちには術がないよ。」
私「話し合いや交渉はしないんですか?」
タ「しているよ。伐採企業と対立している地域では、開発の見返りに現金を要求しているんだ。じゃないと我々は生活ができない。でも彼らは金は一切払わないんだよ。」

ダムをつくるときでも何でも、立ち退きを要求する場合には金の交渉で決着をつけるのがフツウだ。けれどここでは、かつては各民族が保有していた土地の所有権が、国の政策で一気に国に委譲されたため、定住していないプナン族の人たちは特にとても弱い立場に追い込まれている。

私「そうすると、お金さえもらえれば伐採は許されるということですか?」
タ「そうだね。でも彼らは絶対に金は払わないよ。」

「そうだ、払わない。1万人いるプナン人全てに金を払うなんてことはしないよ。」
デイビッドが口を添えた。

私「では、ジャングルで生活し続けているポリシーは何ですか?なぜ定住せずに、ワイルドな生活を続けるんですか?」

私は、きっと彼らにとっては失礼にあたるだろう質問を、恐る恐る投げかけてみた。





ちょうどこのハンティングツアーに出かける前日のこと、ダイニングで一緒にテレビを見ていたリアンがぼそっとこんなことを言い出した。

「プナン族の人たちは頑ななんだ。時代は常に変わっているのに、彼らは一向に変わろうとしない。国の支援を自ら断っているから健康面や衛生面で未だに多くの問題を抱えているし、教育さえ受けようとしないから交渉の仕方を知らないんだ。僕らクラビット族はいつだって彼らをサポートしようとしているのに、彼らは聞かないんだよ。考え方が古いんだ。」

実際リアンたち家族はタマ・ライ一家を度々食事に招き、古着を分け与え、彼らとのコミュニケーションを図りながらできるだけの支援や助言をしていた。それでも彼らは森での生活を選び、息子たちは学校に行くことを拒み続けている。



タマ・ライ氏は言った。
「変えたいんだよ。今の生活を変えて、便利な生活をしたい。でもどうやって変えたらいいかが分からないんだ。」



先祖代々、何百年にも渡って森での生活を営んできた。
例え有り余る程のお金をもらい「ここに定住すればいい」と言われても、 きっと彼らにとって生活基盤を変えることは、そう容易いことではないのだろう。


「熱帯雨林の伐採に関しては、どの民族も同じように反対しているんだ。ただプナン族だけが、交渉の術を知らないが故に過激な行動に出て、マスコミなんかの注目を浴びてるんだよ。」

リアンの言葉が重く頭に響いた。


変わりたい気持ちと、変わりたくない気持ち、変われない現実、変わることへの怖さ・・・。
プナン族の人たちは、「怒り」や「不満」よりも、もしかしたら何にも増して「困惑」しているのかもしれない。





そして私も同じく「困惑」していた。
ジャングルの中で暮らす彼らの生き方を心から尊敬する一方で、事実、その生活を脅かす側の大量消費国家に私は生きている。熱帯雨林の開発や違法伐採を続ける企業を非難はするものの、何をどうすればいいのか、具体的な行動は何ひとつできていない。

そして何より、企業への抗議活動を続ける彼らに “ジャングルでの生活を変えてほしくない” もしくは “変わりたいなんて思ってほしくない” と思っている自分が、なんだかとても無責任な人間のように思えた。



だけど何となく、ぼんやりと思うことがある。

「困惑」している状態は少なくともマイナスではない。安易に割り切ってしまうよりも、ましてや答えを出すことを諦めてしまうよりも、「困惑」しながら前に進むことは、答えを出すまでの大事な過程に違いない。


彼らがこの先どんな風に自分たちの生活を守り、どんな風に変化を受け入れていくのか。
私も、私にできることを根気づよく探しながら、現実と向き合わなきゃな、と思う。


“Food” がキーワードなのです。

2008-03-22 | ボルネオの旅(-2009年)
この村で初めてFood Festivalが開かれたのは3年前。
伝統食を見直し、観光客を呼び寄せ、村を活性化するのが狙いだという。今年は3月中旬に1週間開かれ、30人ほどの観光客が訪れた。

私が到着したのはちょうどその翌日で、まだ村に祭りの名残惜しさが漂っていた。
Barioというこの村の名前さえ知らなかった私が祭りに合わせて来られた訳はなく、しかしタイミングこそ逃したものの、祭りを成功させた主要人物たちのほとぼりの冷めていない内に話を聞くことができたのは幸いだった。


「食」のあり方が見直されているのは世界的なことで、ヨーロッパを中心に「スローフード」ブームが続いている。
ここBarioにFood Festivalをもたらした根源はイギリス人のJasonという人物で、彼によると、ヨーロッパではフードツーリズム(日本でいうグリーンツーリズム)のマーケットが相当な額に上っているのだとか。(正確な数字を忘れてしまった。。なんておバカさんm(_ _;)m)


彼は私に、そのスポットを見いだす条件を3つ教えてくれた。
①伝統的な食文化があること  
②景観がよいこと 
③交通手段が整っていること

Barioはこのうち③の交通手段が極めて乏しい(なんせ飛行機でしか来られないんだから。。)けれど、にも関わらず、特に欧米ではBarioの名が口コミで広がり、既に「知る人ぞ知る」人気の観光スポットになっている。ちなみに日本人でここを訪れるのは、熱帯雨林の研究者とその学生のみ。・・といっても過言ではない。あとは無計画ゆえに流れ着いた変わり者か。

そんなこんなで、とにかくジャングルの真ん中にあるこんな小さな村にFood Festivalの火は付いた。

詳細は実際に見ていないので何とも書きようがないが、様々な伝統料理が振る舞われた他、民族舞踊やゲームで人々は多いに盛り上がったのだという。もちろん、地元サラワク州での報道に加えヨーロッパの雑誌でも取り上げられている。


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村から歩いて4時間ほどの所にPa’ Lunganという村がある。
Miriで知り合ったパイロット・Davidのおススメだったので、ジャングルトレッキングを含め訪れてみることにした。

同行してくれたのは、ベテランガイドのLarry。中年らしからぬスマートな体型で、なかなか男前なナイスガイだ。

「これは野生の生姜で、茎も花も実も食べられるけど、根は食べられない。」
「この植物はこうやって皮を剥いで食べるんだ。」
「ぜんまいには食べられる種類が3つある。昨日君が食べたのはこの赤いやつだよ。」
「これも食べられる葉。肉と合わせて炒めると日本のスシよりずっと美味しいよ。」





Larryはところどころで立ち止まっては説明をし、生で食べられるものはその場で食べ方を教えてくれ、私はそれらを恐る恐る口にした。

彼らはときに、森のことを「ジャングル・スーパーマーケット」と呼ぶ。
欲しい食材は全て森の中にあるという意味らしく、確かに食卓に並べられるおかずは、どれも森の中で手に入れられる野生的なものばかりだった。





例えば今日の朝食はこんな感じ。
簡単に炒めたナシゴレン(炒飯)に、青葉の炒め物、小魚のフライ、タピオカ(イモみたいな根菜)のフライとマッシュボール。夜にはこれに加え、鶏肉やシシ肉、鹿の肉、魚、小貝などが並べられる。
時にはインスタントラーメンやクッキーも食べるけれど、あくまでおやつ代わりだ。


Pa’ Lunganで私たちを出迎えてくれたSupangさんは、食事のたびにひとつひとつ料理の説明をしてくれた。
「これは葉っぱとキノコを煮込んでつくったスープで、伝統的な料理よ。こっちはイノシシを焼いたもの。ソースに付けて食べるとおいしいわ。これは別のキノコと青葉を炒めた料理。全てジャングルスーパーマーケットのものよ。」

夫婦2人で営んでいる民宿風のアットホームな家には、特別なものは何ひとつない。
ただただ彼らの温かさと、手入れされた庭、丁寧に仕立てられたベッドメイキング、ダイニングに飾られたランの花なんかが、訪れる人の気持ちを穏やかにしてくれていた。


「そしてこれが、私たちが誇るBarioライスよ。知ってるでしょう?この辺りのお米は特別においしいのよ。」

「Barioはお米がおいしい」というのは、ここに来る前にも何度か耳にした。
標高が高いために朝晩の気温差が大きいこと、源流からのきれいな水が得られることなどがその理由だが、何にも増してBarioの人たちの気合いというか、米に対する誇りを強く感じる。

「日本の米と味比べしてみたこともあるんだよ。」
ホームステイ先の世話人・リアンは言った。
「こうやって、名前を隠してね、ん~おいしいね、こっちもおいしいね~って言ってさ、でも最後にはやっぱりBarioライスが最高だったよ。」

米粒は日本米のように太っちょではなく、少し細長くてパサパサした感じだが、炊くと水分を含んでふっくらと膨らみ、日本米に負けず劣らずしっとりした食感になる。どちらがおいしいかは好みの問題なので何とも言えないが、ここのお米は「最も日本米に近い」んじゃないかと個人的には思っている。


「でも、米をつくる人はだんだん減ってきてるんだ。」
リアンは続けて言った。
「Barioライスはブランドになってるけど、都会では他の安い米の方がよく売れる。Barioで米をつくっても、あまりいい収入にはならないんだよ。」

なんと、ここでも日本と同じ農業の問題があるのだ。
つまり、中国などの安米に押されて現金収入が少なくなる、若者が都会に流れる、農家が高齢化する、生産量が減少する・・・。Barioでは一部の米を直接ヨーロッパに輸出してブランドを保っているらしいが、それでも国内での需要が伸びない限り、全体的な状況が好転することは難しい。




この村の伝統と文化と景観を守るために、観光客を呼び寄せ、「食」をもってもてなし、自分たちの意識を高め、共に喜び合う。

Food Festivalやグリーンツーリズムは始まったばかり。

ジャングルに囲まれたこんなに小さな村で、新しい取り組みはゆっくりと確実に進んでいる。



いのちを食べる生活

2008-03-20 | ボルネオの旅(-2009年)
今はちょうど、イノシシのシーズンらしい。

昨日、散歩に出て宿に戻ると、リアンのいとこが狩ってきたらしい体長1mほどのイノシシの頭が台所に置いてあった。
「何、これ?」
籠から鼻先だけが突き出ているその物体を、私は怪訝そうに眺めて聞いた。
「あぁ、もらってきたんだ。」
リアンは何気ない風に答えながら、不審がる私の様子を面白がるようにちょっとニヤけてみせた。近くで親戚の女の子がそわそわしながらリアンの後を付いて回っている。
「ふーん。」
私は既にリアンと女の子などそっちのけで、どう見ても獣らしきその物体に目を丸くして見入っていた。短い毛がまばらにツンツンと生えているその鼻先は、少し湿り気を帯び、表面のしわの溝の辺りから今にも独特の獣の臭いが漂ってきそうなほどリアルだ。

「やるか。」
しばらくしてリアンはその籠から獣を取り出し、台所のシンクの上に無造作にドンっとそれを置いた。


日本でも、この一人旅に出るちょうど直前にシシ鍋をご馳走になったばかり。
「イノシシってどうやって解体するんですか?」
私は一人目を丸くして聞いていた。

狩った獣を解体するには、まず血を抜いて内蔵を取り出し、いくつかのパーツに切り離す。そして表面を軽く焼くか、もしくは熱湯をかけて柔らかくし、一気に毛を剥ぎ落とす。

全てこっちで見て知ったことだが、この毛剥ぎの作業がなかなか面倒で手間がかかる。毛さえなくなれば、あとは細切りにして調理するだけ。
こっちでは、鍋に放り込むまでの全ての過程が「男の仕事」と決められている。


「頭は欲しがる人が少ないんだよね。」
リアンはそう言いながら、その頭の毛に付いた寄生虫を手でつまんでは捨てた。すぐ隣では女の子がその手さばきを観察している。私は、まだ目の玉が青いイノシシの頭をレンズ越しに眺め、2人の様子も眺めながら、声も出せずにただシャッターを切っていた。





日常の中に、真っ赤な血のついた肉の塊や、まだ顔の付いた獣がフツウにある、というのは何とも不思議な光景だ。日本でこの光景を再現したら、きっと教育委員会かどこかからお叱りが来るに違いないが、ここではこれが「当たり前」。初めこそ驚いたものの、いちいち首をすくめてもいられない。

それでもやはり、台所に獣がもたらされる度に “不思議な” 気分になる。単なる “抵抗感” ではなく、“好奇心” でもない。心がシーンと静まりかえり、どこか安心するような、納得するような、しかし本当は逃げたいような、逃げたくはないような・・・。
ただ「これが現実なんだ」と目の前の光景を受け入れ、一体化していく感覚に、ある種の爽快感を覚えたりもする。


大学の頃に、友達同士で鶏の解体をしてみたことがある。
養鶏場で一羽の鶏をもらってきて、川辺で皆で首を絞めた。
肉を食べるということはどういうことなのか?・・・“いのち” に対するそんな “分からなさ” が、じわじわと広がり始めていた頃だった。

去年暮れから再びそういった類いの話題や議論を何度か聞いている。けれど、家畜を殺めて肉を得る過程は極端に私たちの日常から離れていて、教育やら食育やらで “いのち” の大切さが謳われる割に、一番大切な血なまぐさい部分は相変わらずタブーなまま。私を含め社会派の人たちがいくらその現状を疑問視したところで、“いのちを食べる” 実感が得られるようになるはずはない。


ところで、血を見たあとに食べる肉は、別に血の味がするわけではない。
・・・いやしかし、大学のあの時は確かに食べる時に抵抗感があったことを思うと、私が精神的に強くなったのか? それとも図太くなったのか・・・?
肉は肉の味がして変わりなく美味しいし、逆に丸々と肥えた鶏なんかを見たら、つい「おいしそ~・・・」と思ってしまう。

もちろん、仕留めた獲物の肉を無駄にすることはない。
村の誰かが大きなイノシシを担いで帰った日には、村のあちこちでバーベキューの煙が上がる。解体した肉がそれぞれに配られ、もしくは売られて何十人分もの御馳走になるのだ。



「狩り」や「獣」や「解体」など、日本の今までの生活ではまるで経験したことのない現代っ子の私が、それらを目の前にし、受け入れ、自分の日常感覚の一部にまで昇華させようとしている。そしてなぜかそれが、私にとっては実に “心地いい” 毎日で、とても “落ち着く” 空間になっている事実に、何より “不思議な” 感覚を覚える。
きっと、少なくとも人生の中で一度でもこうした経験を得られたことは、すごく幸せなことなんじゃないかと思う。


今夜も、村の誰かが銃を持って森に入る。

明日のご馳走は・・・・・サル? かもね。



デジブック公開*其の壱*ジャングル暮らし

2008-03-19 | ボルネオの旅(-2009年)
ジャングル暮らし



こんなデジブックをつくりました。
写真集のデジタル版。

まずは「ボルネオ島の編」です。

無料制作のため、30日間だけ見られます。

写真ビデオ展にはなかった写真の数々をどうぞご堪能ください。。。
(ちょっと肉肉してます。肉嫌いの方はご注意。)