アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

大学生アジアツアーで得たもの

2014-04-20 | フィリピンの旅

先日、N子がわたしの新事務所に遊びに来た。

D大学3年生。

今年2月に開催したフィリピンツアーに参加してくれた子だ。

 

ツアーはなかなかのハードスケジュールで、5泊6日の間に現地市民団体を5つも訪ねて回った。

企画者で管理者のわたしは、「これ、やりすぎダ…」とツアー前日に認識。

案の定、思い切り採算割れして痛い思いをすることになった。

 

けれど、ハードスケジュールになったのは実はわたしにとって嬉しい悲鳴で、参加してくれた学生たちにとっても、必ずしも辛いだけの悪程ではなかった。

そう言い切れるのは、彼らの様子や、表情の変化や、全身の穴という穴から何かを吸収している時のゾクゾクするような躍動感を目の前で見れたことに依拠する。

そして何より、ハードになったのは現地パートナー達が強烈に協力してくれた結果であり、それはわたしにとって、まさに心臓が躍り出さんばかりの嬉しいサプライズだった。

事前に協力の同意は得ていても、彼らが実際にどう動いてくれるのかは「やってみなければ分からない」、そんな状況だったから。

 


(ツアー4日目。アメラシアンの人たちと元米軍基地内ジャングルツアーにて)

*ツアーの様子はこちらにアップしました:http://www.kids-au.net/report-p1.html

 

それで、あれから2ヶ月。

N子はわたしの事務所で、自分のライフプランがとりあえず固まったと報告してくれた。

「あたし、教職がまだ履修できるってことが判明したんすよ。それで、やっぱり教職とって3年くらいは働こうかなと思って。そんで、その後にJICAの協力隊行けばお金も貯まるらしいし、そのお金でイギリスかどっかに留学しようかなと思って。そうすれば奨学金も返せるし、親にも迷惑かけずに済むんで」

 

彼女は、わたしが去年秋にD大学でゲスト講義をした時、ずっと下を向いて携帯をいじっていた。
その子が授業終了後にわたしの元に来て「わたしも海外連れてってください!」と猛烈にアピールしたのは驚きだったけれど、その半年後にこうして事務所にまで来て将来のビジョンを語っているというのは、もっと驚くべきことだった。

彼女はフィリピンで開眼し、その後みるみる成長している。
それは、知り合って間もないわたしにも手に取るように分かるほど、だ。

 

フィリピンからの帰り。
飛行機の座席が隣になった縁で、彼女は自分の身の上話をあれやこれやと話してくれた。

片親だというのは以前から聞いていたのだけれど、その経緯や、それによって彼女が心に抱えた傷は、わたしが想像した以上のものだった。その傷を隠すために、彼女はいつも友達の前でチャラい言動ばかりしてしまうのだという。

「誤解されやすいんだね」と言うと、「そうなんすよー!」と、機内中に聞こえそうなボリュームで返答された。

 

わたしも最初は思い切り誤解していた。
彼女は一見つかみ所がなく、何を考えているのかよく分からない。一言でいえば、「変な子」に至極容易にカテゴライズされてしまう、そういうタイプ。

けれどフィリピンで気づいたのは、彼女が非常に感受性豊かで、モノゴトをよく観察していて、かつ、理解するのがとても早いということ。彼女の口から出てくる言葉は、時に、わたしが意図したことそのものだったり、それ以上だったりした。

たとえば5日目に行った貧困層の人たちが住む集落でのこと。
そこで青年教育支援をしている団体の活動を見て「自分が変わらなきゃ、自分が何か始めなきゃ、社会は変わらないんだなって思いました」と彼女は言った。
それはわたしが30歳を過ぎてようやく思い至った境地で、このツアーを始めたのはまさにそれを伝えるためだった。本当にそれがそのまま伝わるなんて微塵も期待せずに。

 

帰国後、彼女は勢い勇んでバイトを始めた。

教員を目指すのはとりあえずやめて、今はお金を貯めて留学したいのだと。

「フィリピンが濃すぎて…なんかもう…やること多すぎって感じ!」

そして留学後のライフプランを、ああでもない、こうでもないと悩みながら組み立てようとしていた。

わたしたちが再会したのは何も彼女の人生相談が目的ではなかったのだけれど、立ち話もなんだからとマクドナルドに行き、彼女の話を聞くことにした。留学するならどのタイミングがいいか、卒業して最初に行く先はどこがいいか、就職なのか、インターンなのか、それとも進学か。それはわたしが十数年前にぶち当たった壁そのものだった。

ただ違うのは、彼女が片親だということと、卒業後には奨学金の返済が待っている、ということ。

親が非正規雇用という家庭が珍しくない今の時代の学生は、「奨学金なんて当たり前」だという。
なんのために働くのか、誰のためにがんばるのか、どこに向かって進むのか、…そういったことは相変わらず見えにくいまま、現実だけがとてもクリアに目の前に立ちはだかっている。

 

数週間後、彼女は体調を崩し、「がんばりすぎた…」と言ってわたしの事務所にやってきた。

髪をきれいな栗色に染め直し、ばっさりショートカットにして。

「なんか、フィリピンでみんなの前に立って喋ったじゃないですか。あんとき思ったんすよ。あぁ、これからは発信する側になるんだなって。そしたら髪とか服装とか、もうちょっと考えた方がいいのかなと思って」

まさか彼女がそんなことを感じていたなんて、フィリピンでは思いもよらなかった。(しかもそれは発酵期間を経て、2ヶ月後に発現するなんて) 

何を、どこで、どんな風に感じ取るかは人それぞれだな…と改めて思い知らされる。 

 

そして5時間ほどだべった後、彼女は満を持したと言わんばかりにライフプランを語り出したのだった。

「これ、すごくないですか? でしょ? でしょ? かなさんに言われたこともぜーんぶ入れて、自分の考えだけじゃなくて、ゼミの先生に言われたこともぜーんぶ入れて、最終的にこれがベストかなと思ったんですよ。とりあえずこれを目標にがんばろうと思って」

それはつまり、こういう計画だった。

教職の資格をゲット → 卒業 → 社会科の教員として働く → JICA海外青年協力隊 → 海外留学 → 起業(NPOなどの立ち上げ)

そのために今必要なのは、資格試験に受かること、英語を勉強すること、海外および日本の文化・歴史を学ぶこと、そして社会の授業をよりリアルで面白くするための素材(経験)を集めること、なのだと。

そして後ろ3つは、わたしが企画するツアーやイベントに頼るという。

「何もかも自分でやるには限界があるから」。

 

…いやはや、驚いた。

なんだか、いきなり弟子ができてしまった気分だ。

まだそんなタマではないのに。

 

しかし彼女のガッツが半端ではないことは、認めざるを得ない事実だった。

彼女はバイトを2つ掛け持ちする傍ら、児童養護施設でのボランティアや、貧困家庭のこどものボランティア家庭教師を続けていた。ボランティア家庭教師は精神的にキツいらしいのだけれど、「お金もらってるわけじゃないんだから、止めちゃえば?」と軽々しく言うわたしに、「でもその子が可哀想だから」とキッパリ首を振る。

親が離婚して愛情不足に陥っている教え子を、少しでも救ってあげたい。「(離婚して)もう3ヶ月も経つんだからしっかりしなさい!」というその子の母親に、いつか一言申してやりたい、と彼女は言った。

「だって3ヶ月なんて誰のための基準なんですか? 親にとってはもう3ヶ月かもしれないけど、その子にとっては、学校も転校させられて、今は歩いて片道40分もかかるんですよ! それって3ヶ月で慣れるもんですか?」

彼女は自分に重ねて接しているせいか、その母親に対してマジ顔で怒っていた。

「だったらさぁ…、年上の人になめられないようにする方法、教えてあげよっか?」とわたしは言う。

「え… それ知りたい」と彼女が食いつく。

そんな風だから、彼女はきっと、わたしがこれまでに身につけた悪知恵をどんどん吸収していくんだろうと思う。

 

そんなことで、ちょっと話はぶっ飛ぶのだけれど、来月から急きょ「トラベル英会話教室」を開くことにしました。

彼女に限らず、わたしが出会った一人一人の大学生を具体的に応援するために。

将来の道をどんなに悩んでいたとしても、少なくともトラベルレベルの英会話はできるに越したことはないからね。仕事を見つけるためにも、これからの人生を楽しむためにも。

 

そして彼女は彼女で、「ケニアのこどもたちとサッカーを通して交流する」という事業を立ち上げることにした。

実は女子サッカーの選手だった、ということまで彼女とわたしは共通していて、しかも彼女は「ケニアに行きたい」という漠然とした夢があるというのだ。

「だったらケニアにいる友人が青少年スポーツクラブ持ってるから、何かプロジェクトできるよ」

…と、勢いにのって提案してしまった。

 

そういうわけで、事務所を開設して早速、若くてにぎやかな運営になる予兆です。

それはつまり、彼女たちが成長する分、自分も負けず劣らず成長しなきゃいけないということ。

 

良いプレッシャーに転化できますように。

 


今宵のつぶやき

2014-04-18 | 2014年たわごと

自己嫌悪に陥るときは、誰だってある。

それにしても、今日のわたしは酷い。

 

自分はただのバカなんじゃないか…?

それともただのお人好しか…?

この歳で一体何をやっているのか。

中途半端にも程がある。

空回りするにも、程度というものがある。

 

facebookは、現実逃避するには都合がいい。

みんな仕事のことは書き込まないから、適当な話題で盛り上がっていれば自分も同じ社会の一員であるような気になれる。

海外で泊まるゲストハウスのドミトリーも、アウトローにとってはこの上なく居心地が良い。

朝10時になってもみんな寝てる、とか、まるでダメ人間の巣みたいで最高だ。

 

頭を動かしている時間は人並み(もしくはそれ以上)のはずなのに、時間帯が大幅にズレている。

それで、自分ももしかしてダメな奴なのではないかと自嘲する。

けれどこの歳になればその程度のことは錯覚だと割り切れるようになるもので、ちょっとやそっとでは矯正するに至らない。

これが、困ったもんなんだ。

 

自分をマネージメントできない奴に、仕事をマネージメントすることなんかできるわけないじゃないか。

 

そうよね。

自分の部屋をちょっと掃除したくらいで、マネージメントした気になってることがそもそも間違いなのよね。

 

誰も怒ってくれないから、自分で怒るしかない。

誰にも甘えられないから、自分に甘えるしかない。

 

…それって超矛盾してるし。

 

…いや、してないか。

 

1日1日と残酷に月日は流れて、どんどん鏡を見るのが嫌いになる。

歳をとるのはイヤじゃないけど、老けた自分を見るのはさすがにイヤだ。

老け方にはプラスとマイナスの方向があって、今は恐らくマイナスの方向に向かってるんじゃないかと思うから。

できるだけ早くプラスに転化させなければ。

 

でも、今こうやって無茶苦茶な方法で新事業を模索していて、

もしそのうちどうしようもなくなって挫折したら、わたしは一体、どうするんだろう。

40までに失敗すれば、まだ軌道修正きくだろうか。

もしくは、35?

それって今年じゃん。

 

こんなマイナス思考ではいけない。

もっと我武者らにならなくては。

 

そうだ、今年中に家にある大量の読んでない本を、覇読するゾと正月に誓ったんだった。

すっかり忘れていた。

まだ1冊も手をつけられていないじゃないか。

 

ダメ人間、ばんざーい。

 

最後に。

今日、Pinoy Banzai TV という在日フィリピン人が放送しているインターネットテレビ番組を見つけた。

おぉ…やられたぁ!と思ってチェックしたら、全然面白くなかった。

言葉が分からないせいもあるけれど、それ以前に、画角が全然変わらず音声も極めてアンクリアなため。

 

それでも、やるんだ。

やることが大事なんだよ。

わたしは勝手に、そんなメッセージを受け取った。

 

空回りを怖れるなかれ。

いざ!

 


福島ルポ ~それでも前を向く~

2014-04-12 | 日本の旅

先々月「月刊保団連」に寄稿したルポです。(一部匿名に変え、写真を大幅に増やしています)

取材は2013年11月~12月。

拙文ですが、福島の人達の声が少しでも伝わればと願って。

 

深夜3時過ぎ、白いライトバンが私を迎えにきた。京都で積んできたという野菜と大阪産のキムチ、アコーディオンに、運転手を含めて男性が4人乗っている。これから更に千葉で野菜を積み込み、福島に向かう。

Fさんがこうして福島に通い始めたのは20115月のこと。以来ほぼ毎月欠かさず、車いっぱいに野菜を積んで行くようになった。
私が同乗させてもらった去年11月は、通算27回目。仮設住宅を何カ所か回り、野菜をドサッと置く。あとはそれぞれのやり方で、自治会の人が中心になって平等に個人配布。

私たちは集会所に呼ばれて、タコヤキパーティが始まった。

「この前(大熊町にある)家に帰ったら、布団の上でムササビが死んでたんだよ」

「イノブタが急増してるんだよね、本当にどこにでもいるよ」

そんな会話が飛び交う中、男性の一人がアコーディオンを奏ると「待ってました!」と言わんばかりにリクエストが飛んだ。

ここは確かに福島の仮設集会所なのだが、見た目には全国どこにでもある公民館の、町内会か老人会といった感じだ。盛り上げ上手なおじさんがいて、テキパキと料理を運ぶ婦人たちがいる。和やかで、極ありふれた光景。

「この人達に、月に一回は会いたくなるんですよ。支援とかそういうことじゃない。僕は自分の思いで来ているだけなんです」とFさんは言う。

今回その現状を取材する機会をいただき、多くの人と出会い、笑い、泣き、怒りに触れた。
そして、それまで気になりながらも現場に足を運ばなかったことを、悔いた。

ある仮設住宅に暮らす81歳の女性が言った。

「辛いのはとっくに越した。お父さんと一緒にいれるうちは、それが心の支えかな」

凍える寒さの中、女性は背を丸めて私達の帰路を見送ってくれた。

福島に足を運ぶ意味が、私の中で少しずつ変わっていくのを感じた。

 


(野菜を積んだバンが到着すると、家の中から皆さんが袋を握りしめて駆けつける)


(千葉産の有機野菜は、農家の方がひとつひとつ丁寧に仕分けしてくれたもの)


■ ギリギリで生きている

「福島の人は、今、我慢の限界にきていると思う」と話すのは、鮫川村に住む進士徹さん。後述する子どもの自然体験事業『ふくしまキッズ』の実行委員長だ。
進士さんによると、ある仮設住宅では毎晩のように隣近所のいざこざが起き、110番通報しなければ収まらない事態が続いているのだという。

「よく“絆”なんていうけど、実際は生き地獄ですよ」と言う。

その深刻さを表す出来事は、私が取材する中でも起きた。

相馬市にある災害廃棄物の焼却炉で働く男性に話を聞いた時のこと。
40代の彼は、酒が進むにつれ「死にてぇ」と言葉を吐き捨てた。職場では休憩なしの過重労働で、少しでも手を休めると、管理室の窓越しにマイクで注意されるという。線量は高いはずだがマスクは着用しない。まるで奴隷のような気分になる。それに加えて、彼は父親の介護にも苦しんでいた。
そして私が取材させてもらった数日後に、自殺未遂をした。

前述のFさんは振り返る。
福島原発事故当初は、目が合うと咄嗟に顔を伏せる人が多く「まるで家族に犯罪者が出た人のような目」をしていたのだと。その茫然自失状態を少しずつ乗り越え、悲しみや怒りの感情を表せるようになって、ようやく原発問題に対して気持ちが整理できるようになってきたところ。
そこにきて、賠償金額の区別が住民同士を引き裂いている。

「もらってる人は億の額もらってるよ。仮設だって、姑が嫌だから自主避難してる人がいっぱいいるんだよ」

そんな声を何度か聞いた。ほんの一部の人に賠償金が集中している影響で、相馬市やいわき市ではパチンコやスナックが大盛況。職も選び放題なほど好景気。そして土地や賃貸物件が、東京並みに高騰しているという。

葛尾村の人達が暮らす仮設住宅で、支え合いセンター職員として働いている中島道男さんは、その異常な状況に危機感を募らせている。

「僕が住んでいる150人規模の仮設で、今、だいたい1割強の人がカウンセリングを要する精神状態です。その割合はどんどん増えている。今年は恐らく大変ですよ」

 


(至るところにオレンジ色に染まった柿の木が佇んでいた。誰にも食べられないまま雪をかぶる)

 

■ 仮設住宅で孤立させないために

集会所を訪ねた日は20人ほどの女性達が集まっていた。ちょうど若い母親に連れられて1歳の女の子が遊びに来たところで、どの人も顔をほころばせ、子どもを愛しそうにあやしていた。

この仮設の自治会長を務める松本操さんは、原発作業員の緊急時救助訓練を指揮した経歴をもつ、元消防の当直隊長だ。

「今、何が一番大変かって、“不安”なんですよ。少しでも皆が気持ちを楽にできる場をつくって、孤独にならないようにしないと」

松本さんは地域の安全を守るために、考えつくことを片っ端から実行してきた。たとえば仮設住宅の看板づくりや花壇づくり、講座、旅行、高齢者の安否を確認するための旗の設置など。
それでも孤立してしまう人が増えるのは、集団生活になじめなかったり、先行きが見えないために行動意欲を失ったりするせいだ。

中島さんは言う。
「心が貧しくなった人に必要なのは、心のごちそう、つまり希望です。それは誰かに与えられるんじゃなく、自分で取りにいけるようにならないと意味がない。そのためには、その人の話をひたすら聴き続けることです。時間がかかるけどね」

傾聴が必要な人、一人一人に向き合い、自ら立ち上がれるまで見守り続ける。それがどれほど根気の要ることか。

その日、集会所には40代後半の男性の姿があった。
彼は1年半もの間鬱状態が続いていたが、この日初めて酒を交わしに出て来たのだという。

「声をかけてもらえたのが、本当に嬉しいんです」

朴訥な口調で、彼は何度も2人に礼を言っては目頭を拭っていた。

どんなに道のりが険しくても、試行錯誤の地道な取り組みをあきらめないこと。その覚悟のようなものが、その場からじんわりと伝わってきた。

 

 
(集会所でお母さん達がつくってくれた豆腐の白和え餅。エゴマのような天然の実が入っている)


(松本さんに話を聞くワタシ。知らない間に撮られてました…) 

 

■ 迫られる自己責任と複雑な思い

福島市から郡山市にかけて放射線量を測りながら車を走らせると、所々で値がめまぐるしく変化する。たとえば福島県庁から国道4号線に出て、数km南下するまでの区間。私が携帯していたエステー製エアカウンターは、0.37~1.22μSv/hを彷徨った後、南向台小学校の校門前で0.81μSv/hを示した。
すぐ近くの横断歩道では、登校してきた小学生が補導員のおじさんとジャンケンをしている。マスクなど何もせず、全国どこにでもある朝の微笑ましい一幕と同じように。

私は激しく動揺した。
1μSv/hといえば、線量が高いことで知られる伊達市霊山と変わらないレベルだ。

「最初は外遊びを禁止していたんですが、子どもの体力低下を考えると弊害の方が大きいのかなと思うようになって…」

そう話してくれたのは、同じく福島市内で比較的線量が高いとされる野田町在住のSさん。小学5年生の娘を育てている。

「でも心から大丈夫と思って許しているわけではないんです。週末には家族で県外に出て、夏はキャンプ、冬はホテルに泊まっています。お金はかかるけど、うちは県外避難できないのでせめてと思って」

子どもの健康のためには、空間線量が低い地域に引っ越すのがベストだ。けれど一方で、母子避難がきっかけで離婚した夫婦が多いという噂もきく。また、これまでの習慣を厳しく制限したりされたりするストレスは、子どもにとっても大人にとっても並大抵ではない。

相馬市で2人の幼い娘を育てている女性は、その複雑な心境をこんな風に説明してくれた。

「結局、何も信用できないから不安になるんですよ。でも、だからといって心配しすぎてたら生きていけない。諦めじゃないんですよね、何て言ったらいいのかな、…気にはするけど、あまり考えないようにしてるっていうか」

福島の“普通”に見える光景は、私の目にはあまりに痛々しく映る。
「福島の人は大人しい」という意見を取材中に何度か聞いたが、それはつまり、SOSが聞こえにくいということではないか? 人々の芯の強さとは別に、確実にその声は存在しているのに。

 


(伊達市霊山から福島市に向かう途中の景色。ここでも子どもがフツウに外で遊んでいた)

 

■ 困難を乗り越える力を育む

Sさんが年に2回、娘を預けるところがある。
県内に住む小中学生を対象に、全国各地で自然体験キャンプを行っている『ふくしまキッズ』。今冬は北海道、福島南部、横浜、静岡、愛媛で230の子ども達を受入れた。

「このキャンプでは、たくさんの人に世話になることを大切にしています。自分の子どもには他人の世話になるなと教えてきましたが、それは間違いでした。世話になればなるほど、必ず感謝する心が育ちます」

説明会に集まった親達にそう力説するのは、事務局長の吉田博彦さん。
各地ではNPO法人のほか、公民館や婦人会、学生など様々な人が一緒に子ども達を迎え入れる。参加費は県外一律3万円。足りない分は支援金で補うが、当初から無料にしなかったのは「支援者と当事者が一緒に取り組む」ためだ。参加する子ども達には、全国に向けたメッセージを書いてもらうことで、福島の現状も発信している。 

「結局は自分を信じるしかないと思うんです。親として自分がしっかり勉強して、正しい情報を探すこと。でも限界はあるので、一緒に子どもを守ってくれる人達がいることが何より嬉しい。ここに娘を参加させることで、私の不安も解消されています」とSさんは言う。

子どもの変化に驚いている親も多い。
須賀川市に住むHさんは、2人の兄妹をこれまでに5回キャンプに送り出した。参加者の約7割を占めるリピーターの一人だ。

「キャンプから帰ってきたら、感謝の気持ちを口に出して言うようになったんです。もともと黙りがちな子だったのに、相手の話も聞いた上で自分の意見を言えるようになって」

代表の進士徹さんは言う。

「困難を乗り切る力は、できるだけたくさんの経験と見解を積み重ねることで育ちます。福島出身だからと引目を感じるのではなく、今こそ多くの人に出会って自信をつけてほしい。そして将来、正々堂々と生きてほしいんです」

 


(ふくしまキッズの参加説明会で挨拶する進士さん)


(説明会では、全国各地の受け入れ先団体が直接プログラムや注意事項を説明していた)

 

■ 土を耕し続ける

身のよじれるようなジレンマを抱えるのは、農家も同じだ。

飯館村で長く農業を営んできた高橋正人さんは、今も十日に一度は自宅に戻り、田畑の草を刈っている。
原発事故当時は85.1μSv/hあったとも言われる高線量地。現在、公式発表される飯館村の線量は2μSv/hほどだが、高橋さんの畑がある長泥は、常時3.5μSv/h以上あるそうだ。

仮設住宅で話を伺った日、高橋さんがぼそりとつぶやいた言葉が私の耳に重く響いた。

「田んぼさまに申し訳ねぇ…」

どんなに汚染されても、農地は耕せばセシウムが減る、だから耕したいのだと高橋さんは言う。これまで手塩にかけてつくってきた土を、そう簡単に見捨てることはできない。

一方で農地に関する本格的な研究は、二本松市東和で盛んに行われている。
もともと有機農業が盛んだったため、学会の縁で茨城大や新潟大など約30の大学が調査に入るようになった。そして微生物が豊富な粘土質の土には、セシウムを植物に移行させない効果があることが証明された。

事実、この地域の空間線量は0.21.2μSv/hあるが、『道の駅ふくしま東和』が独自に測定している野菜のほとんどはND(不検出)。検出方法や測定値、地域の状況についても、事前に連絡すれば職員が丁寧に教えてくれる。

この地域で農業を営む菅野瑞穂さんは、大学を卒業後、父の後を継ごうと就農した1年後に震災が起きた。当時23歳。東京の友人宅に避難して悩んだ末、戻ることに決めた。

「最初の1年間は不安の方が大きかったですけどね。ただ、それでも一歩踏み出さないと何も始まらないと思って…」

もちろん風評被害は深刻だ。イベント販売では、福島産だと分かって返品に来る人もいる。福島の人も、県内産を買わない傾向が依然強い。

それでも前向きになれる原動力は何かと尋ねると、「新しい出会いや夢があるから頑張れるんです」と笑顔が返ってきた。
将来思い描く自分の姿は、農業を通して都会と地方をつなぐこと。その思いは就農を決めた時から変わっていない。

「この地域の経過を自分の目で見たいから、放射能とも向き合うと決めたんです」

年に2回は自分の内部被爆量もチェックし、ブログや講演会で状況をアピールしている。主催する農業体験ツアーは、初年度の約50人から、去年は200人を超えるまでに参加者が増えた。

厳しい状況の中でも、消費者との輪は着実に広がっている。

 


(菅野さんのハウス。去年からイチゴをスタート。農業経営の模索がつづく)

 

■ 福島以外の人に働きかける

菅野さんが東京でアピールする場のひとつ『ふくしまオルガン堂』は、福島の食材だけを扱うレストランだ。去年3月、『福島県有機農業ネットワーク』が東京下北沢にオープンした。
店内ではほぼ毎週末イベントが開かれ、学生からサラリーマンまで様々な人が福島の現状を知ろうと集まってくる。私が訪ねた日は、新米パーティが開かれていた。

「福島に行くのは、正直、勇気が要りました」
と打ち明けてくれたのは、都内に住む30代女性。去年秋、菅野さんの農場に米の収穫に行ったという。

「でも、食べ物の安全を確認する行為は、自分達も引き受けないといけないのかなって。生産者に任せるばかりじゃなく、自分の足で見に行くことも大事だと思うようになりました」

また、相馬市やいわき市では被災地ツアーが人気を集めている。

相馬市の港近くで水産加工会社を再開している高橋永真さんは、仕事の傍ら、被災地ツアーの語り部を担っている。参加者は全国から、毎回3050人。福島の現状を知ってもらうのと同時に、観光によって地元の雇用を少しでも増やしたいという思いも切実だ。

「ほしいのは生き甲斐なんですよ。俺たちは、1日も早く普通になりたい。そのためには仕事をつくって、働ける人を動かすことです」

福島から東京や名古屋に戻ると、ネオンはあまりに眩しく、田園風景はあまりに穏やかで平和に映る。そのギャップに一瞬たじろぎ、次いで、疲れがどっと吹き出してくる。
双葉町に毎月一時帰宅している男性は、そのことを「時差ぼけしているような感覚になる」と表現する。まさにそんな感じだ。福島と福島以外の距離が、どんどん離れているような気がしてならない。

「助成金もどんどん減っていくしな。これからが正念場だ」と高橋さん。

福島とつながり続けようとする福島以外の私たちもまた、これからが正念場だ。私たちは「福島を忘れない」のではなく、「福島と一緒に乗り越える」ための新たな模索が必要だと思うから。

つないだ手を離さず、また、新たに手を伸ばす勇気が試されているように思う。

 


(相馬市の「はらがま朝市」。今も支援活動を続けているミュージシャンがライブをしていた)

 

■ フクシマを教訓に

状況の変化と共に、必要な支援は変わっていく。今はどのようなことが求められているのか。

たとえば田村市社会福祉協議会の今泉清司さんは、「帰還した後の住民の自立が課題」だと考えている。

「今は皆が近くにいて、少し歩けばコンビニもあって、ある意味便利です。けれど田舎に戻ったら、元の不便な環境に慣れるのにまた時間がかかる。私たちが個別訪問するのも今よりずっと難しくなります。なので1日も早く自立心を取り戻してもらえるように、皆を元気づける取り組みが必要だと思っています」

また相馬市では、小規模なコミュニティハウスづくりが進んでいる。
『一般社団法人 相馬報徳社』の渡辺義夫さんは、震災前は歯科技工士だったが、避難所での経験を経て地域づくりを行う団体を立ち上げた。

「相馬市は街中でも過疎が進み、核家族も一層増えました。なので声をかけないと人は集まらない。その対策は以前から必要だったんですが、震災によって拍車がかかったということです」

福島に限った問題でないのは、子どもの社会教育についても同じだ。
去年6月に立ち上がった『福島こども力プロジェクト』は、自然、スポーツ、アートなど様々な体験を通して、将来を担う人材を育成する。前述した『ふくしまキッズ』の他、対象年齢ごとに異なる複数の団体が参加している。

渡辺さんは言う。
「起きてしまったことは仕方ない。ただ、フクシマは未来のための教訓になってほしい」と。

それは原発事故や避難についてだけでなく、日本全国に共通する多くの社会的課題についても、福島に学び、共に解決の道を探っていくことではないかと私は思う。

 

■ 当たり前の有難さを見直す

今回、取材を通して出会った方々に、「あなたの今の心の支えは何ですか?」と尋ねて回った。
ある人は「一人で悩まずに済んでいること」だと答え、ある人は「感謝されること」だと答えてくれた。アンケートをとったわけではないが、10人中半数以上の人に共通していたのは、家族や仲間の存在だった。

普段は近すぎて、当たり前すぎて見えないことがたくさんある。

去年4月、『安達太良のあおい空』という詩集が出版された。著者の荒尾駿介さんは、二本松市に住む元獣医師。読者から「よく代弁してくれた」という感想が数多く寄せられているという。

中にはこんな一編が綴られている。

 

それが 気づかせてくれました
教えてくれました
平凡な 退屈な日常生活こそが
どんなに大切で 幸せだったのか
飽きるほど 退屈するほど見慣れた山河が
どんなに愛しいものだったのか

 

より多くの人に、一日でいいから福島に足を運んでほしい。
そしてそれは「支援のため」というよりもむしろ、自分自身の学びのためであってほしい。

福島に明かりが灯れば、それは必ず日本全体を照らす光になるのだから。

 

(終)

 


(取材させていただいた方々と、仮設住宅にて)


新事務所つくりました。

2014-04-12 | お知らせ

もう早、桜が咲いて、散って、次はゴールデンウィーク♪ …なーんて季節になってしまった。

毎日のように「帰ったらブログ書こ」とか、寝る直前には「またブログ書くの忘れちゃったー」とか思ってるのに、イザ時間ができればfacebookばかり。やっぱり、同じ画面で投稿も閲覧もできるシステムっていうのは、画期的なんだと実感しています。

 

けれど、facebookが苦手な人の気持ちもよーく分かるので、ブログは止めない。

止めちゃいけない。

そう。今の自分に必要なのは、顔が見えなくても続く関係だ。 …なーんてね。

 

それにしても、この3ヶ月間は怒濤のようだった。
部屋が嵐の後状態に陥って、どうしようもなくなったので、近くに事務所を借りたほど。

というのは半分ジョーダンで、事務所を借りたのは部屋の片付けのためというより、自分自身のワークスタイルを変えるため。この際(というかようやく)プライベートと仕事をちゃんと分けましょうと思って。

でないと、部屋以上に自分の頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。

…そんな当たり前のようなことに、フリー4年目にしてぶち当たったというわけ。

(これがオフィスです。新しいiMacも一念発起して購入…)

 

それで、ここで何をやるかというと、ツアープランニング&運営事務。とはいえ旅行会社をつくるほどの資金は到底ないので、あくまでコーディネイト的な仕事です。

ひとつは大学生のアジアツアーで、2月にフィリピン、3月に台湾を実施。で、どちらも無事成功し、いくつもの成果を得ることができました。
参加人数は極少だったけれど、逆に少ない人数でよかった…と胸を撫で下ろす場面がいくつか。 

たとえばタクシー。

旅の面白さのひとつは、その土地の公共交通機関を利用することだ、とかねがね確信しているのだけれど、10人以上の団体になるとそのための身動きが取りづらくなる。
せめてツアーの一部で庶民交通を体験したい!と思っても、10人以上では安全を確保するのが結構大変。

そしてタクシーも。
「せっかくだからちょっとあそこまで行きたい」という時に、4人くらいなら1台のタクシーに乗り込める。けど10人になると、ギュウギュウに乗っても2台。(…2台は無理か。)
タクシーを一度に複数台確保するのも難しければ、参加者だけで乗ってもらうというのも不安極まりない。

よって、結局、専用バスに頼らなくてはいけなくなる。

 

そんな団体旅行企画は世の中にたくさんあるので、ラクしたい人はどうぞそっちに行って下さい、と思うのだけれど、そんな偏屈なことを言っていてはビジネスにならないことも分かっている。

だから困っちゃうの。

できるだけ学生のうちに広い世界を知って、生き方・働き方の選択肢は無限にあるんだってことを知ってほしいという(私の勝手な)思いがある限り、単なる観光旅行や、個人旅行でもできる程度のプログラムにはしたくない。
私だって人生かけてやってるんだから、 自分も一緒にワクワクできるような、そして参加してくれた人の成長や学びを実感できるようなものでなければ意味がない。そこは、譲っちゃいけないところだと思う。

で、その結果、大赤字になってブクブク泡を吹くことになったというわけです。 ハハハ…

 

だけど、プログラムが最高に面白かったことや、参加してくれた学生さん達の目がキラキラ光ってたこと、「まず自分にできることは英語の勉強だ!」と意欲的になってくれたこと、そしてフィリピンや台湾にできた友達と一所懸命コミュニケーションを図ろうとしていたこと、…それらが今回のツアーで得た財産であり、お金では買えない経験値になったことは事実。

それに至上の喜びを覚えてしまった私は、もう、後に引けないところにきてしまったというか…、あとは持続させるための方策を考え直しましょうという段階に到達できたというか…ね。

だから事務所を整えて、ガッツリやる決心をしたのです。

赤字だけど。

今はいいの。そのうち巻き返してやるわ。

 

来週はそのための事業計画をつくる予定。
そんなの今までロクにつくったことないけれど、とりあえず、やってみます。 

 

アジアツアーの写真はこちらから:http://www.kids-au.net/tour-report.html

夏はマレーシアの私の第二の故郷、バリオ村を計画しています♪