アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

アジアのフロ文化

2013-02-04 | その他の国の旅

わたしがライフワークにしているアジアのこどもキャンプで、感想文を兼ねたアンケートをしたところ、モンゴルの男の子がこんなことを書いてきた。

“ロシア人は清潔だと思っていたのに、一度も風呂に入るところを見なかった”

面白いなぁと思って、ロシアに行った時、一般家庭の風呂を見せてもらった。
 


ロシアでは、都市部を除いてサウナ方式が主らしい。

水不足だからというわけではないだろうけれど、極寒の地では、水を温めるより空気を温める方が効率的なのかしら。熱と蒸気で汗をかいて、最後に少量の湯で洗い流すのだそうだ。
 

(サウナ風呂の外でお母さんが薪を燃やしてくれる)


一方のモンゴル。

首都ウランバートル市内の高級アパートでは、こんなお風呂が一般的。
 


手持ちのシャワーだけでなく、側面からもブファーッと温水が噴射する構造で、お尻から腹から首まで一気に泡を流してくれる。どこの国のメーカーかチェックし忘れたけれど、日本だったら…そうね、なんとなくラブホテルにありそうでドキドキしてしまいました。

ちなみにモンゴルの遊牧民が住んでいるゲルの中には、お風呂はない。

内陸ならではの乾燥気候なので、基本的に風呂に入る必要性が非常に薄いということもある。
草原では、羊たちと一緒に川や湖に行った時に水浴びする程度なんじゃないかな。もちろん昼間。

なので、「ロシア人は風呂に入らない!」と驚いたのは都会の子ならではの反応だったというわけです。

 

川風呂といえば、南の国では当たり前の光景。

これはスリランカ。

橋の上から川を覗き込んだら、女の人たちが楽しそうに水浴びしていた。
(この大きさでは見えないけれど、中央の女性はカメラに気づいてにこやかに微笑んでくれてるの)

インド圏を旅していると、こんな風に、あちこちで水浴びや洗濯の風景を垣間みることができる。
そしてみんな一様に、とっても気持ちよさそう。 

しかしですね、真似して同じようにやってみると意外と難しい。
女性は特に、首から足下まですっぽり隠れるくらいの布を巻いて入るんだけれど、その布越しに体を洗う方法や上がった後に服を着る方法が分からない。
そしてモタモタしているうちに手が滑って布がハラッと落ちちゃったりして、ギャーッと形相変えて再び川に飛び込んだりして…。しかも肌が生半可に白いもんだから目立つんだよねぇ…。

 

ということで、やっぱり日本人には日本人らしい風呂が一番だ。
 

ここは大阪、西成区にある銭湯。

もうずいぶん銭湯が減ってしまったけれど、風呂なしアパートがたくさんある地域には昔ながらの銭湯が生き残っている。
 

(鏡には日払いアパートの宣伝)

(マ○コ洗粉かと思ってギョッとしたら、マクコ洗粉でした)

こういうところもええですなぁ。

ここは宮城県石巻市の山中にある「追分温泉」。
全館木造の、まるで昭和の小学校みたいな建物です。ここは絶対に穴場。

(脱衣場も妙に味がある)


それで、こういう昔の面影を残す風呂に感動すると、今度はもっと昔の風呂が知りたくなる。
というか、図書館でこんな本を見つけたので思わず借りてしまった。

女体好きが高じて…というのもあるけれど、これは文化的にみてとても面白い文献だと思う。

たとえば、銭湯の先駆けになった「施浴(せよく)」というのは、共同生活者が多かった“寺院”にできた浴場を一般に開放する行事のことだったらしい。8世紀後半ごろから記録があるという。
その頃は蒸し風呂造りで、寺院の社会事業だったのが次第に庶民の間でも習慣になっていったようだ。 

家庭に風呂が付けられたのは豊臣秀吉の頃。1592~98年の朝鮮出兵から持ち帰った簡易入浴法によるらしい。「据え風呂」「居風呂」「水風呂」と呼ばれ、いわゆる五右衛門風呂の先駆けとなった。

(入浴中に亭主が浮気しているところを発見し、自分まで欲情しちゃってる図)

そして江戸時代の共同浴場は、基本的に混浴だったらしい。
湯は今みたいに自由に使えるのではなく、手桶を持っていくと1杯分の湯を注いでくれる「湯汲み男」というのがいた。入浴は、「柘榴(ざくろ)口」という洗い場との仕切りをくぐった先にあり、そこは湯気がもんもんと立ちこめいたのだとか。…そんな混浴湯だから中で何があってもおかしくないということで、女だけの特別営業日が設けられるようになったそうだ。

(左側の壁の奥にいるのが「湯汲み男」、その隣の赤い門が「柘榴口」)

(女風呂では喧嘩も勃発)

そんなこんなで、なまめかしくも賑やかな共同風呂は、日本と韓国と中国の一部にしかない“裸の付き合い”文化なのです。

ちなみに上の写真に近い光景は、今の日本よりむしろ韓国で見られる。
沐浴湯(モギョクタン)と呼ばれる共同浴場では、さすがに取っ組み合いの喧嘩はしないけれど、あちこちで女の人が大胆な格好でアカスリに励んでいるの。

これは実際に行って見てもらわなきゃわからない。(男性は見られないけど…)
今や大人しい日本の女風呂とは違って、なかなか面白いですよ。

 

女体(男体も)は同じでも、国が変われば風呂の景色が変わってくる。

乾燥していて風呂文化がほとんどない国の人でも、日本に住めば風呂が習慣化して帰国後ちょっぴり大変なんだとか。風呂が恋しくなっちゃって。

だから旅に出たら、その土地の風呂に入るのが一番いい。
国内でも国外でも、 裸体でこそ感じられる文化が、そこにはありますから。

 


メコンデルタの朝

2010-03-14 | その他の国の旅

ベトナム南部に流れ出るメコン川は、河口に大量の土を堆積させデルタ地帯をつくり上げている。
大きな川から小さな水路まで、ボートに乗るのも日常茶飯事のこの地域では、人々は今も昔も川と共に生きている。





多くの人の起床時間は4時。
家事を済ませて、早朝5時には道ばたに農産物を並べ出す。
ボート漕ぎは川辺で客を待つ。
食堂では肉を切ったり焼いたりし始め、既に香ばしい匂いが立ち上る。

そして朝日が昇る頃には、川も大地も、街全体が活気づいている。











そして太陽が照りつける午後には、穏やかなメコンの水面に濃い緑が静かに影を落とす。



常夏のホーチミン

2010-03-10 | その他の国の旅

こちら、ベトナム・ホーチミン市です。

日本は雪らしいですが、たった数時間海を飛べばそこは既に常夏の国。
世間は狭いと云えど地球はやはり大きいですね。

・・・っていうか、なんて不公平なんでしょう。
同じアジアなのに、同じ顔した人ばっかりが溢れているのに、片や雪、片や蜃気楼だなんて。


この国に来る前、あまりにベトナムに関する知識がなかったので色々と勉強しました。

中国に支配されていた頃のこと、
フランス植民地時代の苦難、
日露戦争に打ち勝った日本への憧れ、
第二次世界大戦での日本軍侵略、
国家独立のためのベトナム戦争、
その後の社会主義体制と失策・・・などなど。

メコン川に支えられたこの国は、あまりに肥沃なために何百年も他国の尻に敷かれて独立できずにきたんですね。
その支配され続けた歴史=様々な人たちが支配に抵抗し続けた歴史は、年表を追って見るだけで目が回りそうになるほど複雑です。国内史でなく、他の国との関係性においてこれだけ複雑な歴史をもつ、というのは日本人にとってはちょっと想像し難いことなんじゃないかと思います。つまり自分の国土に対する想いについて、その独立という快挙について。

それで、ようやく勝ち取った独立の後、国はベトナム主義を掲げるわけですが、当初市民が思い描いていた社会主義の理念と実際に政権を握った人たちが取った政策とがあまりにかけ離れていたために、人々はその弾圧的な政府のやり方に不満を積もらせます。
不満どころか愕然とした、といってもいいかもしれない。それほど政府の汚職と一党独裁政治による支持者への裏切りが人々を苦しめたんだそうです。

それで途中からベトナムは資本主義を取り入れて、今の中国みたいに社会主義国家なのに自由経済、というやや矛盾するような方針に転換します。ドイモイ政策ってやつです。
おかげで北朝鮮みたいに孤立することなく、他国と協調しながら世界経済に参入するようになったわけですが、日本を含む多くの海外企業が首都ハノイやホーチミンなど大都市に進出してきた一方で、国内の貧富の差はますます広がった。
・・・やはり中国と同じ感じです。





ですが実際に来て驚くのは、街に溢れる人々の表情が、“そんな感じ”じゃ全然ないんです。

街の中心部には欧米風のカフェやレストランが建ち並び、フランス統治時代の古い建物が情緒を醸し、大通りの多くでは天高くそびえる巨木の並木が緑葉をなびかせ、それらの間に昔ながらの商店や物売り達がひしめき合う・・・そんな美しさは街並だけじゃなく、そこを行き交う人々も同じように美しい表情をしている。

皆が笑顔だ、という意味ではありません。
苦い顔をしたおじさんもいっぱいいるし、気のキツそうな近寄り難いおばさんもあちこちにいる。けれど一様に(私が直感したところでいえば)ほとんどの人が「不幸せそうなオーラ」を発していない、というか・・・。
不満のあるなしに関わらず、とにかく私はここで生活をしています、ここが生活の場です、ということが人々の姿から滲み出ている感じがするのです。

それはつまり生活感が溢れている、ということなのですが、それにしたって、このじとーっと滲み出る人間臭さは何なんだろう・・・、と思えて仕方ありません。

もしかしたら単に、軒先に吊り下げたハンモックで昼寝をしている人の姿や、歩道に並べられた小さな椅子に座ってコーヒーを啜る暢気なおじさん達や、観光客に声はかけるものの断られるとすぐに雑談に舞い戻るオートバイの運転手や、小さな屋台で軽食を売ってるおばさんが商売そっちのけで食事をしている姿なんかから、全体としてほのぼのした雰囲気を感じているに過ぎないのかもしれないですが。





それにしても、ベトナム料理は美味でヘルシーです。

そして、ハーブ使いがバツグンに上手い。

上の写真は米餅みたいな(名前は要確認・・)もので、ハーブは上に乗ってるちょっとだけの緑ですが、日本でもお馴染みのフォー(米粉のそうめん)には、別皿でてんこ盛りのハーブが付いてきて、それを自分でちぎって好みの分量だけ加えて頂きます。その鼻孔にスーッとくるハーブの香りが、たまらないの。。。。

ハーブにはいろんな種類があるようですけどね、私に分かるのはシソとドクダミの葉くらい。(ドクダミは日本の野生のものとは違って柔らかい)
一番多く入ってる小さい葉っぱは、名前が分からないのでまた誰かに聞いておきます。


そんなこんなでベトナム滞在はあと一週間。

明日から南部のデルタ地帯に行きます。

とりあえず、旅途中の報告まで。


バングラデシュ紀行<その壱>

2009-12-18 | その他の国の旅
先週から1週間、バングラデシュに行ってました。

バングラデシュといえば、インドの右隣、アジア最貧国とも言われる水害の多い国、そして国民の多くはイスラム教徒です。


今回は初めてスポンサー付きの旅でした。
実際には「旅」というより「付き添い」なのでしたが、とにかく3人組のボランティアツアーに、英語の通訳、現地までの引率、記録などモロモロを頼まれ同行したのであります。

その詳細はまた後日書きます。(と書きながらなかなか更新しないんだよね・・・。反省。)


ところでバングラデシュは私にとっても初めてだったんですが、ビックリしたのは、
・・・なんていうかな、外国人がそんなに珍しいか!?ということ。
例えば見るからに「北から来た」私なんぞが、しばし立ち止まって何かするだけで数分後には人だかりになるわけです。

こんなことがありました。

マイメイシンという街の駅で、友達になった女性に私が自分の名前とメアドを紙に書いて渡そうとしていたところ、紙から顔を上げてふと回りを見渡せば、なんと既にワンヤワンヤと20~30人ほどの老若男女が私を囲んで物珍しそうに眺めていました。
それはまるでどこやらの有名人がサイン会でもしているような光景で、思わず私はエンジェルスマイル(そんなものはないが。。)を振りまいて優越感に浸ったりしたわけですが、冷静に考えれば、そんないい面も格好もしていない私を有名人に間違うなんてさすがのバングラ人もするはずはなく。。。

また首都のダッカでストリートチルドレンの街頭インタビューをしていたときには、協力してくれた現地の人と私が公園みたいなところの一角に座り子どもと話していたその回りに、たった5分もかからない内に30人ほどの群れができてしまいました。
中にはカメラ付き携帯で私の顔を撮影している人がいたり、インタビューが終わった後に一緒に写真を撮ってくれと頼まれたり・・・。

そんなに外国人が珍しいか!?!? ・・・でしょ。





そんなバングラデシュの人たちは、恐らく国民性として、人懐っこく恥ずかしがりやな“可愛らしい”もしくは“人間くさい”性質をもっているんだなぁと感じた次第。
インド人の「ゴーイングマイウェイ」的なそれとは明らかに違う、と私は思います。


そして彼らの拠り所となっているのが、たった40年ほど前に叶った「独立」という勝利。
私たちが訪れた1週間の最終日がちょうど独立記念日だったこともあり、現地でお世話になった人たちは皆口を揃えてその苦難の歴史を語っていました。

ちなみにバングラデシュの国旗は、日本の国旗と同じ“真ん中に赤丸”というデザイン。
で、回りが白じゃなくて渋い緑色をしています。

その意味は?と聞くと、「独立戦争の時に流した多くの人の血が草の上に染みている様子」とか「独立のために尽力したナントカ(名前は忘れました。。)というヒーローが殺されたとき、その血が丸い円となって広がったから」とか、とにかく痛々しい意味合いがいくつもあるのだそう。
そうやって彼らは、自ら勝ち取った国の歴史を大切に、誇りにしているんだなぁと思いました。





ということで、これからはもうちょっと更新率をアップしますね。。。

そして緩めでやっていきます。 ゆるくながく・・・ボチボチと。
愛するリバーガンガ(はインドですが)の雄大な流れのように・・・。

ムンバイ三昧

2009-07-25 | その他の国の旅




愛しきムンバイ。

あぁ、またゆきたい・・・と、写真を見ながら思います。

他の地域のインド人に言わせると「ムンバイは外国」だそうですが、本当の外国人から見ればムチャクチャここもインド。
イギリス統治時代の建物が至る所に見られ、上を見て歩けばヨーロッパ風ですが、フツウに前を向いて歩いていると、ゴシック建築もインド人に合っちゃうのね・・・、と不思議な快感を覚えます。

ここでも、インド人は頑なにインドな生活スタイルをちゃんと保持していますから。

インド事情その壱

2008-10-20 | その他の国の旅


写真、載せれた。

ここはBangalore近くのMysoreという街。
インドの真ん中ちょっと下くらい。

フツウ女一人でノコノコ付いて行ったりしないんだろう、この2人のドライバーに付いて行ってしまった私。
連れて行かれたのは“お香”をつくっているというお店で、奥には個室があり、そこにドクターという名のでっぷりしたおじさんがいて、そのおじさんは私に薬草のオイルをいくつも薦めたのだった。

それがコレ。



確かに香りは良く、香水代わりにも使えるらしい。
特にこの街で有名な「サンダルウッド」という薬草(樹皮からつくった粉)のオイルは、肌につければニキビが治り、お湯に加えて飲めば体内が浄化されるのだとか。


それで、4つも買っちゃったの。薬草オイル。

ひと瓶5~10mlくらいで、種類により1300~1800円くらい。


それで翌日、市内にある大きなマーケットへ・・・。
そしたらビックリ。同じ種類のオイルがなんと200円という安さ!!

がぁぁぁぁぁぁん・・・。

しかも香りは同じく、シャワー後も肌にほんのり残っているほど。
あぁぁぁ・・・、やってしまった。。。


しかしドクターは私に言った。
「マーケットで売っているやつはケミカル薬品を使っていてピュアじゃないから信じちゃダメだ。」

そしてマーケットの紳士そうな兄ちゃんは言った。
「何?5mlで1300円?あり得ないよ。ドライバーに付いて行ったんだろう?あれはグルでやってる商売だから信じちゃダメだよ。」


さて、どっちが正しいんだろう?

と思って、政府公認の店でサンダルウッドのオイルを探した。

・・・5ml、3500円!?!?!?


こうなったらインド自体を丸ごと疑うしかないのか。

ホテルの人が言った。
「政府の店で売ってるやつは税込みだから高いんですよ。私が良い店を紹介しましょう。」




結局、信用できるのは自分の勘だけだ。そもそも買い物なんてものは気分でするもの。
そうだそうだ。
騙されてナンボと思って、楽しむことに集中した方がいい。

なんせここはインドなんだから。

クレイジーインドにようやく上陸。

2008-10-17 | その他の国の旅
ようやくたどり着いた、インド。
あぁ~、こここそが、当初私が目指した場所・・・。

しかし、IT大国に期待したワイヤレスネットはどこにも見当たらず、私が泊まった安宿はどこもパソコンさえ置いていない有様。。。

なのでずっとブログの更新もせず、ただひたすら街中を歩き回っていたのです。


ということで、今は「とりあえず1週間」のインド旅を終え、フィリピンに戻ってきました。以前ちょこっと頼まれた仕事をこなすため。

インドには来年早々にも戻りますが、なんてったってクレイジーだからねぇ~。

なんてったって、人が多すぎる。これこそ「オーバーポピュレーション」なのです。



ところでこれ、JUGEMって知らんうちにリニューアルしてて超使いにくいんですけど。
写真貼れんのかな。んな馬鹿な。

まぁいいや。
インドサリーを買いまくって、移動が大変なことになっている現在。

20キロ以下だった私のカバンは、今全部で40キロ超えてます。。。
日本人オンナの担ぐ重さじゃないよ、こりゃ。


ということで、近況報告でした。
謝謝。

10年ぶりのムンバイ

2008-10-08 | その他の国の旅
10年ぶりのインド・ムンバイは、ピカピカ光っている。
街のあちこちでコンサートのようなイベントをやっていて、大勢の人が群がっている。

確かに時計の針はもう夜の9時を指しているのに、渋滞する道路脇を、またピカピカ光る七色のライトの下を、次から次へと老若男女が歩いている。

あぁ、そうか。
インドの人口は11億。

この数字の意味するものは、つまりこういうことなのか。



10年前、私は確かにこの地でショックを受けた。
道ばたに寝そべる牛、溝に埋もれて動かない人、工事現場は何もかもが木造でかつ手作業・・・。

だけど今回そういったものは見当たらなくて、夜中に到着したせいか、ただ生温かい風と一緒に流れてくる適当な感じのこの国の雰囲気を、私はとても心地よく感じていた。

訪れた国や地域を好きになれるかどうかは、こうして一番最初のインプレッションで分かってしまうものなんだな、と窓越しに風景を眺めながら思った。
つまりムンバイに、私はおおよその確立で馴染むことができる、と。






タクシーはどんどん走って駅の近くを通りかかった。

暗闇の中に、横一列にずらーっと並んで座っている人たちがいて、よく見ると、その倍以上の人がその前後に寝そべっていた。プラットフォームと道路を区切る壁に沿って、その人たちは生活していた。


やっぱり・・・、と思った。

確かにムンバイは10年前に比べて発展した。道路も見違える程きれいになって、かすかに記憶に残るその街とはまるで別の街みたいに見える。けれど、こうして地に這いつくばって生活している人も、やっぱり大勢いるんだ・・・。


タクシーは更に路地を進み、窓から誰かの家の中がちらりと見えた。

1畳か2畳ほどしかないそのスペースに、これでもかと言わんばかりの荷物が無造作に置かれていた。
またある家の中は、ただ簡素なベッドが置いてあるだけで、それも2畳か3畳ほどの小人(こびと)が住む部屋みたいだった。


そうか・・・、一般市民はこういうところに住んでるんだな。


そう思って少ししんみりしていた時、ちょうど路上生活をしているらしき人の隣で、別の住民が輪になって盆踊りをしている光景に遭遇した。


・・・・・・はい?



聞けば今日はヒンドゥー教の大きな祭りの最終日。
ピカピカした光や大勢の老若男女が街に溢れてるわけだ。こうして路上生活者の横にまで。




ここはインド。
インド、インド、インド、インド、インド、インド・・・・・・・・。


そうだ、私はインドに来たんだ。


そうか、ここが、インドなんだ。



死を悼む。

2008-09-27 | その他の国の旅

死に方について、たまに考える。


どこで死ぬのか。
どうやって死ぬのか。
誰がそばにいるのか。
どうやって葬られるのか。


ここスリランカでは、一般的に死体は埋葬される。
2~3日家に安置された後それなりに立派な棺桶に入れられ、仏教徒の場合はお坊さんが10人ほど家に来てお経をあげ、大勢の親戚や友人が行列になって棺桶を埋葬地まで運ぶ。
そして近しい人たちは大声で泣き、挙げ句の果てに気を失って倒れてしまう人も2~3人は必ずいるという。



人の死に際や埋葬の瞬間に立ち会うことは、自分の生き方を考える上で大事なことだ。

人は必ず死んでゆくんだ、ということを、こんなにマザマザと目の前に突きつけられ、残された人たちの悲しみを肌で覚え、死んだ後の世界を想い、もしくは死んでしまったらどうなるのか分からないことを知り、もう二度と開かないその人の目蓋を疑い、自分にも必ず訪れるその時を想像する、そのことの貴重さ・・・。

葬儀に集まった大勢の人たちの中に、小さな子どもがたくさんいるのを見ながらそんなことを思った。




それにしても、こっちの人の発狂の仕方には目を見張るものがある。
そんなに叫ばなくても・・・というレベルを超えて、それはウソなんじゃないの???と疑ってしまうほどの力の入れようで、まるで赤ん坊が意味も分からず連鎖して大泣きするように、枯れた涙をさらに絞り出して悲しみを表す。

友人の親戚の葬儀でもついに2人の男女が気を失って倒れ、埋葬終了後に車で運び出された。






ところでスリランカでは、 誰かが亡くなった後1週間家をオープンにし、訪れる親戚や友人をもてなすのが習慣らしい。
家族は1週間という長い間、夜一睡もせずに霊をなぐさめ、総勢何十人何百人という人にお茶や食事を振る舞う。

そして1週間後、疲れ果てた家族の顔には何か “やり遂げた” という充実感がみられ、更に皆で癒し合った悲しみが少しずつ前向きのエネルギーに変わっているように見えた。


こうやって死と向き合い、乗り越えていくんだ・・・。


それは決して形式ばったものではなく、残された者がお互いに悲しみや辛さを隠さずにさらけ出す、ある種の猶予期間みたいなものだと私は思った。皆で一緒にどん底まで落ち込んで悲しみ、そして這い上がるための。

そしてそのことをもって、きっと彼らは亡くなった者への感謝や敬意を表しているのだろう。



そうやってこの国では、皆が、きちんと、「死」と対峙して生きているんだ。



布売りの老婆たち

2008-09-22 | その他の国の旅
観光シーズンには多くの外国人観光客でにぎわう南海岸のビーチ。


大きなずだ袋を2つ担いだ老婆が、ホテルのテラスで朝食をとっていた私に向かって歩いて来た。

中から取り出したのは、簡素なつくりのシャツとビーチで身につける大きめのサロン。
昨日もこうして衣服を売り歩く老婆が私の元にやってきて、私は当たり前のように軽く老婆を追い払った。
ただ「No.」と、袋の中身も見ずにキツく断ったのだった。


テラスにやってきた老婆は、執念に私に向かって衣服を差し出した。
老婆はひどく痩せていて、こんな身体でよく重そうな袋を2つも持ち歩けるな、と私は思った。
そういえば彼女が歩いて来たのは砂浜で、歩くだけでも相当タフな仕事に違いない。

こうやって一日でいくら稼げるんだろう、と私はそのずだ袋を見つめながら思った。


15分か20分ほど考え続けて、私は結局、柔らかそうな黄色い布を一枚買った。
ところどころにシミが付いていたけれど、鮮やかなその色が何となく魅力的だった。


値段は500円ほど。外国人向けの豪華なディナーと同じ額。
だから地元の人にとっては5000円ほどの価値がある。

決して賢い買い物じゃない。


こうやって老婆を相手に金を払う私は、確かにひどく間抜けだろうと私は思った。
けれど15分か20分間考え続けた結果、それが本当にただの間抜けなのかどうか、やっぱり答えは見つからなかったのだ。


彼女が去った後も、私はそのことをずっと考えていた。

綺麗なホテルのテラスから私の何倍も長く生きている女性を見下している自分は、一体何様なのか。
私は一体、彼女よりエラいことを何かひとつでも成し遂げただろうか。


けれど考えても分からないなら、とりあえず彼女が売る物を買ってみる方がいいと、確かに私は判断したのだった。
後悔するかもしれないし、気持ちがスッキリするかもしれない・・・。
そして結局スッキリすることはなかったけれど、少なくとも、だれが富を得ているのか分からないような都会の一角で500円を費やすよりは、よっぽど納得がいく買い物だろうと、私は自分に言い聞かせていた。

エンターテイメントは大切だ。

2008-09-20 | その他の国の旅
サーカスを見に行った。

大人一人60ルピー(60円ちょっと)という破格の安さ。
恐らくこの世で最もシンプルかつハラハラするサーカスのひとつだと思う。

会場はいかにも移動式という簡素な造りで、小汚い木板でつくられた危なっかしい階段のような段々椅子が、パフォーマンス広場を挟んで両際にズラッと設置されていた。
私が到着したときには20人ほどしかいなかった観客は、上演時間が近づくにつれ徐々に増え、最終的には恐らく700人以上の老若男女で会場はいっぱいになった。



まず足と頭をくっつける中国歌劇団のような身体術を披露したのは、いかにも現地採用的なインド顔の若い2人の女性。
次いで新体操選手のような2人のマッチョが登場し、安いパイプのような棒に上って筋肉劇を披露した。

只今トレーニング中だと出て来たのは一匹の犬。4台のハードルをたどたどしく超えて回った。

大型の鉄棒やブランコは全てその場で組み立てる。
四方にある木製の柱にくくり付けたロープでパイプを引っぱり、支柱となる2本のパイプの下に小さな木っ端を入れる。

直径10メートルほどの狭い広場で、全ては繰り広げられるのだ。

                 
           


2人の男がピエロのような格好をして出て来た。
一人は身長1メートル程しかない障害をもった男で、その歩き方や仕草が何とも滑稽で可愛らしい。

2人は広場の中央に立ち、漫才師のように何やら可笑しげなことを話し始めた。
時に2人はインド顔の女性を呼んで別のパフォーマンスを促し、それに加わっては客を笑わせ、また時にはあらかじめ仕込んであったコントで会場を沸かせた。











そうやって2人のピエロが進行する形で再終幕に向かい始めた頃、いつの間にか観客とパフォーマーの間には微笑ましい一体感が生まれていた。


言葉さえ分かれば随分面白いのであろう2人のコントを眺めながら想像した。

この人たちの普段の生活や、笑っていないときの普段の顔や、家族の顔や、もしかしたら別の仕事もしているのかもしれないことや・・・、そして会場を満杯にしている人たち一人一人にも同じように普段の生活があって、それがどんなに辛いものだったとしても、今いるこの空間ではそれらを忘れて笑うことができる、その心情を・・・。


見渡せば、小さな子どもから大人まで皆が同じ方向を見て大口を開けて笑っていた。


そういえば日本では、映画も演劇も寄り席もチケットが高くてなかなか行けない。少なくとも現在の不況に喘いでいる人たちにとっては、とても気軽に行ける値段じゃない。
だからせいぜいテレビで流れる漫才やお笑い番組で孤独を癒すしかないんだ。
きっと昔はもっと、こうした気軽に楽しめるエンターテイメントが日常生活の近くにあったんだろうけれど。


経済的に貧しくて苦しい場所ほど笑いによって救われる場所が用意されているというのは、合点がいく一方、皮肉だなと思う。

その国がリッチになれば笑いの質が変わる、それは、何だか切ない現実に思えてしまう。
日本人がもはやこうした温かい生の楽しみを、なかなか味わえないように。



サーカスは再終幕を迎え、団員たちは力を合わせて大きな茶色いネットを会場いっぱいに広げた。
天井からぶら下げた2つのブランコを飛び移る、最後のパフォーマンスだ。

2人のピエロもここぞとばかりに観客を盛り上げ、パフォーマーが次々と宙を舞った。
私は、目をまん丸にして天井を見上げている子どもや大人を横目に見ながら、会場の一体感に身を委ねた。



爬虫類王国でトカゲに出会う

2008-09-13 | その他の国の旅
この写真の中に、トカゲがいる。

まるで回りに溶け込んでいて、撮った本人ですらよく眺めないと分からない。


場所はスリランカ南部、Sinharaja(シンハラジャ)国立公園。



ガイドの青年は時たま、急に腰をかがめて用心深く歩き、ふと後ろを振り返って言った。

「しぃーっ!静かに、ゆっくり歩いて来て!」

何を見つけたのか、息を殺して彼が指差す方向を見つめる。

「何?どこ??」
「あそこ!小枝の真ん中くらい!」


キツネにつままれているような気分で更に目を凝らして見ること2~3分。
そこには、微動だにせずじーっと上を向いたまま静止している緑色のトカゲがいた。






そもそもこの森は比較的最近になって価値が認められ、国立公園に指定されたらしい。

その「価値」のひとつが、爬虫類の種類の多さだという。



それにしても、森の中でトカゲを見つけるのは大変だ。
辺りが薄暗い上、緑色のものも茶色いものも回りの枝や幹の色に激しく同化している。動いてくれればまだ分かりやすいものの、彼らは本当に驚くほどピタッと静止して動かない。動かないまま、ひと所に2時間も3時間もステイしているらしい。

ちなみに私が見たあるトカゲの歩き方は、ピョンピョンと陽気に跳ね上がりながら素早く前進し、まさかこれがトカゲか?と疑いたくなるような全身運動で瞬く間に薮の中に消えていった。







こうやって ひっそりと森の中に生きている生き物に出くわしながら歩いていると、ここはまさに彼らの王国で、こちらが単なる訪問者なのだということを感じさせられる。

そもそも人間なんてほんの数百万年しかこの地球上に生きていないんだ。
それを彼らは、あのギョロッとした剥き出しの目で、じーっと私たちの動向を観察しているに違いない。
気づかれないように、回りの色に溶け込んで。


コンクリート社会に生まれ育った私には、動物たちの間に流れているそうした果てしない時間の流れが奇妙に思えた。それはまるで理科の教科書に書いてあった生物史の年表か何かが突然三次元世界となって現れたような感じで、今まで知識として分かっていたはずのことを、実は何も分かっちゃいなかったんだと思い知らされた証だった。


きっと「自然」というものの貴重さは、人間社会に生きる人の想像を超えて存在する。

そのことを、トカゲが教えてくれたんだ。



ハーバル=薬草で身体を癒す

2008-08-31 | その他の国の旅
『ハーバル』というのは、スリランカで日常的に使われている薬草のこと。
スーパーに売っている国内産の石けんやシャンプーにも普通に含まれている。


この『ハーバル』をふんだんに使ったハーバルオイルマッサージが、これまたGOOD。

薄暗い部屋に干し草のような独特の香りが漂い、露呈した裸体が次第に滑らかなオイルを浴びていく過程は、自分の肌と筋肉と内蔵と五感の全てを自然の力に委ねることに等しい。

ちなみに薬草といっても漢方の香りとは全く違い、草原のような “緑な” においがする。





一見ふつうの家を装ったそのマッサージ店に入ると、ロビーから部屋に向かう廊下一面にそのハーバルが敷き詰められて、「ここはまさにハーバル王国」といわんばかりの怪しげな雰囲気を演出している。

マッサージしてくれるのは、よく訓練された地元のおばちゃん。
リゾートの高級マッサージ店ではないので決して愛想は良くないが、ぶっきらぼうにも丁寧な手つきで全身の肉を見事に揉みほぐしてくれた。


マッサージの後はバスタオルを巻いて薬草サウナだ。

日本ではあり得ない程の簡素なサウナ(扉もきちんとは閉まらない)に入ると、その地面の真ん中に四角くて大きな穴が空いていて、その穴を覆うように大量のハーバルが敷かれている。どうやらこの穴から蒸気が出ていて、蒸し状態になったハーバルが効能のある香りや成分を室内に放出している、という仕掛けらしかった。





そしてその生温いサウナが済むと、今度は本格的個別のスチームサウナ。

一人用のベッドに仰向けに横たわり、その上からまるで棺桶のふたみたいなものを被せられる。
その状態で30~40分身体を蒸され、薬効と共に汗を絞り出すというわけだ。

ちなみにハーバルマッサージで最も人気かつ効果的なのは、その後にやる「シロラーダ」というもの。
額の真ん中に温かいオイルを少しずつ垂れ流しにするのだが、なんせ薬効のあるオイルを多量に使うので料金別途で非常に高い。

金額的な理由で断念した私は、店のオーナーのご好意で5分間だけ体験させてもらった。

すると・・・、確かに気持ちがいい。

20cm程の高さから額目掛けてオイルが落ちてくる何ともいえないスリル感に加え、その温かい感触、柔らかさに不思議な気分を味わう。そしてそれが次第に快感に変わっていく頃には、すでに額だけでなく全身が脱力状態の天国気分になっているのだ。


ちなみに私が払ったマッサージ料金は5000円弱。
シロラーダは別途3000円ほどだったと記憶している。

(恐らく店もしくは客(交渉力)によって金額は違う。別のホテルでは同様のマッサージが2000円程だった。)






マッサージでリフレッシュした翌々日、今度は薬草自体を育てている「スパイス・ガーデン」たる場所に足を運んだ。

スリランカの山間部では遠い昔から何種類もの天然薬草(主にスパイスやハーブなど)が自生しているらしく、スパイス・ガーデンでは観光客向けにそれらを育て自家製品を販売している。
細い道路沿いにいくつも並ぶ看板にはそれぞれ番号がつけられていて、ガイドの話では、政府が認めたスパイス・ガーデンには登録番号が与えられているのだとか。

私が訪れたのはナンバー1のスパイス・ガーデン。
ドクターと呼ばれている50代くらいの男性が、緑生い茂るガーデン内を丁寧に案内してくれた。





虫除けの効果があるという葉、風邪に効くというシナモンのオイル、関節痛など痛い患部に塗るとよいらしいオイル、脂肪を燃焼させるハーブ、コレステロールを溶かすというハーブ、体毛を溶かす樹液・・・。


それらの匂いを嗅いだり舐めてみたりすると、どこかで身に覚えのあるものが多い。

虫除けに効く葉は、確かにムヒの匂いだ。

痛み止めのオイルはタイガーバームの匂い。

毛を溶かすというクリーム(既に製品になったもの)は、かすかに除毛剤の匂いがする。


・・・そうか。
私が知っている様々な化学薬品は、元々はこうした天然素材でできていたんだ。






ガーデンを一通り回ったあと、ドクターは私の足のすねに白いクリームを塗った。

15分後、ドクターがティッシュペーパーでクリームを拭き取ると、全く手入れされていない私の醜い足のすねは、その部分だけ驚くほど綺麗さっぱりと “ツルっツル” になっていた。
市販の除毛剤より効果的に、匂いは少なく、しかもその後洗う必要はないのだという。当然、痛みもない。


ドクターの説明終了後、私がその場で大量にハーブ製品を購入したのは言うまでもない。

天然の薬草に、乾杯(完敗)。

エコツーの可能性と先住民族

2008-08-30 | その他の国の旅
どこかで誰かが言った。

「これからは、ツーリズムが世界を救うんだ。」


田舎にスポットを当てた“エコツーリズム”は、第1次産業以外の収入が少ない地域経済を潤し、都会ばっかりが格好いいんじゃないことを訪れた人々に教えてくれる。
ボルネオ島で目の当たりにした森林伐採からも、“人が住んでいること”自体が、その地域の自然環境を守ることにつながるんだと知った。そしてそのためには、若い世代がそこに住み続けられる “理由” が必要なことも同時に学んだ。


ここスリランカに暮らす唯一の先住民族・Vadda族は、元々はジャングルを転々としながら狩猟生活を営んでいたらしいが、今では国の自然保護政策によって狩猟は制限され、更に先住民族の文化を目玉にした観光業が政府の支援によって促進されている。

彼らもやはり、そうしたツーリズムに期待を寄せているんだろうか。


村の長老・Wninelatho氏に話を聞くことができた。


私「こうして村が観光地化されることに対してどう思っていますか?」

長老「観光地化することは、Vadda族の若者にとってあまり良くないと考えている。なぜなら若者が観光客に接触することで彼らはますます現代社会への憧れをもち、村を離れていくからだ。」

私「でも実際には観光業が村の大きな収入源になっているのではないですか?」

長老「国の政策でそうせざるを得なくなっているだけだ。現金を得るということは、逆に若者が村を離れるのを促すことになる。」





そうか、と思った。
私が安易に抱いていたエコツーリズムに対する期待はあっさりと打ち砕かれたわけだ。

事実、政府が村の一角につくった“先住民族資料館”らしき建物ではVadda族のひとりが白い石でアクセサリーをつくって売っていたが、彼はちっとも楽しそうではなく、訪れていた団体客相手に笑みを浮かべていたのは地元の旅行会社くらいのものだった、ように私には映った。


例えばVadda族の若者が自らエコツーリズムの運営に立ち上がったりしたら、村の状況や観光に対する何かが変わったりするんだろうか・・・。

何をするにも、やり方次第なんだろうな。



村を離れるとき、彼らがチューインガムのように常に口にしているらしい真っ赤な木の実と、それによって赤く染まった彼らの口元がやけに印象に残った。
私はそれらを、ちょっと怖いと思っていた。