Macの調子が悪い。フォトショップがなぜか何度もショートする。
今日は次の写真展のDMをデザインしてしまおうと勇んでいたのに、これでは全く仕事にならない。
仕方がないので私は机の横に放り投げられてあった角田光代の「さがしもの」を手に取る。もう随分前に買ったまま、始めの3ページほどで読み止まっていた。
そうして私は思い知る。文章というのは、ただの文字の連なりじゃないと。
今まで本というものを読んでこなかったこと、その豊かな世界を知らずにきたこと、その感性が私には欠けていたこと、そんなようなことを私は改めて後悔する。
作家ってのは、凄いと思う。
改めて、凄いと感動する。
きっと彼/彼女たちは、人生の中で見た光景や風景やたまたま耳にしたいろいろな事柄を、その鮮度を保ったまま記憶しているんだろうと想像した。
・・・忘れん坊の私には、到底無理だな。
そうやって私は自分の凡庸さを痛感する。
あんなに得意だった国語の授業で、一体私は何を勉強していたのか、今となっては全く定かじゃない。どうして私はこんなにも漢字に弱いのか。どうして私はこれほどまでに熟語を知らないのか。幼い頃の私は毎晩くそ真面目に学習机に向かい、確かにカリカリと漢字の書き取りしていたはずなのに。
きっと大学時代がわるかったに違いない。
あの頃は、私と同じく軽音楽部のボーカルをしていた恋人に触発されて、私も歌手を目指すんだー!なんて勇んで発声練習に明け暮れていた。雨の日も雪の日も、台風で荒れ狂う日の午後にだって私は独りカセットテープを持って誰もいない農場へ向かい、声を張り上げた。
つまり私の青春は「文字」ではなく「音」に捧げられたのであって、私の肉体は「目」ではなく「耳」と「喉」と「腹」によって支えられていた。
ふと、私は窓辺に置かれたシクラメンの鉢に目をやった。
ピンクの花びらが窓から差し込む金色の陽に照らされている。花びらの上半分は光が透け、ピンクと金色が混ざって眩しく輝く。今の新しい恋人が私の引っ越し祝いにとくれたこのシクラメンは、なんだかんだ、もう1ヶ月ほど咲き続けている。
私は鉢に顔を近づけ、咲き誇るピンク色の中に鼻をうずめて息を吸い込んだ。
甘い蜜の香りが鼻孔を満たす。こんなに柔らかく甘美な香りの粒子を、この花たちは人知れず放ち続けているんだな。それも毎日、毎時、絶やすことなく。
根元がしっかりと折り曲がったシクラメンの花びらを下から見上げると、丸い円筒の中に雌しべと雄しべがひっそりと隠れて見える。円筒の縁は濃い紅ピンク色で、再び色が薄くなる奥の方からは後光のように光が漏れ差し子房を照らす。その様はいかにも妖しく、しっとりと濡れ色を呈し、ちょうど真ん中からひゅるっと抜き出ている雌しべの先端が妖艶に手招きしているかのように先を尖らせている。
うっとりとそれに見とれる私は、そのあまりの色香に涙までもがこみ上げる。このシクラメンという花の性器は、どこまでも色艶やかに、美しく、妖しく、力強く匂い立つ。生きることへの貪欲さと、生きなきゃいけないことへの切なさと、だからこそ美しくあろうとする生き物としての性。私の部屋の窓辺で、柔らかな陽を浴びながらこの花は静かに息づいているのだ。
こんな冬の午後の一コマを、きっと私は瞬く間に忘れてしまう。
カメラのシャッターを何度か切り、ピンクと金色が交差する光の遊戯をせめてものデータ化して残した私は、次にこうして文字によっても記憶のデータ化を図り、そしてようやくホッと息をついてココアをすする。
忘れてしまうから、残し刻んでておきたいと願う凡庸な物書きになるのも、わるくないかもしれないな。
部屋をゆるやかに滑りながら流れるデズリーのまったりした歌声に、私はまた身を委ねるように聞き入った。
…なんちゃってね。
角田光代風、シクラメンなエッセイでした。