アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

大学生アジアツアーで得たもの

2014-04-20 | フィリピンの旅

先日、N子がわたしの新事務所に遊びに来た。

D大学3年生。

今年2月に開催したフィリピンツアーに参加してくれた子だ。

 

ツアーはなかなかのハードスケジュールで、5泊6日の間に現地市民団体を5つも訪ねて回った。

企画者で管理者のわたしは、「これ、やりすぎダ…」とツアー前日に認識。

案の定、思い切り採算割れして痛い思いをすることになった。

 

けれど、ハードスケジュールになったのは実はわたしにとって嬉しい悲鳴で、参加してくれた学生たちにとっても、必ずしも辛いだけの悪程ではなかった。

そう言い切れるのは、彼らの様子や、表情の変化や、全身の穴という穴から何かを吸収している時のゾクゾクするような躍動感を目の前で見れたことに依拠する。

そして何より、ハードになったのは現地パートナー達が強烈に協力してくれた結果であり、それはわたしにとって、まさに心臓が躍り出さんばかりの嬉しいサプライズだった。

事前に協力の同意は得ていても、彼らが実際にどう動いてくれるのかは「やってみなければ分からない」、そんな状況だったから。

 


(ツアー4日目。アメラシアンの人たちと元米軍基地内ジャングルツアーにて)

*ツアーの様子はこちらにアップしました:http://www.kids-au.net/report-p1.html

 

それで、あれから2ヶ月。

N子はわたしの事務所で、自分のライフプランがとりあえず固まったと報告してくれた。

「あたし、教職がまだ履修できるってことが判明したんすよ。それで、やっぱり教職とって3年くらいは働こうかなと思って。そんで、その後にJICAの協力隊行けばお金も貯まるらしいし、そのお金でイギリスかどっかに留学しようかなと思って。そうすれば奨学金も返せるし、親にも迷惑かけずに済むんで」

 

彼女は、わたしが去年秋にD大学でゲスト講義をした時、ずっと下を向いて携帯をいじっていた。
その子が授業終了後にわたしの元に来て「わたしも海外連れてってください!」と猛烈にアピールしたのは驚きだったけれど、その半年後にこうして事務所にまで来て将来のビジョンを語っているというのは、もっと驚くべきことだった。

彼女はフィリピンで開眼し、その後みるみる成長している。
それは、知り合って間もないわたしにも手に取るように分かるほど、だ。

 

フィリピンからの帰り。
飛行機の座席が隣になった縁で、彼女は自分の身の上話をあれやこれやと話してくれた。

片親だというのは以前から聞いていたのだけれど、その経緯や、それによって彼女が心に抱えた傷は、わたしが想像した以上のものだった。その傷を隠すために、彼女はいつも友達の前でチャラい言動ばかりしてしまうのだという。

「誤解されやすいんだね」と言うと、「そうなんすよー!」と、機内中に聞こえそうなボリュームで返答された。

 

わたしも最初は思い切り誤解していた。
彼女は一見つかみ所がなく、何を考えているのかよく分からない。一言でいえば、「変な子」に至極容易にカテゴライズされてしまう、そういうタイプ。

けれどフィリピンで気づいたのは、彼女が非常に感受性豊かで、モノゴトをよく観察していて、かつ、理解するのがとても早いということ。彼女の口から出てくる言葉は、時に、わたしが意図したことそのものだったり、それ以上だったりした。

たとえば5日目に行った貧困層の人たちが住む集落でのこと。
そこで青年教育支援をしている団体の活動を見て「自分が変わらなきゃ、自分が何か始めなきゃ、社会は変わらないんだなって思いました」と彼女は言った。
それはわたしが30歳を過ぎてようやく思い至った境地で、このツアーを始めたのはまさにそれを伝えるためだった。本当にそれがそのまま伝わるなんて微塵も期待せずに。

 

帰国後、彼女は勢い勇んでバイトを始めた。

教員を目指すのはとりあえずやめて、今はお金を貯めて留学したいのだと。

「フィリピンが濃すぎて…なんかもう…やること多すぎって感じ!」

そして留学後のライフプランを、ああでもない、こうでもないと悩みながら組み立てようとしていた。

わたしたちが再会したのは何も彼女の人生相談が目的ではなかったのだけれど、立ち話もなんだからとマクドナルドに行き、彼女の話を聞くことにした。留学するならどのタイミングがいいか、卒業して最初に行く先はどこがいいか、就職なのか、インターンなのか、それとも進学か。それはわたしが十数年前にぶち当たった壁そのものだった。

ただ違うのは、彼女が片親だということと、卒業後には奨学金の返済が待っている、ということ。

親が非正規雇用という家庭が珍しくない今の時代の学生は、「奨学金なんて当たり前」だという。
なんのために働くのか、誰のためにがんばるのか、どこに向かって進むのか、…そういったことは相変わらず見えにくいまま、現実だけがとてもクリアに目の前に立ちはだかっている。

 

数週間後、彼女は体調を崩し、「がんばりすぎた…」と言ってわたしの事務所にやってきた。

髪をきれいな栗色に染め直し、ばっさりショートカットにして。

「なんか、フィリピンでみんなの前に立って喋ったじゃないですか。あんとき思ったんすよ。あぁ、これからは発信する側になるんだなって。そしたら髪とか服装とか、もうちょっと考えた方がいいのかなと思って」

まさか彼女がそんなことを感じていたなんて、フィリピンでは思いもよらなかった。(しかもそれは発酵期間を経て、2ヶ月後に発現するなんて) 

何を、どこで、どんな風に感じ取るかは人それぞれだな…と改めて思い知らされる。 

 

そして5時間ほどだべった後、彼女は満を持したと言わんばかりにライフプランを語り出したのだった。

「これ、すごくないですか? でしょ? でしょ? かなさんに言われたこともぜーんぶ入れて、自分の考えだけじゃなくて、ゼミの先生に言われたこともぜーんぶ入れて、最終的にこれがベストかなと思ったんですよ。とりあえずこれを目標にがんばろうと思って」

それはつまり、こういう計画だった。

教職の資格をゲット → 卒業 → 社会科の教員として働く → JICA海外青年協力隊 → 海外留学 → 起業(NPOなどの立ち上げ)

そのために今必要なのは、資格試験に受かること、英語を勉強すること、海外および日本の文化・歴史を学ぶこと、そして社会の授業をよりリアルで面白くするための素材(経験)を集めること、なのだと。

そして後ろ3つは、わたしが企画するツアーやイベントに頼るという。

「何もかも自分でやるには限界があるから」。

 

…いやはや、驚いた。

なんだか、いきなり弟子ができてしまった気分だ。

まだそんなタマではないのに。

 

しかし彼女のガッツが半端ではないことは、認めざるを得ない事実だった。

彼女はバイトを2つ掛け持ちする傍ら、児童養護施設でのボランティアや、貧困家庭のこどものボランティア家庭教師を続けていた。ボランティア家庭教師は精神的にキツいらしいのだけれど、「お金もらってるわけじゃないんだから、止めちゃえば?」と軽々しく言うわたしに、「でもその子が可哀想だから」とキッパリ首を振る。

親が離婚して愛情不足に陥っている教え子を、少しでも救ってあげたい。「(離婚して)もう3ヶ月も経つんだからしっかりしなさい!」というその子の母親に、いつか一言申してやりたい、と彼女は言った。

「だって3ヶ月なんて誰のための基準なんですか? 親にとってはもう3ヶ月かもしれないけど、その子にとっては、学校も転校させられて、今は歩いて片道40分もかかるんですよ! それって3ヶ月で慣れるもんですか?」

彼女は自分に重ねて接しているせいか、その母親に対してマジ顔で怒っていた。

「だったらさぁ…、年上の人になめられないようにする方法、教えてあげよっか?」とわたしは言う。

「え… それ知りたい」と彼女が食いつく。

そんな風だから、彼女はきっと、わたしがこれまでに身につけた悪知恵をどんどん吸収していくんだろうと思う。

 

そんなことで、ちょっと話はぶっ飛ぶのだけれど、来月から急きょ「トラベル英会話教室」を開くことにしました。

彼女に限らず、わたしが出会った一人一人の大学生を具体的に応援するために。

将来の道をどんなに悩んでいたとしても、少なくともトラベルレベルの英会話はできるに越したことはないからね。仕事を見つけるためにも、これからの人生を楽しむためにも。

 

そして彼女は彼女で、「ケニアのこどもたちとサッカーを通して交流する」という事業を立ち上げることにした。

実は女子サッカーの選手だった、ということまで彼女とわたしは共通していて、しかも彼女は「ケニアに行きたい」という漠然とした夢があるというのだ。

「だったらケニアにいる友人が青少年スポーツクラブ持ってるから、何かプロジェクトできるよ」

…と、勢いにのって提案してしまった。

 

そういうわけで、事務所を開設して早速、若くてにぎやかな運営になる予兆です。

それはつまり、彼女たちが成長する分、自分も負けず劣らず成長しなきゃいけないということ。

 

良いプレッシャーに転化できますように。

 


日比・我ら細胞君はゆく

2012-12-25 | フィリピンの旅

この写真、何が「Welcome」なのかというと、

この先にあるのは、20数年前まで米海軍の基地だったところ。

それが今ではスービック経済特区と呼ばれ、地元の人や観光客で賑わっている。

 

フィリピンは、1991年に米軍の基地を全て撤退させた。

その中でもアジア最大だったのが、ここ、スービック海軍基地。太平洋戦争で日本が真珠湾の次に攻撃したところ。そしてその中には、核兵器が保管されていると秘かに噂されていた。

バタアン原発阻止に成功した非核フィリピン連合は、次に国内の核兵器廃絶に向けて動きだした。

国会議員に働きかけ、憲法や法律に非核原則を盛り込ませて、じりじりと“法的に”米軍を吊るし上げていった。そして米軍基地契約延長の是非を問う最終決議の日。国会前には15万人の人が押し寄せて、デモの果ての勝利を祝ったのだという。

上の写真は、その功績をあげた12人の国会議員を讃えた平和の女神像。

 

フィリピンはそうやって基地をなくし、代わりに海外企業を誘致した。

特区内には、旧軍施設を利用したユニークなレストランやホテルがオープンし、水族館やら動物園やらもできて観光客が訪れている。ショッピングセンターは免税のため、マニラ市内からも買い物客が訪れる。

地元の人はそうした店で働くようになり、なんと、米軍時代の3倍も雇用が増えたというデータがあるくらいだ。

(女神の像の近くで遊んでいた若者たち)

(経済特区内の店や企業や工場に通勤する地元の人たち)

(スービック経済特区内のホテル通り。今は観光客誘致が上手くいっていない)

(クラーク元空軍基地内のレストラン。元米軍施設を利活用)

(こちらはスービック内の水族館。修学旅行かしらね)

 

そんな万歳三唱の大成功に見えるフィリピン外交なのだが、実のところはそうでもない。

たとえばこの写真↓ なんとなく不自然でしょ。

もうちょっと近づいて撮ると、こんな感じ↓

この艦船にはフィリピンの国旗がはためいているけれど、ここには米軍艦船も頻繁にやってくる。

基地はなくなったのに、なぜ…?

 

スービック地域で子どもの教育支援ボランティアをしているダリーさんは、語気を強めて言った。

「日本はフィリピンよりまだマシです!米軍は基地にしか来ないから。でもフィリピンは違う。国中が基地になってしまいました!」

その原因は、1999年に締結した『訪問米軍地位協定』。

米軍の自由な出入国を許してしまったため、軍艦だけでなく、スパイも暴漢も自由勝手に入ってきて好き放題のさばるようになったという。
(詳しくは「フィリピン民衆米軍駐留」ローランド・シンブラン著、剴風社)

 

しかも、問題はそれだけじゃない。

一見平和そうに見える基地跡だけれど、実は基地時代に汚染された場所が未だ処理されず残っているのだ。たとえば排水、土、廃棄物… そういったものが、今もじわじわ見えないところで公害として広がっている。

地元団体は、裁判を起こしてアメリカを訴えた。

けれど、基地の完全撤去後に何を吠えようと、全て後の祭りだった。

(スービック旧軍基地のすぐ近くには、住宅街と歓楽街がある。健康被害を訴える人も)

 

非核フィリピン連合のローランド・シンブランさんは、過去30年間に渡って何度も日本、特に沖縄を訪れ講演している。いかにして米軍を撤去させるか、そのために何が必要か、何に注意しなければいけないかー。

そして自分の非核運動には、日本が大きく影響しているのだと言う。

「核の脅威を、本当の意味で教えてくれたのは、日本の科学者である高木仁三郎さんでした。それまでは、私にとっての反原発は、反原子力というよりも反マルコスだった。なので日本は私にとって特別な国なのです」

基地問題だけでなく、原発の闘いもまだ終わっていない。バタアン原発は何度も復活論が出ては萎んでいるし、別の場所に新しい原発を造る計画もチラホラ影を見せている。

「フィリピンは常に日本を手本にしてきました。たとえば賛成派は、いつも日本を例に出します。フィリピンと同じ災害大国でも、原発は稼働して経済成長に何役も買っているじゃないかと。だから私たち反対派も日本を例にあげるのです。原爆の被害者が今も内部被ばくに苦しんでいること。そして日本の優秀な科学者による警鐘も」

 

フィリピンと日本—。

似ている点は結構多い。

島国であること。地震と台風が多いこと。アメリカの影響が大きいこと。本音と建前の使い分けが上手い(と私は思う)こと。献身的(に見せるのが上手い)であること。…等々。

そして最近では中国との領土問題まで共通して、アメリカ好きの日本人は「フィリピンが中国にしてやられてるのは米軍基地をなくしたせいだ!」と、ここゾとばかりに主張している。

その点についてシンブランさんに尋ねると、答えは簡潔明瞭だった。

「中国とのいさかいは、今に始まったことじゃありません。米軍基地があった時にも存在しました。だから領土問題は基地には関係ない。基地は、紛争をなくすのではなく、逆に紛争を招くのです。本来我々の敵ではない国まで敵に回してしまうのですから」

確かに、それで日本に攻撃された歴史が、まさにそのことを証明していた。

今後もしアジアで戦争が起きるなら、それは中国とフィリピンの間ではなく、中国とアメリカの間、もしくは中国と日本&アメリカの間に違いない。そうすればその近辺にある米軍基地は攻撃の的となり、その周辺は、勝つ訳でも負ける訳でもないのに大きな被害をこうむる羽目になる。

…でも、アメリカが国を守ってくれないと、ちょっと不安では? と尋ねると

「国は本来、自力で守るべきです。どこかの国に頼るべきではない。事実、日本やフィリピンや韓国以外の国の多くは、そうしてるじゃないですか」

…はい。でも近くには中国がいるので、気が気じゃありません。日本は自衛隊を国防軍にして、核兵器まで保有すべきだという意見も出てますけど。

「自力で国を守るために、なぜ核兵器が要るんですか?核兵器なんか持ったら、逆に相手に核兵器を使わせるいい口実を作るだけじゃないですか。こっちが持ってなければ相手は使えない。それは国際情勢が許さない時代です。お互いに核兵器を持っているから核兵器戦争になるんです」

…た、たしかに。

こうして、核に対するド素人の稚拙な質問は木っ端みじんに払拭された。

 

とはいえ、フィリピンだってまだまだアメリカにおんぶにだっこなのが現状。中国との摩擦が取りざたされれば、市民にも「やはり米軍が必要なのでは…」と意見する人も少なくないと聞く。

社会運動というのは、いつだって、どこだって、順風満帆にいくことはないんだろう。

成功と失敗を繰り返し、それでも続け、前進していかなきゃいけない。そういうものなんだ。

 

シンブランさんと別れる際、最後にひとつだけ聞いてみた。

「だけど、終わりのない闘いは疲れませんか?」

彼はにっこり笑ってこう答えた。

「問題のない社会なんて、つまらないじゃないか!」

…そうか、そういうことか。そういうことなんだ。

希望は問題で覆い隠されてるわけじゃない。私たちが見失ってるわけでもない。社会とはそもそも不完全なもので、問題に溢れ、放っておけば右にも左にも上にも下にもぐにゃぐにゃと曲がってしまう、実に心もとないものなんだ。

わたしたちはそれを少しでも良かれと思う方向に、常に手綱を引いていかなきゃいけない。

それは希望という光を頼りにするわけじゃなく、その時その時に、みんなで決めていけばいいもの。もしくは誰かの「この指とまれ」に便乗してもいい。とにかく大事なことは、社会というのはでっかい有機体であり、人間というのはそれを構成している細胞みたいなものなんだということ。

 

社会はうごめく生物なり。

社会人とはその細胞であり、騎手であるべし。

 

…いわれれば、当たり前か。

でも、厄介なほど大きな生物の中に生きる細胞が、別の生物の中で奮闘する細胞と互いに励まし合い、成功と失敗をシェアし合い、学び合って切磋琢磨する様は、なんだか逞しくて面白い。

アニメーションにしたら分かりやすいかもね。

社会運動とはそんなだから、つまり、失敗したからといって投げやりになる必要はなく、希望を失う必要もなく、ただあきらめずに、自分が細胞であることを楽しめばいいんだ、きっと。

そう思ったら、たとえ政権が自民党になろうと別にいいじゃないか、と思えてきた。

何がどうなろうと、がん細胞や死細胞にならないためには、いっぱい食べて、とりあえず健康でいなくちゃね。

 

なんだかよく分からない結論になりました。この辺で終わります。m(. .)mデワ。

 


社会運動を広げるための、3つのコツと2つのポイント

2012-12-22 | フィリピンの旅

この人、ローランド・シンブランさん。

非核フィリピン連合の議長で、フィリピン大学の教授。

マルコス政権の時代に3回も捕まって投獄された、筋金入りの社会活動家。

 

非核フィリピン連合は、バタアン原発を止める時に結成され、

それに成功した後は、核兵器の保管が疑われていた2つの米軍基地撤去運動に邁進した。

文字通り、「NO NUCLEAR」=「非核」の闘いに挑み続けているフィリピンの全国組織。

 

フィリピンの反原発運動は、地元であるバタアン半島から始まった。

だけど、それが大きく広がったのは、運動が戦略的に組織化されてからのこと。

シンブランさんはじめ都心で政権打倒に燃えていた人たちが、

バタアンの人たちに触発されて、全国的な組織づくりに乗り出した。

 

組織づくりをするには、まず、人を集めなきゃいけない。

問題意識のない人達に問題意識をもたせて、かつ、行動を促すこと。

そこには「無関心」という大きな壁がある。

それを打ち破るコツは?と尋ねると、

『まず彼らの問題を知ることだ』とシンブランさんは答えた。

 

彼らの問題…?

こっちの問題を知ってほしいからこそ、逆に向こうの問題を知るってこと…?

「普通の人は、自分たちの生活にしか関心がありません。だから彼らの生活上の問題を先に知り、それに我々が訴えたい問題を関連づけるのです」

…なるほど。

「まずは生活者の視点にレベルを合わせること。そして徐々に国レベル、世界レベルの話をしていくのです」

確かに、いきなり原発の話をされても、かつての私だって難しすぎてよく分からなかった。

一端「よく分からない」と思ってしまうと、難しいことは拒否したくなる。

すると、もし事故が起きたら自分チの食卓にも影響が及ぶかもしれないことや、

魚が買えなくなるかもしれないことや、こどもが外で遊べなくなるかもしれないことに、

想像が及ばなくなる。

 

だから、難しいことを理解してもらうときは、下から上へ。

足下から脳ミソに訴えかけるのが一番いい。

 

次にやり方。特に広報(啓蒙)の仕方はどうか。

シンブランさんは、そのコツを『クリエイティブにすること』と言った。

運動をクリエイティブにするとは…何?

よくよく聞くと、それは彼自身の学生運動の経験が発端だった。

たとえば「マルコス政権打倒!」と社会に訴えたい場合。

それを誰かが拡声器で叫んだのでは、速攻で捕まってしまう。

学生たちは、猫に服を着せて、そこにマジックで「マルコスFUCK!」と書きなぐり、一斉に放した。

(FUCKと書いたかどうかは知らないけれど。)

駆けつけた警官は大慌てになって、猫の背中を追いかけ回したそうな。

 

フィリピン人の発想は元来ユニークで面白い。

反核運動には全然関係ないけれど、囚人にマイケルジャクソンのダンスを踊らせて有名になったのも、

フィリピン・セブ島の刑務所だった。

全員が同じ動きをするという共同作業によって、以後、囚人同士の喧嘩が激減したという。

 

あと、芸術能力がやたら高いのもフィリピン人のスゴいところ。

反米軍基地運動の時には、高校生を対象にしたポスター大会を催したらしい。

その第一回優勝者の作品がこちら。

高校生が描いたなんて、到底信じられない…。

 

そして最後のコツが、『若い活動家を育てること』だ。

スゴいのは、反原発運動が始まった頃から「これは長期戦になる」といって

若手リーダーの育成プログラムをつくっていたということ。

どんなプログラムなのかまでは聞けなかったけれど、なんだかスゴそう。

なにせ、バタアン原発阻止が成功した後、そのニュースを聞いたインドネシア人の若者10人が

「修行させてくれ!」とやってきて、6ヶ月間の密着研修をしたらしい。

そしてその後インドネシアに帰って、学んだ通りに運動を展開したところ、

見事に成功してインドネシア原発ゼロを実現したんだとか。

これ、すごくないですか?

 

フィリピン人のスゴいところは他にも2つある。

ひとつは、ディベート重視の授業で、生徒の主体性を大事にしているところ。

学校には昔からディベートクラブというものがあるらしく、

授業以外でもワンヤワンヤと議論することを楽しんでいるのだとか。

 

もうひとつは、家族や友達の絆の強さ。

そしてそれに支えられた陽気さ。

悲しい時はみんなで泣き、楽しい時はみんなで踊る。

そうやって人々は多くのことを乗り越え、どんなに貧しくても逞しく生きている。

 

バタアン半島で反核運動をしている若手リーダーのエミリーさんに、

「原動力は何ですか?」と聞いてみた。

彼女は、何の迷いもなく「希望です」と即答した。

それで、思ったのです。

希望というのは、愛情によって支えられているものではないかしら、と。

家族への愛、仲間への愛、地域への愛、

そういったもののおかげで、人は希望を持ち続けることができるのではないかしら。

 

日本を、自分を、顧みる。

上にあげた3つのコツ+2つのポイントは、多分、日本人が一般的に苦手とするところなんじゃないか。

たとえば福井の場合。

反原発運動を唯一初期からやっていたのは共産党の人たちで、

彼らは党員以外の人たちに伝えることや、若手を育てることができなかったと聞く。

日本にも、昔から反原発だった人たちはたくさんいたのに、

その声はほとんど広がらないまま、「無関心」と「安全神話」だけが蔓延っていった。

 

だからといってフィリピンを絶賛しても仕方ないのだけれど。

ただ、「貧困」「汚職」「汚染」と汚いイメージが強かっただけに、

今回のフィリピンの旅は、私にとって目から鱗の連続だったのです。

一言でいえば、

胸を張って「フィリピン好きだー!」と言えるようになった。

フィリピンのいいところをちゃんと知ることができて、胸がスッキリしたのです。

 

次回は、だけどフィリピンもまだまだ勝利にはほど遠いんですよ、というお話。

闘いは続いている。


ゲンパツ・ミュージアム

2012-12-21 | フィリピンの旅

ここはフィリピン。

首都マニラから車で3時間のところにある原子力発電所。

なのに子ども達が両手を広げて入っていける、不思議な場所。

しかも私服のまま。

ちょっと、ちょっと、大丈夫なの?

中に入ると、どでかい配管がたくさん並んでいる。

これは海水を引き上げて原子炉を冷却するための配管。

つまりこの地下は海らしい。

この原発はウェスティングハウス社製で…圧力を加えて出てきた蒸気がタービンに行く加圧水型…

原子炉で放射能を帯びた水が直接タービンに行かないので、比較的放射能漏れが少なく…

電力は62万キロワットで…

ここから来た水がこうこうこう来て、ここから出ていって…

そうした説明を、電力公社の職員が懇切丁寧にしてくれる。

観光客に。あるいは課外授業でやってきた学生達に。

原子炉だって見せてくれる。

もちろん私服のまま。

通路から見えにくければ、作業台に上がってもいいよ、と笑顔で手招きまでしてくれる。

原子炉には機器がいっぱい。

目を凝らして見ても、何が何だかサッパリわからない。

ここで、「核反応」ってやつが起こるんだ。

それをコントロールしてるのが、この部屋。

テレビにもよく出てくる「制御室」。

こんなにたくさんのスイッチに囲まれて、まるで宇宙船みたいだ。

近くには、こんなにのどかな村がある。

バタアン半島の西海岸。

回りには国立公園あり、ウミガメの産卵所あり、という自然豊かな一帯。

だからバタアン原発ができたとき、住民は血眼になって反対したんだ。

はじめはゲンパツについて何も知らされなかったため、

怪しい…と思った人が自分たちで勉強しはじめた。

そして4年も5年もかかって情報を広め、反対する仲間を集めていった。

それもマルコス独裁政権の時代。

ちょっとでも政権批判したら、警察が飛んできて捕まえられる時代。

たくさんの人が捕まり、殺され、行方不明になった。

それでも運動は広がり、1985年に民衆の怒りが爆発。

試験運転を阻止するための3日間ストライキが、半島をあげて決行された。

住民は二手に分かれて、3日間ひたすら歩いた。

街はどこもガランドウになった。つまりゴーストタウン。

そして3日目に二つのデモ隊は合流し、

5万人の群衆がワーーーーーッとなだれ込んで、待ち構えていた戦車をもぶっとばした。

マルコスもびっくり。

民衆はその勢いに乗って、翌年ついにピープル・パワー革命を起こしてマルコス政権を倒したんだ。

 

(非核バタアン運動の皆さん)

 

怒りのパワーってのは、スゴい。

だけどゲンパツ&マルコスを倒せたのは、それだけじゃなかったみたい。

市民運動するにはコツがあるんですよ、コツが。

っていう話を、明日書くことにします。

 

ちなみにバタアン原発ミュージアムは入場料激安(数十~数百円)なので、フィリピン旅行の際は是非☆


ダバオ報告

2012-12-09 | フィリピンの旅

前回の書き込みから、ずいぶん時が経ってしまいました。

その間、森光子さんが亡くなり、中村勘三郎さんも亡くなり、 フィリピン・ミンダナオ島が台風に襲われ、日本も震災後最も大きい余震に見舞われました。そして今週末には選挙。
…なんて慌ただしい年の瀬なんでしょう。

有り難いことに、私は渡比前から仕事が立て込み、今月に入ってようやく一段落つきました。
なのでまずは、ミンダナオ島で行った文化交流の報告から。

ちなみに台風は島の太平洋側を直撃し、1000人以上の死者・行方不明者を出しています。
主に採掘現場の人たちが大勢犠牲になったそうです。
カリナンでお世話になったY先生に電話したところ、ダバオ市内は全く大丈夫とのこと。
今回は大統領も駆けつけてるそうなので、インフラから治安改善まで、そもそも整っていなかったこともググッと押し進めてくれたらなぁと願います。

ミンダナオ島といえば、果物。
ここは街中にあるローカルマーケット。地元の人たちが立ち寄って新鮮な野菜や果物を買っていきます。

ジャックフルーツはどでかいので、その場で切って量り売り。

野菜売り場では、なんとカット野菜も売っています。

お米は量り売り。

これは市場にある商店。やたら目につくビニール袋は…

近づくと、こんなものが入っています。
ニンニク、砂糖、塩、調味料、染色粉?なども、みんな小売り小売り。 

お肉やのおばちゃん
(ここはカリナン地域のローカルマーケットです)

お姉さんは、豚のラードや皮?を売ってます。…手前の黒いの、何だっけ

それで、その店々の並びには、牛さんがいたりもします。

市場には食堂も。
これがフィリピンの超ローカルレストランです。客はその場でお惣菜を2~3品選んで席につきます。
マレーシアも同じようなシステムですが、マレーシアは店の雰囲気がもっと華僑チック。(フィリピンの方がいかにもローカルな感じです)

それで、市場で売ってる果物は、こんな風に実っています。
右がココヤシ。左がドリアン。

これがジャックフルーツ。

で、ダバオ市街地から 車で西に1時間行くと、カリナンという街があります。
戦前も今も、日系人が多く住んでいる地域。 
今は日本で稼いだ人達が、ここに店や家をどんどん建てているためバブリーなんだとか。

ちなみに戦没者の慰霊碑があるミンタルは、ここから20分ほどダバオに戻る途中にあります。

カリナンの中心街から脇道に入ってゴトゴト行くと、

日系人会の学校があります。本校はダバオ市内にあるので、ここはカリナン分校。

「こんにちは、マキノサン!」と元気なこどもたち。

生徒の約半数は日系人だそうです。4世の子もいれば、2世の子も。
ここは民間学校なので、比較的裕福な子しか入れません。
公立学校は生徒数が多過ぎるため半日交代ですが、ここは全日授業を受けられます。

日本語の授業もバッチリ。
“たんじょうびに なにが ほしいですか?”
“たんじょうびに PSが ほしいです。” (笑) 

 

学校の回りには、戦前からダバオに住んでいた開拓日本人コミュニティがあります。
ここは近くのサリサリストア(小売店)。
右の男性は日本人で、元校長のY先生。日本で退職した後にダバオに移り住み、日系人のこどもたちへの教育に尽力されています。今回の文化交流が実現したのは、全てY先生のお陰です。

ダバオを開拓した日本人の多くは、沖縄の出身でした。
彼らはもともとはダバオではなく、首都マニラがあるルソン島にトンネル建設の労働移民として渡りました。当時はアメリカが統治していた時代。アメリカ人はマニラの暑さに耐えかねて、ルソン島北部の山に避暑地を造ろうと考えました。そこで勤勉な日本人を労働者として募集して、非常に困難とされたトンネル建設を敢行したのです。

根性でトンネルを完成させた日本人の多くは、そのままフィリピンに住み続けました。
その一部の人がミンダナオ島のダバオに移住し、マニラ麻栽培を始めます。それが大成功し、次々と日本人がダバオに移って財をなしました。マニラ麻は当時、船のロープに大量に使われていたのです。

しかしその後、日本は太平洋戦争に突入。
フィリピンにとけ込んで暮らしていた日本人たちは苦境に立たされました。そして家族や子孫は、その後もっと苦しい境遇に追いやられました。
ちょうど日系2世の方が、今は80~90歳代。戦前の繁栄期から、戦中戦後の極貧時代を経験し、這い上がるように今の日系社会を築いてきた人たちです。そして現在では、日系であると証明されれば日本で働くことができるようになり、再び日本人の血がプラスに転じるようになりました。

(今回行った文化交流で、習字をかく2年生の子どもたち)

(3・4年生の女の子は生け花に挑戦しました)

しかし、かといって、これで日系人はハッピーエンドかというと、そんなことはないようです。
自分たちのルーツを利用して日本で稼ぐのはいいけれど、それに甘んじて勉強しようとしない子、教育に関心を示さない親も多いのだとか。

彼らが生きていくのはフィリピンという国。だったら日系である利点を活かして、国づくりを牽引してほしい…と勝手ながら思ってしまいます。
実際、フィリピンの経済を引っ張っているのは中国系フィリピン人の人々。 顔立ちの美しさではスペイン系フィリピン人が活躍しています。そこにきて日系フィリピン人の利点は出稼ぎだけか?と思うと、とても悲しい。そしてそれは、日本人が日本人であることを、もしくは日本という国自体を誇りに思い切れないことと、どこか繋がっているように思えて仕方ありません。

だけどまだまだ、これからなんだよね。
ダバオ市に初めて日系人会の学校ができたのが1991年。そこから少しずつクラスを増やし、学年を増やし、先生を増やして、ようやく今の体制になったところです。

「架け橋」なんて言葉は甘ったるい。もっと地に足をつけて、自分が生きていく社会を、血を武器にして改善してほしい!………そんなことを、地に足がついていない私なんぞが心の隅でボソッとつぶやくのは卑怯でしょうか。

だけどそう思ってしまったからには、これからも彼らを応援していこうと思います。
何をどうやったらいいかな。

ワクワクできるような企画、考えます。

 

ps. カリナンの日系人会学校を訪問した時、歓迎を受けた様子はこちら↓でご覧いただけます。 

http://youtu.be/KsXVwOU3H0c

(システムエラーで埋め込みができないため、リンクのみで失礼します)
途中でカメラの充電が切れてしまったため、とっても中途半端なビデオですが…雰囲気だけは伝わるかと^^;