アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

出会いに感謝

2015-02-01 | 2015年たわごと

昨日、東急ハンズの化粧品売り場で、ステキな売り子さんに出会った。

48歳という彼女は、40歳を過ぎてから肌の手入れを始めたという。

それでも、薄化粧の彼女の肌には瑞々しさがあって、何より、笑顔がとってもチャーミングだった。

 

彼女が私の10年先の目標になった。

 

 

今日はNHKラジオのディレクターさんからひょんなメッセージをいただき、フォトジャーナリストの安田奈津紀さんを紹介された。

お名前は知っていたけれど、もう長らくテレビを見ていないせいで彼女の活躍ぶりは存じ上げず、はじめて公式ウェブサイトを見て衝撃を受けた。彼女は国内外の写真だけでなく、写真ワークショップやスタディツアーを精力的に行っている。

しかも27歳というから私より8歳も若い…。

なんだか頭をガツーンと打たれた思いだったけれど、同時に、今というタイミングで出会えたことに感謝した。

 

 

これまで数えきれないほど多くの人に出会い、わたしの人生はカタチづくられきた。

出会いこそ宝であり、人は人と出会うことでしか前に進めないのだろうとさえ思う。

 

でも同時に、具体的な目標にできる人や、私も負けられないと思える人の存在がいかに大切かを、昨日と今日は身にしみて感じています。

恐らく今までにもそういう人たちに出会ってきたんだろうけど、見逃してたんだろうなぁ。

あぁもったいない。

 

 

自分が歩むべき道を模索するのは簡単ではないけれど、自分の能力的限界にガンガンぶち当たってツライ時もあるけれど、それでも愚直に、ご縁に感謝しながらやり続けるしかないんだな。

 

今月も学び多き日々が過ごせますように。

 


「世界とこどもの写真展」プレ開催

2015-01-31 | 2015年たわごと

連載気分だった工場日和がすっかり中断状態になってしまい、これではただの愚痴&怒りブログじゃないか…と心から反省中。

ですが、とにかく目の回る忙しさだったことは確かで、今日ようやく、それが一段落しました。

 

何に駆けずり回っていたかというと、例の写真展。大阪の某小学校で、一昨日からはじまりました。

 

 

展示したのは、A1サイズ8枚と、A4サイズ約100枚。

なんせ学校の廊下(しかも靴箱の上!)なので、悩みに悩んだ結果、白い段ボールで一面を覆い、壁をつくることにしました。

パネルは途中で落ちてこないように、強力な両面テープでガッツリ貼り付け。

これで再使用できないことが決定。。。したわけであります。^^;
(A1パネルはさすがに再使用しないとお金が続かないので、ピン留めorイーゼルにしました)

 

この制作過程で、考えたこと数知れず。

 

そもそも私はなぜここまでガンバルのか…、ということについて。

それは、時間的資金的支出を考えると、とても今の自分が敢行すべきことではないからです。

 

深層心理的な理由は幾つかあるものの、恐らくメインの原動力は2つなのかな、と考え至りました。

ひとつは危機感。

こども(あるいは若者)の殺人事件や自死が頻発していたり、ヘイトスピーチ等で信じられない言葉が公然と発せられていたりする昨今、なんだか日本中がストレスに覆われて、こどもや外国人や障がい者など弱い立場の人たちが真っ先に“やられて”いるような気が(私は)しています。

それは温暖化問題に似ていて、比較的条件の良い地域ではその影響の深刻さは感じられにくい。大きな被害が出るのは大抵、もともと気候条件が厳しい乾燥地帯や洪水地帯、つまり途上国です。 
それがどんどん進んでいって後戻りできなくなった頃に、 他人事だった問題が自分事となって日本でもニュースに取り上げられるようになる。そしてそれまでひっそりと苦しんできた人たちは、その根本的原因が議論されることもなく単なる過去の災いとなってしまう。

すっごく漠然としてますが、そんなイメージです。

それが当たっているかどうかは分からないけれど、自分がそう感じてしまっている以上は何かアクションを起こさなければ気が済まず、その努力なしにただ暗いニュースを読んで未来を嘆くほど無責任なことってないんじゃないか、と思ってしまっているの。

…なんてクソマジメな愛国精神なんでしょう。

 

もうひとつは、ご縁です。

この小学校の校長先生が掲げる教育方針にあまりに激しく共感して、つまるところ、惚れてしまったというわけ。
…そうなると、ミツグ君になってしまうのです。私。

展示作業中に校長先生は何度も様子を見にきてくださり、その度に「うわっ!すごいなぁ~」と感嘆の声を上げてくれました。その大阪人らしい反応がまた嬉しくて、本当にやってよかったなぁ…としみじみ。

教育方針とは一般に「多文化教育」と呼ばれるもので、特に外国ルーツのこどもが多い地域や学校では欠かせない「異文化コミュニケーション」や「相互理解」の土台となるものです。

易しい言葉でいえば、「自分に自信をもって、かつ自分と同じように他人も大事にできるようになること」…かな。

そのためには自分の地域のこと(自文化)と、その他の地域のこと(他文化)を知る機会が必要なのだと校長先生は言うのです。まさにそう、そうなんですよ。自分を知るためには外を見ることが大切で、外を知るためには自分を見ることが大切ということ。
私が何百万円もかけて世界を駆けずり回り、ようやく気づいた核心です。

 

だから、その一助となるなら何でもします!…というのが正直な心境。

同じポリシーをもつ人たちの協力で、最も素直で多感な時期のこどもたちに向けて自分の思いを表現できるなんて、それほど有り難く、かつ効果的なアクションは他にないっすよ。。。と思うわけです。

 

 

展示写真に囲まれた保健室の先生がおっしゃいました。

「写真に囲まれてると、なんだかすっごく気分がいいわ。もうずーっと置いといてくださいって感じです」

 

それぞれの国に、私たちと同じように笑ったり泣いたりしている人たちがいるということ。

ただそれだけのことを私は伝えたいんだろうなぁと、展示した写真群を眺めながら思いました。

 

これは人間讃歌。

 

この愛が、いろいろな思いを抱えて生きているこどもたちに、少しでも届きますように。

 


今日も工場日和-4 + 同和教育的思考

2015-01-11 | 2015年たわごと
次に巡ってきた考えは、我ながら突拍子のないものだった。
 
憎き愛人J をせめて架空の世界でコテンパンに侮辱してやろうと、私はハゲ社長と愛人J の肉の絡み合いを妄想し始めたのだ。
 
 
あの威圧的なハゲ社長だったら、きっと夜の要求も相当なものに違いない。
 
いや待てよ、逆に愛人J がS譲に化けることも想定できるかも。そういえば顔がSM漫画に出てきそうだし。
 
いずれにしても接吻は確実…だとして、それはどんな光景なのか…。


妄想が進むにつれ、たとえば社長の顔の脂の乗り具合や、いつもジト~っとした目つきで他人を見るその視線の先、満員電車でありがちな鼻にツンとくるオヤジ臭なんかが、実にリアルに私の脳内に広がった。
 
そして思った。
 
 
 
これは大変だ…。
 
 
 
具体的に想像するそのどれもが、フツウ、まだ若い女にとっては堪え難い苦痛に他ならなかった。
 
同じ初老でもダンディなオジサンなら話は別だ。つまり年齢が問題なのでもなければ、毛があるかどうかが問題なのでもない。
 
問題は「その社長」。
私は一目見た時から「なんか気持ち悪い」と感じていた、それくらい何やら独特のオーラを発しているのである。(女に一瞬で「気持ち悪い」と感じさせる男性なんて、そう多くいるもんじゃありません)
 
 
 
にも関わらず、それができてしまう J って、…何?
 
一体何に困っているの…?
 
 
 
私はハッとした。
 
これかぁ! これが校長先生の言っていた「同和教育の延長上」ってやつなんだ!
 
何か不可解な人や現象に出くわした時、その人自体を責めるのではなく、そうなった背景や経緯をまず考えること。
 
 
 
私はフィリピンの街に立ちすくんでいる J を想像した。
 
路上で物乞いする裸足のこどもたち、甘い声を出して白人を勧誘する水商売のギャル、青白いドブに溜まったプラスティック袋の山、そうしたドブの真横に座って飴やタバコをバラ売りする老人たち…。
 
フィリピンという国の大変さは、重々承知していた。
 
そんな状況を変えようと奮闘している人たちがいる一方で、事実、何も変わらない現実が重く大きく横たわっている。
 
 
 
そもそも日本で働いている日系フィリピーノには、大きく分けて2種類の人がいる。
 
ひとつは日本が貧しかった戦前にフィリピンに移住した日本人の家族および子孫。
もうひとつは、80年代以降エンターテイナーとして日本へ来たフィリピン人女性が、日本人男性との間に子供をつくったケース。
 
いずれも彼・彼女たちは「日系フィリピン人」として日本で働いている。
 
 
前者の旧日系人は、2世までは日本人(ほとんどは父親)の教育をしっかり受け、教養も高かったらしい。
けれどそうした父親たちはこぞって戦争に駆り出され、戦後は日本に強制帰還させられて家族だけがフィリピンに残された。そうなると、もはや日本は元敵国であるから、日本人の血が混じっているなどとは口外できなくなり、中には自分のルーツを知らないまま成長した人もいるという。
そうした人たちの身元証明作業は、今も細々と続けられている。
 
 
では現在日本で働いている日系フィリピン人に何か差があるか?というと、どちらも似たり寄ったりだ。
 
旧日系人会の学校でボランティア教員をしているY先生(日本人)によると、3世以降の旧日系人にはこんな問題があるらしい。
 
・両親が日本で働き、祖父母がこどもを育てているため、多くのこどもはほとんど学校に来ずに遊んでいる。祖父母は食事を与えるだけで、しつけはほとんどしない。
 
・大人になったら親と同じように日本へ働きに行けるため、勉強しなくてもいいと思っている。
 
・両親が毎月お金を送ってくれるので暮らしは裕福。しかし働く厳しさは教えられないし、親の背中を見ることもできていない。
 

後者の新日系人についてはちゃんと取材したことはないけれど、こどもが産まれた後、日本人男性とは別れて(中にはこどもも認知されずに)母子家庭として暮らす人が多いと聞いた。
もちろんそうでないケースもあるとは思うけれど。
 
 
 
そんなこんなで、フィリピンは自国が大変な上に、そこから飛び出してくる人たちも独特の背景を持っている場合が多い。
 
愛人J の場合は一体どうなのか。
 
 
 
その日の作業が終わり、タイムカードを押しに行く途中で J と鉢合わせになった。
 
私は、まだ何と聞いていいか分からないままだったのに、気づけば声をかけていた。
 
「ねえ、フィリピンに仕送りってしてるの?」
 
「してるよ」と J はあっけらかんと答える。口元には真っ赤な紅が塗り直されていた。
 
「仕送りって、だいたいいくらくらいなの?」
 
「いろいろ」
 
「20万とか?」
 
「そんなにしない! 20万は大きいよ!」
 
「じゃあ10万くらい?」
 
「そんなにしない! 3万とか、5万とか。家族が多い人は5万くらい」
 
「へぇ。でも(日本で働いてる人は)フィリピンに家とか建てるじゃん」
 
「うん」
 
「あれは3万とか5万のうち幾らかを貯金して建てるわけ?」
 
「そう」
 
「ふーん。そうなんだ」
 
 
 
なんとも取り留めのない会話だったけれど、私の気分は随分ラクになった。
 
J は普通に話してくれたし、話している時の私のキモチも、至って自然だった。
 
妄想ではもっと深刻な送金事情があるだろうと踏んでいたので、それが的外れだったのは肩すかしな感もあったけれど、そんなことはもはや二の次になっていた。
 
 
同和教育的思考は、硬くなった人の心を、考え方ひとつで柔らかくしてくれるものなんだな。
 
すげー。
 
 
とはいえ、私が本当の意味でこの件を乗り越えるには、あと一悶着せねばならないのです。
 
(さらにつづく)

今日も工場日和-3

2015-01-06 | 2015年たわごと

今年も始まりました。

今月はかなり連日行く予定です。

 

しかし。

午後から思いも寄らぬ事態になり、私のイライラ虫は大増殖・大氾濫を起こした。

同じチーム(工場ではラインと呼ぶ。複数人が同一線上に並んで流し作業をするから)のフィリピン人女子2人が、ペチャクチャペチャクチャとお喋りしながら作業をし始め、数十分で収まるかと思いきや何時間もずっと同じ調子で喋り続けたのだ。

 

そのうちの一人は、工場の社長の愛人業も兼務していることを私は知っていた。

その子は半社員のような立場で、以前別のラインで一緒になった時は、能面のような顔で私を含む派遣社員の指導に当たっていた。昔から彼女を知るブラジル人の友人によると、彼女はいつもそんな調子で気取っているという。

さすが愛人。この工場の裏番長みたいな存在なんだ、きっと。

 

その彼女が派遣社員のフィリピン人と、年相応な(恐らくどちらも20代半ばと思われる)はしゃぎ方をしているのに私は少し驚いた。そして、最初はそんな様子を微笑ましく思っていた。

 

フィリピンにいるフィリピン人の親友と、以前こんな会話をしたことがある。

友人「日本人経営の会社って、みんな黙々と仕事するのよね」

私「そりゃそうよ、仕事だもの」

友人「フィリピン人はすぐ喋る」

私「そうよね。なんで?」

友人「私たちからすれば、何も喋らないでひたすらパソコンに向かってしかめっ面してる日本人の方が奇妙なのよ」

私「そうなの?」

友人「仕事だって、楽しい方がいいじゃない」

私「そりゃそうだけど、集中できないじゃん」

友人「私たちには能力があるのよ。一度に二つのことをやる」

私「あぁ…つまり日本人は脳が単純ってことね(笑)」

 

それ以来、私は「仕事や勉強する時はお喋りをしない」という常識を捨てた。

 

…はずだった。

 

なのに今日、そうして寛容になったと思っていた私のココロに再び亀裂が入り、途中からイライラが止まらなくなってしまったのだ。

うるさい…なんだこのフィリピン人は…喋るなよ…ここは夜のスナックじゃねぇんだヨ…うるさい…あぁうるさい…いちいち笑うな…何言ってっか意味も分かんねぇし…くそー!!!!

 

ということで、イライラの頂点に立った私の脳みそはすっかり我を忘れていた。

 

私は自覚した。

やばい。このままではフィリピン人そのものを嫌いになってしまう。いや、すでに嫌いになりかけている。

フィリピン本国には両指では足りないくらいたくさんの友人がいるというのに。

これまで何度も何度も足を運び、取材もして、日本の次によく理解している国だったはずなのに。

その結果として特にフィリピン人の国民性が大好きだ!と確かに胸を張って言っていたのに。

タガログ語のチャーミングな響きも大好きだったというのに。

 

つまり私は蔑んでいた。

彼女たちを。そして「フィリピン人」全体を。

 

私としたことがそんなのあり得ない…と思えば思うほど、その感情はへどろのように私の胸にこびりついて離れなかった。

 

「これだからフィリピン人は嫌なんだ…」

 

もう全く自分ではコントロール不能な、醜魂のかたまりが存在していた。

もう、友人の顔を一所懸命思い出そうとしても、楽しかったフィリピンの情景を頭に描こうとしても、2人の耳障りな笑い声が全てをかき消して無駄に終わった。

 

そのうち別のフィリピン人男子が作業上の小さなミスをし、私の反対側にいたブラジル人の女性も部品を落としてあたふたし始めた。

もうダメだ…と私は思い、2人に向かって一言いった。

 

「ちょっと、うるさい(怒)」

 

彼女たちは、なんだこの女…という眼差しで私の顔を見、少し大人しくなって作業を続けた。

一方の私は、なんて言葉足らずな怒り方…と早速自己反省の嵐で、本当はこう言いたかったのに、とか、次にまた同じシチュエーションになったらこう言ってやるゾ、とか頭をぐるぐるさせた後、ふと、そうだ…ブラジル人の友人Dだったら何て注意していただろう…と考えた。

いつも陽気なDは、人を笑わせたりリラックスさせるプロだから。

 

そして思い至ったこと。

…私は、きっともうすぐ生理に違いない。

(だからイライラするのは仕方なかったんだ)

 

そうやってうずくまるように震えていた自尊心をなだめ、内在する差別心との根本的な闘いには蓋をすることにした。

そのことについては、また日を改めて書くことにします。

 

とりあえず今日のフィリピン人女子2人が、次に会った時はケロリとしていたらいいなぁ。

 


脳をBREAKするということ

2015-01-03 | 2015年たわごと

お寺からの帰り、知立団地に住んでいる日系ブラジル人の友達Mに電話をした。

知立駅は本宿から名古屋のちょうど真ん中辺りにある。

彼女とは去年の正月にサーフィンに連れていってもらったっきり、「遊ぼう、遊ぼう」と言いながら1度もまともに遊べなかった。そして彼女こそが、私にブラジル系派遣会社を紹介してくれたソウルメイトの一人だった。

 

電話越しに彼女は、「今サーフィンの帰りで、岡崎に着くまであと1時間くらいかかると思う」と言う。

だったら、鼻水もひっきりなしに出て風邪気味だから帰ろうかな、と思ったのだけれど、運転していた旦那のDが電話を代わり、私に明るく言うのだった。

「大丈夫!近くにコンビニがあったら、レシートに書いてある電話番号でナビできるから。40分くらいで着くと思う!」

私は思わず「オーケー」と言って、コンビニを探した。

 

まもなく彼女たちは到着し、真新しいにワゴンに乗せられて一緒に知立団地に向かった。

そこは日系ブラジル人労働者が多く住んでいる愛知県内でも屈指の公団住宅で、私にとっては二度目の訪問だった。

 

彼らは、真冬のサーフィン帰りだなんてことは微塵も感じられないほど普段通り。

サーファーって、そういうもんなんやろか。

少々くつろいだ後、彼女はブラジル料理をつくり、彼は黒ビールを飲んで、私は仕事の話や今年の予定など我ながらつまらない話をベラベラしゃべって、食べ、笑い、猫と遊んで、そのまま泊まっていくことになった。

そして翌朝5時過ぎに起き、大阪のユニバーサルスタジオに行くという彼らと一緒に家を出、私は帰って原稿を書きましょ、と思っていた。

 

けれど、朝起きたら雪。

念のためネットで調べてみると、名古屋から近畿に抜ける高速ジャンクションで大幅な通行止めになっている。

どう考えても無理、ということになって、再びウダウダし始めた。

Mがブラジルでは定番だという冷凍フランスパンを取り出してサンドイッチをつくり、朝日を浴びて輝く粉雪を撮影し、一緒に大阪に行くはずだった別の友達が横になり、その寝顔を絵に描いて笑い合い、朝食を食べ、再び猫と遊び…。

いつもの私だったら、その時点でなんとか家に帰ろうとしていた。

既に、この休み中に書こうと思っていた原稿は手つかずのまま、部屋の掃除はしたけれど未だ机の上はブラックホールのまま、来月の取材の予定は何も決められていないし、図書館で借りた10冊の本もひとつも読まないまま返還日を過ぎている。やらなきゃいけないことばかりがどんどん山積みになって、頭の中がパンクしそうになっていた。

 

だけど、雪だから車が動かせない。

タイヤがノーマルだから。

それにこんな朝早くから彼らに「駅まで送ってって」とは頼みづらいし、なんとなく、私もアクセクしちゃいけないような気がしていた。

 

それでウダウダが延長戦に入った頃、インターネットを見ていたDがふと言った。

「北朝鮮の映画、見る? アメリカのやつ」

「え!アメリカで中止になったやつ?見れるの?」

「ポルトガル語の字幕だけど。英語だからわかるよね」

「多分わかんないけど、見る!」

 

『The Interview』というその映画は、金正恩暗殺のストーリーが北朝鮮の激震に触れ、テロ予告にまで発展して全米の映画館で次々と上映中止となった、あのお騒がせ映画。

それが無料映画視聴サイトで見れるっていうんだもの、すご…。

 

で、案の定、英語もポルトガル語の字幕もチンプンカンプンではあったけれど、大事なところは彼らが日本語で解説してくれたり、私が確認したりして、ストーリーの流れはだいたい理解できた。

その感想。

「こりゃ北朝鮮、怒るわなぁ~」

「でも面白いね…」

「アメリカらしいよね」

 

それは実に全くのアメリカ流コメディで、一言でいえば「バカ」だった。

そもそも金正恩がアメリカのテレビ番組を「好きだから」という理由で呼び寄せるかい!とか、いろいろ突っ込みどころは満載なのだけど、そんなことは本質ではないのでどうでもいいんですよ、ということがにじみ出ている。

恐らく本質は、CIA的な姑息な毒薬暗殺は容易に失敗し、またそうした策略は個人の心情の変化によって阻止(または失敗)されるということ。そして大義や使命感よりも強いのは「裏切られた」という感情であるということ。さらに、誰を倒す最も有効な方法は、単に抹殺することではなく、恥部をさらけ出して人々に知らしめることだという(これが最もアメリカらしい)信念のようなもの。

ぃや−。

私的には、率直に面白かったです。

政治的には「絶対ナシ」だと思うけど、そのリスクを犯してまでやっちゃう、しかも堂々と世界にアピールしてしまうところもまたアメリカらしいというか。

その手法が好きか嫌いかと問われればどちらとも言えないけれど、少なくとも至る所でププっと笑ってしまうのはバカを徹底しているからだけではなく、北朝鮮の指導者を風刺はしても人々を蔑んではいないという安心感ゆえだと思う。

そこはちゃんと人権尊重、なんだよね。

 

 

で、その後にDが出してきたのは、2人の中国人男子のYouTube面白映像だった。

こちら。

http://www.youtube.com/watch?v=x1LZVmn3p3o

 

 

もう、なんていうか、バカの極みなんですよw。

これ2005年にアップされて、結構有名らしい。

 

最初は中国人が英語の歌を口パクしてるというだけで(たぶん映画を見た後だから余計に)シュールな気がして笑けたんだけど、見ているうちになんだか誇らしい気分になってきた。

なんというか、アジアにもちゃんとバカがいる!っていう誇らしさ。

 

それは日本の落語や漫才も然りで、むしろそちらの方が(口パク中国人男子より)ずっと質の高い笑いには違いないけれど、ここでは日本か中国かという話ではないのです。

世界中どこにでも「ちゃんとバカは健在している」という事実。

それはなぜか、今の私をフッと楽な気持ちにさせてくれた。

 

全うなことを全うに思考するのも大切かもしれないけど、結局(もしくはそもそも)人間は何でもありの存在なんだということを忘れちゃいけないなぁと思って。

その幅の広さを、事実として受け止める器を持ち合わせてなきゃなぁと思ってね。

 

根っこがクソ真面目な私には、定期的にそのことを思い出させてくれる友人が必須だということも、正月早々思い知らされたのでした。

 


多様性についての思考・頭グルグル

2015-01-01 | 2015年たわごと

まずはサハリンのおばあちゃんについて書こうと思い、過去の旅日記を探していたら、2013年秋のちょうどその頃に書いたらしい私的日記を発見した。

1年ちょっと前の私は、懸命に自己分析を試み、何を志すのかを模索していた。

そして浮かんでは消えたアイデアのうちのひとつが、そこに記されていた。

 

------------(記録を兼ねて以下抜粋します)------------

 

そもそも自己分析というのは何歳くらいで一通りできるものなのか。人それぞれとはいえ、10代から分析できている人は極稀なはず。20代では?若手でやり手のビジネスマンはできてる部類なのかもね。回りにいる年下の友達を思い浮かべてみると、たとえば東大院卒のKだって、やはり20代らしい右往左往感をにじませている。じゃあ30代は?一般的に、世間的な信用が自ずと得られる年代だと言われる。わたしみたいなアウトローでも、それなりに、数々の失敗を含む一応の社会経験は積めていることだし。外見は変わってなくても、声のトーンや目元や表情の作り方なんかは20代の時とは変わってきているんだろうと…信じたい。

それで、ようやく自己分析できてきたかな、と改めて思うことは、自分という人間は、ジャーナル(報道)的な表現に偏ることを潜在意識的に拒否しているんだろうということ。恐らくわたしは「ニュース」に興味がないし、ニュース的な方法で表現するのは好きではない。つまらないと思っている。

ではアート的なのか?というとそちらにも偏り切れず、文学も苦手だし、映画もハマれないし、鑑賞するのは良くても作り手として本当の価値はほとんど分かっていない。

だから結局、自分はその間のグレーゾーンなんだと割り切るしか道はなく、また、そのグレーゾーンを開拓していくべきなんだと自分に言い聞かせるしかない。仕方なく、という面と、それこそ我が道、という面が今はまだ微妙に表裏一体な感じ。

 

だけど、具体的にやりたいことを考えると、放浪時に妄想したことがまた蘇ってくる。

先住民族のアートをブランド化すること。

土産物ではなく、高級工芸というのでもなく、ひとつは、現在のデザイナーやイラストレイターの世界に、もっと先住民族の人がいてもいいんじゃないかということ。彼らが彼らのアイデンティティを現代的な仕事の中で活かし、DNAに染み付いた民族的センスを発揮していければ、文化も進化するし民族の誇りも大切にできる。仕事をつくるというのは土産物を増やすことではなく、今の社会でフツーに求められているものや人やポジションに入り込んでいくことなんじゃないか。

そういうことを促進することはできないだろうか、と思うのです。

 

これだけグローバル化が進み、世界が均一になる方向でモノゴトが進むと、50年後や100年後には今よりもっと文化の多様性が薄れてくる。弱者は強者に勝てないし、マイノリティはマジョリティにかき消される時代。先住民族だって、弱い民族は消えていき、アピール力の強い民族だけが残っていく。

だけどそれを動物園的に、珍しいもの見たさを売りにしたような観光でアピールするのは痛々しい。そうであってはいけないと思う。

どうしたらいいのか。文化の多様性は、どうやったらうまく残せるのか。「グローバル化時代の先住民族」…そういったことをテーマに、何かできないか?と思う。

アジアの旅エッセイをまとめたら、そっちをガッツリやろうか。

またカネがかかるけど、仕方ないな。スナックでも探して働くか。

 

だけどそれらに対する好奇心は、結婚や子づくりを求める本能よりも強いんじゃないかと思う。特に今は、そっちなしに自分の人生は満足いかないような気がしてしまう。

 

いずれにせよ、大きなテーマだから時間がかかる。だったら焦らず旅を続けながら、ぼちぼちやろう。ツアーもつくりながら、ぼちぼちやろう。

社会は自動的につくられていくものではなく、自分達の手で、常に変えていくものなんだと知ってしまったんだもの。

ロスジェネの30代は、失ったものが大きい代わり、何かを変えていけるポテンシャルは逆に高いはずなんだ。それ以前の世代とそれ以降の世代の接着剤として。日本と世界の接着剤としても。

わたしたちが活躍しなければ、発信しなければ、見落とされてしまう価値観や世界観があるんじゃないか。

…なーんてね。夜な夜なパソコンを打っていると熱くなってしまってダメだね。そろそろ寝よう。

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モヤモヤした時に記すこの手の日記は、落葉のようにパソコンの中に舞い落ちて、時間の経過と共に土壌と化していく。その土をたまにいじってみると、思いのほかフカフカになっていたり、カチコチになっていたりして面白い。

そうか。「多様性」ということを自分は希求しているんだな、ということも改めて認識できたりする。

 

日本でも、海外でも、全く意味なく虐げられたり、居場所を失って彷徨っている人たちがたくさんいる。

それは貧乏だから辛いのではなく、親がいなかったり学校に行けないから辛いのでもない。

自分の存在意義を見出せなくなってしまう、その状況が何にも増して苦しいんだと、今の私は思い至っている。

 

だから「多様性」なの。

どんなに小さな声も、どんなに偏った意見も、排除しちゃいけない。違うと思ったら、話し合いをしなきゃいけない。たとえ合意できなくても、その人の存在や、その人がそこに至った経緯は認めなきゃいけないと思う。たとえ歴史修正主義者であっても。もしくは多様性を認めないヘイトスピーチをするような人たちであっても。

喧嘩の先に暴力があり、暴力の先に戦争があるとしたら、その根っこの根っこには、自分に中に眠る“相手を認めようとしない心”の存在があると思うから。

虐げている人も、虐げられている人も、心が平穏でないという点では一致しているように思うから。

 

あぁまた頭がグルグルになってきた。

今日は元旦だっていうのに。

 

ちょいと、厄払いに行ってきます。

小雪舞う中、きれいスッキリ、今年もまっさらな心でスタートしなきゃ。

 


2014年ふりかえり

2015-01-01 | 2015年たわごと


(台湾・タロコ族のKuhongさんと。※ 残念ながら人生のパートナーではありません)

 

あけましておめでとうございます。

時が過ぎるのは本当に早くて、ゾッとするくらいです。

来年も盛りだくさんなのですが、この調子で時が経ったらまたアッという間に終わってしまいそうで怖い…。

と思って、自分を落ち着かせるためにとりあえず去年を振り返りました。

 

ということで、アッという間に終わったと思ったけれど、それなりにいろいろがんばったんだなぁ。

特に去年は、福島の取材とソーシャルツアーをがんばったみたい。(なんだか遠い記憶になってしまって他人事と化しているけど)

原稿はあまり書けず、その代わり、「スタート」した取材が3つも生まれた。

教誨師と、アジアのばあちゃんと、外国人労働関連。

教誨師の取材(生と死について)はロングランで数年かけてやるつもり、ですが、アジアのばあちゃん取材は来年仕上げないといけない。…ほんとにできるやろか。

 

外国人労働の現場については、多文化共生と強くリンクするのでこちらも是非やりたいところ。

でもその表現方法として、「リポ」というのはあまり面白くないような気がしている。身近なところに外国人がさほどいない人にとっては、結局他人事になってしまうから。

それで、インターネット放送とか写真展とか、もっと立体的な発信方法を考えたっていうわけです。

そちらも来年、どうなるか…。

 

ちなみに先週、インターネット番組のテスト収録用ミーティングをやりまして、それはかなりイイ感じで進みました。また改めて経過報告アップしまーす。

 

さて、夜が明けたら元旦だ。

明日からアジアのばあちゃんエッセイ、執筆始めます。

 

2015年は勝負年。

どうぞ引き続きお見守りくださいますよう、宜しくお願いいたします。

そして世界中の人たちが、争いなく、尊厳をもって生きられる世の中に一歩でも近づきますように。