アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

Bario Food Festival 2014

2014-08-04 | ボルネオの旅

今回で何度目だっけ、と数えてみる。

初めて村を訪れたのは2008年3月。出たり入ったりを繰り返しながら、2ヶ月くらいその周辺にいた。

その次は2009年1月。到着するなり風邪を引いて寝込んだ。

フードフェスに初めて参加したのは、確か2010年3月。携帯の電波と共に、伐採ロードが開通していた。

そして次が2012年7月。コンクリートの道ができて、ラジオ放送も始まっていた。

 

だから今回は5回目のBario、3回目のフェスってことになるんだな。

年数にすれば、Bario歴6年。

村は着実に発展して、村で見かける車の台数も3~4倍に増えた。

フェスも手づくり感いっぱいだった4年前に比べ、今年は随分オーガナイズ化が進んだ印象。

 


(2012年に村の中心にできたステージと、白いコンクリートの道。テント設置もこの年から)


(バンブーオーケストラは毎年オープニングで大活躍)

 
(恒例になった女装ファッションショー。この後モデルによるフットサル大会が行われる) 

 
(伝統ゲーム大会も今や恒例。竹ポール登りはかなり難易度が高い) 


(イギリスからは毎年ボランティアの学生たちが数十人規模で訪れる。木登りは苦手)


(観客席には、村のカッコイイおばあちゃんが必ず1人はいる)

 

Barioは、ボルネオ島の真ん中に位置するクラビット高原の、そのまた真ん中にある人口数百人の村。

村人の大半を占めるクラビット民族は、都市部や周辺の村々に住む人を全部合わせても3000~5000人しかいないらしい。今は混血化が進んでいることもあって、人口を把握することすら難しい。

 

Food Festivalは今年9年目を迎えたばかりの新しい祭りで、もともとはイギリス人活動家・Jason Gathrone Hardy氏の提案が発端だった。

人々は当時、村が過疎化している現状をなんとかするために観光業で若者の仕事をつくりたいと考えていて、その数年前からホームステイ用のロッジが幾つか整備されていた。加えて、民族独自の言葉や文化がきちんと継承されずに消えていく危機感を、一部の人達は薄々と感じ始めていた。

 

今年のフェス責任者であるL. Bulanさんによると、フェスの目的は次の3つに集約される。

・伝統文化と食文化の継承

・創造力の促進

・村の再活性化

 

そして私などのヨソモノは、更にこれに加えて4つ目の効果をフェスに期待してしまう。

それは周辺の森の保全であり、不当に彼らの土地が搾取されることが未来永劫ありませんように…ということ。

 

たとえば4年前、最寄りの街から村までの伐採ロード開通には、村の中に賛成意見も反対意見もあった。それを踏まえて森林の利用方法を考えるのは彼ら自身だが、村の発展のために良かれと思って許可した伐採が、何年か後に悲惨な環境汚染だけを残した例は他の地域にいくらでもある。

だからそうした詐欺まがいの勧誘に騙されることがありませんように、と私は念じるように願うしかない。(それは私なんかより村の人達の方がずっとよく知っている現実なのだけれど。)

 

森は、人がいてこそ守られるのだ、とボルネオに来て強く感じるようになった。

 

それは日本の里山のように手入れすることによってではなく、存在することによって。

 

ここでは、人の存在感を示すことがとても大事なんだ。

 


(村の伝統的なバンブーダンス)


(伝統的な脱穀方法のデモンストレーション。6年前には収穫期に実際に行っているのを見かけた)


(ご飯はつぶしてバナナの葉で包む。村のお年寄りの中には耳たぶが長い人も)

 
(この地域で穫れるバリオ パイナップル。高原気候で育つため、驚くほど甘くてジューシー) 


(これまた驚くほど美味しいパッションフルーツ。いずれも野生ではない)


(クラビット族の伝統の舞い。ホーンビルと呼ばれる鳥の動きを模倣している)

 

今回、もし村が劇的に変わってしまっていたらどうしよう、と思って来たのだけれど、そこにはやはり変わらない風景が在り、変わらない人々がいた。そればかりか、私がこの村に惚れ込んで以来、最も「帰ってきた感」を得ることができたのは、正直、少し意外だった。

顔見知りの人に忘れられていたらどうしよう、とか、日本人客を連れてこれなかったのは役立たずだろうか、とか、することがなくて一人で暇になったらどうしよう、とか、今更ちっぽけな考えがブンブン飛び回る小蠅みたいに鬱陶しくつきまとっていた。

 

ちなみに私は意外にも遠慮しいな性格で、相手が本当に心を許してくれたと実感できるまでは何かにつけ気を遣ってしまう。英語も未だお粗末だから、ベラベラ喋られると60%くらいしか聞き取れないこともある。その度に唇を噛み締めて、自分にできることを探す。

小学生の女子がすぐ仲良しグループに帰属したがる気持ちが、こういう時は痛い程よくわかる。
コンフォートゾーンと呼ばれる安心空間を見つけて、しがみつきたくなる気持ち。

 

だからこれまでの6年間は、ここが第二の故郷だと嬉しそうに言いながら、実は故郷の一員になれるようにひたすら祈るしかない、という肩身の狭いただの居候だったと思う。

 

それが今回は、ほんの少しだけ、そのポジションからの解放あるいは昇格の可能性が見えた気がした。

何より私はようやく肩の力を抜いて、フードフェスに関わり始めることができたのだ。

 

それは何かというと。…ではなく、それはなぜかというと。

 


(なんとフェス中にホーンビルがやってきた。ペットのような野生のような…)


(和名はサイチョウ。神様の使いとされ、Barioが属するサラワク州の州鳥にも指定されている)

 

ホームステイ先の長男、ラワイが里帰りしたのはフェス2日目。

その前々日に私は到着し、同日、彼の友人2人がクアラルンプールから初Bario入りした。

同じロッジで挨拶をし、片方の彼は写真家のマディ、一方は彼女のエラインという名だと知った。

 

Bario Food Festivalは地域活性化が目的のひとつなので、できるだけPRし、できるだけ多くの人に来てもらいたい。同時に都会や他国に住んでいるクラビット族の仲間たちにも、この機に是非帰郷してもらいたいと人々は願っている。

ラワイはそのために、今年からFacebookで発信ボランティアを始めたらしかった。

私はホームステイ先のママにFacebookページの存在だけを知らされたため、そのセンスの良さに「一体どんな人が発信を担当してるんだろう」と実に不思議に思っていた。ら、なんと身近な存在のラワイだったというわけ。

 

ちなみに彼はその役目を「キュレイター」と呼んでいた。

キュレイターとは、美術館などの企画・展示を担う人の呼び名。

Facebook編集にその名を付けるセンスが、これまたカッコイイではないですか。

 

さすが、彼は広告関係の仕事人だそうだ。

 


(Facebookページ:https://www.facebook.com/pages/bariofoodfestival/271633572251?fref=ts)

 

それで、クアラルンプールから来た友人2人は、来年のフェス10周年に向けたPR写真を撮り溜めるため、ラワイからボランティア撮影隊を頼まれて来たのだという。

 

そして彼が到着したフェス2日目、Facebookの他にも写真を活用できないだろうか、と即席会議が設けられた。

出てきたアイデアは、ミニ写真展、生活と文化証言も合わせた写真集、シネマフェス、こども対象の動画ワークショップなど…。
そして早速、今回の最終日(翌日)夜のステージで写真コンテストを開いてみることになった。

 

結果的に写真コンテストは写真スライドショーに変わり、ラワイ、マディ、私が撮った写真を皆の前で上映したのだけれど、それにしたって今までにないミニ上映会は会場の雰囲気をガラリと変えた。
(私はマディの写真に見とれていて、会場写真を押さえるのを忘れてしまいました…)

 


(このステージ左側にスクリーンが設置され、即興スライドショーが上映された)

 

そして全てが終わった夜。

私たち一同は、囲炉裏を囲んで反省会をした。

 

まずママが口火を切る。

「みんな褒めてはくれるけど、それだけでは来年の改善につながらないわ。どう改善したらいいかを教えてほしいんだけど…」

ジェイソンが提案する。

「ナショジオの写真家が来ていたけど、知ってる? 来年はマスコミの受け付けデスクが必要かもしれないね。主催者として把握しておく必要がある」

ママが「今年も考えたんだけど人手がなくて」と言うと、エラインがすかさず発言した。

「広場の一番端のテントのところに机を置いて、一人配置するだけでいいんじゃない?」

次いで他の人たちも続々参戦。

「今のテレセンターの前では確かに分かりにくいかもね」

「そもそもマスコミって、受け付けがなくても主催者に申し出るもんじゃないか?」

「いや、写真だけだったら分からない」

「普通マスコミの人はプレスカードというのを持っていると思うけど」

「いや、フリーランスだったら分からないよ」

…そんなやりとりが球投げのようにポンポンと続いた。

 

「私は…」と、少し物怖じしていた私も勇気を出して輪に入った。

「外国人用に英語のタイムスケジュールを用意するのは難しい?」

 

3日間のフェスティバルでは、大まかなプログラム内容は(クラビット語かマレー語で)示されるのだが、タイムスケジュールがないため、何時に何が行われるのか現地の人でも詳細に把握している人はほとんどいなかった。

ゆったりのんびり過ごそうと思えばそれでもいいのだけれど、初めて来る観光客はさぞかし戸惑うだろうと想像された。それに私たちだって、村内を散歩しに行きたくても何時に戻ってくればよいかが分からず、結局ぶらぶらと暇を弄んでいる内に疲れてしまう、という事態になっていた。

 

ママは言った。

「そう、分かってるんだけどね。今回だってステージのプログラムが決まるのが前日だったり当日だったりしたのよ。なかなか事前には決まらなくて」

「じゃあ、タイムが決まった時点でボードに書き出したらどう?」

「確かにそうね」

他のみんなも「ンダンダ」と言わんばかりに頷いていた。

 

その後も、考え出すと改善点はいろいろあることに気がついた。

 

今回新たに友人になったクラビット族の女性は、食事が肉食ばかりでバラエティが少ないことに不満を持っていた。普段は都会に住む彼女らしい意見だけれど、確かに「食の祭典」という割には質素すぎる食事で、メニューも少ないナァと気づかされた。

「だったら、バリオバーガーなんて、いいんじゃないですか?」

「バリオカレーとか!」

「今は試食しかできないジャングルフードも、定食にして出したら売れるかも…」

そんなアイデアを彼女と一緒に出し合った。

 


(試食用のジャングルフード。ショウガのような植物の茎の芯だけ取り出して炒めたもの)


(1日目と3日目の夕飯はスポンサーから提供される。この流れ作業も毎年進化中)

 
(フェスの途中で一端家に帰る村人たち)


(今年はプロのフォトグラファーが何人もいた。プロの映像ディレクターも終始ビデオを記録)

 

つまり“ただの居候”からの卒業は、自分にも何か役割を与えてもらえる(かもしれない)ことによって実現する。

 

そしてそれは受動的に待つのではなく、積極的に提案し、手を挙げればいいんだということ。

そんな簡単なことに、6年も経ってようやく気がついた次第。もしくは恐る恐る挙げた手が、ようやく空振り三振せず誰かの目に留めてもらえるようになったのかもしれない。

 

来年のフェス10周年は、村から離れて暮らしている遠隔チームも、きっとFacebook上で議論しながら準備を進めていくことになる。

物怖じしている場合じゃないゾ、と私は自分に言い聞かせる。

 

幸せの船に乗るチャンスは、逃しちゃいけない。

 

今から楽しみだ~。

 


(今年は村の女性たちのパフォーマンスが劇的に進化していた。みんなで創造している感♪)

熱帯雨林の現状。

2014-07-31 | ボルネオの旅

ボルネオ島、サラワク州。

いつもの空港から、小型機に乗って東へ向かう。

45分間のフライト。

 

2年前は、こんなんじゃなかった。

 

いくらなんでも、ここまで酷くはなかった。

 

 

森がようやく森らしくなった時、我に返って時計を見たら既に30分が過ぎていた。

そこは国立公園。

本来、熱帯雨林は、上から見るとモコモコしている。

いろんな色が淡く重なり合って、ブロッコリーみたいになっている。

 

そしてその下に、数え切れないほどたくさんの生き物が息づいている。

 

泣き出しそうになるのを堪えていたら、急に視界がパーッと開けて水田が現れた。

いつもの村。

ジャングルの中にひっそりと佇む村。

 

森と人の関係を、想った。

 

お願い、壊さないで… と心の中で叫ぶことしかできない自分は、あまりに小さい。

小さすぎる。

 

そしてこれらの木や油ヤシの多くは、日本に運ばれている。

 

 


これまでとこれからのこと。ボルネオ

2012-08-10 | ボルネオの旅

第二の祖国であるボルネオ島・バリオ村と、わたしは今後どう付き合っていくか。
…そのことを、バリオ村に出会ったときからずっと考えている。

旅行者の一人としてたまに訪れる、というのではどうしてもイヤな理由は、多分、あの村を“自分の居場所”としてちゃんと位置づけたい、もしくは村人にそう認められたいと、強く願っているから。

どうしてバリオ村じゃなきゃいけないのか、という理由は、自分でもよく分からない。
恐らく明確な答えなんかはなくて、あるとすれば、「前世の血が騒いだ」という類いのもの…つまり超個人的で独りよがりで主観的な、「だってスキなんだもん」に尽きるように思う。

当然、日本の田舎で何か活動を始めようとする都会人が、必ずぶつかる「ヨソモノ」という壁が、そこにもある。
だけど日本の田舎出身の私にとってみれば、日本の田舎より、ボルネオの田舎の方が、ずっと「ヨソモノ」に対してオープンかつ開放的なんじゃないかな。

もしくは、日本だったら変に空気を読みすぎちゃって、誤読も相まって勝手に疎外感を感じてしまうところ、ボルネオでは楽観的でいられるからラクチン♪…ってことなのかもしれない。
…いやいや、それだったらボルネオでも他の土地でも、似たような田舎は至るところにあるしなぁ。


バリオ村に出会って以来、「土地とのご縁」を信じるようになった。
人、景色、空気感、におい、人の暮らし方、そして土そのもの。
そのどれもが自分を受け入れてくれそうな予感がしたとき、「ご縁」というのは結ばれるんじゃないかと思う。


バリオ村の社会的課題は、日本の田舎とよく似ている。

若者が都会に出て行ったまま帰ってこない
農業を続ける人が減っていく
自分たちの文化や風習が受け継がれなくなっている

それらが日本の場合と少し違うのは、単に村だけの問題ではなく、それが民族の問題だということ。
村の衰退と消滅は、民族としてのアイデンティティを失うことに直結するということ。
それは多分、「故郷を失う」のとは比較にならないほどの喪失感だろうなと想像する。

一時期は、そうした「民族的大ピンチ村」が世界にどれくらいあって、それぞれの村人がどんな取り組みをしているのか?…みたいなことを取材して回れたらいいなと思ってたんだよね。
だけどその構想は私のチカラ不足と資金不足と根性不足のために棚上げされ、その前に、もっと具体的なことで動けないか?と考えるようになった。その取っ掛かりとして、今回2年ぶりにバリオに飛んだというわけです。


そしてこうやってつらつらとブログを書きながら、頭を“そっちモード”に切り替えて、午後からバリオ企画を視覚化しようと思っています。
何と何を結びつけて、誰をどう動かして…と、全く初挑戦の連続だけれど、これは必ず新しい快感につながるはずだと信じているから。それに、これは今までにたくさんの情報(ネタ)をもらい、たくさんの写真を撮らせてもらった私の責任でもあるからね。

「取材人」であることを目指してきた自分の、新しい次のステージが始まる予感です。



(ボルネオのジャングルに自生する野生ショウガの花♡食用にも◎)


2012年夏 旅の全貌

2012-08-08 | ボルネオの旅

先日、ボルネオ~ミンダナオの旅から帰ってきました。
LCC(格安航空機)をこれほど乗り継いだのは…初めて?久しぶり? なので、記録も兼ねて記しておきます。
もしイレギュラーな旅をされる方は、片道購入が可能なLCCが超おススメ。
ほんと、「エアバス」という言葉がピッタリです。

7/18(水) 23:45 羽田発 → 6:10 クアラルンプール着
7/19(木) 9:30 クアラルンプール発 → 12:05 コタキナバル着

航空機:Air Asia
運賃:31684円(全て含む)





コタキナバルは、東マレーシア(ボルネオ島)サバ州の州都。
熱帯雨林エコツアーやオランウータンで有名なところです。

とはいえ、市街地はこんな↑感じ。
ショッピングモールがいくつかありますが、比較的こじんまりしたきれいな街です。
熱帯雨林ツアーに行く人は、更に飛行機で1時間のところにあるサンダカンという街に行くみたい。


7/21(土) 9:50 コタキナバル発 → 10:40 ミリ着

航空機:Air Asia
運賃:3622円(145MR)

これをですね、私はウッカリ乗り損ね、午後発のマレーシア航空便を別途購入する羽目になりました。

17:20 コタキナバル発 → 16:10 ミリ着

航空機:マレーシア航空国内線
運賃:6082円(240MR)



私と同じように乗り損ねた人が3人いて、そのうちの一人の女の子と一緒に次の便をとりました。
乗り損ねたのは空港のサインボードが間違っていたせいで、私たち4人は懸命にAir Asiaの職員に訴えたのだけれどどうしようもなく…。その日中にミリに着かねばならない私と彼女は、涙を飲んで別会社の航空券を買い直したのあります。


(マレーシア航空でも、国内線は小さい)


ミリは、サバ州の南にあるサラワク州の都市。
サバ州とサラワク州は、結構雰囲気が違います。
ひとことでいえば…サバ州は観光客誘致のためにすごく整備されている感じ。
サラワク州は華僑色が強く、整えられていないところが逆に魅力的?かも。





ミリでは、いつもはホストファミリー宅に泊まるのですが、今回は4年前に泊まったゲストハウスに泊まることに。
そのゲストハウスのオーナーであるDavid機長に再会できて、今回の旅の幸運をゲットしました☆



7/22(日) 10:05 ミリ発 → 10:55 バリオ着

航空機:MasWing
運賃:2888円(116MR)



バリオ行きの飛行機は、15人乗りくらいの小型機です。
もちろん機長席は丸見え。
客席の前方上には小さな扇風機が付いていて、いかにも「空飛んでる!」という生々しさを感じられます。



バリオはボルネオ島でもインドネシア領に近い奥地地帯にある小さな村です。
その辺一帯はクラビット高原と呼ばれ、標高が高いので真夏でも朝晩は肌寒いくらいで実に快適。
南国なのに…と行くときには妙な気分にはなりますが、まさに日本の避暑地にピッタリです。

2年ぶりに降り立ったバリオ村は、メイン道路がセメントで固められ、村の中心には大きなホールが建てられていて、随分発展したな~という印象でした。
でも懸念していたような“悪い”発展じゃなく、バリオらしい雰囲気を残しつつ、少しずつ便利になっている感じでホッとひと安心。実際、道路はやはりセメントの方がバイクで走りやすいです。これなら自転車でも走れるしね。

ここで、7/26-28の3日間、第7回フードフェスティバルが開かれたのです。
詳細は後日ビデオにて、ということにしますが、とにかく私はそれに合わせて来たわけで、同じくバリオに注目しているローカルツーリズム研究者や文化人類学者などの海外勢が何人か来ていました。

あと、イギリスからの高校生が100人ほど来ていて、ジャングルトレッキングやらボランティア作業やらをしていました。
彼らは1ヶ月もマレーシアに滞在して、各地でいろいろな体験をするのだそう。元植民地との交流事業?とはいえ、イギリスってやることが大胆だね…。


(フェスで売られていたお弁当。激ウマでした)

(いつもの夕飯。ジャングルフード)

(私が到着した日の前日にもらわれてきたメス犬の「スキ」)


7/29(日) 9:20 バリオ発 → 10:10 ミリ着
     14:50 ミリ発 → 17:00 クアラルンプール着

航空機:Air Asia
運賃:6195円 (248MR)



マレーシアの首都・クアラルンプールは大都会です。
写真は有名なツインタワー(&満月が真ん中に!!!)。

なんと今回、10年ぶりにココに来たので妙な感慨にふけってしまいました。
そして4年ぶりの友人にも会えて、たくさんたくさん話もできたしね。


(住宅マンションの窓には大量の洗濯物が!)

(LCCは大抵、飛行機まで歩く)

(そして階段で機内へ。今度はCebu Pacificね)

7/30(月) 18:30 クアラルンプール発 → 22:10 マニラ着
7/31(火) 5:40 マニラ発 → 7:25 ダバオ着

航空機:Cebu Pacific
運賃:16580円







マニラ行きの飛行機では、もういきなり「フィリピン!」という雰囲気になります。
まず機内のアナウンスが急にフィリピン訛りになる(Cebu Pacificだから尚更)し、お客さんも声が大きくなる…ような気がする。
私の個人的な気分としては、マレーシア→フィリピン の移動は、東京→大阪 に行くみたいな感じです。…なんというか、暑苦しくて疲れるんだけどやめられない! …みたいな。タガログ語やビサヤ語(フィリピン南部の言葉)を聞いてるだけで、あまりのチャーミングさに嬉しくなるもんね。


(ダバオ空港)

(ダバオはドリアンで有名な街!)

ミンダナオ島の大都市ダバオは、思いのほかピースフルなところでした。
ゲリラ闘争が未だ解決しないミンダナオ島なので、危険区域になっていないとはいえ、どれほどの危険度かしら~と思っていたのですが、外務省の出先である在ダバオ出張駐在官事務所にも出向いて確認したところ、スリや引ったくりの被害さえほとんどないのだそうです。
街の人いわく、「市長が厳しいからね」「フィリピンで最も安全な街だと断言できるよ」と。



ここでのミッションは、今年10月に予定している知り合いのツアーをコーディネイトすること。
まず日系人会の方にお会いしに行き、交流事業が可能かを相談。
次いで日本人墓地などを下見して、見学に何分ほどかかるか見て回りました。


(日系人会が運営するインターナショナルスクールのこどもたち。とっても雰囲気のいい学校です)

(戦争で亡くなった日本人兵士や日系人の墓地は、地元の人達がいつもきれいにしてくれています)


8/2(木) 10:55 ダバオ発 → 12:40 マニラ着
    15:20 マニラ発 → 19:55 関西着

航空機:Cebu Pacific
運賃:24406円




(月が自ら光りだす過程は、神秘そのものでした)


そんなこんなで無事帰国し、その日の夜行バスに乗り込んで、翌日の朝東京の自宅に着きました。

いや~、強行だったけど、なんとか最後までいったね。

ミッションも、ほぼ全てこなしました。
そのお話はまた今度。

…あ、そうだ、今回の旅で購入したモノを最後に公開しまーす。





ちょっと今回はいろいろ買いすぎたんですけどね、よく見るとほとんど日用品…。
まるで買い出しに行ったようだ、と帰国の度に思います。
(でもオイスターソースが約50円なんだから、やっぱり買わなきゃでしょ!!)



2年前に風邪を引いて寝込んだ場所

2011-01-29 | ボルネオの旅

2年ぶりに寝込んでいます。

・・・・・つらい。


頭痛と扁桃腺の腫れと咳とタンと悪寒と鼻水。


こういうときにも思い出すのは海外のことばかりで、そういえば前回風邪で寝込んだのはボルネオ島の奥地にある村、バリオでのことだったなぁと、頭を抱えながら懐かしんだりして。
あれは2008年の大晦日から2009年の元旦にかけてのことでした。

ちなみにマレーシアという国は、どうも私のルーツを感じさせるというか、なんとなく安心してしまうのですね。
それでフッと神経が緩んで風邪を引いてしまう。


死ぬかと思ったこともあります。

それもまたマレーシアでした。9年前、マレー本島のジャングルの中で。
あれはデング熱じゃないかと思われるほど、頭を金槌でかち割られたような鋭い痛みが2晩ほど続きましてね。
初めて、海外で死ぬのは寂しいなぁと思った程です。


それで、せっかくなので久しぶりにバリオ村の話を。



これが私の居候先というか、あつかましく言わせてもらえば実家みたいなところです。

ロングハウスというの。ボルネオ島のいくつもの先住民族に共通する伝統的家屋。





これが台所。

ダイニングの真ん中に簡素な囲炉裏があって、基本的にはそこで料理をします。
でも今はこれを無くしちゃって、2つのシンクに挟まれてある別の囲炉裏を使っているようです。
ちなみに台所のスタイルは家によって様々。これがスタンダードなのではありません。




で、こちらがリビングルームのような長い長い廊下です。
この左側にいくつもの寝室があって、全部で8家族分の人が生活できるようになっています。
Labang Longhouse というここの家は、そのほとんどを客室にしていますけど。


それでですね、私が不思議なルーツを感じてしまうという理由の1つは、彼らの伝統的デザインにあります。

これ。↓



ここのお父さんがデザイン好きなので、こうやって自分の書いた模様を切り絵みたいにして壁に立て掛けてるんです。

基本的にはこの模様もボルネオ島の多くの先住民族に共通するもの(というか、台湾やベトナム?やアイヌ民族にも共通するらしいです)で、これを見たとき、アッと思ったのであります。

昔々、幼い頃に何度も見た夢と一緒だ! と。

それはどちらかというと悪夢に近いというか、寝る前にこういうゴチャゴチャした模様が目蓋にバーッと迫ってきて眠れなかった、という体験なのですが。

・・・でも確かにこんな感じだったよなぁ。





今では怖くもなんともないんですけどね。
ただ不思議な感じがします。


私が全信頼を寄せているある人にいわせると、私の前世はシャーマンなんだそうです(笑)
遠い祖先がそっち系統だったのか、もしくは本当に前世の魂が、ボルネオ島のこの辺りで怪しい祈祷を行っていたのかもしれません。

・・・だったら今すぐ、このうっとおしい頭痛に自ら祈祷をかけて治したい。

時を経て、そのオリジナルの力も役に立たなくなっているのでしょうか。


新聞のトップに私顔が!

2010-07-16 | ボルネオの旅

見てください!!!

これ、7月1日のサラワク新聞(正確には「サラワク トリビューン紙」)です。

トップ写真で美しく(笑)ほほえんでいるのは・・・ワタシ。


実は先週まで、フィリピンとマレーシアに1ヶ月ほど行ってたんですが、そのうちのマレーシア・ボルネオ島で私の顔がローカル紙にババンっ!と掲載されました。

すごーい。


記事は英語なので(しかも写真に撮ったので文字が逆さま・・)読み辛いですが、要約すると「Bario(というジャングルの中にある村)でフードフェスティバルが今日から開催!」という内容です。

私の第2の故郷でもある Bario村で、5年前から始まった「食の祭典」に取材も兼ねて行ったんです。
それで、こっちが取材してるのに、取材(撮影)されたってわけ。

おかげで良い記念になりました。

ちなみに私の写真が掲載された背景には、主催者の一人が新聞社に写真をネット送信するときに、この写真ともう一枚を送った段階で通信エラーになり、他の写真が送れなかった、という事情があるんだそう。。。

そうか、私の微笑が特段選ばれたわけではないのですね・・・。


ということで、フェスティバルの詳細はまたの機会にして、まずは新聞掲載のご報告でした~(笑)