アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

言葉を守る。

2008-04-05 | ボルネオの旅(-2009年)
Kelabit Highlandと呼ばれるエリアは、ボルネオ島サラワク州の北東に位置する。ちょうどインドネシアとの国境に近いエリアで、昔は民族争いや領土争いが頻繁に起きていた。

ここ一帯に住んでいる Kelabit(クラビット)民族は、人口5000~6000ほどの少数民族で、20以上の民族が共存するサラワク州の中でも決して多い方ではない。


私がお世話になっているホームステイ先のLaban家では、母親のLucyと息子のLianが、自分たちの血筋であるKelabitの言葉を記録し、後世に伝えるプロジェクトを立ち上げている。Lucyによれば、学校の教科に入っていない Kelabit 語は、家庭で親から子に受け継がれるしかなく、それが今、危機的な状況にあるのだという。

「気づくのが遅すぎたのよ。Kelabit 語がまさに消えつつあることをつい数年前に気付いて、私自身、今パニックに陥っているの。」



言葉が消えてしまう・・・。

つまりそれがどういうことで、どれほど深刻な問題なのか・・・、その時、日本人の私には今いちピンとこないテーマだった。



話を聞いた翌日のこと。
Lucyに頼まれて、村にある2つの保育園に写真撮影に出かけた。

各保育園には、就学前の4歳前後の子どもたちが6~8人通っている。
保育園なので基本的におもちゃで遊んだりモノをつくったりして時間を過ごし、その合間に先生が簡単な単語や数え方を教えているのだが、つまりその「単語」が Kelabit 語(であるべき)で、訪れた2つの保育園では、Lianお手製の教科書(挿絵つき単語帳)や、マレー語を Kelabit 語に置き換えてつくった教材を使っていた 。





「小学校や中学校で習うのはマレー語と英語だけ。あと中国語や人口が多い民族の言葉は選択授業で習うことができる。でも Kelabit みたいな少数民族の言語は教科書さえないわ。」

保育園でも Lucy たちが関わっていないところでは教材がなく、先生が Kelabit 語に精通していなければ、正しい発音や文法さえ上手く教えられないのが現状だという。ましてや、都会で他の民族と同じ学校に通う子ども達はなおさらのこと。
そんな状況が、気づけば今までずっと続いてきた。







何年にも渡って公立小学校の校長を務めているLucyは、そんな現状に長らく気づかなかった自分を責めているようにも見えた。

「私でさえ、Kelabit 語をあまり上手くしゃべられないのよ。夫のDavidは、文法はあまり上手くないけど、単語はとてもよく知ってるわ。私は文法はできるけど、単語はあまり知らないの。」


文法、単語どちらともに精通している年配の Kelabit 族が健在なうちに、正確な言葉を記録し、教科書や辞書をつくらなければ、今や口伝えで確実にモノゴトが伝わっていくほど甘い世の中ではないということなのだろうか。



ふと、自分の母国語である日本語について思い返した。
小・中・高と国語を習ったにも関わらず、私は自由自在に日本語を操れている・・とは口が裂けても言えない。未だ自分の気持ちや伝えたいことを表す言葉の選択に、四苦八苦している。
・・・12年間みっちり国語を習った私がこの有り様。
教科書さえない Kelabit 語の継承が容易でないことは、想像に難くない。



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小型飛行機で約30分の街・Miriに、2週間ぶりに下り立った。

同行していた Kelabit 族の友人と、市内にある大衆食堂で夕食をとる。ふと友人の知り合いが通りがかり、相席することになった。
母親は Kelabit 族。聞けば、明日は娘さんの結婚式だという。
夫は父親と同じ中国人だ。


話が盛り上がる友人同士を横目に、娘さんに聞いた。

私「あなたは Kelabit 語わかるの?」
娘「家では、父親とは中国語、母親とは Kelabit 語で話してるんです。」
私「じゃあ、中国語と Kelabit 語とマレー語と英語、4つも話せるのね!」
娘「そうですね(笑)でも、Kelabit 語が一番好き。」
私「・・・じゃあ、もし子どもができたら、何語を教えるの?」
娘「それはまだ分かんないです(笑)」



ようやく、彼らが直面している問題の深刻さが分かった気がした。


飛行機でしか行けないジャングルの中にポツリとある小さな村でも、時代の波は確実に押し寄せる。「教育」の中に取り込まれない文化や言葉や慣習は、自ら意識的に継承していく他はない。



「言葉」とは何か。

きっと単に物事を伝えるだけの手段ではない。

ときに思考を促し、思いを共有し、文化をつくり、そして人々は “自分は何者か” を知る。
母国語の崩壊が意味するところは、つまり自分たちのアイデンティティや心の拠り所や誇りを失うことに等しいのだろう。



Lucyが言った。

「他の少数民族も、全く同じ問題を抱えているのよ。」


いくつもの民族が共存する国、マレーシア。
ダンスや民族衣装が観光の目玉としてもてはやされる一方で、その文化の核ともいえる言葉やアイデンティティがどんどん薄れていっているのは、何とも皮肉で悲しい現実だ。


「言葉」を記録し継承するLucyたちの取り組みは、まだまだスタート地点。
“生物多様性”と同様、せっかく生まれ育まれた多様な言葉の文化が消えてしまわないうちに、それらの価値が認知され広がっていくことを心から願っている。




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