アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

「声をきく」ワークショップ

2008-06-21 | フィリピンの旅(-2009年)
訪れたのは、ジェネラル・サントス市内にある小さな教会。
ここに、市内各地に住む高校生18人が集まった。

彼らは皆、日本人パートナーによる学費支援で高校に通っている。
つまり支援がなければ公立の学校にさえ通えない子ども達だ。


ICANが開いた1泊2日のワークショップは、今回この地で初めて試みられた。

目的は、彼らの経験や思い、考えなんかを言葉にし、お互いに聞き合うこと。
様々な背景をもつ子ども達の胸の内を知ることは、彼らのためにも、また彼らを支援する側の人達にとっても大きな価値がある。そうスタッフ一同は胸を膨らませていた。



そして21日夕方。
ワヤワヤと集まって来た、一見街で見かける若者となんら変わらない極フツウの高校生たちは、まずお互いに自己紹介をし、自分の長所や短所を書き出して自己分析をし、その後グループに分かれて話し合いを始めた。
自分たちとは違う宗教・イスラム教の村ではどんな日常風景が広がっているのか、について。

ファシリテーターを務めるアテテスが言った。

「単にモスクが建ってるだけじゃないわよね?そこで生活するには何が必要か、どんな人達がどんな生活をしているかを考えて、それぞれグループごとに絵に描いてみて。」


そうやって、自分自身のことや他人のこと、その違いや共通点を考え話し合う時間がゆっくりと流れた。





翌日午後、コトは突然起きた。

全員が輪になってアテテスの話を聞き始めたとき、一人の女の子が急に涙を流しはじめた。
言葉が分からない私は、その涙の理由も何が問題になっているのかも全く分からないまま、ただコトの成り行きをだまって見守るしかなく、誰かが女の子を中傷したのかしら、と思ってみたり、誰かが起こした喧嘩の原因について話し合っているのかしら、と想像してみたり・・・。

けれどいくら待っても事態はちっとも変わらず、変わらないどころか次々と他の子ども達まで泣き出す始末。アテテスも深刻な顔をしてそれぞれの子の話を聞いている。

そんな状態が、1時間、2時間・・・と続いた。

何ひとつ訳が分からないまま、私はその場の緊張した雰囲気や、彼/彼女たちの表情をじっと見つめていた。
そして何故かこんなことを思っていた。


“きっと、私が今まで当たり前にやってきたことは本当はものすごく恵まれたことで、その中で今の自分がつくられたという事実は、本当は奇跡に近いほど有難いことなんだろうな。”



ワークショップ終了後、夕飯を食べながらアテテスが言った。

「それにしてもビックリしたわよ。全員が泣き出すなんて。」

「なんで泣いてたの?」

「私が質問したのよ、“自分を最も脅かしてるものは何か?” “何が一番怖いか?”ってね。そしたら次々と泣き出しちゃったの。」

例えばある男の子は家族を失うのが怖いと言った。
小さい頃に母親が家出をし、2人の兄弟は病気で亡くなり、唯一残った兄も数年前に結婚して家を出た。今は闘病中の父親の世話をしながら学校帰りにタクシーを洗って一日300円ほどの稼ぎで生活している。
これ以上、ひとりぼっちになりたくない、と。

また別の子は、兄が買ってきたお酒でホームパーティをしたときに父親と2人の兄貴が喧嘩をし、止めに入った母親を思い切りぶったという話。その光景がトラウマとなって彼を脅かしている。

また別の女の子は、自分がどんなにがんばって働き、どんなにがんばって勉強しても関心を示してくれない父親の話。更に親戚からレイプされたことを打ち明けた時でさえ、父親は守ってくれなかったという。



フィリピンに限らずきっと日本でも、たくさんの子ども達が同じように辛い思いを胸にしまい込んで生きている。

ただただ願うのは、そうした深い傷を少しでも“声”に出し、共有できる機会が彼らに与えられることだ。
例えば自分の感情を涙に込めて流せたり、 例えば複数の人が自分の話に耳を傾けていて、また自分も他の人の話を聞いて比較できたり、 例えば信頼できるリーダーに行動や考え方を導かれたり・・・。
そうした私が当たり前にできてきたことが、彼らには決して当たり前に用意されていないのだ。






パヤタスのゴミ山に佇む診療所で、28日、ふたつ目のワークショップが開かれた。
やってきたのは、マニラ郊外の児童施設で暮らす元ストリートチルドレンの子ども達。

ファシリテーターのマイエンが聞いた。

「子どもの権利って何だと思う?」


「教育を受ける権利」
「家族に愛される権利」
「名前をもつ権利」



何年も路上で暮らしていた彼らから出てくる言葉は、どれもずっしりと重たい。


「ずっと汚いもの扱いされてきた。路上にいた頃は、まるで人間じゃないみたいだったよ。」

「今は仲間がいる。施設に入って、やっと思いやりとか愛を感じられるようになった。僕は幸せ者だよ。」

「離ればなれになった家族のことをたまに思い出すんだ。将来はちゃんと一緒にいられる家族をつくりたい。」



子どもを育てるのは、“環境” 。
回りの人や家族、出会い、境遇、そういったものが人をつくる。
そしてそれらがまた人を変え、未来をつくっていくのだ。



18歳のロレット君が言った。

「施設に連れて行かれた時、はじめはすぐに逃げ出そうと思ってたんだ。でもしばらくして考えるようになった。どうしてこの人たちは、自分にこんなにも優しくしてくれるのか。それで神様のこととか、祈り方を教えてもらうようになったんだ。」

「今はこう思うよ。貧しい人も神様がつくったものなんだ。僕らがどんな生き方をするのかを、神様はちゃんと見ている。それに、貧しく生まれたから、どん底から這い上がることも経験できたんだ。全部、僕に与えられた試練だよ。」




彼がどんなに辛い思いをしてきたのかを想えば想うほど頭が上がらない。頭が上がらないどころか、ささいなことにも不満ばかり並べてきた自分の至らなさを、私は心から恥ずかしく思った。



この世に生まれたことに感謝すること。

どんなに辛くても前を向いて歩くこと。

私たちが彼らに教わるべきことは、あまりに大きい。



まずは “声” に出すことだ。それを促し、聞き合い、思いを共有することから変化は生まれる。
彼らにも、私たちにも。

そうした機会とそこから生まれる小さな変化が、今後少しずつ増えることを願っている。



マグロの街を訪ねる。

2008-06-20 | フィリピンの旅(-2009年)
フィリピンの南部、ミンダナオ島にジェネラル・サントスという街がある。

マグロの水揚げで有名な街。
市民のほとんどがマグロに関わる仕事をしているという。

刺身嫌いの私にはあまり関心のない「マグロ」ではあるが、近頃マグロの乱獲が世界的なニュースになっていることを思うと、日本人としてはそう知らない顔もしていられない。


マグロが揚がる漁港は、通常一般人は立ち入り禁止になっている。
私の場合は幸いICANの手配のおかげで敷地内に入ることができ、「ビデオは禁止」という条件つきで撮影も許された。しかし何にせよ、こういった基本的にあまり治安が良くない場所で一眼レフを持ち出そうというのだから、内心私の肝っ玉は、興奮半分、ビクビクと音を立てて震えていた。





漁港には、どでかいマグロがデン!デン!!デデン!!!と勢いよく並べられていた。
大きいもので約80キロ。その銀色に艶めくボティからは、まだ大海原を波を切って泳ぎ回っていた数時間前の荒々しい生気が、心持ちひんやりした風とともに伝わってくる。

もし私がマグロだったら、今はどんな心境なんだろう。
潔く生き、潔く殺され、「観念・・・」ただただそんな心境だろうか。
青白い大きな目玉を眺めながら思う。


恐る恐るカメラを取り出し、マグロとその周辺にいる人達にレンズを向けた。

「カメラマンかい?どれでも好きなものを撮りなよ。」

気さくなおじさんが笑顔で目の前のマグロを指差した。


「ヘイ、僕を撮ってよ!こっちこっち!」

20歳すぎ位の若い兄ちゃんが手招きをする。
マグロを担いでべったりと濡れたTシャツに、仕事の割には華奢そうな身体のラインが透けて見える。
こんがり焼けた肌に白い歯がまぶしく映り、そのくったくない笑顔に私はホッと息を吹き返した。







ところで、こうした場所で働いている人達は、街の中でも比較的貧しい家の人達だ。
一日の給料はわずか150ペソほど(約360円)。
数年前までは児童労働も行われていたらしい。


ミンダナオ島はDOLLが経営する広大なバナナ園があることでも有名だが、労働者の多くは収穫期にだけ雇われ、農薬や収穫方法が決して安全ではない環境で働かされているのだと聞く。
収入は一時的でありながら充分でないため、貧しい生活が改善されることはない。


私たちが好んで食べる外国産のマグロやバナナの背景に、彼らの顔がある。
それはドでかいマグロを汗水流して担ぎ、 極わずかな給料に耐え、皆ではないにしろ突然現れた外国人に笑顔で答えてくれる、オープンマインドな男たちだ。

今後マグロやツナを前に「いただきます」をするときには、彼らへの感謝も同時に込めよう。
彼らの生活が少しでも豊かになることを願いながら。



命が生まれる瞬間

2008-06-13 | フィリピンの旅(-2009年)
夜10時すぎ、小さな産声が響いた。
元気な男の子だった。

産まれたのは5畳ほどしかない本当に小さな一軒の家で、助産経験の豊富な2人のボランティアと、旦那、そして妊婦の母親が付き添っていた。
22歳の若い妊婦は、横になったり立ち上がったりを何度も繰り返した後、ただ無造作に敷かれた新聞紙とビニールの上に大きな腰を降ろして“その時”を待っていた。


予定時間から2時間。


赤ん坊が顔を出すまでのその時間は、果てしなく長いように私には感じられた。

途中、しびれを切らした妊婦が旦那のつくったご飯を口にする。
私たちも一緒に、妊婦の隣で食事をとった。
妊婦がウロウロと歩き始め、そのままトイレに入って用を足す。
「私なんて誤って便器の中に産んじゃったのよ!」
母親が笑いながら話し、回りがどっと沸く。

果たして本当にここで赤ん坊なんて産まれるんだろうか?
私はふいに夢でも見ているような妙な気分にかられた。

そもそも「今夜8時に産まれる」というのは、ボランティアのアテアミが言い出したことだ。
経験が豊富とはいえ、たまには間違うこともあるに違いない。
その証拠に、妊婦はうなり声ひとつあげずにウロウロと歩き回っているじゃないか。


もしくは・・・、と私は思った。


私の緊張や、いきなり外国人が立ち会うことになった不運を、妊婦と腹の中の赤ん坊が敏感に察しているのかもしれない。だとしたら、ここは早めに去るべきなのか・・・。


妊婦の顔は真剣そのもので、たまに苦しそうに眉をひそめながら、大きく膨れた腹を上から下へとさすり続けていた。


旦那が状況を見兼ねて、突然妊婦の元に飛び込んできた。
枕元に座り込み、一緒にゆっくりと腹をさする。
一応のベッドルームらしきその空間はすぐ隣のキッチンと薄っぺらい壁で仕切られていて、私の位置からは中がよく見えない。ただ妊婦の足元とビニールが敷かれた赤ん坊のための小さなスペースが、薄暗い中にぼんやりと見えるだけだ。


“それにしても、なんて羨ましい妊婦だろう・・・。”


私はその足元を見つめながら思った。

旦那に腹をさすられながら、寄りかかりながら、一緒に子どもを外の世界に送り出す出産・・。
それは私が想像していた孤独な出産シーンとは違って、すごく安心できる、ほのぼのとした人生の一大イベントだった。まるで結婚式か何かのような、2人で通過する“登竜門”のような。


“これだったら、子どもを産むのも楽しみに変わるかも。”



「もうすぐよ!」

アテアミが興奮を押さえながら私に合図を送った。

“出口” は大きく開かれ、中で何かが押し出されようとしている様子が伝わってきた。

けれどたまにかすかな声をあげるのは旦那の方で、妊婦は全く痛々しい声をあげない。
そのことが逆に私を混乱させ、目の前で繰り広げられていることに私は未だ実感がもてずにいた。


「出るよ、出る!」

私の帰りを心配して迎えにきてくれたNGOのスタッフが、オロオロしている私に声をかけた。

「早く!!カメラ!!!」


カメラを抱え、急いで妊婦のもとに駆け寄る。この瞬間を収められなければ待った甲斐がない。立ち会いを許してくれた家族にも向ける顔がなくなる。


「え?あれ?うそ、ちょっと待って・・・!!」


けれど、私は突如として焦った。頭が見えはじめてから全身が出るまで、なんと1分とかからない。
赤ん坊はスルリと“出口”を通り抜け、あっという間に外界に現れてしまったのだ。


「ビデオ!ビデオ・・・!!」


バタつく私を横目に、アテアミはまだ白っぽい赤ん坊の足を掴んで逆さにし、お尻をペチペチと2回叩いた。



「ギャ・・・、オギャア~~!!!!!」



赤ん坊が、甲高い泣き声をあげた。

大きく息をし、“生まれた”ことを証明する感動的な泣き声だった。





“子どもを産む” ということは、何も特別なことじゃない。

だけどきっと、母親は子を世に送り出すまでの数十分または数時間のうちに何かを想い、もしくは願い、言葉にならない真空のキモチをその子に託して最後の力を振り絞る。
その大切な時間を家族と共有できるか否か、もしくはどう共有するかは、結構大事な選択肢だと思えて仕方がない。

自宅での出産が、もっと一般的な選択肢になってもいいんじゃないかと、思う。





私が産むときには、どうしよっかなぁ。
少なくとも、孤独な出産だけはしたくない。

ゴミ山の貧しい家で偶然立ち会ったこの世で最もシンプルな出産シーンは、今までビビっていた “出産”への私の気持ちを、意外にもやわらかく前向きにしてくれたのだった。



ゴミと暮らす生活

2008-06-10 | フィリピンの旅(-2009年)
フィリピン・マニラの北東部に巨大なゴミ山がある。

パヤタスというその地域に暮らす人は約20万人。
うち1万人がゴミ山近辺に家を持ち、うち3000人ほどがゴミ山の恩恵を受けて生きている。

拾い集めたリサイクル品から得られる現金は一日約50~80ペソ(120~190円)。

運が良ければ150ペソほど稼げるが、米1キロが30ペソということを考えると、家族を養うにはあまりに少なすぎる収入だ。よって一日一食が常という家庭も少なくない。


かつてこの国を最も象徴していた“スモーキーマウンテン”が閉鎖された70年代から、パヤタスにゴミは集まり始めた。
同時に人も集まるようになったが、多くは政府による市街地からの立ち退きによって強制的に移住させられた人たちだという。

けれど、その後のずさんなゴミ捨て場の管理により、2000年ついに大参事が起きる。
積み上げられたゴミが一気に崩れ落ち、200人以上が生き埋めになって死んだ。

以降、市政府はこのゴミ山をようやく管理するようになり、国も各地域にゴミ処理場を建設するよう義務づけたようだが、まぁ、状況が好転するまでにはウンザリするほどの時間がかかることは言うまでもない。





ところで私がパヤタスを訪れたのは、日本のNGO「ICAN」の受け入れがあってのことだ。

彼らは15年ほど前からこの地域の医療や教育を支援していて、今では年間4000人が利用する診療所を地域の人たちと一緒に運営している。
患者の半数以上は呼吸器系の疾患らしく、主な原因はゴミから発生する有毒ガスだという。


それもそのはず。
パヤタスを走るジプニーに乗ると、窓からは想像を絶する悪臭が流れ込む。
ジプニーには窓がないのでそれを避ける手段はタオルで顔を覆うくらいしかないのだが、悪臭の程度を例えるならば、生ゴミのリサイクルボックスに頭を突っ込んで10分間耐えろ!と言われるくらいの苦痛なわけだ。
10秒じゃない、10分間。

ちなみに診療所がある地域ではそれほどの悪臭はなく、天気や風向きによって一時的にモワッと漂ってくるくらい。
一時的に鼻をへし折りたくなる衝動をぐっとこらえさえすれば、まぁ何てことはない。(つまりそれでも相当キツいということだけれど。)



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それにしても、そこで働いているスタッフやボランティアには頭が下がる。

スタッフのほとんどは現地のフィリピン人で、ボランティアのほとんどは地域のお母さんたち。

「人々の“ために”ではなく、人々と“一緒に” 働く」というICANのポリシーのもと、日本人スタッフは日本事務所を含めて数人しかいない。大切なことは、たとえ支援が途絶えてもずっと続けていけるような “システム” と “人材” を育てること、それもICANの信念だ。


スタッフで看護士のマデットが言った。

「最初は本当に大変だったのよ。お母さん達の理解を得るのが。ゴミ山に行けば多少なりともお金が稼げるけど、ここでのボランティアはお金にならないし会議も多くて時間もとられる。でも何とか少しずつ診療所の大切さを理解してもらって、今では10人以上がヘルスボランティアとして働いてくれてるの。彼女たちがまた他のお母さんたちを教育して、子育ての責任や病気の知識を広げていくことが大切なのよ。」


ゴミ山の悪臭に耐え、貧困に耐えて生きてきた母親たちが、少しでも自分たちの状況を変えようと力を合わせている。
その姿は本当にたくましくハツラツとしていて、辛いこともたくさんあるだろうに、皆そろってとてもいい笑顔を見せてくれる。

私がもしここに生まれ育っていたら、同じように強く生きられるだろうか・・・。
そんな疑問がふと頭をよぎる。



「私たちはみんな貧乏なのよ。でも、私の子どもも診療所のおかげで助かったからね。」

ボランティアのお母さんが言った。

きっと世の中には、変えたいと願って変わらないものなんてひとつもない。
ただ、人の意識を変え、仲間を増やし、時間をかけて続けることが難しいだけだ。



ゴミ山と闘うお母さんたちを尊敬し、そのきっかけが日本人であることを誇りに思う。

応援するしかできない私は、精一杯声を張り上げて応援をしよう。
それがどんなに日本の生活とはかけ離れていても、彼女たちの問題は世界の政治や経済を巡り巡って、どこかで私自身とつながっているはずだから。







発展できない国の行方ーPhilippines

2008-06-07 | フィリピンの旅(-2009年)
2度目のフィリピンは、やはり混乱に満ちている。
あちこちにゴミが散らかった道路、真っ黒なススを吐き出すジプニー、渋滞、青く濁ったゴミだらけの川、新聞や水を売り歩く子ども達・・・。

そういえば去年も、この光景に慣れるまで3週間ほどかかったっけ。
そして3週間を経て私は、確かにこの国を好きだと思えるようになった。

ということは、結局私は1年間を経て振り出しに戻り、再び “異国に来た抵抗感” を味わっているだけなのかもしれない。どの国に行ったって始めに味わう、ちょっとした “におい“ の違いを。


それにしたって・・・。

・・・いや、やっぱりそれは違う。
きっと私は前回、逆に3週間を経て感覚がマヒしてしまっていたに違いない。
この国のいいところを見ようと努力もしたし、ここで得た友達に感銘も受けた。
結果的に私はこの国を好きだと思い込み、いろんなことを考え、思いを馳せ、帰国した後もずっとここに戻って来たいような “気” がしていただけなんだ。


だとすれば、今回感じている “抵抗感” は本物なんだろうか。

私は明らかに、この国に対して「嫌気」が差している。

  ・・・そう言い切っていいだろうか。



「嫌気」の原因はいくつか思い当たる。

まず何より街に溢れ返るゴミ。そしてそこから漂う生ゴミ臭い悪臭。
そして同じく溢れ返るおびただしい人の数。
どこから湧き出るのか疑いたくなるほどの人間が、東京のロボットチックなそれとは違って、実に生々しく、暑苦しく覆い被さってくる。

“私ゃこの国とその国民を軽蔑するよ・・・。”

なんとなく、そんな言葉が沸き上がった。

街がこれほど汚いのは、政府とそれを支持している国民の根本的な価値観が影響しているに違いない。たとえゴミが落ちていようと、フィリピン人は基本的に自分のこと以外は気にしないんだ、きっと・・・。

そして更にそうやって街行く人を眺めていると、誰もがそうした類いのモラルに欠ける人種に思えて余計に腹が立ってくるのだった。





だけど・・・と、まだ真新しいガイドブックを開く。

『フィリピンがアメリカから独立したのは1946年。
その後独裁政権が続いて、ようやく民主的な政権が誕生したのが1986年。』

つまり、今の国家が成立してからまだ20年余りしか経っていない “赤ちゃん” 国じゃないか。

     ・・・・・そりゃ仕方ないか、な。



ふとタクシー運転手が話していたことを思い出した。

「フィリピンの政府はひどいよ。見てごらんよ、道路脇に立っている電灯。何百か何千か建てたあとに、予算がないからって電球は入ってないんだ。こんなバカバカしい金の使い方があるか?」

友人が話していたことも思い出した。

「何より深刻な問題は政治の汚職だよ。テレビや新聞のジャーナリストだって、政府に都合の悪いことを指摘しようもんなら殺されるんだ。実際そういった事件が数年前に起きているからね。だから誰も政府に歯向かえないんだよ。」

そして最近知り合った大学の先生は、こんなことを話していた。

「フィリピン人は本当はあまり英語を話したがらないのよ。特に活動家と呼ばれる人たちはね、アメリカへの強い反発があるの。親米家と反米家にきっぱり分かれてるのよ。」




スペインに長く植民地化された後アメリカに占領された、複雑な歴史を持つフィリピン。
ようやく民主国家が成立して20年、今もまだ右往左往しながら、けれど激しい世界経済の波に立ち向かわなければいけない。
その焦りのせいなのか、フィリピン政府はここ数年、国民に外国での出稼ぎを奨励し外貨収入を勧めている。


「医者でさえ、国内で働くより海外で出稼ぎをした方が収入がいいんです。」

マニラで働く日本人のユキさんが言った。

「海外では医者の免許は使えないから、看護士の資格を取り直して出稼ぎに出る。そして実際には、現地の看護士よりずっと低レベルの雑用をさせられることになるんです。それでも国内で医者をするより稼ぎがいいなんて、皮肉以外の何でもないですよね。」


貴重な人材がみるみる国外に流れ出る中、 一体誰がこの国の秩序を正すことができるんだろう?


・・・本当に “軽蔑” すべきは、一体何なんだろう?



日本に最も近い東南アジアの国・フィリピンの未来が、日本に全く関係ないなんてことは決してない。
この国が少しでも早く大人になるためにはどうすべきなのか―。

放っておきたいけど放ってはおけない、難しい問題なんだと思う。