アジアはでっかい子宮だと思う。

~牧野佳奈子の人生日記~

ついにハルピン!

2014-10-06 | 中国・台湾の旅

ずっと行ってみたかった中国東北部、旧満州国。

中国人の友人と一緒に、急きょ旅することになりました。

 

目的は「アジアのおばあさんを訪ねる旅」企画で当時のお話を伺うこと。

なんですが、あまりに慌ただしく旅程を決めたので、事前学習とおばあさん探しに冷や汗タラタラかきながら準備をし、あとは運試しダー!の勢いでいつも通りの旅立ちとなりました。

で、結果的に回ったのは、ハルピン→チチハル→ハルピン→長春。


(初冬のハルピンで、なぜかドリアンが人気… もちろん輸入品です)


(ハルピン駅前のうどん屋に入ったら、テーブルに地雷酒の瓶が! これが欲しくて探したけれど土産店では見つからず)


(観光客で賑わうメイン通りの百貨店には、なんと人間マネキンが!)

 
(ストリートアートも人気でした。1元冊がみるみる貯まるのにビックリ)


(ハルピンはロシア人が発展させた街。ソフィア大聖堂にハト飛び交う)


(郊外にはトウモロコシ畑が広がっていました。写真はちょっと違う畑ですが…)


(こちらは最も痛々しい731部隊跡。管理棟だったこの建物だけが現存していて、戦後しばらくは学校として使われたそうです。今は731部隊について紹介する展示博物館)

 

それで、書きたいことはいろいろあるのですが、頭と手が追いつかない…。

ということで、今度にします。

 

この企画のために訪れた国は、ロシア(サハリン)、フィリピン(ダバオ)、中国(ハルピン)で3カ国になりました。

今日から韓国に行ってお2人インタビュー予定。

あと台湾、ハワイ、できればインドネシアかマレーシア…、サイパンも行きたいなぁと考え中です。

 

おばあさんを訪ねるために近代史の勉強をし、知り合いや関係機関に問い合わせておばあさんを探し、とにかく頭を下げて紹介してもらったり通訳をお願いしたり。

「アジアのおばあさんに話を聞く」なんて、とんでもなく曖昧な企画趣旨だと我ながら思うけれど、その過程で得る知識や感情はあまりにディープで1人では抱え切れない程です。

もったいないから、絶対にがんばってまとめようと決意新たに次の地に向かう繰り返し。

 

ちなみに今のところ、こんな疑問が素朴に沸き上がっています。

愛国心って何だろう。

日本人って、何だろう。

 

いろんな意見や情報がありすぎて、何を信じていいか分からない近代史。

個人的に大っ嫌いな近代史です。

だからこそ、おばあさんの小さな瞳を見つめながら、生の話を聞かせてもらわないと頭に入ってこない。

そうやってちゃんと知ろうと向き合い始めています。

 

あ、ソウル行きの飛行機搭乗が始まりました。

peach。

交通費が安く済む時代になってくれて本とに良かったぁ。

 

では次の地へ、行ってきます。

(そしてちゃんとまとめなきゃ…)

 


HAPPY台東

2014-01-18 | 中国・台湾の旅

今、台湾にいます。福島リポを書きながら。 

で、ブログ用リポをまとめる前に、 台湾日記をアップしますね。
激しく感動した時は、「記録しなきゃ!」という衝動にかられちゃって。
電車の中で書いた日記です。 

 

旅をしている時に、わたしは結構、泣く。

特に電車やバスで移動しているとき。

急に感動と感謝がこみあげる。

感無量ってやつ。

 

たとえばもし今ここで死んでしまっても、何も悔いはないと思える。

むしろ歳をとって、旅ができなくなって、こうした感謝を忘れてしまってから死ぬよりは、今の方がずっと幸せなような気さえする。

死なないけどね。

この命は自分だけのものではないと、学んだから。

 

今朝は阿美族のおばさんが、1時間も一緒にバスを待ってくれた。

たまたまバス停を聞いただけなのに、言葉もロクに喋れない私に、そこまで付き合ってくれた。

しかも赤い都蘭産のジュースまでくれて!

おばさんは、バリオでよく見かけるネイチャーガイドの女性によく似ていた。

 

今までどれだけの人に世話になったことか。

数え切れないけれど、皆の顔はよく覚えている。

ブワーッと頭に思い浮かべると、それだけでまた泣けてくる。

幸せ者というのは、わたしのような人間のことをいうのだ、とさえ思う。

 

15年ぶりに行った台東で、台湾では珍しく客引きしていた若い女性のホステルに泊まることにした。

予定より時間ができたので、15年前にお世話になったお寺に行くことにした。

行ってもどうせ分からないだろうと思っていたけれど、曖昧な記憶を頼りに行ったら、そのお寺は、やはりそこにあった。

ここだ、間違いない、と、記憶がどんどん蘇って、また、泣けてきた。

街はすっかり変わって建物だらけになっていたけれど、寺は全くそのままだった。

階段を上がったところでカラオケしている人達がいて、その右手の階段を更に上がると、公園のテーブルで雑談しながらゲームにふけているおじさんたちがいた。左手の丘の上には建物が2つ。小さな食堂のよう。樹々に囲まれて鬱蒼としている。そして右奥にカラフルな本堂と塔。お参りしようと階段を駆け上がりながら、なぜか身震いがして鳥肌がたった。

中を覗くと、これまでに台湾の他の都市で見たどの像よりも、力があって美しい、何体もの神仏が居た。神なのか仏なのか分からないけれど、寺だから仏様なのかな。わたしは思わず膝をついて頭を下げ、15年ぶりにお目にかかれたことを感謝した。

帰りには更にブワーッと鳥肌がたって、心臓がスキップしているのが分かった。

 

あの時お世話になったおじいさんに会えるはずはないけれど、なんだか、会えたような気がした。

少なくとも私は台東に呼ばれ、導かれ、そして歓迎された。

 

 
(市場で魚を売っていたイイ感じのおじいさん)

 

市場で出会った麺屋さんの夫婦は、奥さんのお兄さんが京都にいるという言って、厚くもてなしてくれた。軒先に並べてあった麺を写真に撮りたくて、声をかけたことがきっかけだった。ただそれだけだったのに、お昼には美味しい拉麺屋さんに連れていってもらい、揚げネギの瓶を手土産に頂き、京都のお兄さんに何度も電話をかけて紹介してくれた。「お兄さんは日本語が上手だから」と。

その間、トータルでも2時間くらい。日本だったら「あり得ない」、急発展の関係に少々戸惑う。

戸惑うってところが日本人だなぁと、逆に認識したりする。

だけどやっぱり「あり得ない」ほど、心がぽかぽかしてるの。

有難いって漢字は当て字じゃない。

 

そうだ、有難いといえば、昨夜のライブも本当にラッキーだった。

翌日に音楽イベントがあると聞いて1泊延ばそうか、でも明日なら花蓮で ある日本人に会える、台東をとるか花蓮をとるか…ちょうど考えあぐねていた時に朗報が入った。

「今夜もライブがあるらしいよ」

しかも阿美族の若いユニットのライブ。君はラッキーだね、とホステルのオーナーが言った。そのホステルも、予約したはずの別のホステルが空いてなかったために、たまたまバスで知り合った女の子が連れて行ってくれたところだった。

 

行ってみて分かったのだけれど、都欄は台湾国内では知る人ぞ知るアートの街。

個性的な安宿がいくつもあって、小さな村にしては欧米人がやたら多い。

サーフィンに最適なビーチがあることが大きいのだろうけれど、それに加えて台湾の若いアーティストが面白いイベントを開いて人を呼んでいるみたい。山の上にある日本家屋は映画のロケ地になったようで、今はお洒落なカフェとギャラリーになっていた。どちらが先か分からないけれど。

 


(都欄にある大きな砂糖工場跡もアートスポットになっている)

 

今、日本の大学生や子どもを対象にしたアジアツアーをつくろうとしているわたし。

台湾には来たのはそのためで、自分の旅行というよりは仕事目的の意識が強い。
なんせもう参加者募集しちゃってるしね。

 

だけどこのタイミングで台東に来れたのは、間違いなくおじいさんに呼ばれたのだと思える。

わたしはあの時の自分に対し、幸せに生きるための小さな導きを与えたいのだ、きっと。

おじいさんと同じように、もしくはおじいさんに代わって。

 

ツアーに参加してくれる人達を昔の自分に重ねてみるのはおこがましいけれど、中にはよく似た生き辛さを抱えている子もいるかもしれない。

こどもだって、わたしがそうであったように、親の愛情に対する感度が低いせいで寂しい思いをしている子も中にはいるかもしれないし。

事実、今の日本は幸福度が低いと言われていることだし。

 

そのために、これからやるべきことは山盛りある。

何よりお客さん集めに力を入れなきゃいけない。

勉強もちゃんとしなきゃいけない。

やりたいことは増える一方で、頭と体が全然追いついていない。

でも、もし今世でやり切れなくても、来世にもち越せばいいや、とも思える。

…幸せだね、ほんとに。

 

さあ、そろそろ雑務の仕事をしよう。

カネ稼ぎをなくては旅を続けられないんだから。

そこは辛抱、辛抱。花蓮まであと1時間、空腹に堪えてがんばるのだ。

 


南京を取材した時のこと

2012-08-23 | 中国・台湾の旅

この間の領土問題騒ぎについて、これほど動揺したのは初めてだなぁと、改めて思う。

久しぶりのカラオケから戻った深夜、Yahooニュースで反日デモ拡大の写真と見て、胸にザザザーッと嵐が到来した。
関連するニュースを次々と閲読し、その日、日本人10人が尖閣諸島に上陸したことも知った。

半ば衝動的にfacebookに意見を投稿し、それでも胸騒ぎが収まらなくて、次の投稿を書いている間に「どうしよう」と「なんで?」が交互にワーッと押し寄せてきて、涙がこぼれた。

まるでコドモみたいなこの感情の高まりは、だけど一方で、2009年に行った中国取材に起因していたと断言できる。

   ♢  ♢  ♢

2009年10月、ある団体の南京スタディツアーがきっかけで、私はツアー同行後も単身で南京に残り、日本人について現代の中国人がどう感じているかを街頭インタビューして歩いた。
どこに記事を掲載するかも決まっていなかったけれど、とにかく私が個人的に知っておきたい、という気持ちが背中を押していた。

南京大虐殺や、韓国の慰安婦問題や、そういったいかにもダークなイメージを持つ歴史的事実について、私たちは(少なくとも私は)胸を張って「詳しい」とは言えない。結局何が真実かが分からないし、分かろうとするなら相当な勉強が必要になる。中途半端に勉強したくらいでは、ちょっとは詳しくなるかもしれないけれど、逆に偏った知識が刷り込まれて正しい判断ができなくなるかもしれない。
一端刷り込まれた知識というのは、くつがえすのが大変だもの。自分が勉強した時間や努力までもが否定されたような気分になるから。

それで、よく分からないまま電車の吊り広告や本屋に並べられた雑誌の表紙を眺めている内に、あのオドロオドロしい週刊誌特有のフォントと色使いにいつの間にか洗脳されていく…実際洗脳されていってる自分を感じた。

本当の南京を知りもしないのに、自分は南京を怖い場所だと思っている。
中国にはいろんな人がいると頭では分かっているのに、心の奥底では、どうしても“中国人”を好きになれない。
…そういう、感情のしこりができていた。

    ♢  ♢  ♢

南京は、行ってみるととても穏やかで温かい街だった。中国では珍しく、緑も多い。
街の第一印象というのはとても大事で、不思議なことにそれが人々の表情や寛容さにも上手く比例していると私は思う。もしくは、そこに住む人々の“気”みたいなものが空気中を漂って、訪れた人にプラスやマイナスの印象を与えるのかもしれないと思う。

その南京の街で、私はかなり無理矢理、50人の道ゆく人たちにインタビューをした。

ある時は通訳もなく独りで、「日本人に対する南京の人の感情を教えてください」というような説明書き(事前に中国語訳してもらった)を見せて自由にしゃべってもらい、全く意味が分からないままICレコーダーに記録する、という無謀なこともやった。(そして、それでも煙たがらずに答えてくれる!ということに心底ビックリした)

だけど50人の内のほとんどは、南京師範大学の大学院で日中関係史を学んでいたリュウ君に通訳をお願いした。
2人で(時には現地で友達になった子も含めて)南京大虐殺記念館に行き、出口の前で休憩している人たちにインタビューして歩く…それを何度も何度も繰り返し、「マキノさん、アンケートにしましょうよ」と言われても直接インタビューにこだわり、恥をさらして取材を強行した。

ちなみに、そこまで付き合ってもらったリュウ君には頭が上がらないほど感謝し、「これは仕事だから」と謝礼を渡そうとしたのだけれど絶対に受け取ってくれず、「これは僕の勉強です」と言い張るのだった。
そのリュウくん、取材の合間や行き帰りのバスの中で、中国人の本音をポツポツと語ってくれた。

「僕は日本のアニメが大好きです。漫画が特に。大学には日本語を勉強している人がいっぱいいますよ」
「だから僕の気持ちは複雑です。日本文化は好きだけど、日本のことを恨んでいる中国人は多いと思います」


(南京市内の並木道。車道とは別に、バイク道がある)

…確かに、私が日本人だと分かるだけでインタビューを避けられることは何度かあった。けれど、その数は予想した程ではなく、7~8回程度。それを遥かに上回る数の人達が、これほど怪し気な日本人の呼びかけにも足を止め、丁寧に答えてくれたのだ。これが逆に日本だったら(そして私が中国人だったら)、まずあり得ないと思う。

それで肝心のインタビュー結果は、「当時の日本人は残虐だ」とした上で、「だけど今の日本とは違う」と答えた人が7割。あとの2割も「責任は政府にある、日本国民に嫌悪感はない」とあっさり言ってのけた。中には「展示を見て、日本人は頭がいいと思いました」と言う人もいたくらい。
逆に「日本人は中国人を軽視していると思います」と答える人もいたけれど、それは日本の工場で働いた経験が元になっていた。これは歴史問題や教育云々ではなく、自分を含む戦後日本人が、直接または間接的に中国に与えてきた印象だと思う。…そしてこういうのは、広まるのが早い。

ところで南京大虐殺記念館は、中に入ると真っ暗なトンネルや模型なんかがいかにもヒュ~ドロドロという感じで、子どもから大人までが存分に“楽しめる”展示構造になっている。修学旅行で人気なだけでなく、地元のカップルがデートコースで行くこともよくあるらしい、と聞いたときにはたまげてしまった。


(南京大虐殺記念館の入場待ちの人々。週末には1日8千人以上が訪れるらしい。2009年)


(記念館前にそびえ立っている巨大な像。足元にいる“ヒト”が見えますか…?)


(街中でインタビューに答えてくれたカップル。最後に日本人へのメッセージを書いてくれた)


   ♢  ♢  ♢

だけど今も心に刻まれているのはこの取材自体ではなく、この時に出会ったある男性とのエピソードだ。

30代に見えるその人は、南京大虐殺記念館に週に2度も3度も通ってきているらしかった。
白いつなぎを着ていて、背は低め。単発で威勢のいい“あんちゃん”という雰囲気だった。

「日本人は嫌いだ!」と彼は開口一番、私に言った。

その時私は複数の見物人に囲まれていて、(恐らく)「変わった日本人がインタビューしてるぞ」という噂が回りに広がっていた。(できるだけ声を小さく、かつ目立たないように気を付けていたのだけれど、通訳付きではどこから見ても外国人で、しかも人だかりに動揺した私は相当目立つような動きをし始めていたと思う)

その男性ははじめ、人だかりの中から遠巻きに私を観察していた。
特にトゲトゲしい眼をしていたわけではないので、彼が「日本人は嫌い」だとは気づかず、なんとなく気になったその人にも気軽に声をかけてみた、というわけ。

それで「嫌いだ!」発言で私は一蹴されたのだが、その時も特に怒っている風ではなく、逆にほんの少し口元が弛んでいるように見えたせいか、あまり悪い気にならなかった。

「あ、そうですか、すいません」と私は軽く謝って他の人へ。
そうこうしている内に“そろそろお開き”という雰囲気になってきたので、その日の取材は終えて帰路に着こうと歩き出した。
するとさっきの男性が、未だに私の様子を窺っている。着かず離れずの距離で、特に話しかけてくるわけではなく、しかし明らかに物言いた気な表情でピッタリと歩調を合わせて付いて来るのだ。

”…なに?” と思う間もなく、私は自然に話しかけていた。

「この辺に住んでるんですか?」
また逃げられるかなぁと思ったけれど、彼は意外にもまともに答えてくれた。
「近くで働いてるんだ」
小さな声で、照れくさそうに、しかも少し笑っているような気がした。

「ここにはよく来るんですか?」「いつもこんなに人が多いんですか?」などと、たわいもない会話をしながら私たちは肩を並べて歩いた。ところどころリュウ君に訳してもらってはいたものの、見た目は何ら違和感なく、出口へと向かう人の流れに極自然に合流していた。

「どうして日本が嫌いなんですか?」と、内心ちょっと緊張しながら私は聞いてみた。

彼は少しの間だまり、急に顔を強ばらせて、ムシャクシャする気持ちを吐き捨てるようにして言った。
「日本人の心の中では、中国人は人じゃない。だから殺した」

「それは、日本政府がきちんと謝れば、許してくれますか?」
「…かもしれない」

どうしようもない、行き場のない怒りがそこにはあった。彼はきっと過去の先人たちに自分を重ね、中国人としてのプライドを傷つけられたことを深く深く恨み、虐げられた者にしか分からない悔しさを何年間も抱えながら生活してきたんだろう。彼が「暇になる度ここに来る」という、その憎しみの果てしなさを想って胸が痛くなった。

「だけど…、日本人の中にも、いい人だっているんですよ」
私にはそう言うのが精一杯だった。
「そうかもしれないね」と彼は我に返ったようにポツリと言って、「少なくとも君はいい人そうだ」と言って笑った。

   ♢  ♢  ♢

反日デモの報道を見る度に、彼のことを思い出す。
彼は、デモに参加しているだろうか、それとも、ほんの一瞬だけでも、あの時出会った風変わりな日本人を思い出してくれているだろうか。

デモの根本的な原因が必ずしも「反日」だけではないとしても、中国の多くの人が、日本に対するスッキリしない複雑な気持ちを抱えていることは事実だと思う。
戦後、様々な局面で(戦時中とは別の)侮辱感を味わった人たちは尚さら、「今こそ見返してやる時!」と内心思っているかもしれない。そう思われて当然の行為を、確かに一部の日本人はやってきた。日本でも、中国でも、他のアジアの国々でも。


それを「自分には関係ない」と思ってしまえばラクなんだけれど、なぜか…そう思えないのは自分の性分のせいか、何かにこだわっているのか、それとも報道出身者のお決まりな正義感からか…。
しかし深層心理を探れば、もしかしたら、小学校の頃から集団に馴染めず疎外感を感じてきた軽いトラウマみたいなものの反動かしら、と思わなくもない。
「LOVE & PEACE」なんてキレイ事ではなく、誰かが誰かを許容しない、されないという悲しさに、胸がツーンと痛くなる。

こどものいじめ問題が深刻になる一方の日本。
領土問題でぶっとんでいるけれど、こっちの根本的解決も、全く見えない状況にある。
中国や韓国にも、こどもに関する社会問題はたくさんあるんじゃないかな。

こどもの問題はオトナ社会の縮図だという。
日本も、中国も、韓国も、ツンツンしないで大人な対話をしましょうよ、と切に思う。



(南京の街角にて)


懐かしき、ス~っと感(食事前後には読まないでください)

2010-11-10 | 中国・台湾の旅




内モンゴルでの、実は一番大事なエピソードをひとつ。

「トイレ」です。


たとえば私が泊まらせていただいた民家のトイレが、上の写真。
いや、上の写真に移っている黒い塀みたいなのは、トイレじゃなくて牛のフンを積み上げたものなんですが・・・、その奥に広がっているスペースが「トイレ」・・・というか何というか。

私はこれを「草原トイレ」と名付けました。

つまり「草原」であり同時に「トイレ」でもある・・・つまり「草原」なんですけど。


便器はないので、私の場合は自分でつくりました。即席で。
チョチョチョっと靴の裏で地面の砂を掘るように削るだけなんですが、それだけでも垂れ流した尿がびちょーっと広がって靴底に付いてしまうのを防げます。
少し深めに掘れば、尿が飛び散るのも防げます。(あ~汚いお話!スミマセンっ!!)

要するに個室のトイレもなければそういう設備もないわけでして、これこそ大自然に生きる醍醐味だゼ!とでも言わんばかりの野放し状態なのです。


ところでこの「草原トイレ」の良い点は、やはり自分の体内から汚物が放たれるときに新鮮な風がス~ッとお尻を吹き抜けること・・・でしょうか。

でもこればっかりは経験した人にしか分かりません。
それも1回や2回では分からない。

せめて5回以上はやらないとね。

シャー、ブリッ、ス~~っと。(あ~汚い音!ほんまスンマセンっっ!!)


けれどここは民家近くのため物陰があってまだマシでした。

モンゴル語で「ゲル」と呼ばれる移動式テントに泊まったときには、こうした牛のフン壁がなく、とにかくだだっぴろい見渡す限りの草原が広がっているのみ。。。
それでどうするかというと、ところどころにある砂の起伏に隠れてする・・・のであります。

これはなかなか勇気が要りました。さすがに。
なぜって、背後は再びだだっぴろい見渡す限りの草原なんだから。

それで、起伏に向かって前にしゃがむべきか、後ろ向きにしゃがむべきか・・・そういうことで悩むのです。(いかにも女子的な悩みですが)
そして私は前向きにしゃがみました(笑)
起伏の向こう側に誰もいない(もしくは来ない)ことを確認しながら。


移動生活というのは大変だね。

でも慣れちゃうと、くっさい便器の上でなんか用を足せなくなっちゃうんだろうね。


そして不思議に思います。

・・・・・冬はどうしてるんだろう。


マイナス30度にまで冷え込む内陸の冬。
おしっこした瞬間に “つらら” になってぶら下がっちゃうんじゃないの!?


北京空港の記憶

2010-07-25 | 中国・台湾の旅

今年3月、ベトナムからの帰りに、乗り換えのため降り立った北京空港での思い出(個人日記)です。

私の人生ナンバー10に入る、仰天の出来事でした。


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飛行機に乗り遅れた。
っていうか、置いてかれた。

アナウンスしろよ(怒)!と腹を立てながら空港スタッフを必至で探し、たらい回しにされた挙げ句にようやく辿り着いたカウンターで、チケットの変更料をしっかり請求された。

2万4千円。

しかも今日の便はもうないという。
明日ある3便も夜の1便以外、満席。 

・・・本当か?とかなり疑うが、疑ったところでどうしようもない。
というのは、カウンターに現れたこけし頭の女があまりにキビキビと物を言うもんだから、反論するどころか私はしょぼくれる一方で、疲れも相まって疑う気力さえなくなってしまったのだ。

結局涙を飲んで、私は2万4千円をカードで支払い一晩待ちぼうけを喰うことになった。


で、これ以上無駄な金は使うまいと2千円だけ換金して、うち半分を国際電話に使い、残り半分のうちの5分の1程度の金で、今バーガーキングを食べたとこ。

そしたら左斜め前の席にいるカップルが、自分たちのイチャイチャぶりを、パソコンに付随しているレンズでビデオ撮影しているではないか。
そしてさらに彼らは、今さっき撮影した映像や、過去にベッドの上で撮影した二人のイチャイチャ映像を鑑賞し出す始末!

こいつらバカか、と呆れながらも、私の席からバッチリ見えてしまう液晶画面が、やはりどうしても気になってしまう。
こうやって自分たちのキスシーンをカメラに収め、レンズが向けられていることに興奮し、後からそのめでたい様子を眺めて再び濡れ合うってのは何とも悪趣味としか言いようがないな、と、顔を引きつらせながら私はチラ見を繰り返す。

全く気持ちわりぃことしてんじゃねえよ(怒)


一方、右斜め前の席ではいかにも中国人な雰囲気の親子がバーガーにかぶりついている。
小学校高学年らしい眼鏡をかけた息子は、首をインド人形みたく前後左右にクリクリ動かし、口の回りにマヨネーズを付け、定期的に眉をピクッと上げて目を不自然にしょぼつかせながら、やたら忙しなくポテトやバーガーを口に運んでいる。
あんなに目をしょぼつかせるのは勉強のしすぎなのか、脳みそがコンピューターのモーターみたいに常に回転して止められないのか、母親が何か諭すように言い聞かせている間も相変わらず首と肩をヒクヒクさせ、眉と目をピクつかせて真面目そうに話を聞いたり一人前に反論したりしている。

そして、ここはただのバーガーキングだというのに、母親は嬉しそうに立ち上がって未だマヨネーズを口元に付けたままの息子の丸顔をカメラに収め、代わって息子が母親の姿を収め・・・

中国というのは、不思議な発展の仕方をしているんだな、と私は思う。


左斜め前のカップルは、最後のキスを濃厚に味わい合った後、何もなかったかのようにスッと立ち上がり去っていった。
2人の素顔をついに一度も拝めなかったことを、私は少し悔しく感じていた。


そんなこんな観察日記を書いていたら、今度は私の真正面にあるテーブルで商談らしき話し合いをしていた男の一人が声をかけてきた。

「******」

どうやら私を中国人女子と間違っているらしい。

「中国語わかりません」
私は素っ気なく英語で答えた。

「へえ!どこから来たの?」
「日本から」
「へえ!!!てっきり中国人かと思ったよ。」

男は、そっちのテーブルに移っていい?話がしたい、と言った。
3人の男のうち1人は白人で、私がイチャつきカップルを観察していたときに何度か目が合い、なんだかヤだな、と思って目を逸らせていたのだった。

けれど3人ともがこっちのテーブルに移ってきそうな勢いになってしまった以上、ここは下手に逃げるわけにもいかない。

「いえ、私がそちらに移ります」

と言って、彼らの輪に加わった。

たっぷり脂肪ののったその白人は、南アフリカに住んでいるドイツ人だということが分かった。
あとの2人は中国人。仕事の取引先なんだという。

アフリカ好きの私は、早速南アフリカの話題に火を付けてしまった。
こうなったら最後。話は私の旅のことから経歴にまで飛び火し、大抵のオトコを面白がらせる格好の話題提供となってしまう。
私みたいな一風変わった小娘(しかもニホンジン)に、特に外国人のオトコは興味と好奇心を寄せてはばからない。

昼間、飛行機に乗り遅れる前に時間をつぶしていたスターバックスでも、隣りの席に座っていたアラブ系の男性と話が盛り上がってしまった。
もとはといえば、「すいません、そちらのテーブル少し離してもらえませんか?」と、私がパソコンに集中したいがために声をかけたのがきっかけだったのだけれど。

外国のビジネスマンと話をするのは楽しい。

そのアラブ系のおじさんは、想像通り石油関連の仕事人だった。


そしてそういう時に私は思い知らされる。
自分の勉強不足と、社会情勢に対する認識の甘さを。

南アフリカに住む白人+2人の中国人からは、アメリカによるTOYOTAのバッシングについて、日本人としてはどう思うのか?と問いただされてしまった。


とはいえ、オトコ達の本心は当然違うところにある。

「ところで今夜はどこに泊まるの?」
から始まり、
「決めてないなら、僕と同じホテルにしなよ。」
ということになる。

やっぱりそう来たか・・・と薄ら笑いを浮かべて、「結構です」と頑なに断った。
この脂肪に敷かれて眠れない夜を過ごすくらいなら、空港の硬い長椅子で震えながら寝た方がずっとマシだ。


おじさん方、楽しい時間をありがとう。
(聞き分けよく立ち去ってくれてありがとう。)
お陰で飛行機に置いていかれた悔しさを、少しだけ癒すことができました。

旅の醍醐味は、こうした「アクシデント」な「出会い」にこそあるのです。




この思い出深き北京空港に、8月3日、再び降り立ちます。

今では到着ロビーと出発ロビーの端から端までを、哀しくも熟知している私です。

(終)


南京の今を見つめる

2010-02-02 | 中国・台湾の旅

 南京の人々は、今、日本にどんな感情を抱いているのか―。

 例えば南京大虐殺記念館の出口付近でインタビューしてみると、ほとんどの人からこんな答えが帰ってくる。

「昔の日本人は残酷だと思いました。でもこれは過去の話。もう歴史になったことです。」

 南京市内で50人以上に街頭インタビューした私は、あっさりそう言って退ける彼らに唖然としてしまった。しかし考えてみれば、78年に日中平和友好条約が結ばれて以来、日本の電化製品や映画文化が中国の人々に新鮮な驚きを与え、渡日する者が増えて情報が入るようになり、今や街の至るところに日本人女優のポスターやJ-popが溢れ返っている。まさしく中国は、経済面だけでなく人々の価値観までも「激動」の数十年を歩んでいるのだ。

 一方で「日本は嫌いだ!」と言われることも何度かあった。
もしくは「日本政府に少し嫌な感情を持っています。」と打ち明けられた。

 歴史認識を巡って、両国の間にまだスッキリしないわだかまりがある。私たち日本人の多くは既に忘れてしまっている(もしくは目を背けている)国としての大きな課題が未解決であるために、風化されることのない“しこり”が中国人の心の中に取り残されているように思う。

 大学院で日中関係史を研究している劉忠良くんは言う。

「日本に対する感情は複雑です。日本文化は大好きでも、心の中では日本を憎んでいる中国人は多いと思います。」 

――であるなら、私たちはどうしたら良いのだろうか。


 南京大虐殺記念館でこんなことがあった。
「日本人は嫌いだ!」と言い張る30代の男性が、なぜか私の取材行動を観察し続け、最後には自ら話したそうな表情を浮かべて近づいて来た。そして私たちはいつの間にか歩調を合わせながら一緒に歩き、話をし始めた。

「なぜ日本人が嫌いなんですか?」と聞く私に彼は
「日本人の心の中では、中国人は人間じゃないんだ。だから中国人を殺したんだ。」
と悔しそうに答えた。そして「でも日本人の中にも、いい人もたくさんいるんですよ。」と私が言うと、彼は「そうかもしれないね。君は少なくとも悪い人じゃなさそうだ。」とついに笑顔を見せるのだった。

 「交流」という言葉の意味は「目と目を見て心を通わすこと」。

 私と彼は、お互いのことを一生忘れないだろうと思う。




(2010年1月15日 日中友好新聞 掲載記事より)


無事帰国。

2009-10-27 | 中国・台湾の旅

ただいま、無事帰りました。
結局3週間ほとんどを南京で過ごし、老若男女いろんな人に街頭インタビューならぬ突撃インタビュー取材を強行していました。

なんせ言葉もロクにできない、どころか全く中国語が話せないにも関わらず、戦争に対する感情というディープでナイーブな話を聞き出そうっていうんだから、はっきり言って「無茶」です。

でも、やってしまったの。


人々から出てきた答えは、本当に驚きの連続でした。

一言でいってしまえば、南京の人たちは、日本人が(無意識のうちにも)想像したり不安がったりしている程「日本」を恨んだりはしていません。正確には「日本人」を、ということなのですが、とにかく南京の人々は温かく、優しく、おおらかなのです。
5年ほど前までは、日本人客が罵声を浴びせられ来店を断わられたこともあったそうですが、今では一転して「歓迎モード」といえそうです。少なくとも私が出会った何人もの人はそうだったし、たまたま入った食堂もおばちゃんも、公園で出会ったおっちゃんも、私が日本人だと分かるとパッと表情を明るくして興味を示してくれました。それが演技だとは到底思えない・・・。南京の大学に留学に来ている日本人学生さん達も、口を揃えて同じ意見をくれました。


ということで、今回の取材旅の成果は、そのうち何かの雑誌に載ることでしょう。
それを目指して現在奮闘中です。


それにしても、何でもやってみればできるもんですね。

「南京」といえば「南京大虐殺」の地で、自分が日本人であることを曝け出して地元の人にインタビューするというのは、さすがの私も度胸が要りました。最初は怖くて、何をどうしたらいいのか検討もつかなかった。
けれど、「分からない」というのはエネルギーの元です。
「分からない」から「分かりたい」と思うのであり、「分かる」ように努力もできるのです。

今回も、他のアジアの人々を取材したときと同様、彼らが何をどう感じ、考えているのか想像もつかないからこそ成し得たインタビューでした。

結果は後日報告します。



ところで、この『アジアの力』ブログはだんだんと文体が変わってきています。
更新もなかなか進みません。
いやはや申し訳ないというか何というか・・・なんですが、こうした取材を今後はちゃんと仕事にしていこうと奮闘している今の私のありのままの姿なのです。これが・・。

色々な方が、「この子、一体この先どうなるんやろう・・・」と心配してくださっていると思いますが、どうかこのまま、今しばらくお見守りくださいませ。

ぼちぼちと・・・、これをスワヒリ語ではポレポレといいますが、そう、この「ぼちぼち」ってのがいいんです。笑


チャイナより暫定報告

2009-10-13 | 中国・台湾の旅

現在、上海にいます。上の写真は南京ですが。

福井から23人が参加した日中友好ツアーは明日で無事終了し、皆さんは帰国、私は一人この国に残って取材を続けます。

取り急ぎ、本とに取り急ぎの報告ですが、私の今のところの実感として、中国の人々は日本人が一般的に抱いている(少なくとも私が今までずっと抱いていた)ような硬いイメージではないな、と感じています。
上海には特に中国各地から色んな人が来ているので、中国人といえど顔立ちも表情もよく見れば一様じゃない。中国が実はカラフルな国だってことが分かるわけです。

・・・と、こんな言葉足らずで抽象的な報告ですみません。
が、とにかく私は無事だ、ということでひとつお許しを。

明日、ツアーの人達を見送った後、私は南京に戻り更に2週間滞在します。
南京といえば南京大虐殺ですが、当然私は右でも左でもなく、これから私たち日本の若者がこの大きなしこりを解消して未来志向になれるように、まずは南京の人達の意識や日本に対する感情を取材しようと思っているわけです。

実際、新しくなったばかりの大虐殺記念館には驚くほど若いカップルや友達同士で訪れた人たちが多く、休みの日にこういう場所に遊びに来るんだー・・・と衝撃を受けた次第。しかも出口近くで女性3人組みの中国人に話しかけられ、和気あいあいと日中友好について語ったりもしました。

加害者側として記念館を見るのは確かに複雑ですが、記念館の流れとしては、最後には「だから戦争はダメ。日中友好を!」みたいな締めくくりになっています。千羽鶴とかも置いてあるし。つまり広島の原爆記念館みたいな感じです。
(けれどとはいえ、記念館の至る所に「30万」という数字が大きく書かれてあって、日本の右翼を意識してるんでしょうが、それにしてもあまりに犠牲者の数を主張しすぎている感は受けました。。。)

そんなことで、また時間と環境が整い次第報告いたします。


日中友好の旅企画

2009-07-25 | 中国・台湾の旅

次に旅する国は、中国になりました。

今年10月9~13日の5日間、場所は上海~蘇州~南京。



「南京」と聞くだけで重たいイメージ。
そう、「戦争」について考えるツアーです。




ツアー嫌いの私が今回このツアーに参加するには訳がある。

「南京で戦争被害に遭った方の話を直接聞こう」というのがこのツアーの目的、だからだ。



確か大学時代に南京に行き、大虐殺があったといわれる場所でその展示(記念館)を見た記憶がある。骸骨がゴロゴロしていて、洞穴みたいな暗い場所にそうした人骨がまるでゴミのように積み上げられていた。

南京大虐殺については色々と意見が分かれているようで、本当にあった話だという人もいれば、中国がつくり上げた嘘っぱちだという人もいる。けれどまぁ、いずれにしてもあれだけの数の頭蓋骨があの場所にある、という事実は事実。
たとえそれが誰のものであろうと、「殺す」という残虐さ、そしてそれをゴミのように扱う人間の冷酷さを見せつけられていること自体を、疑う余地はない。


今回のツアーでは、まさにその場所で、実際に日本軍の攻撃に遭ったという女性の話を聞く。

大虐殺が本当にあったかどうかを明らかにするため、ではなく、お互いに対話をするため。


企画したのは、福井大学教授の山本先生、そして先生が所属する「福井県AALA(アジア・アフリカ・ラテンアメリカ)連帯委員会」。毎年こうした手づくりのスタディツアーをしているらしい。

それで、今日はその説明会・兼・勉強会だったわけだ。



満州事変~日中戦争までの流れを、実際に出兵した人の日記と照らし合わせながら詳細に追い、当時の日本国内の様子や兵士たちの本当の気持ちなども織り交ぜて、非常にリアルな現代史論を聞いた。

歴史がこの上なく苦手な私はところどころチンプンカンプン・・・ではあったものの、この機会にちゃんと勉強しないと自分一人ではできるはずはない!と思って何とかがんばった次第。
けれどそれもそのはず。集まっていたのは大学教授や歴史の先生、あと幼少期に戦争と体験した方々なので、既に(根本的に)私のレベルを遥かに超えていらっしゃる。
まぁ、それだけたくさんの先生方に囲まれて贅沢な授業なんですが。


一通り戦争のお勉強が終わったあと、参加者の方々からいろんな話が飛び出した。


「私が小学校2年生の頃は、毎日黒板に「今日はここまで行った(侵略した)ぞー!」って言って先生がその(中国の)地名を書き出してたの覚えてるわ。」

「せやせや、地図はもう常に貼ってあるんや。それで毎日そこに旗を立てていくんやけど、それを子どもに手ぇ上げさせて「今日はどこまで行ったか知ってるか?」「はーい!」って言うてな。」

「私は大阪やったんですけど、学校の渡り廊下に新しい軍歌が出るたびに貼り出されるんですよ。それをいちいち書き写して覚えさせられてね、イヤやったわ~。」

「わしは空飛んでるB-29を、自分がいつか撃ち落としてやろう思ってましたわ。むちゃくちゃ軍国主義でしたな。」



そういえば私も、実家のばあちゃんから戦争当時の色々な話を聞いていたことを思い出した。

今は亡きじいちゃんが徴兵され港まで見送りに行ったときの風景の話、そのとき聞いた兵隊さん達が行進する足音の話、女学校で2メートルほどもある薙刀(なぎなた)を振りかざして戦の稽古をした話・・・。


戦争関連の展示博物館にも、国内の有名どころはとりあえず行った。
けれど、やはり実際に経験した人の話というのは全然違う。 迫力が、違う。


私は勉強会に集まった人たちの体験話を聞きながら、また当時の詳細を学びながら、今まで感じたことのない「痛み」を味わっていた。それは息子や家族を戦地に送り出した女たちの、または家族に今生の別を告げて戦地に赴いた男たちの心の苦しみ、葛藤、寂しさ、そしてそれを紛らわそうとする強さなんかを思って。



日本軍に攻められた中国の人たちにも、きっと同じように苦しいドラマがあるに違いない。
それをちゃんと聞き、ちゃんと受け止め、それを踏まえてお互いに話をしようという試みは、きっと今ようやく始めることができる新たな一歩なんだろうと思う。
お互いの苦しみを乗り越えるための。



「当時は軍国主義だった」とおっしゃっていた元歴史の先生に尋ねた。
軍国主義から現代の考え方へどう頭を切り替えたのか?について。

「あの頃は「鬼畜米英」と言うて、アメリカ人やイギリス人は野蛮な人間と教えられとったわ。子どもやから本当に角が生えてる鬼やと思ってた奴もいるくらいや。でも小4のときに敗戦して、実際にアメリカ人が来て近くで見たら角なんか生えてない。それどころかチューインガムまでくれるわ。わしは別に率先してガムもらいに行ったりはせんと遠目で見とったけどな、それでも少なくともこの人たちは自分らを取って食うような野蛮な人間じゃないってことは分かった。」

「その後すぐに教科書も変わったわ。180度変わった。今まで悪やったものが善になり、善やったものが悪になった。そりゃアメリカの占領軍が命令したんやろうけど、今まで使ってた教科書に墨を塗って訂正して、代わりに先生がつくった新しいプリントで米英は凄い技術をもってるっちゅうことを習ったわ。これは負けて当然の戦争やったんやな~ってその時初めて分かった。それで、これからは教えられたことを鵜呑みにせんと自分の頭で考えなあかんな~と思って、わしらを間違わさせたのは何や?と思い始めた。そう思い始めたころに憲法も変わったわ。憲法を変えるっていうのは国民の生き方を変えるってことやさかいな。」



そうやって時代は変わり、価値観が変わり、反省から学んで次へと進んでいく。

その個人の中に生まれる変化を、個人同士の相互作用で進歩につなげていくこと。
それはとてつもなく大きく、希望に満ちた「旅」なんじゃないかと思う。


興奮と憂いの中国

2006-11-23 | 中国・台湾の旅

訪れたのは、一般にはあまりメジャーでない浙江省の紹興市と杭州市、そして今まさにオリンピック狂ともいえる北京市。


一言に、中国はスゴい。
あの人口の多さ。そして渦めく貪欲さ。

何に感動したかといえば、中国というあまりに巨大な国ゆえの底知れぬ危うさと、それに対する日本の影響の大きさ・・とでもいおうか。


ここ数年間の中国の発展は見事なもので、北京などは私が7年前に訪れたときとは比べものにならないほど「キレイ」に様変わりしている。
モダンな高層マンションがバンバン建ち並び、厚化粧の若い女が外国ブランドの服やバッグを見せびらかしながら通りを歩く。夜になれば繁華街のネオンが輝き、露天商が客引きのためにハツラツと声を張り上げる。

「エネルギッシュ」とは、こういう状態を指すのだ。

歴史、文化、観光、ショッピング、経済、グルメ、どれをとっても外国人客を刺激し魅惑するに充分だと言える。
欲望が欲望を呼び、その増殖にどんどん拍車がかかる。
名所に隣接する路地裏のトタン屋根や、相変わらず多いチャリンコ族の貧しそうな雰囲気、グレーな空、油っぽいにおい、そういったものを換算したとしても、今や中国は “一度は観光に訪れたい国” になってることは間違いなさそうだ。


しかし、そういった華やかさの一寸隣に、隠し切れない陰の部分を恥ずかしいほどに露呈してしまっていることも事実で、そのことがこの国と国民の発展しきれない所以にもなっている。

例えば水の問題、ゴミの問題、環境問題、排気ガスの問題、電気・ガソリンの問題、食糧の問題・・・。
思いつくだけでもみるみる両手がふさがってしまう。


百聞は一見にしかず、「ムリだこりゃ・・」という愕然とした感情が私を襲った。
これだけの人間が集中している国で、それら社会問題をいっぺんに解決することなど到底ムリだ。

バスの窓越しに街の様子を眺めていると、漠然と憂いでいた中国の近い将来像が、驚く程あっさり切り捨てれる。
この国はきっと、そう長くはもたないに違いない。
   

負の連鎖は既に猛スピードで進行している。
都市化が進んで若者が都会に流れる。格差が広がる。農業は廃れる。荒れた土地に有害物質をまき散らす工場が建つ。公害が深刻になる。
一方で核家族化が進み、動けない年寄りが悲鳴を上げる。それでも13億という数の人間に、公的サービスが行き渡ることはない。

事実、中国では環境汚染による死亡者数が急増し、2004年には40万人もの人が大気汚染が原因で死亡、と発表されている。

また貴州省という田舎の地域では、人口の半数に当たる1900万人がフッ素中毒やヒ素中毒に冒され、足腰が極端に曲がったり下半身マヒの人で溢れて返っているのだとか。
(参考:http://www2.tokuyama-u.ac.jp/m33043/news2/%90%BC%95%94%8A%C2%8B%AB%96%E2%91%E8/002.htm)


どうすんだろ、中国。

近年は環境対策に前向きだと言われてはいるが、まさか諸問題への対応が驚異的な経済発展のスピードに追いつけるとは思えない。
国土と人口の巨大さが、更に対応を鈍らせている。


悲観的に考え過ぎ?
・・・いやしかし私は、やはり中国崩壊論に一票を捧げたい。

難しいことは言わない。それが私が現地で得た、最も率直な感覚なのだ。





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紹興市の行政機関で働いている余さんは、丸顔に恰幅のいい温厚そうな男性だ。
白く木目の細かい肌が若さを感じさせ、細い目の奥に光る眼光が、いかにもスマートなやり手の仕事人を思わせる。
福井県あわら市長を含む一行の今回の訪中で、彼は私たちのガイドと通訳、要人との仲介など様々な場面で活躍してくれていた。


余さんに聞いた。

中国は社会主義国なのに、経済はいかにも資本主義で貧富を拡大している。国民として矛盾は感じないのか?と。

余さんいわく、「中国は、何でもありなんです。より良くなるためには何でもする。私たちは、海外の良いものを真似るのが上手ですから、資本主義も良いところだけを真似て中国流にアレンジしているんです。」

つまり経済成長を促すことは、社会主義の国家体制とは別物なのだ、と余さんは言うのだった。


日本では中国の反日デモがショッキングなニュースとして話題を呼んだ近年。
実は国民の団結力を高めるための国家戦略として反日感情が煽られたのだとか何とか、テレビは連日同じ映像を繰り返しながら、批判的な中国論を報じた。

一方で、歪んだ社会主義国家の元、巨額な富を築いている上層部の人間にとっては、チッポケな島国・日本などもはや眼中にないのかもしれない。反日デモにいちいち過敏反応している私たち日本人の姿を、そういった金持ち達は実に滑稽だとあざ笑っていたかもしれない、そんな気がしていた。
  

日本のことを、中国の一般市民はどう見ているんだろう。
正直な意見が聞きたかった。

余さんは言った。

「 皆平等、その日本の価値観はすばらしい。例えば学校同士の交流で、日本は絵の上手な子の作品も下手な子の作品も、全部一緒に送ってくる。私たちには考えられないことです。子どもの絵は確かにどれも素敵なのに、中国人だったら上手な子の作品しか送らない。それが常識になっていますから。」

そして、日中友好の主張大会で優勝した心臓病を抱えた子どもが、先生や関係者の協力によって訪中を果たしたエピソードも教えてくれた。中国だったら間違いなく、病気を理由に諦めるよう説得するという。


中国にとって、日本は相変わらず「進歩してる国」に違いない。
もしくはそう信じた方がよい、と私は思う。
なぜならそれは、ようやくアジアが、 経済力だけじゃない真の先進国を目指せるようになると思うからだ。

例えば自分たちの文化を大切にすること、世界の平和を願うこと、障害者や年寄りの人権を尊重すること、環境を良くするためにアイデアを絞ること、政府に対しきちんと主張すること・・・、。
日本に観光に訪れる中国人裕福層が増えるほど、彼らは 私たちの普段の生活や行動に根ざしたものを観察する。 つまり日本が少しずつ改善してきた社会システムや社会保障のあり方で中国をリードし、それらを「真似するに値するもの」と評価されるならば、経済だけの醜い競争ではなく、お互いが緊張感をもってより良い社会づくりに励めるんじゃないか、と思うのだ。





経済発展と共に脅威を増す中国。
その実態を肌で感じるためにも、日本人こそ進んで中国を訪れてみるべきだと思う。

彼らに一体どんな「日本」を示すことができるだろう。

巨大な国の将来に影響を与えていることを思えば、日本人としての誇りと責任がメラメラと沸き立ち、多少の偽装問題など鼻の先で笑えるようにならないか?と思うのだけれど。