教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑩ 17世紀の敬虔主義運動とその流れにおける新しい歌 <1>

2005-04-27 22:04:02 | 講義
1. ドイツ敬虔主義運動

◆16世紀はまさに激動の時代であった。ルターの95か条の提題から始まった宗教改革は1517年から50年間のあいだに全ヨーロッパ中に拡大されていった。(脚注1) しかしそれは半年で膠着状態に入り、実際に活動が始まったのは17世紀後半から18世紀になってからである。特に、この時代の大きな流れの一つは、ドイツを中心とした霊的体質改善運動―敬虔主義運動―が起こり、広がって行ったことである。
◆この敬虔主義運動(ピエティスム:Pietism)とは、17世紀後半からドイツのルター主義の内部におこった教会内の改革運動であった。1670年ルター派教会牧師フイリップ・ヤコブ・シュペーナー(1635~1705)が,フランクフルトで個人的集会を開いたのがその起源である。この集会が「敬虔なる者の集い」と呼ばれたため,彼らに対するあだ名としてピエティスト:Pietist(敬虔主義者)と呼ばれた。
◆シュペーナーは、教会の教理や教義よりも、信者個人の意識的な回心と信仰、心の敬虔さを重んじ、実践的では禁欲的な信仰生活を強調した。それは30年戦争の悲惨な体験によって宗教改革の情熱を失い活力を失ったルター派教会の回復を求めた運動であった。シュペーナー自身はオランダの改革派から影響を受けたようである。
◆17世紀から18世紀にかけてキリスト教会は<啓蒙主義>や<理神論>の影響を受けて変質していった。教義や聖書よりも理性が優先し、理性で了解される限りにおいてキリスト教を受け入れるという状態に陥った。超自然的啓示は拒否され、神学は哲学になり、聖書の批判的研究がなされて聖書の権威が軽んじられ、キリスト教のメッセージは単なる道徳になってしまった。このような教会に新たな命を吹き込んだのが敬虔主義運動であった。
◆アウグスト・ヘルマン・フランケはシュペーナーにより回心し、ハレ大学を中心として活動し、シュペーナー以上にこの敬虔主義運動推進のために労した。彼は神学教育に情熱を注いだばかりでなく、幅広い活動家として1694年には貧民学校を設立、また彼の学校に孤児院、救貧ホーム、教員養成所、印刷所、書店、薬局および病院を併設した。彼の影響は全ドイツに広がり、貴族たちは彼の事業を応援し、その師弟を彼のハレ大学に進ませた。ハレ大学の特徴の一つは外国伝道への関心であった。フランケは宣教団体を作りインドへ宣教師を派遣した。これはプロテスタントで始めての海外(外国)宣教師であった。プロテスタントでは当時、海外宣教に目を向けるものは少なかったのが、敬虔主義は内心からの献身的行動を生みだし、愛の業や宣教活動を活発に行ったのである。敬虔主義の強調点は、①感情的表現の重視 ②生活の純潔と愛を高調 ③万人祭司の教理の再発見、である。
◆フランケの大学で教育を受けたツィンツェンドルフは、迫害を受けてモラヴィアから逃れて来たフス派のボヘミヤ(またはモラヴィア)兄弟団を受け入れてヘルンフート兄弟団(1727) と名付け、霊的指導者となったが、彼らもまた伝道活動、海外(外国)宣教に熱心であったことは言うまでもない。このモラビア派の影響により、イングランドのジョン・ウエスレーはメソジスト派をおこし、イギリスにリバイバル運動(信仰復興運動)を起こすことになる。そしてこれらの運動がやがて19世紀のアメリカのリバイバル運動へとつながっていく。

(脚注1)
◆各国の宗教改革 
①スイスの宗教改革はツィヴィングリー(1484~1531)ガチューリッヒで起こしたのが先駆となり、次いでフランス人のジャン・カルヴァン(1509~64)がジュネーヴに移り、司教制を排して長老制の教会組織を設け、改革主義教会を形成し、ルター派より強力なプロテスタント教会を各国に拡大させた。 
②オランダの宗教改革は、当時、オランダはカトリック教皇の支配下におくスペインからの独立戦争と無縁ではなかった。数万のプロテスタント教徒が一方的な宗教裁判によって虐殺されたが、1648年独立を勝ち取った。その後、オランダはは17世紀には極東と西半球を支配する強大な帝国を建設することとなる。教会としては、カルヴァン主義の長老制が拡大したが、これに対抗してアルミニウス派ガ現われ、1625年までカルヴァン派から迫害を受けるが、このアルミニウス主義は17世紀の聖公会や、18世紀のメソジスト運動と救世軍に影響を与えることとなる。 
③フランスの宗教改革は、1559年に約40万人の「ユグノー教徒」と呼ばれるプロテスタントがいた。1559年~98 年まで8回にわたり大虐殺が行なわれた。一時は、信教の自由を獲得したが、1685年、ルイ14世によりそれが剥奪され、50万人のユグノー教徒はやむなくイギリス、プロシア、オランダ、南アフリカ、北米のカロライナ州などの諸国に逃れた。以後、フランスではプロテスタント教徒は少数にとどまった。優秀な産業人であったユグノーを失ったフランスは国力を失い、やがて、教皇の政治的支配も終焉することとなった。
④イギリスの宗教改革は、ヘンリー8世(1509~47)の時代に議会の支持を得て、1534年、自らイギリス国教会の主権者であるとして教皇からの支配からの独立を宣言した。国教会の信仰箇条にはルターやカルヴァン派の教えが取り入れられているが、司教(監督)制を維持したことや儀式の面でカトリックとよく似ている。この国教会のあり方に反対し、教会自体の聖化を求め、そこからピューリタン(清教徒)やメソジスト教会が生まれた。ミルトンの「失楽園」、バンヤンの「天路歴程」は、ピューリタン文学として今でも輝いている。 
⑤スコットランドの宗教改革は、ジョン・ノックス(1515~1572)を指導者として行なわれた。この国の宗教改革はフランスからスコットランドの民族の独立を獲得する運動と一つであった。スコットランドの女王メアリーはフランス国王と結婚し、両国は同盟を結び、フランスと同じくプロテスタントの撲滅を図った。しかし、イギリスの援助を得て、1560年、ノックスの指導のもとに、宗教改革は教皇の支配から分離して進められ、1592年には、長老主義が確立された。後に、スコットランド長老主義者たちは、北アイルランドに移住し、そこから18世紀のはじめ数千人の人々がアメリカに移住し、長老主義教会を設立するようになる。




本論⑨ フランスおよびスイスの宗教改革期に生まれた詩篇歌

2005-04-26 20:28:03 | 講義
1. ジャン・カルヴァンと「新しい歌」としての<詩篇歌>

◆ドイツでルターが指導する宗教改革が進んでいるころ、スイスのジュネーヴではジャン・カルヴァン(Jean Calvin,1509~1564、1533年の24歳にパリの大学で神学を学ぶうち突然の回心を経験)を指導者とする、別な神学的主張を持つ宗教改革(ユグノー派 注1)がはじまっており、そこから新しい歌としての<詩篇歌>が生み出された。注2
◆カルヴァンの神学的要点は、聖書に示された神の言葉の尊重と、神の至上権に対する完全なる服従であり、その教義の中心は信仰によって義とされることと、神の救いの予定説である。カルヴァンは、中世カトリック教会の非聖書的要素をきびしく排除するとともに、礼拝についても新しい様式を示し、それにふさわしい賛美の様式を生み出した。 

(1) カルヴァンの詩篇観
◆カルヴァンによれば、礼拝において神を賛美する賛美歌として最もふさわしいものは、初期の教会以来、多くの人々によって書かれてきた創作賛美歌ではなく、「神の言」の記録そのものの中にある賛美歌集、つまり旧約聖書にある150篇の詩篇こそそれであると考えた。神をほめたたえるには霊感された神の言をもってすべきであるという彼の明確な神学が根底にあった。
◆カルヴァンにこのことの実行面でのヒントを与えたのは、ドイツのルター派教会のコラールであって、彼がストラスブールに亡命中、同地のルター派教会でドイツ人が力強くコラールを歌っているのを聞き、非常な感銘を受け、自分が指導する会衆が神の言である詩篇をその賛美歌として歌うことを願うようになった。そして、ルターと同様、カルヴァンは会衆が死語化したラテン語によってではなく、彼らの日常語であるフランス語で詩篇を歌うことを望み、彼自ら、詩篇をフランス語の韻文に訳そうと試みた。しかし彼にとって詩篇の韻文訳化は得意ではなく、後にクレマン・マロー(1497~1544)や、カルヴァンの弟子テオドル・ドゥ・ベズ(1519~1605)らの詩人と、作曲家ロア・ブルジョアらの助力によって進められることになる。
◆カルヴァンは、ルター以上に詩篇を愛好し、それを全面的に教会の礼拝に取り入れた。詩篇の中には人間のあらゆる感情がよみこまれているというのが、カルヴァンの詩篇観である。そこには人の心を乱しがちな悲しみ、恐れ、病、望み、心配、思い煩いなど、あらゆる感情のあらしを、聖霊は示している、と自らの「詩篇注解」の序言の中で述べている。

(2) ジュネーヴ詩篇歌
◆1533年に回心したカルヴァンは福音主義に転向したため迫害を受けて、スイスのバーゼルに逃亡する。そこで彼の神学体系をまとめた『神学綱要』(1536)を出版した。いったん帰国ののち、再びスイスのジュネーヴに行き、宗教改革を指導するが、余り厳しすぎたため1538年に追放され、一時ストラスブールに逃れ、同地の大学で教えながら各地の宗教改革者と交友を作った。またそこでフランス人亡命者教会の牧師を務めた。カルヴァンはその地域で用いられていた『ドイツ・ミサ』をフランス語訳して用いた。19曲の詩篇歌と3曲のカンティクム(シメオンの歌,十戒の歌,信仰告白の歌)を出版したが,このうち13の詩篇の韻律訳は,フランス王フランソワ1世の宮廷に仕えたクレマン・マロー(Clement Marot)によるものであり,残る6篇はカルヴァン自身の訳であった.これがカルヴァンのストラスブールにおける最初の詩篇歌集である。
◆1541年ジュネーヴに戻り、その後20年間、同地で宗教改革を指導し、ジュネーヴに宗教政治を樹立して刷新を行なったばかりではなく、学校を建て各地から集まった学生の多数を訓練した。カルヴァンはジュネーヴに帰ってから、もう一つ別の詩篇歌集を1542年に出版した。カルヴァンはマローの死後、カルヴァン弟子のテオドール・ベーザ(1519~1605)にそのマローの事業を継続させ1562年ついに、詩篇150篇を全部フランス語の韻文に訳した讃美歌集<ジュネーヴ詩篇歌>を完成させた。これはプロテスタント音楽史上、不朽の偉業とされており、特にカルヴァンの感化を受けた改革派の教会に多大の貢献をした。
◆カルヴァンは、1542年に制定された新しい礼拝順序に詩篇歌を取り入れ、1559年にはフランスの改革派教会でも、礼拝に出席する教会員は詩篇歌唱を持参することを規定しており、以後約2世紀にわたって、カルヴァン主義教会の礼拝に詩篇歌は不可欠のものとなった。
◆詩篇歌について、その形式的な特徴は、まず、歌詞の1音節に対して音符一個の、いわゆる音節的(シラビック)形式が確立している。曲の中にクライマックスが原則として一箇所だけあること、各フレーズの最初と最後の音符が長いこと。曲の前半に繰り返しがあること、下降する四つの音符が旋律のモチーフとして目立つこと、メロディの動き方やリズムが力強い感じのものが多い。
また、どちらかというと重厚にして暗い感じのあるドイツのコラールとは対照的に、明るいメロディーのものが多い。

2. 日本語によるジュネーヴ詩篇歌

◆カルヴァン派のジュネーヴ詩篇歌は、日本伝道が開始された当時、英米ではあまり歌われておらず、それが復活してきたのは今世紀になってからである。日本福音連盟の『聖歌』(初版、1958年)が20篇以上のジュネーヴ詩篇歌を採用したことは注目すべきことである。注3
◆「悪しきたましいは」(讃Ⅱ110番)はカルヴァン自身の書いた詩篇歌で、詩篇36篇のパラフレーズである。1539年のストラスブールで出版された最初の詩篇歌集に収められている。
◆「めぐみゆたけき主を」(讃12番)はマローの詩篇118篇のパラフレーズで、曲はルイ・ブルジョア(1515~1561)である。ブルジョワはカルヴァンの重要な音楽的協力者である。日本の讃美歌の頌栄(539番)「あめつちこぞりて」は特に親しまれている。他にも、讃6番「われら主をたたえまし」、讃226番「地に住める神の子ら」がある。いずれも、ルイ・ブルジョワの作曲である。

〔講義本論⑨の参考文献〕
●長輿恵美子著『コラールのあゆんだ道―ルターからバッハへの二百年』(東京音楽社、1987)
●由木 康著『讃美の詩と音楽』(教文館、1975)
●原  恵著『『賛美歌―その歴史と背景―』(日本基督教団出版社、1980) 

(脚注1)
◆カルヴァン派は各地に広まり、イングランドではピューリタン(清教徒)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、フランスではユグノー、オランダではゴイセンと呼ばれ、その勢力はルター派をしのぐようになり、ルター派以上に大きな影響を残した。
(脚注2)
◆この用語の指し示す範囲は必ずしも一定ではないが,旧約聖書の詩篇に基づくプロテスタント教会の典礼歌のうち,詩篇そのもののいわゆる「韻律訳」に拍節を持った旋律を付したもの,すなわち〈英〉metrical psalmを指して「詩篇歌」と呼ぶことが最も多い.類語として「詩篇唱」が挙げられるが,これは一般にローマ・*カトリックの聖務日課で歌われる詩篇の朗唱を指す.欧米語においては,旧約聖書本文の「詩篇」も会衆歌としての「詩篇歌」も同じ言葉(〈英〉psalms)で呼ぶのが通例である.また「賛美歌」を意味する単語〈英〉hymn,は,狭義には自由詩による賛美歌のみを意味し,詩篇歌は通常除外される.
(脚注3)
◆近年(1996年)、日本キリスト改革派教会賛美歌検討委員会が1994年に『36のジュネーヴ詩篇歌(日本語による)』と題して出版したものに基づいて、ミクタムから「日本語によるジュネーヴ詩篇歌」(14編)のCDが出されている。

本論⑧ マルチン・ルターとコラール <2>

2005-04-25 17:30:19 | 講義
3.  ルターのコラールを作る上でのコンセプト

(1) わかりやすさ
◆ルターが新しい歌である<コラール>を作るにあたって第一に配慮したことは、聖書の翻訳のときと同じく、歌詞が誰にもわかることと、メロディーが親しみやすいことであった。また、従来のカトリック礼拝に歌われていた聖歌の歌詞のすべてはラテン語のものであったため、その中から良いものをドイツ語に翻訳することもまた緊急の仕事であった。
(2) 改作の能力
◆ルターは新作を多く作ることよりも、原則として、できるだけ古くから歌い継がれている歌詞、およびメロディーを土台とし、それらを一般会衆になじみやすいように改作することに努めた。

①古い讃美歌のメロディーをそのまま用いた。
②古い讃美歌の歌詞を部分的に手を入れた。
③歌詞によく合うように、グレゴリオ聖歌のメロディーを工夫してつなぎ合わせた。  
④古くからドイツに歌い継がれてきた多くの民謡や、当時歌われていた世俗歌の中から少しでも良いメロディーであればただちに採用して、それに宗教詩をつけ代えた。これは、一つには民衆に早くなじませて覚えさせるための一方法であった。  
⑤すぐれたメロディーは、三つ、ないしは四つの詩をつけることもあった。つまり、良いものを用いて最善のものを作ることに苦心を重ねた。

◆このように、ルターはカトリックのすべてを否定して新しいものを作ったのではなく、良いものは良いとするバリアフリーの態度を持っていたと言える。この意味で、礼拝に対するルターの基本的姿勢はこのように保守的であったといえる。

4. コラール集の出版

◆ルターがコラールの製作に力を注いだのは、主に1523~24年の両年にかけてである。この一年間以内に大小4種類の重要なドイツ・コラール集が出版された。
◆1524年に、ヨハン・ワルターとルター共編によるヴィッテンベルグの<小讃美歌集>が出版された。これには32の讃美歌に35の四、五声部に編曲した物が収録されている。この四、五声部のコラールは聖歌隊用のもので、コラールのメロディーはソプラノのパートではなく、テノールに置かれた。この2年後に、ヴィッテンベルクで出版されたワルターの<コラール聖歌集>の単行本が、本当の意味での<ドイツ会衆讃美歌集>の最初のものとなった。  
◆この歌集では重要な二つの先例を作った。
①歌詞に単声メロディーのついたものと、多声の教会聖歌隊用のものを作ったこと。
②異なった歌詞(テキスト)に、同じメロディーを当てる習慣を作ったこと。

5. ドイツ・ミサについて

◆1525年の10月29日、ヴィッテンベルグの教区内の教会で、新しい内容による礼拝式をはじめて用いるという記念すべき日を迎えた。これまで一般の信徒にはほとんど理解されなかったこれまでのラテン語のミサとは違って、自国語によるものであり、深い感動の渦が巻き起こったという。
◆この礼拝での音楽はルターの指示を受けたヨハン・ワルターが書いたものであった。この礼拝式は当時の人々に歓迎され、その年のクリスマスから正式に教会で用いられるようになった。そして翌年の1月に、ルターはこのための序文を書き、印刷し、出版したものが<ドイツ・ミサ>と言われるものである。したがって、この<ドイツ・ミサ>はプロテスタント教会最初の自国語による礼拝式として重要なものであり、グレゴリオ聖歌と共にドイツ・コラールが礼拝の中で重要な位置を占めるようになった最初のものとして特別の意味をもっている。(脚注5)
◆長い間、伝統的に行なわれてきたものを改革する前には、たとえそれが良いものであったとしても、必ず多くの反対に出会うのが常である。ルターが礼拝の順序の内容を変えようとしたときにもそうであった。その内容は、従来よりもっと自由なものに変えるということであった。礼拝を行なう時に用いる言葉は、ラテン語でなければならないとか、形式云々とか、ミサにかける時間は・・等、ルターは「そのときに応じて自由であってよい」としたのである。
◆ちなみに、ルターの<ドイツ・ミサ>の順序は以下のようであった。1526年。(脚注6)

① コラール (詩篇34篇2~23節をグレゴリオ聖歌の第1旋法で歌う)
② キリエ (9回ではなく、3回に)
③ 集祷 (牧師は聖壇に向く)
④ 使徒書の朗読 (グレゴリオ聖歌第8旋法で歌う)
⑤ コラール (聖歌隊の合唱) (脚注7)
⑥ 福音書の朗読 (グレゴリオ聖歌第5旋法で歌う)
⑦ 信条のコラール
⑧ 説 教
⑨ 主の祈り
⑩ 聖餐の勧め
⑪ 聖列・配餐・・この間、コラール (脚注8)
⑫ 特別祈祷
⑬ 祝 祷

6. ルター自身のコラール

◆日本基督教団出版社の『讃美歌』の中では以下のものが収められている。
①「神はわがやぐら」(作詞・作曲)・・・・〔讃美歌267〕
②「深き悲しみの淵より」(作詞・作曲)・・〔讃美歌258〕
◆いずれも詩篇46篇、130篇からのもので、ルターの真摯さ、強さ、特徴が鮮明に出ている。

 「神はわがやぐら」
1.
神はわがやぐら  わが強き盾
苦しめるときの 近き助けぞ
己が力 己が知恵を 頼みとせる
陰府(よみ)の長も など恐るべき
2.
いかに強くとも  いかでか頼まん
やがて朽つべき  人の力を
われと共に戦いたもうイエス君こそ
万軍の主なる  あまつ大神
3.
悪魔世に満ちて  よし脅すとも
神のまことこそ  わがうちにあれ
陰府の長よ ほえ猛りて 迫り来とも
主のさばきは   汝がうえにあり
4.
暗き力の     よし防ぐとも
主のみ言葉こそ  進みにすすめ
わが命も わが宝も 取らばとりね
神の国は     なお我にあり

◆この讃美歌は宗教改革の軍歌として知られる。ルターはこれを詩篇46篇にヒントを得て作った。この歌全体を詩篇と比べるとき、決して詩篇46篇の忠実な訳ではなく、その一部の発想を借りた自由なルターの詩篇というべきものである。そしてここで特に注意すべきことは、日本の翻訳(現行讃美歌)では讃美の主体がすべて「わが」となっているが、原詩では「われら」と複数になっていることである。ということは、この時代のコラールは教会的、公同的性格をもっていたということができる。宗教改革期のコラールが万人祭司の実現をめざす一端として、まず公同礼拝への会衆参加を第一の目的として、そのために必要なものが積極的に生み出されたということであり、その意義は大きいといえる。(脚注9)

(脚注5)
◆コラール(会衆讃美歌)が礼拝に入ることによって、それは牧師の説教、および祈祷や聖歌隊の合唱と同等の地位を持つようになった。それ以来、福音教会には会衆の歌なしの礼拝というものは全くなくなったのである。改革当時は、讃美歌の本の中の歌一曲を歌うごとに献金が行なわれた。それはほほえましい感じである。それだけ礼拝が親しみやすいものとなり、礼拝の中で会衆が讃美歌を共に歌えるようになったことへの喜びの気持ちの現われであった。
(脚注6)
◆ルターが福音教会(プロテスタント教会)のために新しい礼拝順序を定めたときには、伝統を尊重して、キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、アニュスデイは従来のままラテン語で歌わせている。
(脚注7)
◆ここにしばしばカンタータを置いた。これは説教内容を音で表現する音楽で聴くことであり、これを聴いてから説教を聴くという趣向であった。
(脚注8)
◆昇階唱の代わりに「我ら今聖霊を求む」というコラールを用いた。また聖餐式のところでは、フスの歌やドイツ語に訳された「聖なるかな」「神の小羊」(アニュス・ディ)ガ用いられた。(『キリスト教礼拝辞典』166頁)
(脚注9)
◆宗教改革期のドイツ讃美歌には「われ」という第一人称単数代名詞はあまり使われておらず、「われら」という複数形が頻繁に用いられている。ルターから始まった宗教改革は教会だけの出来事にとどまらず、ルター派とカトリック派の諸侯の争いに発展し、やがて30年戦争(1618~1648)で頂点に達する。これを転機にして戦闘的なルター派の教会も次第に制度化し、形式化して沈滞し、ドイツの人々は教会に対する信頼を失い始める、その反動として讃美歌も教会的、公同的なものから、個人的な信仰を重視する敬虔主義の時代へと続いていく。この敬虔主義の一躍を担うことになったモラヴィア派の主観的で情熱的な賛美歌は、後に英国のウェスレ-兄弟に影響を与え、メソジスト運動を呼び起こす原動力となる。ドイツ讃美歌の歴史は、敬虔主義をもって一応終わりを告げることになる。

〔講義本論⑧の参考文献〕
●長輿恵美子著『コラールのあゆんだ道―ルターからバッハへの二百年』(東京音楽社、1987)


本論⑧ マルチン・ルターとコラール <1>

2005-04-24 20:13:18 | 講義
1.  マルチン・ルターという人物 

◆キリスト教が4世紀にローマの国教として制定されてから、約千二百年を経た16世紀の前半、1517年から1524年にかけて、カトリックの最も真面目な司教の一人であったルターは、乱脈のきわみに達していたカトリックの世界をなんとか是正したいという気持ちから、大胆にも、教皇庁に対して一投石を放った。その一投石とは、「95箇条の提題」を書いた板をヴッテンベルグの城教会の扉に打ち付けた事件であった。この事件は、ルターが自分でも予想だにしなかった歴史的事件、すなわち、<宗教改革>へと発展してしまった。(脚注1)

●〔1483〕・・・・・・・・・ ルター誕生
●〔1501〕(18歳)・・・・エルフルトの大学に入学(法律を学ぶため、父親に従って)
●〔1505〕(22歳)・・・・ルターは優等な成績で修士の学位を受ける。父親の願いに従って立身出世の道に励んだ。しかし<落雷の体験>による死の恐怖からの突然の回心。その際に誓いを立て、このとき初めて父に反抗し、父の許可なく大学を辞めて修道院に入る決心をする。彼は修道院に入ることによって死の問題の解決が与えられると期待した。ルターが入ったアウグスチヌス派修道院は、最も厳格な戒律と訓育をもって知られた修道院であった。彼はそこで壮絶な苦悶をしながら、模範的な生活を続けた。しかし良心の平安はなかった。
●〔1507〕(24歳)・・・・司祭となる。聖歌隊で歌っているときに発作を経験。突然、床に倒れ、何かにとりつかれたように、とりとめのないことをわめき、うなった。しかしこの発作は、父親からの亡霊からの新しい夜明けを意味する経験であった。
●〔1513〕(30歳)・・・・神学博士になり、聖書を地道に学ぶ中で「塔における啓示」を経験する。それは学究的な経験で、「信仰による神の義」という真理に目が開かれる経験であった。その経験をしたヴィテンベルグ大学で詩篇の講義をするようになる。このころから人々の告解を聴き、民衆が免罪符を買うことを強いられてひどく苦しめられていることを初めて知った。
●〔1517〕(34歳)・・・・ヴィンテンベルグの教会の扉に「95か条の提題」を打ち付ける。同時に、ドイツの大司教にも書簡として送った。この日が10月31日で、現在の宗教改革記念日となった。絶対的な力をもつ教会を批判したとされ、ルターは教皇庁の審問を受ける。そして彼はそこで「我ここに立つ。神よ、我を助けたまえ。アーメン」の言葉で絶句する。1520年には教会から破門、翌1521年には帝国から帝国追放刑(事実上の死刑)を宣告される。
●〔1521〕(38歳)・・・・その後、ルターはザクセン選帝候のフリードリッヒの計らいで誘拐され、ヴァルトベルグ城の中にかくまわれ、その保護の下で聖書の翻訳に取り掛かる。
●〔1522〕(39歳)・・・・その時、11週間と言う速さで新約聖書をドイツ語に、次いで1534年には旧約聖書全体を翻訳する。このことにより、ラテン語の解らない一般の大衆に聖書を読む機会を与えたばかりでなく、結果的に、各地の方言に分かれていたドイツ語を統一するのに大きな貢献をすることとなつた。また、人々が歌いやすいような讃美歌を数多く作った。そのようにしてルターは、物心両面でイエス・キリストの福音を人々に分かりやすく、また身近なものとしたのである。

2. <新しい歌>の必要性

◆1521年、ルター38歳。ヴィッテンベルグでの改革が活発になっていくにつれて、この派の礼拝順序、および礼拝(ミサ)をどのように行なうべきかを早急に決めなければならない気運が盛り上がってきた。ヴィッテンベルグ大学の神学部長カールシュタット(ルターと共に聖書講義をしていた)は思い切った改革的な形での礼拝を行なったが、ルターにとってはそれは衝撃であった。ルターはどちらかといえば保守的性格の持ち主であった。
◆讃美歌は数の上ではすでにボヘミヤ同胞会(脚注2) のものもあって不足はなかった。しかしルターが用意すべきものは、新しい福音教会の理念にかなった内容のものでなければならなかった。
◆また、ルターは教会の中ばかりではなく、会衆の家庭の中まで讃美歌を浸透させることを願った。彼はだれか良い作詞と作曲のできる人物を探し求めたが、適任者が見当たらず、結局、ルター自身がペンを取ることとなった。そして生まれた「ドイツ宗教詩」という新しい分野が開拓され、多くの追従者、継承者がこれに倣うようになったのである。(脚注3) これが<コラール>と呼ばれるものである。(脚注4)


(脚注1)
◆中世カトリック教会の腐敗ぶりを見て宗教改革をしなければならないと考えたのはマルチン・ルターが最初ではない。それ以前にも同じ志を抱く人はいた。ボヘミア (チェコ) 生まれのプラハ大学教授ヤン・フスもその一人であった。しかし当時の社会情勢では教会の迫害がこわいため、フスを表立って支持する人はなく、フスは1415年、 教会会議で異端と宣告されて火刑に処せられた。 ルターの宗教改革 (1517) に先立つこと約1世紀であった。
◆もしルターがフスの時代に登場していたら、 だれからも支持の声は上がらなかっただろう。 では、フスがなしえなかった宗教改革を、 なぜルターがなしとげることができたのか。 政治情勢の変化もあったが、 最大の理由は、 印刷術が普及していたことである。 フスの刑死から40年後の1455年に、ドイツのグーテンベルクが鉛活字による活版印刷術を発明した。それから約60年、ルターの時代には低価格で大量の印刷物を作り、 配布することができるようになっていた。ルターがウィッテンベルク城内の教会の扉に張り出した 「九十五ヵ条の論題」 の原文はラテン語であったが、ただちにドイツ語に翻訳されて、 知識階級の間に配布された。ルター支持の世論は高まり、神聖ローマ帝国の政治に参画する諸侯―選帝侯―にも影響を与えた。また、危害を防ぐためにルターの身柄をかくまう領主もいて、バチカンはついにルターを処刑することはできなかった。
(脚注2)
◆ルターの手によるドイツ訳の「新約聖書」が出版される1世紀前に、ボヘミヤの偉大な殉教者ヤン・フス(1369~1415)はプラハの教会の牧師となり、チェコ語で説教をし、また歌った。フス自身もまた、多くの讃美歌を作った。彼の亡き後、彼の流れをくむフス派の一派がボヘミヤ同胞会を組織し、母国語、またはその仲間たちの方言による讃美歌を盛んに歌った。1501、1505年には、それぞれ89曲と400曲を擁する全く別々の内容を持つ讃美歌集を出版している。ルターかドイツ語による讃美歌集の作成を急いだのには、こうした刺激があったという見方がある。
(脚注3)
◆ルターには下地があった。彼は少年の頃からラテン語の讃美歌を歌うことを何よりも好んでいたし、また学生時代の友人たちはルターを音楽家と呼んでいたほどである。また長年、詩篇とのかかわりを通して、人間の魂の根底にある神への畏敬の念や表現の崇高な美しさなどを吸収していた。無我夢中で論敵と戦うことに没頭していた頃のルターにとって、まさか自分自身が詩やメロディーを書くことになるだろうとは予想だにしていなかったに違いない。しかし彼はすでに非凡なものを持っていた。そしてそれが余すところなく表現されるようになったのである。
(脚注4)
◆「コラール」の基本は「単旋律」である。コラールの語源は「群集」という意味の「コロス」から来ており、つまりみんなで1つの旋律を歌うことから来ている。この「コラール旋律」にどのような和音をつけようが、どのような対旋律をつけようが、その曲はみんな「コラール」と基本的には呼ばれる。その旋律はドイツの民衆のなかにしっかりと根付くことになった。 聴衆はコラールの旋律を聴くだけでそれがどのような歌であるかすぐにわかったし、そのコラールの歌詞にこめられた感情をもすぐに理解することができた。 コラールの旋律は聴衆にとって、まさに「自分たちの音楽」だったのである。


本論⑦ クレゴリオ聖歌と教会旋法 <3>

2005-04-23 11:20:03 | 講義
3. 芸術性と大衆性の二律背反の関係

◆「あちらをたてれば、こちらがたたず」ということばがあるように、音楽における芸術性と大衆性もこの二律背反の関係にある。ここではグレゴリオ聖歌の歴史から(少し繰り返しになるが)、また、後に取り上げるドイツ・コラールの歴史を通観してその問題を考えてみたい。

(1) グレゴリオ聖歌の場合

◆紀元4世紀頃までの初期のキリスト教会において礼拝で歌われる歌はきわめて単純であった。したがって、だれでも神を賛美することができた。ところが礼拝で歌われる歌がだんだんと整備され、複雑化されてくるようになるーそれは礼拝をより神聖なるものとするために、という願望からであるがー。そしてそれが精緻化されることにより、一般大衆には手に負えないものとなっていった。
◆6世紀後半に活躍したグレゴリウス一世により、それは決定的なものとなった。彼はそれまでに礼拝で歌われてきた歌を集大成し、グレゴリオ聖歌を誕生させた。そして彼はまたスコラ・カントルムという音楽学校を作った。そこは、すでに複雑化、精緻化した礼拝音楽を学ぶ場であった。楽譜というものが整備されていない当時、音楽を学ぶということはすなわち膨大なるグレゴリオ聖歌を暗譜、暗誦することであった。スコラ・カントルムは卒業までに9年間かかったと言われている。すべてのグレゴリオ聖歌を頭にたたきこむのにはそれだけの年数を必要としたのである。
◆こうして複雑化した礼拝音楽ではもはや一般大衆は沈黙するほかはなくなった。礼拝で歌うことができるのは専門的なトレーニングを受けた聖歌隊に限られるようになった。また礼拝そのものも、中世ヨーロッパでは既に死語となっていた一般人には理解できないラテン語で行われたために、一般大衆は礼拝に参加してもいったい何がなんだかわからない状態となっていったのである。礼拝をより神聖なるものとするために、また、グレゴリオ聖歌の芸術性をより高めるために、大衆性は逆にどんどん失われていったのである。

(2) ドイツ・コラールの場合

◆さてこうした状態を打破しようとしたのがマルチン・ルターであった。彼は礼拝をより大衆的なものに戻そうとした。そして民衆の言葉であるドイツ語で礼拝をおこない、グレゴリオ聖歌の代わりにコラールという概念を導入した。コラールとはドイツ語で歌われる単純な単旋律の歌で、そのメロディーはできるだけ民衆に歌いやすく、なじみが深い曲から作られた。
◆こうしてドイツのルター派においては礼拝の大衆化に成功したわけであるが、反面その芸術性は失われてしまったといってよい。だれにでも気軽に歌える曲というのはどうしてもその芸術性は低いものとならざるを得ない。そのためかどうかはわからないが、コラールの多声化(現代でいうハーモニーをつけること)がすぐになされるようになった。コラールを使ったさまざまなジャンルの音楽が現われ始めた。単純なコラールを使って芸術的な作品を作るということが作曲家の創作意欲を刺激し、それぞれ個性的な作品を作り始めたのである。
◆こうしてコラールの多声化やこれを使ったさまざまな芸術作品があらわれるにつれ、またしても大衆は礼拝音楽においてつんぼさじきにおかれる結果となってしまった。コラールの多声化により、メロディーは現代と違ってテノールにおかれるようになったため、大衆には他の声部が邪魔になり、いったい自分がどんな曲を歌っているのかさえわからなくなり、歌を聴いてもメロディーがさっぱりわからなくなってしまった。またコラールを使用した複雑な曲が教会のオルガンで演奏されるようになり、結局民衆はそれらを黙って聞いているよりほかなくなってしまったのである。
◆こうしたコラールの芸術化を究極のものとし、コラールの大衆性にとどめを刺してしまったのがかの有名なヨハン・セバスチアン・バッハである。彼が礼拝で弾くオルガン曲はコラールを用いているとはいえ、複雑すぎて大衆にはさっぱり理解できなかった。今でこそバッハは音楽の父と言われ、あがめられているが、彼と同時代の大衆からすれば大衆のためのコラールを、かつてのグレゴリオ聖歌のように芸術化してしまった張本人であった。このようにして、コラールもまたグレゴリオ聖歌と同じ運命をたどったのである。

(3) 二律背反を打破することは可能か

◆音楽における芸術性と大衆性の二律背反性-これはまさに古くて新しい課題といえる。だれもが参加できて、なおかつ芸術性の高いものというのは可能なのであろうか。


〔講義本論⑦の参考文献〕
●キャサリン・ル・メ著『癒しとしてのグレゴリオ聖歌』(柏書房、1995)
●水島 良雄著『グレゴリオ聖歌』(音楽之友社、1966)


本論⑦ グレゴリオ聖歌と教会旋法 <2>

2005-04-22 13:51:58 | 講義
2. 教会旋法とその特色

◆教会旋法とはグレゴリオ聖歌の音階のことである。すなわち、根音に対してどんな音程関係にある音を旋律の音として用いているかという相対的な構造を指す。バロック以後の音楽の旋法には 長音階(ドレミファソラシド)と 短音階(ラシドレミファソラ)しかないが、グレゴリオ聖歌ではこの2つとは違う旋法が用いられていた。以下ドレミで階名、C,D,E,で音名をあらわすものとする)その旋法とは、以下の四つである。

① ドリア旋法(レミファソラシドレ)

◆「いわゆる短調(近代短旋法)に類似した旋法であるが、 導音のないことがその相違を明確にしている。」「これは、厳粛、優雅、つつましやか、控えめであるが、常に平穏、静寂の旋法である。観想の旋法、ともいわれるが、 とりわけ平安の旋法、という評言にふさわしいものである。」 (水嶋良雄著「グレゴリオ聖歌」)
◆教会旋法の中で最もスタンダードといえる旋法で、 落ち着いた安定感のある旋律を作る。「平安の旋法」 という表現はまさに的確といえるだろう。 その反面とりわけ際立った特徴もなく、やや平凡な 印象を受けることもある旋法である。

② フリギア旋法(ミファソラシドレミ)
  
◆「近代調性からもとも遠く隔てられた旋法ということが できよう。この旋法は和声学者をもっとも難渋せしめている。というのはほとんどの旋法がその終止音を『いわゆる主音』のごとく考えているのにもかかわらず、この旋法だけは そのように考えられないからである。」 「『天と地の間に浮かびながら停止する旋法』という(中略) 評言はそこからでている。」 「これは、甘美、神聖、恍惚、永遠の旋法である。」 (水嶋良雄著「グレゴリオ聖歌」より)
◆近代調性に最も結び付けにくいために、逆に最もグレゴリオ聖歌らしい印象を受ける旋法である。 終始フワフワしたような独特の甘美な旋律を生み出す。「ファ->ミ」という上方からの解決を特徴として持っており、この終止はバロック以降も「フリギア終止」としてその面影を残すことになる。

③ リディア旋法(ファソラシドレミファ)

◆「『諸音程の配列具合』および『基音の下が半音』という ことから、しばしば近代長調(長旋法)をしのばせる旋法である。 とはいえ、黄金時代のかつての作曲家たちは、 きわめて卓越した諸作品をこの中から作り出している。」 「本旋法による我々の古曲は、流麗、端然、確固たる特徴が あるとともに、軽妙敏速、快活さをあわせ持っている。 爽快、新鮮、すがすがしさを感じさせることもある。」 「各種の多様な感情表現に不足することのない旋法と いうことができよう。」 (水嶋良雄著「グレゴリオ聖歌」より)
◆引用にある通り、リディア旋法はグレゴリオ聖歌そのもの にとっては重要な旋法のひとつである。しかしルネサンス期の 音楽の中では、旋律的・和声的理由のために 大抵「シ」が「シ-フラット」に変化してしまったために 近代長音階(イオニア旋法)と全く同一になり、その個性は失われていくことになる。

④ ミクソリディア旋法(ソラシドレミファソ)

◆「充分な響きの旋法、大きくひろげられた音程の旋法、そして特にブールゴオル・デュクードレが評した<超長旋法>である。」「明快・熱烈・感動を表現する旋法、喜悦にみちた飛翔、熱狂的な飛躍、凱歌にふさわしい躍動的なものを表現しうる旋法であるが、Lauda Sion の旋法ということは以上の諸特徴のよき象徴である。」「またとりわけ低い諸音符においては、確信、荘厳にして断固たる確信を示すものであり、完全で申し分のない喜びの旋法、 要するに、充満、充全の旋法である。」(水嶋良雄著「グレゴリオ聖歌」)
◆基音の「ソ」に対し、その下の「ファ」および その上の「ラ-シ」がすべて全音の間隔で並んでいるために、非常に明るい開放的な旋律を生み出す。「超長旋法」とは名言といえよう。


◆1525年になって、この4つの旋法に エオリア旋法(現在の短音階)とイオニア旋法(現在の長音階) が加えられて全部で6つの教会旋法ができることになる。

⑤ エオリア旋法(ラシドレミファソラ)

 
⑥ イオニア旋法(ドレミファソラシド)

 

本論⑦ グレゴリオ聖歌と教会旋法 <1>

2005-04-21 16:51:32 | 講義
1. グレゴリオ聖歌について

 (1) カトリック教会の祈りの歌
◆グレゴリオ聖歌はカトリック教会に1500年にもわたって伝えられてきたラテン語によるもっとも大事な祈りの歌である。その源泉は古く、キリスト教誕生以前のユダヤ教の聖歌などから発展してきたと考えられている。もちろん作曲者の名前はひとつも残されておらず、そもそも特定の時に誰かの手によって作られたものなのか、長い歴史のなかで歌われるうちに発展してきたものなのか、それさえもはっきりとはわからない。
◆かつて教会での典礼はほとんどの部分が歌で成り立っていた。聖書朗読や単純な祈祷などは、同じ高さの音で朗唱されるが、賛美の歌は複雑で、芸術的にも高度に洗練されている。一般的な音楽の通念と異なるのは、グレゴリオ聖歌が楽器などの伴奏なしに歌われる単旋律の歌である。ふたつ以上の旋律を同時に奏でることによって和音が誕生したのはヨーロッパでもやっと12世紀頃になってからである。
◆なぜ「グレゴリオ聖歌」と呼ばれるのか、それは聖歌の成立に貢献したといわれる7世紀初頭の教皇グレゴリウス1世(590~604在位)にちなんで名付けられたからだと言われている。(脚注1)  
「グレゴリオ聖歌」というのは一種のニックネームであって、正確には「ローマ聖歌」というのが正しい名称である。つまり、グレゴリオ聖歌はローマ典礼に固有な歌として、キリスト教の伝統を2000年にわたって守ってきたカトリックの最高指導者であるローマ教皇が正式に認めた聖歌なのである。
◆ところで、グレゴリオ聖歌は「ネウマ譜(Neuma)」という独特の楽譜で記されているが、現在知られる一番古いネウマ譜でも8-9世紀と言われている。また、初期のネウマは旋律の上行、
下行は示しているが、音程やリズムまでは明示されていない。やがて11世紀までにグイード・ダレッツォの考案した4線譜によるネウマ(↑上記のネウマ譜参照)が記されるようになってもリズムは不明確なままである。したがってその歌い方も様々であるが、19世紀にグレゴリオ聖歌の正確な歌い方を研究してその復興に貢献したフランスのソレム修道院による「ソレム唱法」が最も有名である。その他にもいろいろな唱法が各地の教会に伝承されている。
                                       

(2) 現代人にとっての癒しの響きとしてのグレゴリオ聖歌
◆このように、カトリック教会の典礼の中核をなしていたグレゴリオ聖歌も、1960年代に開催された第2ヴァチカン公会議(1962~1965)による、教会を現代社会の要請に適合させようとした改革の影響を受けて、次第に各国語による新しい聖歌にその地位を奪われるようになった。今では日曜日ごとのミサでグレゴリオ聖歌が聴かれる教会は欧州でも少数派となり、聖務日課を含むすべての典礼をラテン語で歌っている修道院は数えるほどしかなくなってしまった。(脚注2)
◆フランス人の内科医であり、耳の専門家として国際的に知られているアルフレッド・トマティス博士は、1960年代、第二バチカン公会議があった直後にフランスのベネディクト派修道院を訪ねた。公会議では、日々の礼拝でラテン語を使い続けるべきか、その土地の言葉であるフランス語などを採用するべきかで議論が行なわれていた。これは最終的に後者に決まった。また、聖歌の歌唱を続行すべきか、それともより実質的と思われる活動を優先させ、聖歌を廃止するべきか、も討議の対象となっていた。これらは、聖歌を聖務日課からはずすことで決着がついた。
◆ところが、決定からほどなくして修道院に変化が起き始めた。それまで一日、3~4時間の睡眠時間でも元気に生活していた修道士たちが非常に疲れ、病気にかかりやすくなった。修道院長は寝不足が彼らの身体の不調の原因だと考え、睡眠時間を増やした。しかし事態は改善されなかった。それまで700年間続いてきた菜食の掟を破り、肉とジャガイモを中心にした食事に変えてみたが、望ましい効果はなかった。状況は悪化するばかり。そして1967年の2月に、トマティス博士はこの問題の解決を依頼され、再び、修道院に呼ばれたのである。
◆彼が修道院に着いてみると「90人の修道士のうち、70人までもが、独居房の中で濡れ布巾のように落ち込んでいた。検査してみると、彼らはただ疲れているだけではなく、聴力が落ちていることが分かった。彼はこの問題を解決するために、ある装置を考案し、それを何か月かの間、使用することによって修道士たちの聴力を回復させようと考えた。また、もう一つ別の処置も行なった。それは毎日聖歌を歌うことを修道士たちにただちに再開させたのである。
◆その後、9か月の内に、修道士たちは聴力においても身体の健康全般においても、著しい回復を見せたのである。彼らのほとんどは、長時間の祈りと、短い睡眠、計画に従った労働という、何百年も修道院内で普通に行なわれていた生活に戻ることができたのである。いったい何が起きたのか?
◆トマティス博士は次のように言っている。「耳は、脳の活動を刺激するのに重要な役割を果たしている。特に、大脳皮質の電位を高めるのに効果的である。したがって、音がよく聞こえないと、耳から脳に向かうエネルギーを十分に得られなくなってしまう。」と。
◆トマティス博士は、「グレゴリオ聖歌の音をオシロスコープにかけると、それが声の音響スペクトルが持つおよそ70~9000Hzの周波数をすべて含んでおり、普通の会話などとは非常に異なった包絡線を示す」と言っている。修道士たちは中音域、つまりバリトンの音域で歌うが、音の調和と共鳴によって、その声がより高い周波数の上音をたくさん生み出す。脳を活性化するのは、これらの高音の、主に2000~4000Hzの範囲である。前に引き合いに出した修道士たちは、聖歌を歌わなくなったときに、毎日のエネルギー補給ができなくなっていたわけである。彼らの感じた疲労感は容易に理解できるのである。
◆聞く側の視点からもう一つ特筆すべきことがある。私たちは聖歌を聞くことでエネルギーを得るが、それと同時に、落ち着きや平穏さも感じるのである。これは私たちが、修道士や修道女がグレコリオ聖歌の長いメリスマの楽句を歌うときの、深くやすらかな息づかいに同調するからである。

(脚注1)
◆ 4世紀以降、キリスト教の強化と急速な普及により、各地の大司教区や修道院は、ローマから比較的独立していた。その典礼音楽は土地固有の音楽の影響を受けて、スペインのモサラベ聖歌、ミラノのアンブロジオ聖歌、南フランスのガリア聖歌、アイルランドのケルト聖歌、エジプトのコプト聖歌などといった独自の聖歌が生まれていく。これに対してローマ教皇グレゴリウス一世(在位590-604)は、中央の権威を強めるため、行政と教会法、次いで典礼と聖歌の統一を目指した。その作業が何時どのようにして行われたかははっきりしていないが、8,9世紀には完成したと思われる。その出来上がった聖歌をグレゴリウス一世の権威と結びつけてグレゴリオ聖歌と呼ぶ。
(脚注2)
◆そのような教会側の消極的な態度とは対照的に、近年グレゴリオ聖歌に対する関心は欧州各国で次第に高まりつつある。本来は教会の典礼のなかでしか歌われなかったグレゴリオ聖歌がコンサートホールでも聴かれるようになってきた。また、いわゆるクラシック音楽の作曲家のみならず、いろいろなジャンルの音楽家がグレゴリオ聖歌を自分たちの音楽に取り入れるようにもなっている。そのような流れもあってか、数年前にはスペインのシロス修道院の修道士が80年代に録音したCDが全米ヒットチャートにランクインした。このCDはその後世界各国でベストセラーとなった。魂の渇きを潤す癒しの音楽として歓迎されているのである。

本論⑥ 中世のローマ式典礼の概要とその特徴 <2>

2005-04-20 12:58:50 | 講義
3. 聖務日課

◆中世カトリック教会には、ユダヤ教の祈りの習慣を受け継いで(詩編119・164参照)、詩篇を用いて一定の時刻に祈りながら生活全体を神に奉献していくために、5世紀から6世紀にかけて形成され発展してきた「聖務日課」という祈りの形式(時課とも言う)がある。この聖務日課は、教会が日々継続していく祈りとして、ミサに次いで大切にしてきたもので、聖職者や修道者には、毎日、この聖務日課を行う務めが課せられていた。(脚注1)
◆聖務日課は通常、聖書朗読(一年間、朝課を通じて旧約を1回、新約を2回通読できるようにされている)、および詩篇朗誦(一週間の朝課と晩課で全体を読み通すこと、また、詩篇119篇が毎日の1、3、6、9時課の四つに分けて朗誦される)や賛歌(これは平日ではなく、祝日に歌われる)の歌唱、祈祷とで構成され、式順は一様ではなかった。これらの中で賛歌(Laudes)と晩歌(Verpers)は、古い時代の会堂内での礼拝に由来し、そこで行なわれた朝と晩の礼拝とほぼ一致していた。
◆すべての聖務日課に一般の会衆が参加することは、最初、認められていた。しかし592年のベネディクトゥス(480~543)による南イタリヤのモンテ・カッシーノにベネディクト修道院が設立されてからは、聖務日課が行なわれる場所は修道院ということになり、朝課と晩課だけが広く教会で行なわれる礼拝として残された。このような理由から、後の時代の作曲者たちは、これら二つの聖務日課に集中して多声音楽書法による作品を作るようになった。
◆聖ベネディクトゥスは聖務日課を、一年を通して毎日8回ずつ行なう礼拝の制度を定めた。それは、一日を「オクターヴの法則」に従って7つの間隔で8つに分けたものである。ここには中世の音楽理論の特色が見られるのである。(脚注2) そして日々の礼拝はほぼ以下のような輪郭を持つものに標準化されていった。
(1) 朝課・・・・・夜中とその終わり
(2) 賛歌・・・・・夜明け
(3) 第一時課・・・午前六時頃
(4) 第三時課・・・午前九時頃                     
(5) 第六時課・・・正午
(6) 第九時課・・・午後三時頃
(7) 晩課・・・・・午後六時頃
(8) 終課・・・・・日没後

4. 記譜法について

◆キリスト教会の初期の年代には、記譜法の問題について頭を悩ますようなことはほとんどなかった。というのは、保存する必要に迫られるほど、典礼や音楽が複雑なものではなかったこと、また、口伝えによる伝統の中で、容易に伝えられるものであったからである。
◆しかし、教会が諸地域にできて、高度に組織立てられた典礼が急速に発展するにつれて、記譜法の問題は次第に急を要するものとなっていった。特に、ローマ式典礼と一体になって、西洋のすべての地域にその手段を広めようとした段階では、ますます重要な要求となっていった。一地域から他の地域へ聖歌を伝えようとする場合、音を書き記すいくつかの形式が絶対的に必要となった。

〔講義本論⑥の参考文献〕
●A・スィー著(村井範子・藤江効子訳)『中世社会の音楽』(東海大学出版社、1973)
●キャサリン・ル・メ著『癒しとしてのグレゴリオ聖歌』(柏書房、1995)
●岸本羊一・北村宗次編『キリスト教礼拝辞典』(日本基督教団出版社、1977)

〔附記〕修道院運動

◆三世紀の終わりごろから、修道院運動がリバイバル運動の様相を呈して発展していく。修道士たちは神への全き献身、祈りと学びと瞑想の生活を強調し、社会的霊的退廃の暗黒の時代(500~1300年)とも言われているこのころに、霊的に光り輝いた存在となった。制度的教会で失われてしまった聖霊の超自然的賜物も、修道院運動の中には見られ、多くの修道士が祈りの力を得ようとし、いやしや悪霊の抑圧からの解放や他のしるしや奇跡を生ずる霊的力を受けようとしたという。レオン・ジョゼフ・スエネンズは、「修道院運動は事実、その始まりにおいて一つのカリスマ運動であった」とも言い切っている。
◆修道院運動では、
①アントニー(251~356、修道院運動の創始者とも言われている) 
②パコマウス(292~346)
③アタナシウス(295~373)
④ヒラリオン(305~385)
⑤アンブロシウス(340~397、彼のメッセージはアウグスチヌスを真理に導く役割を果たし、アウグスチヌスに洗礼を授けてもいる)
⑥ジェロメ(347~420、聖書のラテン語訳で有名)
⑦アウグスチヌス(354~430、387年に回心し、後に北アフリカのヒッポの監督となり、教会教父の中でも最も偉大な人物としてしばしば言及される)
⑧ベネディクト(480~547、529年にモンテカシーノで修道院を設立し、後の中世の多くの修道院革命運動の原型ともなる)
などが活躍した。尾形 守著『リバイバルの源流を辿る』(18~19頁)

(脚注1)
◆修道院の聖務日課の中で詩篇は毎日歌われた。ベネディクト修道院の会則には次のように定められている。「毎週150篇ある詩篇をすべて歌い、日曜の前夜の礼拝ではまた新しく歌い始めること。自ら誓約した礼拝において、詩篇全曲と慣習的に定められた賛歌を一週間で歌えないような修道士は怠惰だと見なされる。歴代の教皇たちは、この仕事を一日でこなしていたようだ。私たちはそれに比べるとだいぶ生ぬるいが、せめて一週間でやり遂げようではないか」と。第二ニカイア公会議(587)は、詩篇を全部暗誦しなければ、司教に叙任されないことを規定した。またトレド第8公会議(653)では、「今後、詩篇の全部を暗誦しないものは高位の聖職に昇任することができない」という法令を公布した。このように詩篇を暗誦することは聖職に叙任される条件として要求されたのである。
(脚注2)
◆これについては、キャサリン・ル・メ著『癒しとしてのグレゴリオ聖歌』(柏書房、1995)の第二章「中世の世界観と音楽」の項を参照。


本論⑥ 中世のローマ式典礼の概要とその特徴 <1>

2005-04-19 21:43:43 | 講義
<はじめに>
◆AD313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教会を公認(ミラノ勅令)したことによって、キリスト教会は確固たる教会を目指して、最初の偉大な時期に入ることとなった。そしてキリスト教会の標準的な典礼の形式が成立していく。6世紀頃にはローマ大司教のもとに、キリスト教会の典礼のスタイルは統一され、さらに強化されていく。そして11世紀頃までにはこの統一は完了する。以後、1960年代の第二バチカン公会議まで、実に900年以上にわたってそれは受け継がれていくのである。
◆ローマ式の典礼の内容を考えるとき、そこにはキリスト教会がユダヤ教から受け継いだものと、キリスト教独自のものが見事に調和され、より深遠で神秘的な方法で表出されていく。ここでは中世ローマ・カトリック教会の礼拝の全体的な概要を見てみよう。

1. ミサの概要の概説

(A)みことば礼拝(シュナクシス)・・会堂、ユダヤ教の伝統、信者および信者以外の者にも公開された。
(B)聖 餐・・・個人の家庭、キリスト教独自、信者のみの神への感謝。

◆これが3~4世紀にかけて以下のような礼拝を形成する。

(A)シュナクシス(みことば礼拝)

①長老によって挨拶がとなえられ、会衆がそれに応答する。
②聖書からの三つの節が引用され、朗詠のかたちで歌われ、その節の間で詩篇が応唱のかたちで歌われる。
a.第一朗読 モーセ五書から
b.第二朗読 預言書から
c.第三朗読 新約聖書から
ー詩篇の選定は、これらの朗読の内容にしたがって決められたー
③司祭や司教が説教を行なう。
④参会者の中のキリスト教信者でない者はここで退散となる。

(B) 聖 餐(パン裂き礼拝)

①信者たちが祈祷を行なう
②祭壇にさまざまの奉献をなす。聖職者がささげものに対する祝福の祈りをささげる。
③聖体拝領が行なわれる。すなわち、パンとぶどう酒の分餐かなされる。
④前後の祈りがあり、その後に参会となる。

◆中世に確立したローマ・カトリック教会の典礼は、聖餐(ミサ)をクライマックスとした精巧な企画された完成度の高いドラマである。ミサのはじめからある主の雰囲気が人間の五感のすべてを通して伝わる仕組みになっている。
①神にささげられる賛美と聖書朗読を聞く・・・・・〔聴覚〕
②司祭の象徴的な動きを見ること・・・・・・・・・〔視覚〕
③聖体拝領で与えられるパンとぶどう酒の味わい・・〔味覚〕
④空気をきよめる香りの匂いを嗅ぐ・・・・・・・・〔臭覚〕
⑤主の平安を互いに祈るための握手や抱擁を交わす・〔触覚〕
◆このように、ミサという行為を通して、会衆(礼拝者)は深遠で神秘的な方法で新しくされるのである。特質すべきことは、中世におけるミサは経験することに意義があった。何かを得るために人々はミサに来るわけではなかった。千年以上にわたって、人々はミサの内容は理解できなかった。なぜなら、ほとんどの人々はラテン語を理解することができなかったからである。ミサは五感を通して神の存在を呼び起こす聖なる時間だったのである。(脚注1)

2. ミサの構成と特徴

通常文(O)  固有文(P)  歌う形を取る賛歌(S)  抑揚をつけて唱える形を取る賛歌(I)

〔前半〕 シュナクシス―志願者のためのミサ―
①入祭唱 Introitus(PS)              
②キリエの賛歌 Kyrie (OS)
③栄光の賛歌 Gloria(OS)
④集祷文(PI)
⑤書 簡(PI)
⑥昇階唱 Graduale(PS) 
⑦アレルヤ唱 Alleluia (PS) (脚注2)
⑧福音書朗読 (PI)  
⑨信仰告白 Credo (OS)     
⑩奉納唱 Offertorium(PS)
⑪密 誦 Secreta (PI) 

〔後半〕聖 餐 ―信者のためのミサ― 
①序 誦
②感謝の賛歌 Sanctus(OS)
③カノン(OI)
④平和の賛歌 Agnus Dei (OS)
⑤聖体拝領唱 Commmunio (PS)
⑥聖体拝領後の祈り(PI)
⑦終祭唱 Ite Missa est (イテ・ミサ・エスト) あるいは主をたたえまつらん(Benedicamus Domino)

◆各々の祝祭日の重要な礼拝としてのミサは、常に同一の歌詞を持つ不変の部分、つまり通常文(Ordinarium)と、機能は変わらないがそれぞれの日に応じて変化する歌詞を持つ部分、つまり固有文(Properium)とを使用して、その日の特別な性格をあらわしている。
◆また、一定の法則にしたがって抑揚をつけて唱えられ、他は、特定の旋律で歌われる。この後者こそ、音楽史においては最も重要なものとなる。なぜなら、この部分において演奏家や作曲者の才能は十分に発揮できるからであった。
◆固有文と通常文という二つの範疇は音楽上の特性からも異なっている。固有文は、スコラ・カントール、つまり専門の歌手養成の学校で教育された独唱者、ならびに聖歌隊を対象にした歌で、通常文よりずっと優れた技巧を要するものである。それに引き換え、通常文は、はじめ、会衆一同や司式を行なう聖職者によってふつう歌われていた。しかし聖歌隊が通常文も歌うようになってからは、この区別は次第になくなっていった。また、固有文の歌詞はふつう聖書に基づくものであり、特に大部分が詩篇によっているが、通常文の歌詞は聖書以外のものに基づいている。
◆初期に行なわれた固有文の歌い方は二種類に分類できる。
①交唱 (アンティフォナ) で歌われる聖歌・・入祭唱、奉献唱、
交唱は、聖歌隊の半分が他の半分に答えるという方法。
②応唱 (レスポンソリウム)で歌われる聖歌・・昇階唱、アレルヤ唱
応唱は、聖歌隊が訓練された独唱者もしくはそれ以上の数の先唱者に応じて歌う方法。


(脚注1)
◆ 言うなれば、仏教のお経を聞くようなものである。そこに参列している人々はお経の意味が全く分からなくても、聖なる空間と時間を共有している。
(脚注2)
◆すべての聖歌の中でアレルヤ唱は、力いっぱい音楽上の表現ができるという点で最適なものである。中世の作曲家たちにとっては、つまり魂の恍惚を感動的に表現する箇所であった。したがって、この聖歌はカタルシスを暗示する点、つまり魂の浄化を教えるという点から、典礼の中で特殊の位置を占めていた。このカタルシスは、歌詞から生まれるものではなく、音楽とその効果から生まれてくるものであった。


本論⑤ 創作賛美歌の流れ

2005-04-18 07:42:33 | 講義
<はじめに>
◆キリスト教会の賛美の歴史において二つの大きな流れがある。それは<詩篇歌の流れ>と<創作賛美歌の流れ>である。コロサイ3:16の「詩」(〈ギ〉psalmois)は,会堂礼拝等で常に歌われていた詩篇であり、「賛歌」(〈ギ〉humnois)は,それまでなかった全く新しい種類の賛美歌で,自由詩で書かれたキリストをあかしし伝える歌である.キリストの死と*復活によって贖われた者の「新しい歌」である。しかし、367年のラオデキヤ公会議で聖書のテキストではないすべての創作賛美歌の使用は礼拝で使用することが禁止された。正統も異端もこうした賛歌は当時非常に人気があり、グノーシス派の偽りの教義を広める上でも効果を発揮したからであった。

1. 聖アンブロシウスの貢献

◆ラオデキヤ会議において創作賛美歌が禁じられたにもかかわらず、ミラノの大司教アンブロシウス(脚注1)は、それを自らの手で創り、皆に歌わせたのである。これは教会音楽における一つの大改革であり、彼によって創作賛美歌の道が開かれたのである。そうした意味において、聖アンブロシウスは教父時代における教会音楽の最大の貢献者といえる。
◆この創作賛美歌の流れは、後に、18世紀英国におけるメソジスト運動を根底から支えたチャールズ・ウェスレーの賛美歌において引き継がれていく。チャールズ・ウェスレーは、その当時、詩篇歌のみが認められ、歌われていた英国国教会において、主観的で、感情豊かな「新しい歌」をもたらした。
◆そもそも賛歌は東方教会で起こり、礼拝の中で大きな位置を占めていた。統一したしきたりは無く、即興的に、メリスマ風に歌われることが多かった。聖アンブロシウスは、東方のやり方に倣って、賛歌をミラノで、しかもラテン語で歌うようにしたのである。その最も古いものは4世紀後期のものである。彼の賛歌はラテン語による賛歌の原型となった。彼の創作した賛歌 <Redde Mihi> (わたしに返してください)は、詩篇51篇の12節、1節に従っている。(脚注2)
この賛歌の特徴は、ことばの数よりも音の数(動き)が多いことである。つまり、メリスマ的賛歌である。

2. 教父たちの音楽観 -音楽のもつ誘惑―

◆そもそも教父時代においては、基本的に、音楽はことばのしもべであった。音楽はみずからの魅力を押しつけることなく、キリストの教えに向かって心を開き、魂が神聖な考えに向けるような音楽だけが良い音楽とされた。ことばの伴わない音楽にはそのようなことはできない。したがって器楽は公の礼拝から排除されたのである。しかし信者が家庭や非公式の礼拝では詩篇や賛歌を歌うときに、リラで伴奏することは許されていた。この点において教父たちは、詩篇にはたくさんの楽器の使用に関する言及があることに困惑した。彼らはこれをどのように説明したのか。おそらく、彼らは寓喩的な手段でそれを説明したと思われるが・・・なぞである。

◆西方教会で用いられた歌のほとんどは、東方教会からの影響である。しかも東方の教会の賛歌は個人的な感情を表現する傾向があり、一方の西方の教会はそれに比べて、客観的、公共的、形式的なものが求められた。
◆聖アンブロシウスの影響によって回心に導かれ、洗礼を受けたのが有名なアウグスティヌスである。アウグスティヌスによって、音楽は神学的な位置付けがなされた。彼によれば、・・・・
(1)音楽はことば(歌詞)と音(メロディー)の二つの要素から成っているが、まず、はじめに飛び込んでくるのはことばではなく、音である。耳を通して聴覚がまず働き、それからことばが心に届いて、初めてその音楽が理解できる。それゆえ良い音楽はことばも音もすぐれていて、調和が保たれていなければならない、と主張した。
(2)良い音楽は、信仰の弱った者に勇気を与えて、もう一度信仰に立ち上がらせることができるものであり、教会において、そのような音楽は欠かすことのできない、という考えを明らかにした。
◆しかし同時に、アウグスティヌスは、音楽の持つ官能的で情緒的な性質に対し、聞くことによって喜びを味わってしまうのを恐れていた。彼は『告白録―10巻30』の中でこう述べている。
「・・しかし、歌われる内容よりも、歌そのものによって一層心が動かされるような時、私は大きな罪を犯したことを告白し、むしろ歌を聞かなかったほうが良かったと思う。私の現在の状態はこのとおりである。・・・あなたの御目の前では、私は自分自身が謎のようになってしまいますが、これが私の弱さなのです」と。
◆このように、キリスト教の初期においては、旋律そのものに喜びを見出したり、楽の音の美しさそれ自体を楽しんだりという、この種の感情は、おそらく異教的で、非キリスト教的な音楽に伴ったものと考えられていた。
◆しかし、聖アンブロシウスは、音楽が人間の情緒に与える影響をよく知っていた。その上で彼は賛美歌を作ったのである。アンブロシウスは「賛歌の旋律によって、私が人々を誘惑したと主張している人たちがいる」と言ったあと、誇らかに「私はそのことを否定しない」と付け加えている。当時、西方教会にはキリスト教会には音楽をさげすみ、事実、すべての異教的な芸術や文化を宗教に対して有害だと見なす傾向を持っている人たちがいたことは明らかである。もっともこうした傾向は西方教会の人々に多かった。一部の人たちが極端までに禁欲的なところに線を引いたのは、当時の歴史的状況があったといえる。というのも、ヨーロッパ中の人々をキリスト教に改宗させるという事業を成し遂げるために、教会は、回りの異教社会から画然と切り離されたキリスト教的共同体を確立する必要があった。
◆西方教会において、音楽の分野における<創造力の芽生え>はやがてグレゴリオ聖歌において見ることができる。そのグレゴリオ聖歌における賛歌を以下に取り上げてみよう。

◆<Veni Creator Spiritus>(来てください 創造主なる聖霊よ)は、すべてのラテン語による賛歌のうちで最も有名なものである。各時代の数多くの作曲者たちがこの賛歌を用いた新しい歌を作っている。たとえば、ルターはドイツ・コラールにこの旋律を用いたし、ルターの音楽に関する相談相手であったヨハン・ヴァルターは、この旋律を用いて多声音楽を作曲している。他にもパレストリーナは彼のミサ曲の中でこの旋律を定旋律として使っているし、ルネサンス時代のイギリスの作曲家たちはこの旋律に対して、特別な関心を払っていた。

Veni Creator Spiritus(来てください 創造主なる聖霊よ)

1.
来てください 創造主なる聖霊よ
あなたの信者の心に 訪れてください
満たしてください 超自然の恩恵をもって
あなたのお造りになった この胸を

2.
あなたは 慰め主と呼ばれます
きわめて尊い賜物
いのちの泉 火 愛
そして 聖油を注ぐおかたとも呼ばれます

3.
あなたは 7つの賜物をくださいます
全能である神の賜物を
御父の約束は まことに救いと共に
わたしたちのはかないことばを 豊かにしてくださいます

4.
あなたの光を五官に 照らしてください
愛を心に 注いでください
わたしたちの身体の 弱さを
絶えることのない力で 強めてください

5.
敵を遠くに 追いやってください
今すぐ平安を 与えてください
わたしたちを このように導いて
すべての悪から 逃れさせてください

6.
御父を あなたの力で知らせてください
御子を 見分けさせてください
その上に両位から出た 霊なるあなたを
いつまでも 信じさせてください

7.
父である神に 栄光がありますように
また死からよみがえられた 御子にも
そして聖霊にも とこしえに
アーメン

カール・パリシュ著『初期音楽の宝庫―中世・ルネッサンス時代の音楽―』(音楽之友社、昭和49年)

(脚注1)
◆339年頃―397年.ガリアに生れ,ミラノ行政区の執政官となる.35歳の時,ミラノ司教となる.彼の作った賛歌は,ローマ*典礼に大きな影響を及ぼした。彼は賛美歌を自ら創作してその用い方や唱法を発達させた。
(脚注2)
◆カール・パリシュ著『初期音楽の宝庫』に収録されている第一曲目の曲。 
歌詞の内容は「あなたの救いの喜びをわたしに返し、自由の霊をもってわたしをささえてください。
神よ あなたのいつくしみによってわたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。」である。

〔本論⑤の参考文献〕
●D・J・グラフト著(服部幸三/戸口幸策訳)『西洋音楽史―上』(音楽之友社、1969)
●カール・パリシュ著『初期音楽の宝庫―中世・ルネッサンス・バロック時代の音楽―』(音楽之友社、1975)

本論④ 使徒教父時代からローマ帝国公認宗教となるまで<2>

2005-04-15 13:00:51 | 講義
2. 新しい時代への移行の準備

(1) 会衆による唱える賛美から、より高度な聖職者による賛美への移行

◆2世紀初頭(112年ごろ)、ビテニヤの総督に任じられたローマの政治家プリニウスは、当時の皇帝トラヤヌスとの往復書簡の中で、当時のキリスト教徒の信仰生活の様子を報告している。それよれば、キリスト教徒は一定の日の夜明けに集まり、キリストに対し、神に対するように、応答唱形式で賛美歌をとなえた、と記している。歌ったのではなく、唱えたとある。確かに、新約聖書のルカを見ると、「新しい歌」はみな「歌った」ではなく「言った」という表現が使われている。
◆しかし、4世紀になって礼拝形式が整備されてくるにしたがって、礼拝式文を歌うための音楽が発達し始めてくる。その発達とともに礼拝の中で一般会衆が唱和することが技術的にも次第に困難なってきたためか、4世紀には早くも会衆歌唱は聖職者にとってかわられる。
◆この時期に、賛美歌と教会音楽に関して重大な決定がなされた。それは、367年のラオデキヤ公会議で、礼拝の中で楽器を使用することと、会衆が歌唱に参加することが禁止されたのである。当時の民衆的賛美歌が手拍子や打楽器などを用いて歌われ、ダンス的要素が濃くなり、それが礼拝にも持ち込まれる傾向が起こったことに対する教会側の防止策であった。その結果、会衆歌唱が阻害され、その後、約1100年間、教会の聖歌隊が独占するようになった。宗教改革者ルターによって再び道が開かれる時が来るまで、長い長いトンネル(会衆が歌えない)に入るのである。
◆この決定の結果、聖歌隊による無伴奏斉唱の聖歌様式(グレゴリオ聖歌がその代表的なもの)が、表面に現れてくる。なお、この会議では創作賛美歌の使用も禁じ、聖歌として聖書の句だけを用いることを命じた。この結果、一時的に賛美歌創作が阻害されるが、この決定はあまり長くはその効力を持ち得なかった。後に、ミラノの大主教アブロシウス(脚注)が自らの手で創り、みなに歌わせたからである。

(2) ギリシャ語からラテン語への移行

◆初期のギリシャ語の優位性は、3世紀の終わりまでに次第に弱まり、4世紀初頭、つまりローマ皇帝コンスタンティヌスのキリスト教公認の頃から、ラテン語がギリシャ語にとってかわるようになる(ただし、東方教会はギリシャ語を公用語とする)。中世の教会におけるミサはすべてラテン語によってなされ、会衆はただ参加し、見るだけとなる。
◆ヒエロニムスのウガルダ聖書(ラテン語訳聖書)が完成したのが5世紀で、6世紀には、当時のヨーロッパ世界全域に用いられるようになり、西方教会の典礼や賛美家のラテン語使用が確立する。


〔本論④の参考文献〕 
●丸山忠孝著『キリスト教会2000年』(1985 いのちのことば社)  46~49頁。
●原 恵著『賛美歌―その歴史と背景―』(1980 日本基督教団出版社) 30~32頁。
●日本教会新報社編『新・キリスト教ガイドブック』(改訂版、2001) 212~215頁。

(脚注)
◆聖アンプロシウスは、音楽が人間の情緒に与える影響を良く知っていた。そのうえで彼は賛美歌をつくった。これはキリスト教の教会音楽における一つの大改革であり、彼によって創作賛美歌の道は開かれたのである。彼は教父時代における賛美の貢献者である。ちなみに、聖アンブロシウスの影響によって回心に導かれ洗礼を受けたのがアウグスチヌスである。


本論④ 使徒教父時代からローマ帝国公認宗教となるまで<1>

2005-04-14 14:41:11 | 講義
<はじめに>
◆本論④ではその範囲を使徒教父(脚注1)時代からキリスト教がローマ帝国において公認(313年)されるまでの時代を扱う。この間(250年間)は、キリスト教会において迫害の嵐をくぐりぬけた時代であり、まさに十字架を忍んだ時代である。その中で、教父たちは自らの生命を賭けて福音を伝え、ひとたび伝えられた福音を正しく伝承し、これを当時の人々に理解できる形で表現しようと努めた。教父たちは使徒たちから継承した信仰をヘレニズム文化の土壌で伝達しようとしたのである。そのために、教父たちがその神学的な思索にしばしば援用したのはギリシア哲学であった。当時の文化の中心がギリシャ哲学であった以上、ギリシャ哲学の概念を用いることなくしては、理性ある人々に訴えかけることはできなかったのである。彼らは聖書を自分の心に持ち、ギリシャ哲学をその手足として使ったのである。それゆえ、聖霊に導かれた初代教会の自由でエクスタシスな傾向は、第二世代以降においては消滅せざるを得なくなったのである。

1. 使徒教父時代の教会が当面した問題

◆1世紀末から2世紀中頃まで一般に使徒教父時代と呼ばれている。使徒教父たちは使徒たちの生き証人とも言える弟子たちであり、キリスト教的伝統遵守の傾向をもっている。すでにキリスト教会においては、ユダヤ教との戦いは過去のものとなり、それにかわって、異教徒が理解し得るために彼らに対するキリスト信仰の弁証の必要が生じてきた。この時代における教会の最大の関心事は使徒の教えを正しく継承して宣べ伝え、それを教会内外の分派や異端からいかに守るかということにあった。

(1)教会内の問題・・・グノーシス主義という異端との戦い
◆キリスト教を脅かす内部からの危険は、グノーシス主義という異端であった。これは極端に二元論的な教えで、グノーシス(知恵)を得ることによって肉体から解放された魂が救われると説いた。物質を創造した神を悪神とみなしてイエスの受肉、十字架、復活の教理をすべて否定する教えであった。このような異端に対して、使徒的教会は正しい信仰告白をもって対抗しなければならなかった。「使徒信条」はその代表的なものである。これは従来、12使徒がそれぞれの告白を持ちよって作ったと信じられ、使徒信条と呼ばれたものであるが、その起源は使徒後時代のローマ教会の洗礼式における受洗者の信仰告白にあったと言われている。「我は・・・信ず」(クレド)。その告白の内容は「天地の造り主」から「からだのよみがえり」に至るまで、グノーシス主義などの異端に反対する大胆な信仰の告白である。このように、使徒教父の時代にはエクスタティックな霊の活動はほとんど消滅してしまった。それにかわってある種の教会統一を作り出す信仰基準が登場するようになった。異端との戦いを通して、教会は使徒的伝承を保持する戦いを余儀なくされた、きわめて重要な時代と言えるのである。

(2) 教会外の問題・・・迫害
◆初代教会の歴史はまさに殉教の歴史であった。ローマ帝国による迫害の前には、ユダヤ教から、そして世界各地の異教からも迫害されてきたが、ローマ帝国からの迫害が本格的に始まったのは、ネロ帝治世のAD64年からである。そしてこの迫害はコンスタンティヌス帝の寛容令(313)の発布まで、約250年間にわたって続いた。この間、10回にわたる大迫害が行なわれ幾百万のキリスト教徒が殉教の栄光を受けたのである。しかし、2世紀の教父テルトリアヌスが言ったように、まさに「殉教の血は、教会の種子」となったのである。(脚注2)
①<迫害の理由>
a. 皇帝礼拝の拒否  b. 祭儀関係者の反感 c. 平等意識への目覚め
②<キリスト教公認となった背景>
◆ところで、なぜコンスタンティヌス帝がキリスト教に対して寛容令を出すことになったのか? 帝国内には武力をもって教会を屈服させるか、あるいは教会と盟約を結びそれを利用するか、二つの政策を主張する勢力があった。コンスタンティヌス帝は後者の融和政策を取っていた。そして312年の12月、迫害政策と融和政策との決定的な戦いが起った。
◆一説によれば、決戦前夜、コンスタイティヌスは夢で一つのしるしを見、『このしるしにより勝利を収めよ!』とのお告げを受けた。そのしるしは、ギリシヤ語でキリストを意味する「クリストス」の最初の二文字、X とPとの組み合わせであった。翌朝彼は、自軍の兵士のかぶとや盾にこのしるしを塗り、決戦で大勝した。この決戦の意義は大きい。なぜなら、ローマ皇帝がキリスト教の神、キリストの加護によって勝利したこと、つまり、迫害政策の失敗が万人の心に印象づけられたからである。
◆「新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。」(詩篇98篇1、2節) この聖句は、最初の教会史家エウセビオスが、コンスタンスティヌス帝によって、キリスト教の神がついに勝利を収めたと感慨を込めて、著書『教会史』の最終巻の冒頭で引用した詩篇である。勝利の賛美を歌う教会―これは4世紀の教会の姿を見事に表現している。ついに、日の目を見た教会、それまで異端と戦い、迫害に甘んじてきたキリスト教会がローマ帝国において公認を勝ち取った。そんな教会を想像してみると、賛美と喜びの声はどのように響いたことだろうか。「新しい歌」とは象徴的である。それは4世紀の教会がそれまでの歴史の中で経験したことのない新しい状況の中に置かれたことを意味する。しかしそこに至るまで、キリスト教会は、まさに迫害の嵐をくぐり、十字架を忍ばなければならなかったのである。

(脚注1)
◆12使徒の教えを忠実に代弁し、また、きよい生活を送り、1世紀から5世紀にかけて初代教会の主教(司祭、監督)として活躍した人たちを、教父―公式な教会の称号は5世紀以降から使われたーと呼ぶようになった。なお、1世紀末から2世紀中頃にかけて正統的文書を記した教父を、特に「使徒教父」と呼んでいる。
①クレメンス・・・使徒ペテロの三代目の後継者、ローマの監督。
②ボリュカルポス(69~156)・・・使徒ヨハネの弟子、スミルナの監督。殉教。
③イグナティウス(67~110)・・・使徒ヨハネの弟子、アンテオケの監督。殉教。
④パピアス(70頃~115)・・・ヒエラポリスの監督。著者「主の説教の釈義」。殉教。
⑤ユスティノス(100~167)・・・著者「キリスト教弁証論」、ローマで殉教。
⑥エイレナイオス(130~200)・・・リヨンの監督。殉教。
⑦オリゲネス(185~254)・・・学者。獄死。
⑧テルトリアヌス(160~220)・・・ラテン・キリスト教の父。
⑨エウセビウス(264~340)・・・教会史の父。
⑩ヨハネ・クリュソスモス(345~407)・・・大説教家、注解者。流刑。
⑪アウグスチヌス(354~430)・・・神学者、ヒッポの監督。

(脚注2)
AD61 パウロ、ローマに滞在。
AD62 主の兄弟ヤコブ(エルサレム教会の柱、使徒会議議長)が殉教
AD64 ローマの大火、ローマ帝国の第1回大迫害 ネロ帝はキリスト教徒をローマ大火の放火の犯人と仕立て上げ、大迫害を行い、キリスト教徒は猛獣の餌食にされたり、体に油を塗られた松明代わりにされたり、残忍な処刑にあい、多くの者が殉教した。この後この方式に倣って全土に迫害が拡大した。
AD67 パウロはローマで斬首され殉教 ペテロもローマで逆さ十字架にかかり殉教。
AD70 エルサレムの陥落と神殿の崩壊(64年、ヘロデ王によってエルサレム神殿が完成した)
AD81~96 ドミチアヌス帝による第2回目の大迫害。皇帝礼拝を拒否したためであった。この間に、ヨハネは福音書を執筆、95年バトモス島に流刑となるが、ネルヴァ帝(96~98)により釈放されて、エペソで黙示録を執筆。100年頃、ヨハネはエペソで94才の天寿を全うする。
AD98 トラヤヌス帝による第3回目の大迫害。告発による処罰した。アンテオケ教会の二代目監督イグナチウスは猛獣に投げ与えられて殉教。
AD156 スミルナ教会の監督ポリュカルポスが殉教。
AD161 第4回目の大迫害(アウレリウス帝)
AD193 第5回目の大迫害(セベルス帝)
AD235 第6回目の大迫害(トラクス帝) 特に教会の指導者たちが殉教。
AD249 第7回目の大迫害(デキウス帝) 
AD251 第8回目の大迫害(バレリアヌス帝) ローマ帝国の人口40%がキリスト教徒になり急増中。
AD270 第9回目の大迫害(アウレリアヌス帝)  この頃、エジプトでは修道院運動が起こる。
AD303 第10回目の大迫害(ディオクレチアヌス帝) 10年間で約50万人が殉教する。会堂破壊、聖書の没収、教職者の東国、神々へのいけにえの強制等の迫害が帝国全域においてなされた。
AD313 コンスタンチヌス帝、ミラノで「寛容令」を発布、帝国全域でキリスト教公認。
AD325 第一回ニカイア会議が開かれ、アリウス主義を異端と定める。
AD380 テオドシウス帝、キリスト教を国教とすることを勅令で発布。





本論③ 初代教会における礼拝とその特徴 <2>

2005-04-13 11:46:52 | 講義
2 初代教会の礼拝の特徴

(1)アクティヴ

◆初代教会の礼拝の様式からその内容に重点を移してみる。初代教会の礼拝の特徴は何か。イエスの弟子、いわゆる使徒、預言者、教師たちがすべての準備をして行なうものではなかった。会衆は受動的ではなく、すべてにおいて能動的(アクティブ)であった。

(2)エクスタシス ・・・―聖霊に酔う経験/自由、流動的、いのちに溢れた感動、即興的―

◆初代教会礼拝の著しい特徴としてエクスタシスをあげたい。エクスタシスとは、我を忘れ、我を脱している姿である。それは我を忘れて恍惚とした状態になることで、様々な形で人々に経験されている。神に酔う、聖霊に酔うという経験である。初代キリスト教会には初めからこのエクスタシスの経験があった。使徒の働き2章のいわゆる「ペンテコステ」の出来事である。人々がペンテコステによって御霊に満たされ、異言で語るようすを見た人々は「酒に酔っている」と言った。聖霊に満たされた礼拝、霊に燃やされた礼拝、これこそ初代教会の礼拝を特徴づけるものである。

(3) 霊の祈り(賛美)と知性の祈り(賛美)

◆コリント教会のある人々は、神秘宗教と同じくエクスタシスをもって最高最深の宗教体験となし、それを誇り、これのない信者を軽んじたようである。そのために礼拝の中に混乱が生じた。それは異言による霊の祈り、霊の賛美が強調されたからである。そのため使徒パウロは自分の徳の建て上げだけでなく、むしろ他者の徳を高めるために異言による祈りや賛美や感謝を抑制し、知性による祈りや賛美、そして感謝を勧め、行き過ぎた振り子をもどしている。そして教会の混乱を正し、秩序あるものにしようと教えている。しかしそれは決して生き生きとした霊に燃えた礼拝を阻むものではない。パウロは誤った熱狂主義を警戒しながらも、他方で「御霊を消してはならない」(Ⅰテサロニケ5章19節)「霊に燃え、主に仕えよ」(ローマ12章11節) と勧告している。

(4) 自由な聖霊の流れの優先

◆初代教会の礼拝には一定の形式はみられない。そこには自由があり、感動的で、流動的であった。祈りや賛美は単純な新鮮な、生き生きとした即席のものであった。これはすべて、イエスの復活と昇天に続いて与えられた聖霊によって可能となったものである。教会がユダヤ教の遺産にどんなに多くを負っているとしても、この聖霊経験の一事から、新約聖書の礼拝が独自のものとなったことは明らかである。

3. 初代教会における春から夏へ

(1) エクスタシスの鎮静

◆パウロの時代以降、聖霊によるエクスタシスは鎮静し、俗悪なものに流れていく傾向にある、第二、三世代の教会の現状に対して、秩序を保って信仰の闘いを戦い抜かせるための健全な教えが強調されるようになる。そのために「監督」「長老」「執事」といった職が前面に出てくるようになる。(牧会書簡参照)。それによって、礼拝は次第に形式化し、固定化していった。これは決して衰退でも堕落でもなく、次の段階の必然的なプロセスなのである。第二世紀ともなると、教会の礼拝は固定化、式文化の一途をたどる。そしてその傾向は時代が進むにつれて一層はなはだしくなる。第二世紀の前半から第四世紀の後半にかけては<礼拝様式形成の時代>となっていく。

(2) エクスタシスの継承

◆初代教会の礼拝がかなり自由であったことはすでに述べた。礼拝の準備をするが、彼らは神が集会で自由に働いてくださるということをいつも期待していたのである。しかし、3世紀初めになると、教会指導者のある人たちはこの自由に不安を感じ、疑問を抱くようになった。それは教会の中に異端や無秩序が生まれるのを恐れたからである。自由な集団を<モンタノス主義>(脚注)と名づけた。モンタノス派の礼拝では、失われてしまった初代教会の礼拝の特徴をとどめていたといわれる。

(脚注)
◆「モンタノス主義はキリスト教初期の預言者的情熱の再現と、約束の聖霊の来臨思想と、終末信仰が結合した運動であった。これは異端として退けられたが、歴史の中に再三再四現れる聖霊運動の走りであり,古代教会に制度化を促す一つの運動となった。」 (『新キリスト教事典』いのちのことば社)。


本論③ 初代教会における礼拝とその特徴 <1>

2005-04-12 21:43:06 | 講義
<はじめに>・・・「初代教会」ということばの定義

◆「初代教会」と言っても、その言葉の意味するところ、その範囲は人によって異なっている。
①迫害されてきたキリスト教がローマ帝国の国教となった392年まで。(脚注1)
②キリスト教の主要な教義が確立する451年のカルケドン会議まで。(脚注2)
③新約聖書の最後の文書が書かれた、ほぼ100年まで。原始教会とも言われる。
◆本講義では③の理解に基づいて講義を進めたい。(脚注3)
かなり狭い範囲ではあるが、そこには他の時代には見られない原初的な、しかもいのちに満ち溢れた教会の姿が見られるのである。

1. 初代教会における礼拝様式

◆初代キリスト教会における礼拝がどういうものであったのか、きわめて興味深い。ところが、結論的にいうなら、パウロの時代から少なくとも2世紀中頃までの礼拝についての著作による証言は乏しく、総合することは困難である。ユダヤ教会の礼拝の影響を多く受けながらも、イエスの復活と昇天に続いて与えられたペンテコステの出来事。この聖霊経験の一事から初代キリスト教会の礼拝が独自のものであったことは明らかである。

(1)ユダヤ教の礼拝様式の継承・・・神殿(宮)、会堂での伝統的な<シナゴーグ礼拝>

①イエスと初代教会時代、ユダヤ教礼拝には二つの場所と制度があった。その一つはエルサレムの神殿であり、もうひとつはシナゴーグである。エルサレムの神殿は長い歴史と伝統を担った建物であり、そこには大祭司の下に祭司長たちと多くのレビ人たちが働いていた。その神殿はユダヤ人にとっては宗教のみならず、全生活の中心であった。その礼拝では、詩篇の交唱と一定の祈りと犠牲が献げられていた。特に、三大祝祭、過越祭、ペンテコステ祭、仮庵祭には、ユダヤ・ガリラヤ地方から、さらに遠く異邦の各地から、多くのユダヤ人が群れをなして参集してきた。しかし多くのユダヤ人は、いつもこのエルサレムに集まることができなかった。しかしいずこにもシナゴーグがあった。ユダヤ人は幼い日からそこに通い、律法を学びながら成長し、安息日には礼拝に集まっていた。
②シナゴーグは、礼拝時間、祈りとその姿勢、男女の区別など多くエルサレムの神殿の影響を受けていた。特に、そのリタージー(礼拝)は神殿の礼拝から多くを取り入れ、詩篇の使用、律法の朗読と「イスラエルよ、聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」というシェマーの朗読、伝統的な祈り、そして会衆のアーメンなどがある。
③シナゴーグでは聖書の朗読とその解き明かしが中心的位置を占めていた。犠牲のないかわりに祈りが重んじられ、会衆の自由な聖書の解き明かしと共に会衆の自由な祈りもなされて、その集会は豊かであった。かくて紀元70年、ローマ軍によってエルサレムの神殿が破壊された際、ユダヤ教はシナゴーグの集合体として歴史の中に残っていったのである。

(2) 新しい礼拝様式・・パンを裂くことと愛餐(家の教会) 

①初代教会の礼拝様式はシナゴーグの礼拝に多くよりながらも、その内容に新しいものが見られた。キリストにある新しい創造は、当然新しい共同体と新しい礼拝を要求したのである。
a. 場所・・・・神殿、シナゴーグから家の教会、および野外での集まりへの移行
b. 安息日・・・ユダヤ教の安息日から主の復活された日曜日への移行
c. バプテスマ・ ユダヤ教の異邦人のための改宗のバプテスマから「イエスの御名によって」「父と子と聖霊の名によって」授けられる全く新しい意味をもったバプテスマ。
d. 会食・・・・ユダヤ的伝統の会食から「主の晩餐」―いわゆる後の聖餐と愛餐が一つになったもの。これが初代教会の礼拝の重要な要素であった。
②「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」
(使徒の働き2章42節) 「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し・・」(同、46節)、「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった」(使徒20章7節)。言い換えれば、主の日ごとに礼拝するためにキリスト者が集まった集会は主の晩餐(後の聖餐式)のためであった。当時の「パンさき」は普通の食事、すなわち、アガペー(愛餐)の一部であった。しかし、この愛餐の方は、まもなく、聖餐式そのものから分離されて、教会生活から姿を消し、ただ儀式的な食事だけが残るようになった。
③初代教会の礼拝は時と場所によって、それぞれの生活の座に応じた様々な相違があり、決して一様ではなく、多様性があったようである。しかし、礼拝の主要な要素は、<み言葉の礼拝>と<パン裂き礼拝>という二つからなっている。
④このように、キリスト教礼拝はシナゴーグでの<みことばの礼拝>と「二階座敷」ではじまった<パン裂き礼拝>とが溶け合った、特色のある固有なものとして生まれたのである。少なくとも、第二世紀の礼拝までは、このふたつの要素が均衡を保っている。ところが次第に、聖餐式はみことばの説教を行なうことなく執行されるようになる。その欠けを補うべく生まれたのが、修道院における「聖務日課」である。それは祈りと賛美、そして聖書朗読である。この聖務日課は二つの焦点をもっている。一つは、週に一回ずつ規則的に詩篇を朗誦すること、他の一つは一年を通じて旧約聖書を一回、新約聖書を二回読み通すという聖書の連続的朗読であった。

(脚注1)
◆迫害されていたキリスト教が国教化されることによって、キリスト教が社会を支配する。すべての人がクリスチャンでなければならない、と法律で規定される社会となった。しかし多くの人は名目だけのクリスチャンとなり、それまでの熱烈な宣教は行なわれなくなった。18世紀のメソジスト運動の創始者ジョン・ウェスレーは、信仰と豊かな力に満ちた初代教会の時代は終わったと嘆いている。つまりキリスト教が合法化されたことによって、教会は決定的に新約聖書から離れた、と理解している。
(脚注2)
◆451年のカルケドン会議まで教会は異端との戦いにおいて、さまざまな神学論争で揺れていた。つまり教義―教理・神学―の面においては未成熟な教会であったといえる。
(脚注3)
◆キリスト教の伝統がまだ形成されていないこの時代の教会の姿こそ、あらゆる時代の教会刷新運動のモデルである。例えば、16世紀のアナバプテストは、徹底的な「教会の回復」を求め、「初代教会に帰れ」というのが彼らのモットーであった。イスラエルの預言者が絶えず「出エジプトとシナイ契約」の出来事に戻るように訴えたように、キリスト教会は、イエス・キリストという原点に立ち帰ることが、教会の活力をよみがえらせる道だと信じた。特に、初代教会の姿の中に、親しい交わりとしての教会、イエスに従う弟子の教会、迫害されながらも平和の福音に生きるクリスチャンの姿をみようとしてきた。また、初代教会を学ぶことによって、さまざまな教派の人々との共通の基盤が与えられ、そこに対話が成立し、共通の理解に近づく道が開かれる。まさに今日、それが必要な時代といえよう。

本論② 新約時代における「新しい歌」 とルカの福音書の預言的賛美 <3>

2005-04-11 07:03:03 | 講義
3. ルカのイエスの誕生にまつわる四つの「新しい歌」の特質

◆新しい歌は、神の救済史的展開の中で新しく開かれる神の啓示や真理の新しい側面をその内容とする。ルカのイエスの誕生にまつわる四つの「新しい歌」もそうした内容を持っている。

(1) 神のあわれみという基調

①低い者が高くされ、貧しい者が豊かにされるという救い。それはイエスの公的活動開始における最初の宣言(4章18~19節)で再度強調される。他にも、16章19~31節、12章16~21節。また15章の三つのたとえは、失われた者に対する神の憐れみを示す、優れた事例と言える。単なる社会的次元にとどまらず、むしろ罪のもとにある人間をその悲惨から解放することを究極的な本質としている。
②女性に対する評価も神のあわれみに基づくものである。男性を中心とした当時の社会状況を考慮するならば異例とも思えるこうしたルカの執筆姿勢はすばらしい。

(2) 預言的賛美

①マリヤ、ザカリヤ、そしてシメオンの賛美には預言的特質がみられる。これから神がなされようとしておられる計画が歌われている。この預言的賛美は聖霊に導かれ、聖霊によって与えられたものである。
②万民、神のイスラエルのみならず、異邦人も含めた普遍的救いが預言される。

(3) 頌栄的賛美―御父、御子、御霊をたたえる歌―

①父なる神、御子(幼子)、そして聖霊なる神による新しい啓示が記されている。特にシメオンの賛美においては顕著である。後の三位一体なる神としての「父、御子、御霊」というまとまった形での賛美(頌栄)ではないが、間接的に、三位一体の神によって与えられた賛美といえる。ユダヤ教の神にはこうした三位一体の神としては信じられていない。従って、頌栄はキリスト教礼拝においてきわめて重要な賛美といえる。
②ルカは今始まろうとするイエスの生涯を、聖霊による新しい創造、神が約束したあがないの成就として提示する。そのためルカは、特に公的活動開始前のイエスと聖霊の関係を強調し(誕生、洗礼、試み)、イエスの活動の源を明らかにする。その活動を完成する十字架において、イエスが自らの霊を父に委ねるとき、それは聖霊の働きのもとで誕生したイエスの生涯を完結するのみでなく、その霊が再び父のもとから送られる新しい霊の時代を開始する。

(4) 語る賛美

①ルカ福音書に記されている新しい賛美は「歌った」という表現はなく、いずれも「言った」と記されている。
②キリストにある「神のストーリー」を語る賛美。新約聖書には他にもそうした賛歌の断片が多く見られる。

4. 新約聖書に散在する「新しい歌」の断片

(1) 神に対する賛美
 
①使徒の働き 4章24節~26節
②ローマ人への手紙 11章33節~36節
③コリント人への手紙第二 1章3節~4節
④エペソ人への手紙 1章3節
⑤コロサイ人への手紙 1章13節~14節
⑥ペテロの第一の手紙 1章3節~5節
⑦ヨハネの黙示録 4章 8節、11節

(2) キリストに対する賛美

①ピリピ人への手紙 2章6節~11節
②エペソ人への手紙 5章14節
③コロサイ人への手紙 1章15節~20節
④ヘブル人への手紙 1章3節
⑤テモテへの手紙第一 3章16節
⑥ヨハネの黙示録 5章10節

◆これらの「新しい歌」の断片を分析することによって、新しい啓示の内容がなんであるかを知ることができる。それは新しい時代に、神の真理の新しい啓示が、しばしば、歌の中にコンデンスされているからである。上記の聖句を手掛かりとして、新約聖書に見られる「新しい歌」の断片が、きわめてはっきりとした焦点をもっていることに気づかされる。確認してみよう !