教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑨ フランスおよびスイスの宗教改革期に生まれた詩篇歌

2005-04-26 20:28:03 | 講義
1. ジャン・カルヴァンと「新しい歌」としての<詩篇歌>

◆ドイツでルターが指導する宗教改革が進んでいるころ、スイスのジュネーヴではジャン・カルヴァン(Jean Calvin,1509~1564、1533年の24歳にパリの大学で神学を学ぶうち突然の回心を経験)を指導者とする、別な神学的主張を持つ宗教改革(ユグノー派 注1)がはじまっており、そこから新しい歌としての<詩篇歌>が生み出された。注2
◆カルヴァンの神学的要点は、聖書に示された神の言葉の尊重と、神の至上権に対する完全なる服従であり、その教義の中心は信仰によって義とされることと、神の救いの予定説である。カルヴァンは、中世カトリック教会の非聖書的要素をきびしく排除するとともに、礼拝についても新しい様式を示し、それにふさわしい賛美の様式を生み出した。 

(1) カルヴァンの詩篇観
◆カルヴァンによれば、礼拝において神を賛美する賛美歌として最もふさわしいものは、初期の教会以来、多くの人々によって書かれてきた創作賛美歌ではなく、「神の言」の記録そのものの中にある賛美歌集、つまり旧約聖書にある150篇の詩篇こそそれであると考えた。神をほめたたえるには霊感された神の言をもってすべきであるという彼の明確な神学が根底にあった。
◆カルヴァンにこのことの実行面でのヒントを与えたのは、ドイツのルター派教会のコラールであって、彼がストラスブールに亡命中、同地のルター派教会でドイツ人が力強くコラールを歌っているのを聞き、非常な感銘を受け、自分が指導する会衆が神の言である詩篇をその賛美歌として歌うことを願うようになった。そして、ルターと同様、カルヴァンは会衆が死語化したラテン語によってではなく、彼らの日常語であるフランス語で詩篇を歌うことを望み、彼自ら、詩篇をフランス語の韻文に訳そうと試みた。しかし彼にとって詩篇の韻文訳化は得意ではなく、後にクレマン・マロー(1497~1544)や、カルヴァンの弟子テオドル・ドゥ・ベズ(1519~1605)らの詩人と、作曲家ロア・ブルジョアらの助力によって進められることになる。
◆カルヴァンは、ルター以上に詩篇を愛好し、それを全面的に教会の礼拝に取り入れた。詩篇の中には人間のあらゆる感情がよみこまれているというのが、カルヴァンの詩篇観である。そこには人の心を乱しがちな悲しみ、恐れ、病、望み、心配、思い煩いなど、あらゆる感情のあらしを、聖霊は示している、と自らの「詩篇注解」の序言の中で述べている。

(2) ジュネーヴ詩篇歌
◆1533年に回心したカルヴァンは福音主義に転向したため迫害を受けて、スイスのバーゼルに逃亡する。そこで彼の神学体系をまとめた『神学綱要』(1536)を出版した。いったん帰国ののち、再びスイスのジュネーヴに行き、宗教改革を指導するが、余り厳しすぎたため1538年に追放され、一時ストラスブールに逃れ、同地の大学で教えながら各地の宗教改革者と交友を作った。またそこでフランス人亡命者教会の牧師を務めた。カルヴァンはその地域で用いられていた『ドイツ・ミサ』をフランス語訳して用いた。19曲の詩篇歌と3曲のカンティクム(シメオンの歌,十戒の歌,信仰告白の歌)を出版したが,このうち13の詩篇の韻律訳は,フランス王フランソワ1世の宮廷に仕えたクレマン・マロー(Clement Marot)によるものであり,残る6篇はカルヴァン自身の訳であった.これがカルヴァンのストラスブールにおける最初の詩篇歌集である。
◆1541年ジュネーヴに戻り、その後20年間、同地で宗教改革を指導し、ジュネーヴに宗教政治を樹立して刷新を行なったばかりではなく、学校を建て各地から集まった学生の多数を訓練した。カルヴァンはジュネーヴに帰ってから、もう一つ別の詩篇歌集を1542年に出版した。カルヴァンはマローの死後、カルヴァン弟子のテオドール・ベーザ(1519~1605)にそのマローの事業を継続させ1562年ついに、詩篇150篇を全部フランス語の韻文に訳した讃美歌集<ジュネーヴ詩篇歌>を完成させた。これはプロテスタント音楽史上、不朽の偉業とされており、特にカルヴァンの感化を受けた改革派の教会に多大の貢献をした。
◆カルヴァンは、1542年に制定された新しい礼拝順序に詩篇歌を取り入れ、1559年にはフランスの改革派教会でも、礼拝に出席する教会員は詩篇歌唱を持参することを規定しており、以後約2世紀にわたって、カルヴァン主義教会の礼拝に詩篇歌は不可欠のものとなった。
◆詩篇歌について、その形式的な特徴は、まず、歌詞の1音節に対して音符一個の、いわゆる音節的(シラビック)形式が確立している。曲の中にクライマックスが原則として一箇所だけあること、各フレーズの最初と最後の音符が長いこと。曲の前半に繰り返しがあること、下降する四つの音符が旋律のモチーフとして目立つこと、メロディの動き方やリズムが力強い感じのものが多い。
また、どちらかというと重厚にして暗い感じのあるドイツのコラールとは対照的に、明るいメロディーのものが多い。

2. 日本語によるジュネーヴ詩篇歌

◆カルヴァン派のジュネーヴ詩篇歌は、日本伝道が開始された当時、英米ではあまり歌われておらず、それが復活してきたのは今世紀になってからである。日本福音連盟の『聖歌』(初版、1958年)が20篇以上のジュネーヴ詩篇歌を採用したことは注目すべきことである。注3
◆「悪しきたましいは」(讃Ⅱ110番)はカルヴァン自身の書いた詩篇歌で、詩篇36篇のパラフレーズである。1539年のストラスブールで出版された最初の詩篇歌集に収められている。
◆「めぐみゆたけき主を」(讃12番)はマローの詩篇118篇のパラフレーズで、曲はルイ・ブルジョア(1515~1561)である。ブルジョワはカルヴァンの重要な音楽的協力者である。日本の讃美歌の頌栄(539番)「あめつちこぞりて」は特に親しまれている。他にも、讃6番「われら主をたたえまし」、讃226番「地に住める神の子ら」がある。いずれも、ルイ・ブルジョワの作曲である。

〔講義本論⑨の参考文献〕
●長輿恵美子著『コラールのあゆんだ道―ルターからバッハへの二百年』(東京音楽社、1987)
●由木 康著『讃美の詩と音楽』(教文館、1975)
●原  恵著『『賛美歌―その歴史と背景―』(日本基督教団出版社、1980) 

(脚注1)
◆カルヴァン派は各地に広まり、イングランドではピューリタン(清教徒)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、フランスではユグノー、オランダではゴイセンと呼ばれ、その勢力はルター派をしのぐようになり、ルター派以上に大きな影響を残した。
(脚注2)
◆この用語の指し示す範囲は必ずしも一定ではないが,旧約聖書の詩篇に基づくプロテスタント教会の典礼歌のうち,詩篇そのもののいわゆる「韻律訳」に拍節を持った旋律を付したもの,すなわち〈英〉metrical psalmを指して「詩篇歌」と呼ぶことが最も多い.類語として「詩篇唱」が挙げられるが,これは一般にローマ・*カトリックの聖務日課で歌われる詩篇の朗唱を指す.欧米語においては,旧約聖書本文の「詩篇」も会衆歌としての「詩篇歌」も同じ言葉(〈英〉psalms)で呼ぶのが通例である.また「賛美歌」を意味する単語〈英〉hymn,は,狭義には自由詩による賛美歌のみを意味し,詩篇歌は通常除外される.
(脚注3)
◆近年(1996年)、日本キリスト改革派教会賛美歌検討委員会が1994年に『36のジュネーヴ詩篇歌(日本語による)』と題して出版したものに基づいて、ミクタムから「日本語によるジュネーヴ詩篇歌」(14編)のCDが出されている。

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