教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論③ 初代教会における礼拝とその特徴 <1>

2005-04-12 21:43:06 | 講義
<はじめに>・・・「初代教会」ということばの定義

◆「初代教会」と言っても、その言葉の意味するところ、その範囲は人によって異なっている。
①迫害されてきたキリスト教がローマ帝国の国教となった392年まで。(脚注1)
②キリスト教の主要な教義が確立する451年のカルケドン会議まで。(脚注2)
③新約聖書の最後の文書が書かれた、ほぼ100年まで。原始教会とも言われる。
◆本講義では③の理解に基づいて講義を進めたい。(脚注3)
かなり狭い範囲ではあるが、そこには他の時代には見られない原初的な、しかもいのちに満ち溢れた教会の姿が見られるのである。

1. 初代教会における礼拝様式

◆初代キリスト教会における礼拝がどういうものであったのか、きわめて興味深い。ところが、結論的にいうなら、パウロの時代から少なくとも2世紀中頃までの礼拝についての著作による証言は乏しく、総合することは困難である。ユダヤ教会の礼拝の影響を多く受けながらも、イエスの復活と昇天に続いて与えられたペンテコステの出来事。この聖霊経験の一事から初代キリスト教会の礼拝が独自のものであったことは明らかである。

(1)ユダヤ教の礼拝様式の継承・・・神殿(宮)、会堂での伝統的な<シナゴーグ礼拝>

①イエスと初代教会時代、ユダヤ教礼拝には二つの場所と制度があった。その一つはエルサレムの神殿であり、もうひとつはシナゴーグである。エルサレムの神殿は長い歴史と伝統を担った建物であり、そこには大祭司の下に祭司長たちと多くのレビ人たちが働いていた。その神殿はユダヤ人にとっては宗教のみならず、全生活の中心であった。その礼拝では、詩篇の交唱と一定の祈りと犠牲が献げられていた。特に、三大祝祭、過越祭、ペンテコステ祭、仮庵祭には、ユダヤ・ガリラヤ地方から、さらに遠く異邦の各地から、多くのユダヤ人が群れをなして参集してきた。しかし多くのユダヤ人は、いつもこのエルサレムに集まることができなかった。しかしいずこにもシナゴーグがあった。ユダヤ人は幼い日からそこに通い、律法を学びながら成長し、安息日には礼拝に集まっていた。
②シナゴーグは、礼拝時間、祈りとその姿勢、男女の区別など多くエルサレムの神殿の影響を受けていた。特に、そのリタージー(礼拝)は神殿の礼拝から多くを取り入れ、詩篇の使用、律法の朗読と「イスラエルよ、聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」というシェマーの朗読、伝統的な祈り、そして会衆のアーメンなどがある。
③シナゴーグでは聖書の朗読とその解き明かしが中心的位置を占めていた。犠牲のないかわりに祈りが重んじられ、会衆の自由な聖書の解き明かしと共に会衆の自由な祈りもなされて、その集会は豊かであった。かくて紀元70年、ローマ軍によってエルサレムの神殿が破壊された際、ユダヤ教はシナゴーグの集合体として歴史の中に残っていったのである。

(2) 新しい礼拝様式・・パンを裂くことと愛餐(家の教会) 

①初代教会の礼拝様式はシナゴーグの礼拝に多くよりながらも、その内容に新しいものが見られた。キリストにある新しい創造は、当然新しい共同体と新しい礼拝を要求したのである。
a. 場所・・・・神殿、シナゴーグから家の教会、および野外での集まりへの移行
b. 安息日・・・ユダヤ教の安息日から主の復活された日曜日への移行
c. バプテスマ・ ユダヤ教の異邦人のための改宗のバプテスマから「イエスの御名によって」「父と子と聖霊の名によって」授けられる全く新しい意味をもったバプテスマ。
d. 会食・・・・ユダヤ的伝統の会食から「主の晩餐」―いわゆる後の聖餐と愛餐が一つになったもの。これが初代教会の礼拝の重要な要素であった。
②「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」
(使徒の働き2章42節) 「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し・・」(同、46節)、「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった」(使徒20章7節)。言い換えれば、主の日ごとに礼拝するためにキリスト者が集まった集会は主の晩餐(後の聖餐式)のためであった。当時の「パンさき」は普通の食事、すなわち、アガペー(愛餐)の一部であった。しかし、この愛餐の方は、まもなく、聖餐式そのものから分離されて、教会生活から姿を消し、ただ儀式的な食事だけが残るようになった。
③初代教会の礼拝は時と場所によって、それぞれの生活の座に応じた様々な相違があり、決して一様ではなく、多様性があったようである。しかし、礼拝の主要な要素は、<み言葉の礼拝>と<パン裂き礼拝>という二つからなっている。
④このように、キリスト教礼拝はシナゴーグでの<みことばの礼拝>と「二階座敷」ではじまった<パン裂き礼拝>とが溶け合った、特色のある固有なものとして生まれたのである。少なくとも、第二世紀の礼拝までは、このふたつの要素が均衡を保っている。ところが次第に、聖餐式はみことばの説教を行なうことなく執行されるようになる。その欠けを補うべく生まれたのが、修道院における「聖務日課」である。それは祈りと賛美、そして聖書朗読である。この聖務日課は二つの焦点をもっている。一つは、週に一回ずつ規則的に詩篇を朗誦すること、他の一つは一年を通じて旧約聖書を一回、新約聖書を二回読み通すという聖書の連続的朗読であった。

(脚注1)
◆迫害されていたキリスト教が国教化されることによって、キリスト教が社会を支配する。すべての人がクリスチャンでなければならない、と法律で規定される社会となった。しかし多くの人は名目だけのクリスチャンとなり、それまでの熱烈な宣教は行なわれなくなった。18世紀のメソジスト運動の創始者ジョン・ウェスレーは、信仰と豊かな力に満ちた初代教会の時代は終わったと嘆いている。つまりキリスト教が合法化されたことによって、教会は決定的に新約聖書から離れた、と理解している。
(脚注2)
◆451年のカルケドン会議まで教会は異端との戦いにおいて、さまざまな神学論争で揺れていた。つまり教義―教理・神学―の面においては未成熟な教会であったといえる。
(脚注3)
◆キリスト教の伝統がまだ形成されていないこの時代の教会の姿こそ、あらゆる時代の教会刷新運動のモデルである。例えば、16世紀のアナバプテストは、徹底的な「教会の回復」を求め、「初代教会に帰れ」というのが彼らのモットーであった。イスラエルの預言者が絶えず「出エジプトとシナイ契約」の出来事に戻るように訴えたように、キリスト教会は、イエス・キリストという原点に立ち帰ることが、教会の活力をよみがえらせる道だと信じた。特に、初代教会の姿の中に、親しい交わりとしての教会、イエスに従う弟子の教会、迫害されながらも平和の福音に生きるクリスチャンの姿をみようとしてきた。また、初代教会を学ぶことによって、さまざまな教派の人々との共通の基盤が与えられ、そこに対話が成立し、共通の理解に近づく道が開かれる。まさに今日、それが必要な時代といえよう。

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