教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑯ テゼ共同体における日ごとの祈りの歌 <1>

2005-06-13 13:40:40 | 講義
<はじめに>

◆本論⑮において、アフロ・アメリカンの人たちの苦難の歴史の中に生まれた「祈りの歌」である黒人霊歌と黒人ゴスペルを取り上げたが、第二次世界大戦以後、人々との和解を模索する中で生まれたもう一つの祈りの歌がある。本論⑯で取り上げる<テゼ共同体>の日ごとの祈りの歌(歌による祈り)がそうである。
◆今日、世界中から何千何万もの若い者たちがフランスの小さな村、テゼを訪れている。彼らはそこで祈りの歌を歌いながら沈黙し、神との交わりを通して、世界の平和と和解、そして信頼のために働こうと自ら整えている。

1. ブラザー・ロジェの夢・・・キリスト者同士の和解の実現

 (1) 和解の夢の背景
◆ヨーロッパにおいて、人類を引き裂くことになる第2次世界大戦のただ中にあった1940年8月、当時25歳だったブラザー・ロジェは、人々との和解を日々実際に生き抜いてゆくようなキリスト者のコミュニティを創設しようと思い巡らしていた。ブラザー・ロジェが、自分の故郷の町スイスを離れ、フランスの小さな村テゼにたどり着いたとき、一軒の家が売りに出ているのを知った。テゼで彼を出迎えたのはひとりの老婦人であった。彼女に自分の計画を告げると、彼女は「ここに留まってください。私たちはここで孤独なのです。」と言った。ロジェは婦人を通して神が語られていると感じ、そこに移り住んだ。そして彼はそこで、人類のさまざまな分裂を乗り越えるために、まずキリスト者の間の和解の道を開こうとしたのである。
 
 (2) テゼ共同体の始まり
◆「共同体のたとえ」として生きること、そのための修道共同体をそこで始めることが彼の夢であった。(脚注1) 祈りを中心とした彼の生活は、ナチの占領下から逃れてきたユダヤ人難民を彼の家にかくまうことから始まった。1940年から42年にかけて彼はテゼに留まったが、当時彼はまったくひとりであった。一日三回のひとりの祈りが小さな礼拝堂でささげられた。(脚注2)
◆1944年、ブラザー・ロジェは、それまでに出会った彼の最初の「兄弟」たちを伴ってテゼに戻った。そして1949年、数人の兄弟たちと共に、生涯を観想の修道生活にささげる誓願をたてた。独身生活、院長の司牧への従順、物質的かつ霊的なものすべてを共有する誓願。院長ブラザー・ロジェは、1952年、兄弟たちのために、短い生活の規律『テゼの規律』を書いた。これは後に、『テゼの源泉』と呼ばれるようになった。
◆年が経つにつれて、兄弟たちはその数を増した。最初の兄弟たちはプロテスタントであったが、次第にカトリックの兄弟たちも加わるようになった。現在、すべての大陸の約25の国を出身とする兄弟たち
が生活している。
 
 (3) テゼ共同体の現在
◆1960年代頃から、共同体のブラザーたちによって準備される週単位の集いに参加しようと、世界中からたくさんの青年たちがテゼを訪れるようになった。祈りと分かち合いの生活を通して、彼らは、自らの内面的な生き方を深く求め、同時に人類という一つの家族の中でいかに自分を捧げ責任を果たしてゆくかということについての関心を持つ。60カ国もの国々から、6000人にも及ぶ人たちがテゼを訪れる週もあるという。
◆わずか数時間をテゼで過ごしていく何千もの巡礼者を別にしても、このような毎週開かれる国際的な集いには、夏には3000人から5000人の、春や秋には500人から1000人の青年たちが参加する。ここ数年にわたって、テゼを訪れる何千何万もの青年たちは、ひとつのテーマについて思い巡らす。それは「内なる命と人々との連帯」である。
◆現在、約90名の、カトリックとプロテスタント各教派出身者で、20数カ国の違った国々を出身地とした、修道生活への誓願をたてたブラザー(修道士)たちがいる。ブラザーたちは、自分たち自身の労働によって生計を立て、他の人たちと分かち合っている。彼らは外部からの献金や寄贈を一切受け取らない。あくまでも自らの労働によってコミュニティを維持し、同時に多くの人々の生活を支えている。遺産を相続する場合も、ブラザーたちは自分たちのためにそれを用いず、それらはすべて貧しい人々のために用いている。フラタニティーと呼ばれる小さなグループとして、世界の国々の貧しい地域で暮らすブラザーたちも、テゼと同じように働きながら共同生活をし、祈りを中心とした生活をしている。また、1966年から聖アンドレ修道女会のシスターたちが、テゼ共同体を訪れる人たちを迎え入れる役割の一端を担うようになった。
◆テゼ共同体は、何よりもまず、その存在そのものによって、分裂したキリスト者たちの間で、またすべての分かたれた人々の間で、和解の「しるし」となっている。テゼ共同体は、自らが「交わりのたとえ」であることを望んでいる。それは人が日々そこで和解を求め、生きるところであるからである。確かに、キリスト者間の和解はテゼの召命の中心であるが、それはそこで終わるものでは決してない。それを通してキリスト者が、人々の間の和解、国々の間の信頼、そして地上における平和のパン種になることを、テゼは願っているのである。

(脚注1)
◆テゼの創始者ブラザー・ロジェは、彼の人生を方向づけた初期の影響についてこう語っている。それは、彼の祖母(未亡人)が、第一次世界大戦のとき、老人、幼い子ども、妊婦らの難民に自分の家を開放した。彼女はよくこう言った。「分裂したキリスト者たちが互いに殺しあってきた。新たな戦争を防ぐために、もしキリスト者たちだけでも互いに和解することができるなら・・・」と。彼女は何世代にもわたるプロテスタントの家に生まれたが、まず自分の中で和解を現実のものにしようとカトリック教会を訪ねるようになった。①どんなときにも、もっとも困難な人々のために危険を顧みないこと、②ヨーロッパの平和のためにカトリックの信仰と和解していくこと、祖母のこの二つの意志は、ブラザー・ロジェの後の人生に深く刻まれることになった。(ブラザー・ロジェ著、植松巧訳「テゼの源泉」、ドン・ボスコ社、1996)
(脚注2)
◆この形は、今日もかわることなく踏襲され、テゼでは1日3回の賛美と祈りが続けられている。

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