2. ルカの福音書にある4つの<賛美>
◆ここでルカの福音書にある降誕物語の4つの賛歌を取り上げてみたい。それらは、いずれも旧約と新約の橋渡しとしてふさわしい「新しい歌」である。しかもそれらはいずれも預言的である。
(1)マリヤの賛歌(1章46~56節)・・・〔マグニフィカート〕
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
①これは冒頭句のラテン語訳から「マグニフィカト」と呼ばれる。旧約,特に詩篇の聖句がちりばめられており、ザカリヤの賛歌(68~79節)と共に「新約聖書の詩篇」と形容される。まさに新約時代の黎明期を飾るにふさわしい喜びと感謝の賛歌といえる。
②この賛歌には「・・してください」という嘆願は一切ない。典型的な純粋な賛美であり、「力あるお方が、私に大きなことをしてくださった」と主をたたえている。
③「大きなこと」とは第一に、「聖霊によるみわざ」である。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおう」ということである。これはマリヤのみならず、「主を恐れかしこむ」すべての者の上に注がれる神の恵みである。マリヤの経験はそのひな型である。
④「大きなこと」の第二は、逆転をもたらす神のみわざである。高ぶっている者を追い散らし、低い者が高く引き上げられる。また、飢えた貧しい者が良いもので満たされ、豊かにされるという神の恵みである。
⑤「大きなこと」の第三は、あわれみによる神のみわざである。約束された神の救いは神のあわれみによるものである。あわれみとは神の具体的なーそれは腸が痛むようなー行動を意味する。それは神の御子イエスによって実現する。
(2) ザカリヤの賛歌(1章67~79節)・・・〔ベネディクトゥス〕
1:67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。
1:68 ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、
1:69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。
1:70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。
1:71 この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。
1:72 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、
1:73 われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、
1:74 われらを敵の手から救い出し、
1:75 われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。1:76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、
1:77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。
1:78 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、
1:79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」
①この賛歌は〈ほめたたえよ〉のラテン語から「ベネディクトゥス」と呼ばれる.詩篇の並行法というヘブル的構文と旧約からの豊富な引用が特徴的で、神の「契約」と「あわれみ」を主軸にメシヤによる「救い」の到来を歌う。旧約最後の預言的賛美にして,新約最初の預言的賛美である。
②この預言の特徴の第一は、「顧みて」「贖いをなし」「立てられた」とあるように、救いにおける神の主権である。すべてのことが神から始まり、神により、神へと至るという事実を示唆している。
③第二の特徴は、この救いは敵からの解放であり、その目的は生涯のすべての日において「主の御前に
仕えること」、すなわち真の礼拝者となることである。
④第三の特徴は、マリヤの賛歌と同様に、この救いが神の深いあわれみによるということである。
(3) 天軍賛歌(2章13~14節)・・・〔グロリヤ・イン・エクセルシス〕
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
①この賛歌は〈いと高き所に,栄光が〉のラテン語訳から「グロリヤ・イン・エクセルシス」と呼ばれる.いと低き姿におけるメシヤの誕生において〈いと高き〉神の〈栄光〉が現されるという逆説と、〈軍勢〉が〈平和〉を告知するという逆説の賛美である。
②平和とは、イエスによって成就する完全な救いを意味する。共観福音書において「平和」という語は
ルカで最も頻繁に使われている(13回)。ザカリヤの賛歌、シメオンの賛歌に用いられている。
(4) シメオンの賛歌(2章25~38節・・・〔ヌンク・デュミティス〕
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」
①シメオンが聖霊に満たされて歌った(語った)預言的賛美。冒頭句〈今こそ……去らせてくださいます〉(29)のラテン語より「ヌンク・デュミティス」と呼ばれる。
②第一の預言は「救いの普遍性」である。神の救いは〈御民イスラエル〉のみならず〈異邦人〉をも含む全人類の〈救い〉の主となるということである。これは当時のユダヤ人には理解できないことであり、しかも受け入れにくいことであった。
③第二の預言は、「(幼子)イエスが多くの人々の反抗のしるしとなる」ということである。その意味するところは、イエスの存在によって「多くの人の心の思いが表わされた」ということである。人はこのイエスに対する態度によって「倒れ」も「立ち上がり」もする。まさにこのイエスはつまずきの石とも,救いの礎石ともなる試金石なのである。
◆ここでルカの福音書にある降誕物語の4つの賛歌を取り上げてみたい。それらは、いずれも旧約と新約の橋渡しとしてふさわしい「新しい歌」である。しかもそれらはいずれも預言的である。
(1)マリヤの賛歌(1章46~56節)・・・〔マグニフィカート〕
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
1:48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
1:49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
1:50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
1:51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
1:53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
1:54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
1:55 私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」
①これは冒頭句のラテン語訳から「マグニフィカト」と呼ばれる。旧約,特に詩篇の聖句がちりばめられており、ザカリヤの賛歌(68~79節)と共に「新約聖書の詩篇」と形容される。まさに新約時代の黎明期を飾るにふさわしい喜びと感謝の賛歌といえる。
②この賛歌には「・・してください」という嘆願は一切ない。典型的な純粋な賛美であり、「力あるお方が、私に大きなことをしてくださった」と主をたたえている。
③「大きなこと」とは第一に、「聖霊によるみわざ」である。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおう」ということである。これはマリヤのみならず、「主を恐れかしこむ」すべての者の上に注がれる神の恵みである。マリヤの経験はそのひな型である。
④「大きなこと」の第二は、逆転をもたらす神のみわざである。高ぶっている者を追い散らし、低い者が高く引き上げられる。また、飢えた貧しい者が良いもので満たされ、豊かにされるという神の恵みである。
⑤「大きなこと」の第三は、あわれみによる神のみわざである。約束された神の救いは神のあわれみによるものである。あわれみとは神の具体的なーそれは腸が痛むようなー行動を意味する。それは神の御子イエスによって実現する。
(2) ザカリヤの賛歌(1章67~79節)・・・〔ベネディクトゥス〕
1:67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。
1:68 ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、
1:69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。
1:70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。
1:71 この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。
1:72 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、
1:73 われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、
1:74 われらを敵の手から救い出し、
1:75 われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。1:76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、
1:77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。
1:78 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、
1:79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」
①この賛歌は〈ほめたたえよ〉のラテン語から「ベネディクトゥス」と呼ばれる.詩篇の並行法というヘブル的構文と旧約からの豊富な引用が特徴的で、神の「契約」と「あわれみ」を主軸にメシヤによる「救い」の到来を歌う。旧約最後の預言的賛美にして,新約最初の預言的賛美である。
②この預言の特徴の第一は、「顧みて」「贖いをなし」「立てられた」とあるように、救いにおける神の主権である。すべてのことが神から始まり、神により、神へと至るという事実を示唆している。
③第二の特徴は、この救いは敵からの解放であり、その目的は生涯のすべての日において「主の御前に
仕えること」、すなわち真の礼拝者となることである。
④第三の特徴は、マリヤの賛歌と同様に、この救いが神の深いあわれみによるということである。
(3) 天軍賛歌(2章13~14節)・・・〔グロリヤ・イン・エクセルシス〕
2:13 すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
①この賛歌は〈いと高き所に,栄光が〉のラテン語訳から「グロリヤ・イン・エクセルシス」と呼ばれる.いと低き姿におけるメシヤの誕生において〈いと高き〉神の〈栄光〉が現されるという逆説と、〈軍勢〉が〈平和〉を告知するという逆説の賛美である。
②平和とは、イエスによって成就する完全な救いを意味する。共観福音書において「平和」という語は
ルカで最も頻繁に使われている(13回)。ザカリヤの賛歌、シメオンの賛歌に用いられている。
(4) シメオンの賛歌(2章25~38節・・・〔ヌンク・デュミティス〕
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」
①シメオンが聖霊に満たされて歌った(語った)預言的賛美。冒頭句〈今こそ……去らせてくださいます〉(29)のラテン語より「ヌンク・デュミティス」と呼ばれる。
②第一の預言は「救いの普遍性」である。神の救いは〈御民イスラエル〉のみならず〈異邦人〉をも含む全人類の〈救い〉の主となるということである。これは当時のユダヤ人には理解できないことであり、しかも受け入れにくいことであった。
③第二の預言は、「(幼子)イエスが多くの人々の反抗のしるしとなる」ということである。その意味するところは、イエスの存在によって「多くの人の心の思いが表わされた」ということである。人はこのイエスに対する態度によって「倒れ」も「立ち上がり」もする。まさにこのイエスはつまずきの石とも,救いの礎石ともなる試金石なのである。