教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑩ 17世紀の敬虔主義運動とその流れにおける新しい歌 <1>

2005-04-27 22:04:02 | 講義
1. ドイツ敬虔主義運動

◆16世紀はまさに激動の時代であった。ルターの95か条の提題から始まった宗教改革は1517年から50年間のあいだに全ヨーロッパ中に拡大されていった。(脚注1) しかしそれは半年で膠着状態に入り、実際に活動が始まったのは17世紀後半から18世紀になってからである。特に、この時代の大きな流れの一つは、ドイツを中心とした霊的体質改善運動―敬虔主義運動―が起こり、広がって行ったことである。
◆この敬虔主義運動(ピエティスム:Pietism)とは、17世紀後半からドイツのルター主義の内部におこった教会内の改革運動であった。1670年ルター派教会牧師フイリップ・ヤコブ・シュペーナー(1635~1705)が,フランクフルトで個人的集会を開いたのがその起源である。この集会が「敬虔なる者の集い」と呼ばれたため,彼らに対するあだ名としてピエティスト:Pietist(敬虔主義者)と呼ばれた。
◆シュペーナーは、教会の教理や教義よりも、信者個人の意識的な回心と信仰、心の敬虔さを重んじ、実践的では禁欲的な信仰生活を強調した。それは30年戦争の悲惨な体験によって宗教改革の情熱を失い活力を失ったルター派教会の回復を求めた運動であった。シュペーナー自身はオランダの改革派から影響を受けたようである。
◆17世紀から18世紀にかけてキリスト教会は<啓蒙主義>や<理神論>の影響を受けて変質していった。教義や聖書よりも理性が優先し、理性で了解される限りにおいてキリスト教を受け入れるという状態に陥った。超自然的啓示は拒否され、神学は哲学になり、聖書の批判的研究がなされて聖書の権威が軽んじられ、キリスト教のメッセージは単なる道徳になってしまった。このような教会に新たな命を吹き込んだのが敬虔主義運動であった。
◆アウグスト・ヘルマン・フランケはシュペーナーにより回心し、ハレ大学を中心として活動し、シュペーナー以上にこの敬虔主義運動推進のために労した。彼は神学教育に情熱を注いだばかりでなく、幅広い活動家として1694年には貧民学校を設立、また彼の学校に孤児院、救貧ホーム、教員養成所、印刷所、書店、薬局および病院を併設した。彼の影響は全ドイツに広がり、貴族たちは彼の事業を応援し、その師弟を彼のハレ大学に進ませた。ハレ大学の特徴の一つは外国伝道への関心であった。フランケは宣教団体を作りインドへ宣教師を派遣した。これはプロテスタントで始めての海外(外国)宣教師であった。プロテスタントでは当時、海外宣教に目を向けるものは少なかったのが、敬虔主義は内心からの献身的行動を生みだし、愛の業や宣教活動を活発に行ったのである。敬虔主義の強調点は、①感情的表現の重視 ②生活の純潔と愛を高調 ③万人祭司の教理の再発見、である。
◆フランケの大学で教育を受けたツィンツェンドルフは、迫害を受けてモラヴィアから逃れて来たフス派のボヘミヤ(またはモラヴィア)兄弟団を受け入れてヘルンフート兄弟団(1727) と名付け、霊的指導者となったが、彼らもまた伝道活動、海外(外国)宣教に熱心であったことは言うまでもない。このモラビア派の影響により、イングランドのジョン・ウエスレーはメソジスト派をおこし、イギリスにリバイバル運動(信仰復興運動)を起こすことになる。そしてこれらの運動がやがて19世紀のアメリカのリバイバル運動へとつながっていく。

(脚注1)
◆各国の宗教改革 
①スイスの宗教改革はツィヴィングリー(1484~1531)ガチューリッヒで起こしたのが先駆となり、次いでフランス人のジャン・カルヴァン(1509~64)がジュネーヴに移り、司教制を排して長老制の教会組織を設け、改革主義教会を形成し、ルター派より強力なプロテスタント教会を各国に拡大させた。 
②オランダの宗教改革は、当時、オランダはカトリック教皇の支配下におくスペインからの独立戦争と無縁ではなかった。数万のプロテスタント教徒が一方的な宗教裁判によって虐殺されたが、1648年独立を勝ち取った。その後、オランダはは17世紀には極東と西半球を支配する強大な帝国を建設することとなる。教会としては、カルヴァン主義の長老制が拡大したが、これに対抗してアルミニウス派ガ現われ、1625年までカルヴァン派から迫害を受けるが、このアルミニウス主義は17世紀の聖公会や、18世紀のメソジスト運動と救世軍に影響を与えることとなる。 
③フランスの宗教改革は、1559年に約40万人の「ユグノー教徒」と呼ばれるプロテスタントがいた。1559年~98 年まで8回にわたり大虐殺が行なわれた。一時は、信教の自由を獲得したが、1685年、ルイ14世によりそれが剥奪され、50万人のユグノー教徒はやむなくイギリス、プロシア、オランダ、南アフリカ、北米のカロライナ州などの諸国に逃れた。以後、フランスではプロテスタント教徒は少数にとどまった。優秀な産業人であったユグノーを失ったフランスは国力を失い、やがて、教皇の政治的支配も終焉することとなった。
④イギリスの宗教改革は、ヘンリー8世(1509~47)の時代に議会の支持を得て、1534年、自らイギリス国教会の主権者であるとして教皇からの支配からの独立を宣言した。国教会の信仰箇条にはルターやカルヴァン派の教えが取り入れられているが、司教(監督)制を維持したことや儀式の面でカトリックとよく似ている。この国教会のあり方に反対し、教会自体の聖化を求め、そこからピューリタン(清教徒)やメソジスト教会が生まれた。ミルトンの「失楽園」、バンヤンの「天路歴程」は、ピューリタン文学として今でも輝いている。 
⑤スコットランドの宗教改革は、ジョン・ノックス(1515~1572)を指導者として行なわれた。この国の宗教改革はフランスからスコットランドの民族の独立を獲得する運動と一つであった。スコットランドの女王メアリーはフランス国王と結婚し、両国は同盟を結び、フランスと同じくプロテスタントの撲滅を図った。しかし、イギリスの援助を得て、1560年、ノックスの指導のもとに、宗教改革は教皇の支配から分離して進められ、1592年には、長老主義が確立された。後に、スコットランド長老主義者たちは、北アイルランドに移住し、そこから18世紀のはじめ数千人の人々がアメリカに移住し、長老主義教会を設立するようになる。




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