教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑮ ゴスペルを生み出したアフロ・アメリカンの人々の歴史と信仰 <1>

2005-06-07 21:34:44 | 講義
<はじめに>
◆日本でブラック・ゴスペルブームといわれ始めたのは、ここ5、6年のことである。要因の一つとして、映画「天使にラブソングを」の影響は大きい。そのノリのよさやカッコよさ、人間の声の一体感、といった要素がウケていると思われる。今日のポップスはこのブラック・ゴスペルを通じて発展したと言われるほど、世界の音楽界、ないしは賛美の歴史において特異な位置を築いている。
◆教会の歴史における<新しい歌>である黒人霊歌、および黒人ゴスペルは、サバイバル・ソングとも言われる。その理由は、この地上に生存したもろもろの民の中でも、近代史上最も過酷な生を強いられた黒人が、人間として生き残るために創出された歌―つまり、彼らの故郷であるアフリカ大陸から何千マイルも離れた見知らぬ地に奴隷船で運ばれ、そこで奴隷として生きなければならなかったという極めて切迫した現実の中で生まれた歌-だからである。それは、黒人霊歌(スピリチュアソング)から始まり、初期のゴスペル・フリーダムソングと歌い継がれて今日のブラック・ゴスペルソングへと至っている。 
◆とりわけ、本講義では、そうしたゴスペルを生み出したアフロ・アメリカン(脚注1)の人々の歴史的背景について知ることから始めたい。

1. The Sprituals(黒人霊歌)の歴史的背景

(1) Hush habor (ハッシュ・ハーバー) ―奴隷たちの唯一の避難所―
◆ゴスペルの歴史は、大西洋を渡る奴隷船から始まった。アフリカ大陸で人間を動物のように生け捕りにし、強制的に新大陸に送り込んだヨーロッパ諸国による「奴隷貿易」は、17世紀初頭に始まり、18世紀に最も盛んに行われた。その間、控えめに言って、1400万人以上のアフリカ人達が大西洋を渡ったと言われている。
◆アメリカに奴隷として連れて来られた黒人達の苦しみは想像を超えていた。アフリカで平和に暮らしていたある日、彼らは突然捕らえられ、鎖をかけられ奴隷船 に乗せられ強制的にアメリカに連れて来られ、奴隷として売買されていった。 彼らはそこで厳しい労働を強いられ、明日、自分の身がどうなるか分からない日々を送った。年をとったり、怪我をして働くことができなくなったりすれば、さらに安価で売買され、また、少しでも雇い主に反抗すれば厳罰、リンチ、最悪の場合は一方的に殺されることもあった。
◆1861-65年の南北戦争は、有名な「奴隷解放宣言」によって黒人たちにやっと自由をもたらしたが、解放後の彼らを待ち受けていたのは、厳しい「人種差別」であった。特に南部では人種差別が根強く、黒人であるというだけで、就職、経済活動、教育、政治参加などあらゆる面で制限を受け、絶えずリンチにおびえる生活を強いられていたのである。
◆アメリカ合衆国に連れて来られた彼らは、奴隷主である白人に教会に連れていかれ、教会の礼拝を経験した。しかし、彼らが真の意味で魂の解放を得たのは、一日の苦役を終えた夜遅くに仲間と秘密に集まり、白人達の家から離れた場所で、自分達だけの礼拝を持ち、神に神に祈り、歌い、踊り、力と希望を得たのであった。それが彼ら自身のキリスト信仰の形であった。
◆彼らが集まった場所はHush Harborと呼ばれる祈りの場所(小屋)で、白人達の教会を「目に見える教会」としたならば、Hush Harborは社会的に「見えない教会/隠れた教会」といえる。(脚注2) 白人の奴隷主たちは、奴隷たちが集団を形成することを非常に警戒していたため、Hush Harborが発見されれば、奴隷たちに刑罰が加えられるのは明白であった。しかしながら、そんな危険の中で彼らは集まったのである。
◆Spirituals (黒人霊歌)の歌詞と音楽は、逆にそうしたテンションによって強められたともいえる。切迫した日常からの解放、人間としての真の自由を求める魂、彼らがアフリカ人として継承してきた文化/伝統・習慣の発現、イエス・キリストを信じる新しい信仰の中で彼らの求める自由が実現されるという希望の確信、そのすべてによってSpirituals (黒人霊歌)は生み出されていったのである。このようにSpirituals (黒人霊歌)はHush Harborのような場所を中心に、彼らの伝統的な母国アフリカの音楽に西洋の教会音楽が結びついた新しいスタイルの歌が、口伝により、世代を越えて継承され、長い時間をかけて形成されていった。それが黒人霊歌(スピリチュアル)なのである。

 (2) ハッシュ・ハーバー的な黒人霊歌からコンサート・パフォーマンスとしての黒人霊歌へ
◆19世紀後半になると、ハッシュ・ハーバー的な黒人霊歌からコンサート・パフォーマンスとしての黒人霊歌の発展が始まる。そのきっかけとして有名なのが、1866年に創設された黒人学校Fisk Schoolが財政困難解消のために考案したFisk jubilee Singersであった。
◆それは、9人のFisk Schoolの男女混合の歌手達が(ひとり以外はすべて元奴隷)各所を公演して回り、Spiritualsのレパートリーを歌い、寄付を集めるというものであった。黒人霊歌を白人の聴衆の前で歌うという試みは初めてであり、正当な評価を得られないのではと恐れも大きかった。ところが、1871年10月からツアーを初め、次第に白人の聴衆から高い評価を受け、その後も公演を続け、当時のグラント大統領に招かれホワイトハウスで歌ったりもして、その第1回Fisk jubilee Singersツアーの最後にはなんと$20,000もの寄付を集めたと伝えられている。1873年にはメンバーを増やし、ヨーロッパへの公演旅行にも行き、数カ国では王室の前でもパフォーマンスをした。この成功によって、帰国までに$150,000を集め、FiskをAfrican Americanのために第一級の教育を提供する有数の大学として発展させる基礎を作った。また、このFisk jubilee Singersの公演をきっかけに、Spiritualsの素晴らしさはアメリカ全土、そしてヨーロッパにも広まったのである。
◆黒人霊歌は、Fisk jubilee Singersの公演をきっかけに、アレンジされた形でパフォーマンスされることが多くなった。第1次世界大戦以降、それはひとつの音楽のスタイルとしてアメリカ国内で定着することとなった。
◆1862年に奴隷解放宣言が公布され、奴隷制時代が終わると共に、黒人霊歌の発展にも変化が生まれた。その変化とは、この公布とともに新たな黒人霊歌が生まれる機会が減ったのである。黒人霊歌は、奴隷貿易が最も盛んだった18世紀の中頃から終わりにかけて最も多く作られたとされている。それから今日まで、アフリ・アメリカンによって作られた黒人霊歌は6,000作以上と言われている。

(脚注1)
◆ 「アフロ・アメリカン」とは、Africa-American アフリカ系アメリカ人の略称をいう。
(脚注2)
◆「見えない教会/隠れた教会」であるHush Harborでは、楽器などもなく、歌を作り歌い始める者がリーダーとなったといわれる。。彼らは、神とつながるために歌を通して会衆の魂に触れたのである。会衆とリーダーはコール・アンド・レスポンス(かけあい)によって精神的な高みにまで共に昇りました。歌の中で喜びをあらわし、祈りの中で神に助けを求め、叫び、踊り、時には一晩中神を賛美したと言われている。今日のアフリカ系アメリカ人教会の礼拝の中にも同様な神への熱烈な賛美や祈り、献身の形が特徴的にみられることで、この伝統が今も彼らの内部に息づいている。



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