教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論④ 使徒教父時代からローマ帝国公認宗教となるまで<2>

2005-04-15 13:00:51 | 講義
2. 新しい時代への移行の準備

(1) 会衆による唱える賛美から、より高度な聖職者による賛美への移行

◆2世紀初頭(112年ごろ)、ビテニヤの総督に任じられたローマの政治家プリニウスは、当時の皇帝トラヤヌスとの往復書簡の中で、当時のキリスト教徒の信仰生活の様子を報告している。それよれば、キリスト教徒は一定の日の夜明けに集まり、キリストに対し、神に対するように、応答唱形式で賛美歌をとなえた、と記している。歌ったのではなく、唱えたとある。確かに、新約聖書のルカを見ると、「新しい歌」はみな「歌った」ではなく「言った」という表現が使われている。
◆しかし、4世紀になって礼拝形式が整備されてくるにしたがって、礼拝式文を歌うための音楽が発達し始めてくる。その発達とともに礼拝の中で一般会衆が唱和することが技術的にも次第に困難なってきたためか、4世紀には早くも会衆歌唱は聖職者にとってかわられる。
◆この時期に、賛美歌と教会音楽に関して重大な決定がなされた。それは、367年のラオデキヤ公会議で、礼拝の中で楽器を使用することと、会衆が歌唱に参加することが禁止されたのである。当時の民衆的賛美歌が手拍子や打楽器などを用いて歌われ、ダンス的要素が濃くなり、それが礼拝にも持ち込まれる傾向が起こったことに対する教会側の防止策であった。その結果、会衆歌唱が阻害され、その後、約1100年間、教会の聖歌隊が独占するようになった。宗教改革者ルターによって再び道が開かれる時が来るまで、長い長いトンネル(会衆が歌えない)に入るのである。
◆この決定の結果、聖歌隊による無伴奏斉唱の聖歌様式(グレゴリオ聖歌がその代表的なもの)が、表面に現れてくる。なお、この会議では創作賛美歌の使用も禁じ、聖歌として聖書の句だけを用いることを命じた。この結果、一時的に賛美歌創作が阻害されるが、この決定はあまり長くはその効力を持ち得なかった。後に、ミラノの大主教アブロシウス(脚注)が自らの手で創り、みなに歌わせたからである。

(2) ギリシャ語からラテン語への移行

◆初期のギリシャ語の優位性は、3世紀の終わりまでに次第に弱まり、4世紀初頭、つまりローマ皇帝コンスタンティヌスのキリスト教公認の頃から、ラテン語がギリシャ語にとってかわるようになる(ただし、東方教会はギリシャ語を公用語とする)。中世の教会におけるミサはすべてラテン語によってなされ、会衆はただ参加し、見るだけとなる。
◆ヒエロニムスのウガルダ聖書(ラテン語訳聖書)が完成したのが5世紀で、6世紀には、当時のヨーロッパ世界全域に用いられるようになり、西方教会の典礼や賛美家のラテン語使用が確立する。


〔本論④の参考文献〕 
●丸山忠孝著『キリスト教会2000年』(1985 いのちのことば社)  46~49頁。
●原 恵著『賛美歌―その歴史と背景―』(1980 日本基督教団出版社) 30~32頁。
●日本教会新報社編『新・キリスト教ガイドブック』(改訂版、2001) 212~215頁。

(脚注)
◆聖アンプロシウスは、音楽が人間の情緒に与える影響を良く知っていた。そのうえで彼は賛美歌をつくった。これはキリスト教の教会音楽における一つの大改革であり、彼によって創作賛美歌の道は開かれたのである。彼は教父時代における賛美の貢献者である。ちなみに、聖アンブロシウスの影響によって回心に導かれ洗礼を受けたのがアウグスチヌスである。


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