教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑭ Praise & Worship の起源とその流れ <2>

2005-05-31 13:00:41 | 講義
3. ワーシップ・リーダーの存在と役割

◆プレイズ&ワーシップは、ワーシップ・リーダーによって導かれる。ある程度の規模以上の教会や集会になると、司会者とワーシップ・リーダーが別に立てられ、司会者は集会全体の進行を、ワーシップ・リーダーは賛美の時間をといったように、分担する場合もある。
◆ワーシップ・リーダーは、しばしばその教会の音楽部門のディレクターであったり、専門の音楽牧師であったりする。ある教会では、ワーシップ・リーダーと言わずに、ソング・リーダーと言っているが、ワーシップ・リーダーの本来の役割は、単なる賛美のソング・リーダーだけでなく、礼拝全体の流れを導く責任を担っているのである。その意味では、プレイズ&ワーシップという礼拝スタイルにおけるワーシップ、・リーダーの存在はきわめて重要な鍵を持っているといえる。
◆とりわけプロテスタント教会の伝統では、、多くの場合牧師が礼拝の責任を担ってはいるものの、礼拝全体の流れを導くという、より直接的な務めには余り関わらないことが多い。確かに、みことばの奉仕は重要であり、そこに最も多くの労が費やされてしかるべきである。ワーシップ・リーダーを置かない教会の礼拝において、「礼拝の流れ」は一体誰が責任を持っているのだろうか? 奏楽者?、いや司会者?、それとも説教者?・・それらは三権分立のようでもあり、もしくは無責任であるかのようにも見える。
◆興味深い事に、カトリック教会や聖公会あるいはルター派といった、いわゆるリタージー(礼典)を重んじる教派においては、礼拝に信徒の「司会者」は存在せず、礼拝全体の流れを導く事、それはまさしく教職者(聖職者)の努めであると認識されている場合が多い。プレイズ&ワーシップの流れにおけるワーシップ・リーダーとは、ある意味では高度にリタージカルな存在といえよう。無論、音楽のスタイルはかなり違うものであるが、礼拝の流れを重んじる意識においては、実はプレイズ&ワーシップ・スタイルの礼拝とリタージカルなスタイルの礼拝とは共通している。
◆旧約時代のダビデの幕屋礼拝、および、ソロモンの神殿礼拝においては、きわめて洗練されたワーシップ・リーダーが存在した。アサフ、ヘマン、エタンである。彼らはいずれも偉大なワーシップ・リーダーであった。

4. 会衆賛美における<洗練性>と<大衆性>

◆「洗練された高品質の音楽や言葉」と「人々が親しみやすく心を込めやすい音楽や言葉」がある。教会での賛美において、どちらを重視するかによって、礼拝のスタイルが決まると言っても過言ではない。前者は、ワーシップ・ソングの流れを「会衆に迎合する音楽スタイル」として非難する。逆に、後者は会衆賛美における洗練されたエリート的なものを好まない傾向が見られる。
◆さらに、会衆賛美には、歌詞の分量が多いものと少ないものとがある。前者は「詩的あるいは神学的に練られている」ということが言えるし、後者は「単純で覚えやすい」という点が美点と言える。プロテスタント教会は基本的に前者を積極的に推進してきた。ルター派のコラール、改革派の詩篇歌、ウェスレー兄弟によるメソジスト賛美歌、あるいは現代の"Hymn Explosion運動”(ヒム・エクスプロージョン・ムーヴメント)、これらの代表的プロテスタントの会衆賛美歌には、プロテスタント信仰のエッセンスがぎっしりと詰まっている。そこには、歌で「説教」や「信仰告白」を(ルター派)、また「聖書の言葉そのものによる祈り」を(カルヴァン派)、さらには「あかし」や「伝道」を(メソジスト、福音派全般)しようとする態度が伺える。
◆けれども、分量の多い歌詞の歌を会衆がたくさん歌うことができるようになったのは、グーテンベルクの活版印刷により、会衆が書物を礼拝で手にするようになってからである。旧約の民も新約の民も、それほど長い歌詞の歌を歌ってはいなかったようである。古代教会以来の会衆賛美に顕著なのは、実は短い歌詞のほうである。とりわけ「アーメン」と「ハレルヤ」等の歌詞は、古代教会以来、礼拝の中で無限に繰り返し歌われてきた。長い歌詞は、訓練された聖歌隊や独唱者に委ねられ、会衆はそれを聞き、もっぱら短い言葉で何度も応答したのである。今日、カリスマ系の賛美やプレイズ・ソングの類は、しばしばその歌詞の単調さと繰り返しの多さゆえに批判される事がしばしばある。しかし、歴史的に見るならば、それだけではあまり説得力はない。むしろ両方ある方が、より「歴史的」であり、「正統的」と言えるのである。



本論⑭  Praise & Worship の起源とその流れ <1>

2005-05-29 15:55:55 | 講義
<はじめに>

◆20世紀の中葉は、会衆賛美の領域において最も開花した時代であった。カトリック教会においては、1965年に第二バチカン会議がもたれ、カトリック教会における礼典音楽刷新の動きの中で、会衆賛美が復活し、礼拝の言葉もラテン語からそれぞれの国の会衆の母国語へと替った。そして、「典礼に有効に機能する限りにおいては、基本的にあらゆるジャンルの音楽を典礼の中に取り入れる可能性を認める」ようになったのである。このことは、今日のプロテスタント教会が共通の悩みとして抱えている伝統的な賛美(伝統派)と新しい世代の賛美(革新派)をめぐる対決をよそに、カトリック教会音楽の指導者たちは、真剣な議論と反省を重ねながら、「会衆賛美」の取り組みにおいては、プロテスタント教会よりも先へ行っているかもしれないのである。(脚注1)
◆第二バチカン会議後のカトリック教会音楽の立役者として有名なフランスのジョゼフ・ジェリノーにおける教会音楽評価の尺度は、「音楽そのものの完成度」ではなく、「典礼という文脈におけるその有機性である」としている。換言すれば、音楽が礼拝全体の流れの中で、取ってつけたように孤立したり、無用の長物として存在したりするのではなく、むしろ神礼拝の大きな目的の中で、効果的に機能しているかどうか、これがむしろ問題であるということである。(脚注2)
◆これから、「プレイズ&ワーシップ」という新しい礼拝スタイルについて、その定義や起源について見ていきたい。(脚注3)

1. プレイズ&ワーシップの定義

◆この言葉を直訳すれば、「賛美と礼拝」ということになるが、この言葉はむしろある特定の「礼拝スタイル」を指している。音楽的には「クラシック」よりも「ポピュラー」ジャンルに属している。1970年代から80年代にかけて日本でも流布した「ゴスペル・ミュージック」と比べると、歌詞の上では、基本的には「証し」よりも「賛美」、あるいは「礼拝」との結びつきが強く意識されている。したがって、J・フレイムは ”Contemporary Worship Music” [CWM]という表現を提唱している。
◆プレイズ&ワーシップは、ワーシップ・リーダーによって導かれる。そして、伴奏は複数の楽器(ピアノ・ギター・ベース・ドラム・管楽器・弦楽器など)を用いることが普通である。この礼拝スタイルでは、伝統的な礼拝式のように、招詞、交読、頌栄、といった流れはなく、ワーシップ・ソングが続けて歌われる。多くの場合、「主の臨在」を目標として、「プレイズ(神をほめたたえる賛美)からワーシップ(神との深い交わりの賛美)」へと流れるように選曲される。それは、霊的・音楽的流れを重視するためである。ワーシップ・ソングは、その本来のコンテキストである礼拝との文脈的・有機的な組み合わせの中にあってこそ、その本領を発揮するものといえる。したがって、ワーシップ・ソングは、単なる音楽のスタイルの問題以上の、礼拝という教会の根幹に深く関わっているのである。それゆえ、主観や感覚によって「私はそれが好きだ、嫌いだ」という尺度によって決められる問題ではないのである。

2.  ワーシップ・ソングの起源

◆ところで、この種の礼拝スタイルの起源はどこにあるのであろうか。それは20世紀半ばに遡る。少なくとも、三つのムーヴメントと関わっている。

(1) ジーザス・ムーヴメント(脚注4)との関わり

◆ビリー・グラハムによるクルセード運動は、それ自体が特に新しいタイプの音楽を生み出したわけではないが、結果的に新旧様々な伝道用のクリスチャン・ミュージックを内外に普及させるという役目を果たした。直接的に礼拝の中で、巷に流布しているクリスチャン・ミュージックを取り入れ、また新しいレパートリーを生み出していったのは、60年代後半に米国西海岸で起こった"Jesus Movement"(ジーザス・ムーヴメント)であった。今日のワーシップ・ソングの元締めとも言える"Maranatha!"(マラナサ)は、この運動の直接の実である。そこでは、礼拝の中でワーシップ・ソングのコーラスが多く歌われ、歌集にはない賛美をソング・リーダーのリードの下に歌うという実践が日常的になされていった。
◆ジーザス・ムーヴメントの中から、ワーシップ・ソングが起こってきたのは、それまでの教会が若者たちの文化を拒否してきたことと関係があった。チャック・スミス師の教会には、当時続々と若者が入ってきて救われていた。裸足で教会に入ってくる若者に対して、「カーペットが汚れる」と渋い顔をしていた役員たちに向かって、チャック師が「カーペットと人間とどちらが大切なのか。そんなことならカーペットをはがしてしまえ!」と言って、実際にカーペットをはがしたというストーリーはあまりにも有名である。救われた人々が伝統的な礼拝音楽のみを用いるべきであるという考えにも、彼は「若い魂」のために立ち向かったのである。
◆当時、クラシック的な賛美は質が高く、ポップやフォークは質が低いと考えられていた。しかし若者にとって、ポップな音楽は彼らのライフスタイルそのものであり、とても日常的で自然な音楽であった。ポップな音楽によって世俗的な歌詞を歌う(告白する)ことをやめて、同じスタイルの音楽であっても神に向かって歌う賛美によって礼拝することは、彼らにとてもふさわしいことだったのである。彼らは、多くの人々を主の感動へと導く音楽を作り出していった。そのような賛美が世界中に広まっていったのである。

(2) ペンテコステ・カリスマ・ムーヴメントとの関わり

◆ペンテコステ運動においては、賛美と礼拝は非常に特徴的なものであった。それまでの儀式的と思われる礼拝スタイルから、もっと「聖霊の導き」に呼応した、自由な礼拝スタイルが求められたからである。そんな背景の中で、聖霊によって与えられた曲が数多く生まれた。たとえば、ジョン・ウィンバーの<スピリットソング>はその走りである。伝道を目的としたコスペル・ソングが礼拝を目的としたプレイズ・ソングに変わるきっかけとなったのか、この曲(日本訳では、「聖霊と愛とが・・」「イエスは愛で満たす」(リビング・プレイズ、いのちのことば社、1990)だと言われている。注5 礼拝の中で、聖霊によって歌う「霊の歌」が歌われるとき、しばしばそれが繰り返し歌われるコーラスとして用いられた。そのメロディや歌詞はごく単純なものが多かったが、とても力強いメッセージを持っていたのである。
◆また、60年代はいわゆるカリスマ運動が米国で台頭してきた時期でもあった。ワーシップ・ソングは、単純な歌詞の繰り返しにより、霊的高揚へと導くのにまことに適した音楽であった。それゆえ、やがてカリスマ運動と密接不可分な関係となったのである。(『礼拝・音楽研究』誌1999.3.№33 「ワーシップを考える」井上義)


(脚注1)
◆「礼拝・音楽研究」誌第19~20号(1995年)の<現代カトリックの教会事情>からの掲載より。
(脚注2)
◆同上。ジョゼフ・ジェリノー氏は、テゼ共同体の祈りの歌について、これまでの教会音楽は拍節的な時間、つまり、修道院の聖務日課において、ある決まった時間の中に決められた歌が歌われたが、テゼ共同体の祈りの歌は、いつはじまってどこで終わるのか分からない時間の中で、神との祈りの時を過ごす。これはすばらしいことなのだと述べている。(ビデオ「テゼの祈りの歌」より)
(脚注3)
◆東京メトロチャーチの牧師、林幸司師は雑誌「ハーザー」(2000年3月)に<「プレイズ・&ワーシップ」とは何かー教会史に見るその起こりと成長の過程―>というタイトルで掲載している。本講義本論⑭はそれに負う所が多い。また林師の掲載は、「礼拝・音楽研究」誌第33~36号(1999年)が下敷になっている。
(脚注4)
◆ジーザス・ムーヴメントはイエス革命ともいう。イエス革命とは、1970年代、ベトナム戦争によって、あらゆる希望を失い、愛に飢えたアメリカの若いヒッピーたちがキリストの愛に触れ、爆発的な勢いで同じ信仰の仲間を増やしていった。彼らは伝統と儀式で形骸化した教会に背を向けたが、愛といのちに満ちた福音の真理に目覚めたのである。この運動こそ、イエス革命と名づけられ、アメリカ教会史に決定的な影響を及ぼした聖霊の働きとして位置付けられている。このイエス革命の指導者となったのが、カルフォルニア州コスタ・メサにあるカルバリー・チャペルの牧師、チャック・スミスである。1970年頃に、彼は3千人の洗礼式をしたという。カルバリー・チャペルは、今や6百以上の教会となってアメリカのみならず、世界の各地で進展していった。このように、聖霊の働きは、小さな一つの教会から今もなお勢いを増して前進し続けていると言われる。

本論⑬ 英米圏における賛美歌の二つの潮流 <2>

2005-05-27 11:43:26 | 講義
B 礼拝・礼典主義的賛美歌の流れ

1. 19世紀のオックスフォード運動

◆19世紀の英国賛美歌界は、主として国教会系に主導権をゆずり渡した感がある。19世紀英国の賛美歌に大きな特色を示す作者の一群は、1830年代から約30年間、宗教界に大きな影響を及ぼした「オックスフォード運動」(別名をトラクト運動)の人々であった。この動きは19世紀中葉に起こったもので、当時の英国の政情と、その少し前から起こっていた大衆伝道のリバイバル運動が英国国教会内にも及んできたことに危機感を持ち、それが使徒伝承を重視する国教会の存立を脅かすものと感じ、これに対抗して起こったとも見られる。英国国教会改革の方向として礼拝の純化を望み、宗教改革以前におけるカトリック教会の礼拝の理想への復帰を目標とした。
◆このことから、礼拝や礼典、礼拝式文などへの関心が高まり、礼拝を荘重・厳粛に行い、祈祷書を再認識して、教会歴による礼拝式文を重視する傾向を生み出し、同時に、ここから典礼主義的傾向の強い円熟した賛美歌が多数生み出された。これらは、1861年に出版された画期的賛美歌集 “Hymns Ancient & Modern”(「古今聖歌集」)に収録されて、普及していった。16世紀の宗教改革以来、英国では多数の賛美歌が作られ、賛美歌集も数多く出たが、英国国教会が出版した賛美歌集はなかった。19世紀に入って、“Hymns Ancient & Modern”が編集された。ここに実質的に国教会系の賛美歌ができたことになる。
◆19世紀の後半、英国はヴィクトリア女王(在位1837-1901)の治世で、国力が最も充実し、「世界に日の没するところなし」とその植民地が世界各地にあることを誇った時代である。この時代の英国の賛美歌は、19世紀前半の発展期にあり、いろいろの異なった宗教的立場の人たちが多くのすぐれた賛美歌を作り、同時にすぐれた歌集も多数出版された。

●ジョン・キーブル(1792-1866)
讃美歌23 「くるあさごとに」 同 38 「わが霊(たま)のひかり」
●ジョン・H・ニューマン(1801-1890)
讃美歌288「たえなる道しるべの」・・主観的な賛美
讃美歌 72「われ信ず、三つなる、ひとりの神を」(三位一体の賛美)
 同 264「うえなくとうとき」(キリストの救いの賛美)
●フレデリック・W・フェイバー(1814-1863)
讃美歌86「み神のめぐみは」 134「いざいざ来たりて」 222「あめなる使いの歌は」
Ⅱ讃美歌258「聖なる主イエスよ」・・・・・・これらは格調高い礼拝用賛美歌である。

2. 20世紀中頃のヒム・エクスプローション・・未曾有の創作賛美歌の爆発

◆1950年から1970年の間に、英国の賛美歌と教会音楽が遭遇した危機は、これまでのような内部からの革新的な運動によるものだけではなく、教会外部からの要因が加わって引き起こした、未曾有の危機であった。キリスト教に無関心で世俗化した社会の形成、その影響は教会にも及んで、若者の教会離れ、会員数の減少、教会財政の圧迫による教会維持管理と対外的義務遂行の困難を生じ、これに対して教会が一致して対処するためのエキュメニカル運動が起こったことである。さらに、礼拝改革といった、キリスト教会の根幹に関わる重要な問題とも向き合うこととなった。こうした背景の中から、1970年以後に、英国に「ヒム・エクスプロージョン、Hymn Explosion」ガ起こった。「ヒム・エクスプロージョン」とは、賛美歌の創作運動、「讃美歌の爆発」を意味する。これによって1980年代に英国の讃美歌集完全版の発行へと続くのである。ヒム・エクスプロージョンはイギリスの賛美歌作家たちによって始められ、後に、アメリカやカナダ、その他の英語圏の賛美歌にも大きな影響を与えている。そして現在はさらに全世界へとひろがりつつある。アイオナ共同体の創作賛美歌もこのヒム・エクスプロージョンの影響である。
◆日本基督教団出版局が刷新した『讃美歌21』(1997年発行)の編纂の背景には、この「ヒム・エクスプロージョン」と密接な関係にある。そこには、ユダヤ教の礼拝歌まで遡り、ギリシャ語、ラテン語などの古典的賛美歌の遺産が、またドイツ・コラール、各種の詩篇歌、応答唱、そして変化に富んだ現代の創作賛美歌が掲載されている。またこの『讃美歌21』に収録されている日本人の手になる創作賛美歌は81で、全収録歌の15パーセントに当たる。海外の歌集に比べると日本の自国語による創作歌の数はまだまだ少ない。1970年代以降次々と歌集が改定されてきたアメリカでは、すさまじいほどの勢いで創作賛美歌が伸びている。
◆横坂康彦著『現代の賛美歌ルネサンス』(日本基督教団出版社、2001年)には、第1章「ヒム・エクスプロージョンの起こり」、第二章「ヒム・エクスプロージョンの賛美歌」、第三章「ヒム・エクスプロージョンの影響」について記されている。

                    

本論⑬ 英米圏における賛美歌の二つの潮流 <1>

2005-05-24 20:36:52 | 講義
A 伝道的賛美歌

特徴 : 主観的、感情的

英国非国教会系

日本福音同盟(JEA)に加盟するファンダメンタルな諸派

(1)18世紀のメソジスト運動
ジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレー <解説①>

(2)19世紀のリバイバル
ムーディとアイラ・D・サンキー <解説②>

(3)20世紀の初頭 
ビリー・サンディとホーマー・ロードヒーヴァー <解説③>

(4)20世紀の中頃  
ビリー・グラハムとジョージ・ベヴァリー・シェイ <解説④>
ビル&グロリア・ゲイザー夫妻の果たした役割 <解説⑤>


B  礼拝、典礼主義的賛美歌

特徴 : 客観的、教理的

英国国教会系

日本キリスト教協議会(NCC)に加盟する諸派

(1)18世紀 聖公会韻律化された詩篇歌

(2)19世紀のオックスフォード運動 <解説⑥>
 「古今聖歌集」(1861)(Hymns Ancient & Modern)、改訂を重ねながら現行の1950年版に至っている。

(3)20世紀中頃のヒム・エクスプロージョン <解説⑦>
1950年以降、教会が経験した未曾有の危機と創作賛美歌の爆発

A B ―ペンテコステ・カリスマの影響―

(1)20世紀後半のプレイズ&ワーシップ <解説⑧>


(2)ブラック・ゴスペル <解説⑨>

―メシアニック・ジュー運動―

(3)イスラエルのJewish 賛美 <解説⑩>

●賛美の歴史の中で、20世紀ほど豊かな時代はなかったといえる。とりわけ近年、私たちは、礼拝の領域において、実に多様な創作賛美歌を手にしているのである。
●注⑧、注⑨、注⑩については、それぞれ本論⑭、⑮、⑯、⑰、⑱で扱うこととする。

A  伝統的賛美歌の流れ

<解説①> 18世紀のメソジスト運動・・ジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレー
◆ウェスレーのメソジスト系の讃美歌観は福音の真理を主観的に個人的に表現したもの、つまり救われた人間の信仰体験、及び心情をうたう「救いの心情表明」的傾向をもっている。この傾向は自己の魂を内省的にうたうドイツの敬虔主義の流れをくむモラヴィア派の影響を受けたものである。カルヴィン系のように礼拝のために考えられておらず、むしろ伝道を目的とする霊感に満ちた媒体として考えられている。 チャールズ・ウェスレーはその生涯に6500以上の讃美歌を作ったといわれるが、その多くが人々をイエス・キリストをとおして神に導くというただ1つの目的のために書かれ、また歌われた。
◆18世紀の創作讃美歌が、ウォッツ、チャールズ・ウェスレー等の非国教派系の賛美歌作者を中心に作られて、英国の創作賛美歌をリードした。それは長かった詩篇歌時代の後に、泉のように溢れ出した。そしてこれは19世紀のリバイバルの福音唱歌(ゴスペル・ソング)の流れとなっていくのである。

<解説②> 19世紀のリバイバル運動・・ムーディとアイラ・D・サンキー
◆1870年から伝道者ムーディとコンビを組み伝道活動をはじめる。1873年のスコットランドのエディンバラでの集会で、新聞で見つけた歌詞(「九十九匹の羊は」)を即興で歌ったこと有名である。ムーディは感動し、説教台を降りてサンキーに近づくと、「あんな歌は生まれてはじめて聞いたよ」と涙ながらにたたえて言ったという。ムーディは、自分では歌わなかったが、キリスト教信仰に音楽が果たす役割をはっきりと認識していた。ムーディはこう書いている「たいていの人は歌うのが好きなのだと思う。会衆を惹きつけるのに役に立つ。たとえ説教が無味乾燥でも、歌が助けてくれる。歌が胸をうてば、教会はいつも満席になる。聖書には祈れという言葉より、ほめたたえよという言葉のほうが多い。歌と音楽は信仰復興運動につきものだが、もっと広い意味で、信仰を深めるために不可欠だと思う。神の言葉を人々の心に刻む上で、歌は説教に劣らず力を発揮する。神がはじめて私を呼びたもうとき以来、ほめたたえる気持ちを歌で表現することが大事だという核心は深まる一方である。」と。(チェット・ヘイガン著、椋田直子訳『魂のうたゴスペルー信仰に生きた人々―』音楽之友社、1997、41頁)。ムーディとサンキーの活動は、20世紀の信仰復興活動の手本となった。彼らと同時代の人の言葉を借りるならば、「ムーディは説教を通じ、サンキーは歌を通じて、地獄の人口を百万人ほど減らした」と言われている。
◆19世紀最後の25年間を通じて、ムーディが主催した信仰復興集会が、キリスト教音楽を飛躍的に流布した貢献は大きい。サンキーによる『賛美歌と独唱歌』と『ゴスペル賛美歌集』が百万部単位で印刷された。

<解説③> 20世紀の初頭の大衆伝道・・ビリー・サンディーとホーマー・ロードヒーヴァ
◆20世紀最初の25年間は、元メジャーリーガー野球選手だった伝道師ビリー・サンデイの伝道集会で音楽が活躍した。賛美歌歌手で演奏もしたホーマー・ロードヒーヴァーによって、数千の悔い改める人たちが前に進み出たという。ホーマー・ロードヒーヴァーがゴスペル音楽に果たした役割を一言で言うならば、「起業家」ということがいえる。彼は、福音集会での歌唱指導にささげる一方で、ゴスペル音楽専門の楽譜出版社を設立し、賛美歌のためのレコード会社を設立したからである。ホーマーが伝道師ビリー・サンディに出会ったのは1909年、29歳の時であった。その出会いから20年間、彼らは完璧なコンビを見せた。ビーリー・サンディの説教はまことに型破りで、彼が説教台に上がると、火を吐くような説教がとどまることを知らなかった。彼は元気のいい歌が好きで、芸術性の高い歌はあまり興味をしめさなかったという。また聴衆が好きそうな歌を見分けるのが上手で、ホーマーはいつも彼の判断を尊重していたという。(チェット・ヘイガン著、「魂のうたゴスペルー信仰に生きた人々―」音楽之友社、1997、49頁以降)。

<解説④> 20世紀の中葉の大衆伝道・・ビリー・グラハムとジョージ・べヴァリー・シェイ
◆ビリー・グラハムと歌唱指導者のクリフ・バウロズが『ユース・フォー・クライスト』と題する福音伝道6ヶ月のツアーで英国各地を回って帰国した後、1947年にグラハム氏は、シェイを専属独唱者として招く。後に、グラハム・クルセードと呼ばれる集会の発端から、グラハムはこれまでの伝道集会とは違った構想を持っていた。例えば、ドワイト・ムーディやビリー・サンディの場合、音楽を受け持つ人物―アイラ・サンキーやホーマー・ロードヒーヴァーーは、歌唱指導者であり聖歌隊指揮者であり、独唱者でもあった。しかしグラハム場合は、歌唱指導をバロウズに任せ、ベヴァリー・シェイ(当時38歳)を独唱者として迎えたのである。
◆日本には1978年に来日してクルセードガ開かれた。ベヴァリー・シェイが後楽園球場で歌った自作の曲
「キリストにはかえられません」は今でも、拙者(銘形)の耳に焼き付いている。

<解説⑤> 20世紀中頃における世代の断絶・・ビル&グロリア・ゲイザー夫妻の果たした役割
◆ビル&グロリア・ゲイザー夫妻。彼らは1962年に結婚している。ビルはゴスペル・ソングシングライターとして有名である。ビル・ゲイザーのヒット曲は「He touched me」「主は今生きておられる」で音楽界の頂点に立った。しかし彼ら夫妻には、ゴスペル音楽に果たした一つの役割があった。その役割とは、旧い世代と新しい世代、あるいは保守的な人々と革新的な人々との橋渡しをしたことである。キリスト教会の内部で、さまざまな対立があるが、特に年齢的な断絶は大きい。ことが音楽になると・・あっという間にバラバラになったりする。「音楽は世界の共通語だ」という人がいるが、この問題に関する限り、嘘である。スタイルが対立を生むのである。グロリアはこう言っている。「過去も現在も、キリスト教社会は本質と形式の違いを見失っているように思う。形式を問題にすれば、信者たちを対立されることはたやすいことである。逆に、本質を問題にすれば、皆が手をつなげるはずである。それが、私たち二人が果たそうとした役割の一つです。さまざまなスタイル、さまざまな形式を信じる人たちに『それは本質的問題ですか? そこに永遠の価値が秘められているでしょうか』と呼びかけてきた。形式から本質に力点を移すことによって、皆が一つになれるのです。」と。(脚注)


(脚注)
◆リック・ウォレン著(河野勇一訳)『健康な教会へのかぎ』(いのちのことば社、1998)の未翻訳分として2001年に発刊された『魅力的な礼拝へのかぎ』と題された小冊子がある。その中に「音楽を吟味する」という章がある。音楽のスタイルは礼拝スタイルと密接な関係がある。音楽のスタイルを決めるときの著者の具体的な提案がなされている。一読をお勧めする。

本論⑫ 19世紀のリバイバル運動における新しい歌 <3>

2005-05-18 16:21:37 | 講義
(写真はムーディ)

4. アメリカの福音唱歌 (Gospel Song) という<新しい歌>

◆17世紀末から18世紀にかけ、ヨーロッパ各国の移民が続々と新大陸のアメリカに流入した。それとともに、いろいろの民族的・宗教的背景をもった賛美歌が輸入された。これらはフォーク・ヒムノディー(民謡調賛美歌)といわれ、近年は黒人霊歌に対して白人霊歌と呼ばれるようになったこの白人霊歌は素朴な五音または六音音階の曲が多く、東洋的な感じもして、明治期から日本で愛称されてきた。(脚注3) それらは大衆伝道集会でも広く用いられ、リバイバル集会でさかんに歌われた。キャンプ・ミーティング(天幕集会)・ソングやゴスペル・ソングの先駆けとなった。 
◆そして、アメリカ南部のフォーク・ヒムノディー(白人霊歌)とキャンプ・ミーティング・ソングの延長線上の大衆的賛美歌が、福音唱歌(Gospel Song)、福音聖歌(Gospel Hymn) である。
   
(1) 特 徴

◆これは、伝統的賛美歌とは異なった新しいスタイルの賛美歌である。キャンプ・ミー-ティング・ソングと大差はないが、いっそうポピュラー化し、さらにセンチメンタルな傾向が強い。歌詞の面から言えば、率直な表現で個人の救いと、その喜びのあかしを歌うとともに、救いの喜びを積極的に世の人々に分かとうとする伝道精神を歌ったものが多い。その意味で、福音唱歌は作者の信仰告白としての要素が強いといえる。また、創作時の事情や作者の周囲の人々が記録し、発表したものが多いため、作られたときの状況が、一般の賛美歌よりも知られているものか多い。
◆福音唱歌の多くは「おりかえし」(ChorusまたはRefrain)を持つことが特色で、反復による強調とともに、ソング・リーダーが各節の前半を歌い、会衆が後半のおりかえしを歌うという使い方において、便利な構成であった。曲の面からは、旋律的で、大衆受けのする甘美な、あるいはやや感傷的なメロディーと、軽快なリズムを、単純なコードで支える曲が多い。初期の段階をすぎると次第に半音階的な動きも加わってくる。(脚注4)

(2) 福音唱歌の第一人者、サンキー

その作品から・・「九十九匹の羊は」(聖歌429)
作詞クレファン 作曲 アイラ D.サンキー (1840-1908)

◆エリザベス C.クレファン(1830-1869)は、彼女が死ぬちょっと前、特に子供達のために『九十九ひきの羊は』を書いた。これは『子供の時間』という雑誌に掲載された。それから5年後、アメリカ人伝道者のムーディーとサンキーが伝道旅行で英国を訪問した。ある日、サンキーは列車の停車場でアメリカのニュースを知りたいと新聞を買った。そして何気なくページをめくっているときに、このエリザベス C.クレファンの詩を発見したのである。彼はムーディーに、その内容に興味を持つように促したが、彼はその日の説教の準備に忙しく、サンキーはその詩のページを破り取って、ポケットの中にしまってしまった。
◆その日の午後の集会、ムーディーの説教の主題は、ルカ15:3-7をテキストにした『良い羊飼い』であった。その最後に、ムーディーはサンキーに、その説教にあった歌を歌うように頼みました。サンキーはその時、何も適当な歌を思い付かなかった。その時、突然、自分のポケットにしまい込んだあの詩のことを思い出したのである。おもむろにその新聞の切れ端を取り出し、足踏みオルガンのはしにクリップでとめると、大きく息をして主の助けを求め、彼は Aフラットのコードでこの詩を歌いだした。歌い進むごとに、メロディーは与えられていった。今もこの曲はあの時のままである。サンキーは述懐している。「あの時は本当に精神を集中させた時の一つだ」と。彼はこの歌がスコットランドの会衆に、直ちに伝わったと感じたことが分かった。「私の歌が終わりに近づいた時、ムーディー先生は泣いていました。それは私も同じです」とサンキーは報告している。そしてムーディー先生が立ち上がり、救いのために招きをすると、多くの『失われていた羊たち』がキリストの招きに応えたのである。
◆彼らの英国での伝道旅行の間に、ムーディーとサンキーはスコットランドのメルローズにも行った。エリザベス C.クレファンの二人の妹がその会衆の中にいた。人はおそらく想像できるであろう。すでに召されてしまっていた姉の詩がサンキーの曲とともに歌われ、人々の福音のさらに深い理解のために、この歌が霊的なインパクトになっていることを知った時の、この二人の驚きと喜びを・・・。(脚注5)

(3) フランセス・J・ヴァン・アルスタイン夫人(通称ファニー・クロズビー 1820~1915)

◆サンキーとムーディーとともに忘れてはならないのが、ファニー・クロズビーである。6歳のとき眼病の誤った治療のために失明。38歳のとき、盲学校の音楽教師と結婚、95歳で天に召されるまで、6千に達する賛美歌を書いた。彼女が福音唱歌を書き始めたのは40歳すぎで、また、彼女の場合には主として出版社の要請に応じて作られ、ある時期には毎週3篇ずつ作詞したと言われる。
◆彼女の歌を愛唱歌としている人は少なくない。代表作として「ああうれし、わが身も」(讃529)である。この賛美歌はサンキーの福音唱歌集に収録され、英米で急速に普及した。
  
1 ああうれし、わが身も         2 残りなくみむねに
  主のものとなりけり。           まかせたるこころに、
  うき世だにさながら、           えもいえずたえなる
  あまつ世のここちす。           まぼろしを見るかな。
   
 (おりかえし)
  うたわでやあるべき、         3 むねのなみおさまり、
  すくわれし身のさち、           こころいとしずけし。
  たたえでやあるべき、           われもなく、世もなく、
  みすくいのかしこさ。           ただ主のみいませり。

(脚注3)
◆例えば、①讃美歌478 (D F# E D B E E D A B A B D B A・・・) ②讃美歌402 (D G E G A G E D ・・)
(脚注4)
◆原 恵著『賛美歌―その歴史と背景―』(日本基督教団出版局 1982年) 235~237頁参照。
(脚注5)
◆Kenneth W. Osbeck 101 Hymn Stories, Kregel Publications, Grand Rapids, Michigan 1982 pp.251-252 訳・ 石原


本論⑫ 19世紀のリバイバル運動における新しい歌 <2>

2005-05-17 15:24:45 | 講義
(写真はジョージ・ホイットフィールド)

2. アメリカのリバイバル運動・・<グレート・アウェイキング>  

(1) 1st グレート・アウェイキング(18世紀の中頃)・メソジスト、バプテスト、長老派を中心に

◆ピューリタン上陸から100年を経て、アメリカの教会も形式化し、霊的な命を失いはじめていた頃、1726年、敬虔主義の影響を受けた牧師スィアドー・フリーリングハイズン(オランダ改革派)によって、グレート・アウェイキング(Great Awakening 大覚醒運動)が始まり、それは1750年頃まで続いた。(ちなみに、アメリカではリバイバルよりも、アウェイキングという言葉が多く使われるようである。)
◆彼は霊的覚醒と高い生活基準を訴え、回心者が多く起こされた。敬虔主義運動とメソジスト運動の巡回伝道者の影響が大覚醒に繋がったと考えられる。その感化はペンシルバニアとニュージャージーの長老派に及び、長老派のテナント兄弟によってスコットランド系アイルランド人の間にリバイバルが起こった。
◆さらに、リバイバルの波はニューイングランドの会衆派やバプテストに広がっていった。1734年から1740年まで、会衆派の牧師ジョナサン・エドワードによって新しい霊的な命がマサチューセッツの教会に吹き込まれた。
◆エドワードの真摯な霊的態度と祈りの生活は、人々に大きな感化を与えた。神の国に入るには個人的な回心が必要であることを訴え、絶望に陥っていた教会の霊的風潮は一変した。この結果、宣教への情熱が呼び起こされ、日曜以外にもリバイバル集会が行われ、インディアンへの宣教も活発に行われた。
◆こうした集会で用いられた賛美歌は、主として、英国のウォッツの詩篇歌と賛美歌で、これをアメリカでいろいろな人が手を加えて出版し、初期のリバイバル集会での需要を満たした。
◆東海岸のリバイバルはイングランドの伝道者ジョージ・ホイットフィールド(メソディスト運動の巡回伝道者)によって、さらに刺激を受けた。1739年から1741まで彼は数回に渡ってアメリカを訪問したが、彼が到着すると人々は店を閉め、仕事を投げ出して集会に駆けつけた。そして数万人の人々が集まり涙を流して悔い改めたと言われている。彼はあるとき、電気の理論を究明するフランクリンに、「電気の神秘ばかりに熱中せず、新しく生まれることの神秘にも留意するよう」勧めたと言われている。
◆1786年南部長老派でもリバイバルが起こった。アメリカ聖書教会や超教派の宣教団体アメリカン・ボードなどが設立され、活発な宣教が行われた。この頃、長老派もリバイバル賛成派と反対派に分離した。
◆1st グレート・アウェイキングでは、メソディスト教会とバプテスト教会が特に大きく成長したが、彼らはもともと奴隷制に反対であり、黒人たちが大勢加わった。当時の黒人教会の大多数はメソジストとバプテストであった。

(2) 2nd グレート・アウェイキング・・・超教派による

◆この後、19世紀には、チャールズ・フィニーやムーディーなどにより、2nd グレート・アウェイキングが起こる。彼らは、ジョナサン・エドワードらのカルビニズムとやや異なり、地獄の火と天罰を説いて、徹底した罪の悔い改めと罪深い行動から遠ざかることを要求した。彼らの活動は超教派であり、あらゆる教派から人々が集まってきた。教会の第一の使命は、伝道、イコール、リバイバル集会を開くことと受けとめられるようになった。このように、福音を教会から路上に持ち出して、あらゆる人々に与えたその働きは大きいと言える。
◆1859年以降、このようなリバイバルの熱情を持って、明治初期の日本に、アメリカや英国の宣教団体や長老派、メソジスト、バプテストなどから数多くの宣教師がやって来て、日本のプロテスタント宣教が始まったのである。

3. クルセード(超教派的大衆伝道)の先駆け・・<ムーディとサンキーの名コンビ>

◆19世紀中期にはドワイト・L.・ムーディー(1837-1899)とアイラ・D・サンキー(1840-1908)などのリヴァイヴァリストが、準備の超教派的組織化、音楽の利用、劇場的演出、扇情的説教を取り入れてマス・エバジェリズムの新しいタイプを編み出した。今日クルセードと呼ばれるもの先駆けである。莫大な資金を注ぎ込み、それ自身は非営利的組織ではあるが、一つの企業として成立するものになっている。
◆当時、アメリカでも組織され始めたYMCA(キリスト者青年会)がリバイバル集会の中心的推進力となり、そのシカゴのYMCAの会長に就任したのが、伝道者ムーディであった。同じくYMCA主事の音楽家、サンキーとが絶妙なコンビを組んだ。彼らは、アメリカはもちろん、英国の諸都市を巡って伝道した。1893年にはフォアパウ・サーカスから大テントを借りて、シカゴ万博会場で日曜礼拝を開催したが、その参加者は1万8千人にも上ったと言われている。こうした種類の大衆伝道は、各地でさかんに開かれるようになり、そして、こうした集会用の歌集が続々と大量に出版され、やがて一種の企業となって、そこで財をなす人も少なくなかった。サンキーという音楽伝道師は、19世紀の歌を集めて「福音聖歌と聖歌独唱曲集」(脚注2)を出版した伝道集会における歌唱指導の第一人者である。

(脚注2)
◆Gospel Hymns and Sacred Solos,1875は爆発的に売れ、次第に増補され、最後には739曲を治めたものが1894年に出版され、これらは50年間に実に総計8千万冊売れ、現在もなお市販されている。


本論⑫ 19世紀のリバイバル運動における新しい歌 <1>

2005-05-16 08:08:36 | 講義
<はじめに> (写真は若き日のスポルジョン)

◆19世紀は「偉大な世紀」と呼ばれ、いまだかつてないほどの地理的な広がりに、宣教が成された時代である。特に、プロテスタントの海外宣教活動が最盛期を迎えた時代であった。このような現象の背後には、18世紀の敬虔主義や福音主義の伝統を受け継いだ福音的信仰のリバイバルがあった。特に、英国やアメリカで盛り上がりを見せたこの運動は、アメリカの大衆伝道者ドワイト・ムーディ、英国のバプテスト派の説教家スポルジョン(1834~1892)などの華やかな活躍が見られた。そして、そこから海外宣教運動が湧き出たのである。        
◆「近世海外宣教の父」と称されたケアリ(1761-1834)が、英国の貧しい教会から支援されてインドに宣教したのもこの時代である。ケアリーのモットーは「神から偉大なことを期待せよ。神のために偉大なことを試み行なえ!」であった。彼に続く数千の宣教師が、「われらの世代に世界の福音化を」と世界中に散って行った。その中には、ロンドン伝道協会から派遣されたスコットランドのアフリカ伝道師モファット、その勧めによりアフリカ伝道と探検に献身したリヴィングストン、中国への最初のプロテスタント宣教師モリソンもいた。(脚注1)

1. 18世紀のメソジストのリバイバル・・<大衆伝道の先駆け>

◆ジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレーガ福音的回心した後(1738年)、彼らは敬虔主義のツィンツェンドルフを訪問し、指導を受け、帰国すると彼らは聖書のいう「聖潔(ホーリネス)」をイギリス全土に広める運動を始めた。彼らは英国国教会の中で活動するつもりであったが、国教会側からは危険視された。彼らが、恵みによる救い、信仰による義認を説教すると、その教会では2度と説教することができなくなってしまった。そこでホイットフィールドに倣い、1739年4月に初めてブリストル郊外で野外説教会を開き、多くの回心者を獲得した。それ以来、彼らは野外でも室内でも、人が集まるところどこででも説教するようになった。「世界はわが教区」とはジョンの残した有名なことばである。これが大衆伝道の先駆けとなった。顕著な聖霊の働きが現われ、いやしも行われ、多くの人々が雷に打たれたように地面に倒れ、「神の言葉によって心引き裂かれた人々の叫びで鳴り響いた。」と言われている。
◆ホイットフィールドも非常に熱烈な伝道者であった。彼は国教会の牧師としてその有能さが認められていたが、キリストの贖いと聖霊による新生を説き始めるやいなや、教会側は彼を非難した。そこで彼は日曜に教会に来ることの無い人々に伝えるべきだと、野外で説教するようになったのである。1739年の2月、彼は、ブリストル近郊のキングズウッドの百名ほどの炭鉱夫を相手に説教を始めた。彼の評判はたちまち広まり、数万人に膨れ上がった。数百人の炭鉱夫がその黒く汚れた頬を涙で濡らしてその場で悔い改めたのである。その後ロンドンでも野外集会を開き、全国を巡り、
1週間に20回説教したと言われ、一生涯説教を続け、死の直前まで説教をしていたそうである。
◆ホイットフィールドは、1739年から1741年までの間何度も彼はアメリカを訪問し、リバイバルが起こり数千人の聴衆が涙を流して悔い改めたという。彼は一冊も著書を残さなかったが、ウェスレーと共に当時のアメリカ、イングランドに多大な影響を与えた人物であった。
◆ウェスレーの神学の特徴は万人救済(=予定の教理の否定)と、聖潔(聖化)、キリスト者の完全の主張、聖書の重視である。特に「キリスト者の完全」の主張は、長い間、物議を醸した。しかし、彼は当時の英国全土をひっくりかえすほどの霊的な大改革を成し遂げた人物であり、その多くの著作は今も出版されて、重要な霊的遺産を残した。
◆また、救いの喜びを歌にしたチャールズの作った讃美歌がこのリバイバル運動の中で大いに用いられたことは、本講義の本論⑪で述べたとおりである。

(脚注1)
◆ 丸山忠孝著『キリスト教会2000年―世紀別に見る教会史―』216~217頁。

本論⑪ 18世紀の英国のメソジスト運動における新しい歌 <10>

2005-05-12 22:24:22 | 講義
5. チャールズ・ウェスレーの讃美歌の宗教的意義
            
<理解された信仰>から<体験された信仰>へ

◆チャールズ・ウェスレーの讃美歌は当時の英国国教会の主流をなしていたピューリタンのカルヴィン主義の啓示的で、力強く、客観的な讃美歌に比べると、主観的、個人的で、救われた人間の心情および救いを求める呼びかけを直接的に表わした伝道的なものが多い。けれども、原恵氏が述べているように、「互いの長所はそのまま短所でもあって、それぞれに特色と存在意義をもっている」(脚注64)と言えよう。だとすれば、讃美歌に新しい概念を与えたといわれるチャールズ・ウェスレーの讃美歌は宗教的にどのような本質的存在意義をもっているのであろうか。それを評価するための方法として、宗教学的宗教哲学的なアプローチが役立つ。なぜなら、それは宗教をして宗教たらしめている本質を客観的に明らかにしようとする試みだからである。
◆藤田富雄氏はその著書『宗教哲学』の中で宗教の真理概念を<事実の真理>と<認識の真理>として区別できるとしている。(脚注65) <事実の真理>とは個人の宗教的体験において把握されるものである。それは他者に認識されなくとも事実として存在し得るのである。しかし、その個人の宗教的体験が普遍性をもつものであると確信される時、その体験は第三者にも理解できるように、言葉に表現され、伝達可能なものとされて<認識の真理>となる。つまり、人間の理性によって体験が整理され、神学化され、教理化されて認識可能とされた真理である。これは同時に多様性をもつものとなる。このようにして<事実の真理>から<認識の真理>への移行がなされるのである。<事実の真理>と<認識の真理>の、この二つの真理概念を信仰に当てはめてみるなら、<体験された信仰>と<理解された信仰>ということができよう。ここで原始キリスト教会を取り上げ<体験された信仰>から<理解された信仰>へと移行する際、この移行がどのようになされたかを概観し、その結果についてみてみたい。
◆AD30年頃、イエス・キリストの十字架と復活に続き、ペンテコステの出来事により福音がユダヤから異邦の国へと拡大されていった。弟子たちはその際に、自ら体験した福音を異教徒にも理解できるように、異教(ヘレニズム)の諸概念を受け入れ、変化させながら伝達しようとした。ティリッヒは「新約聖書の偉大さとは、宗教史の流れになかに発展してきた語や象徴を受容しつつ、それを適用してイエスの姿を誤りなく描き出すことができたという。その能力において示されている。」(脚注66) と述べている。しかし2世紀には入るとキリスト教会の生活の各分野に組織化、固定化の傾向が現われてきた。
◆こうした移行の契機となったものは、2世紀に入って著しくなった異端諸派の運動であった。そのために教会は組織や教義、信仰箇条を確立する必要が生じた。同時に、外部の異教徒に対してキリスト教弁証家といわれる人々は、キリスト教を知的にわかりやすく説明するために、信仰を完全な知識としてしまった。ここから、キリスト教神学が生じ、聖霊の超自然的な力は減退したのである。神学はキリスト教を理論的に基礎づけるために、ギリシャ哲学を利用し、やがてはアンセルムスの「知らんがために我信ず」によって代表されるスコラ神学が確立する。それは、信仰を完全に知識によって基礎づけることを確信する立場である。そこではもはや、個人の宗教的体験が不明確ではっきりつかめない人であっても、その体験についての合理的な教えの言葉として理解されるようになるのである。
◆ところが、宗教は私たちの認識することのできない超越の世界に関わるゆえに、信仰の立場においては、理解される神はもはや神ではない。波多野精一氏は『宗教哲学序論』の中で、認識論によっては、実在を認識することは不可能である旨を述べている。認識という方法によっては、決して神との直接的体験を得ることができないのである。認識は体験によって深められるものなのである。
◆改革運動は常に固定化した<理解された信仰>から<体験された信仰>に批判的に戻されなければならないという形でなされた。チャールズ・ウェスレーの讃美歌は<理解された信仰>から<体験された信仰>へと戻す改革運動の媒体となった。それは単にチャールズ自身の個人的な宗教体験を歌うことを目的としたものではなく、キリスト教信仰が真理の知的承認と同一視されていた状況の中で、彼はキリストとの生きた人格的関係という観点から立て直そうとしたのである。しかも、それは福音の活力をすべての人の、日常のあらゆる問題に対する力強い関わりによって表現し直すということであった。彼の讃美歌において究極的に指向されているのは、<認識されたキリスト>ではなく、<体験されたキリスト>であるといえよう。ここにチャールズの「体験的讃美歌」の宗教的な存在意義を見出すことができるように思うのである。
◆ところで、讃美歌は宗教的にみれば、教理や説教、あるいは信条や祈祷文と同じように宗教的象徴と呼ばれる。これらはすべてヌミノーゼ的な究極的実在を表現しているといわれるが、藤田氏は「象徴は生命をもったもののように、状況が熟した時に生まれ、状況が変わると死んでしまうものである」(脚注67)と述べている。
◆改革運動といえども、ひとたびある程度の独立性を得た時には必然的にその成功とともに鋭さを失い、保守的傾向を現わし、その宗教団体の生命的なものは枯渇するのである。それと並行して、宗教的象徴にも限りがあり究極的なものに対する人間の関係の仕方は変化するのである。ある時期に、ある特定の場所で、ある宗教集団にとって信仰の真理を表現していたものが全く古い過去の信仰を思い起こさせるだけになってしまうこともある。そのような象徴は真理の力を失っているのである。チャドウィックが言うように「真理は生まれ変わることを必要とする。言語はその内容を変えたり、その価値を失ったりする」ものなのである。(脚注68)

本論⑪の結論

●それゆえに、私たちの課題はただ単にチャールズ・ウェスレーの讃美歌を数多く歌うことでもなければ、その特質を単に認識することで満足することでもない。むしろ大切なことは、彼の讃美歌をして、讃美歌たらしめている本質的源泉、すなわち、主イエス・キリストとの個人的、直接的体験に絶えず戻らなければならないということである。これが私たちの追求すべき最も重要な課題であると考える。


(脚注64)
◆ 原 恵著『賛美歌』―その歴史と背景―152頁。
(脚注65)
◆ 藤田富雄著『宗教哲学』。以下の叙述は195~204頁の要旨である。
(脚注66)
◆パウル・ティリッヒ著『キリスト教思想史Ⅰ』(ティリッヒ著作集、別巻2)白水社、1980年、53頁。
(脚注67)
◆藤田富雄著『前掲書』223頁。
(脚注68)
◆サムエル・チャドウィック著『キリスト者の完全への招き』21頁。


付録 【チャールズ・ウェスレーの年譜】

1707 12月18日、父サムエル・ウェスレー、母スザンナ・アンズリーの第八子として誕生。
1716 ウェストミンスター校入学。
1726 クライスト・チャーチ・カレッジ入学。
1727 オックスフォード大学で『神聖クラブ』を発足。
1735 4月25日、父サムエルが死去。10月21日、兄ジョンと一緒にアメリカのジョージアに宣教師として出発。
1736 2月5日、サヴァンナに到着。3月9日から『日記』を書き始める。8月11日、アメリカを去って、12月に英国に戻る。
1737 ジョン・ウェスレーは南カロライナのチャールスタウンで最初の讃美歌集を出版。
1738 チャールズは5月21日、福音的回心を経験。3日後、24日にジョンも同じく回心を体験する。回心後、刑務所伝道を始める。
1739 英国国教会はウェスレーらに門戸を閉ざす。4月2日、ブリストル最初の野外伝道。11月11日、メソジスト協会が組織される。兄弟合作の『讃美歌と聖歌集』を出版する。
1740 モラヴィアン、およびホイットフィールドとの訣別(予定論争)。
1742 以後数年、各地で迫害暴動が起こる。7月30日、母スザンナが死去。
1744 6月25日、ファンドリーで第一回年絵が開かれる。『騒動の時に歌われる讃美歌を出版。
1749 8月8日、結婚。
1788 3月29日、召天。

〔本論⑪の参考文献〕

A  讃美歌学関係
James Salle ; A History of Evangelistic Hymnody,(Baker Book House Company,1978)
Halford. E . Luccock and Paul Hutchinson ; The Story of Methodism. (1926)
Clint Bonner ; A Hymn is Born. (Broadman press,1959,4版)
Robert .G . MucCuthan ; A Singing Church,(William K, Anderson ed.“Methodist publishing House”1947)
Robert .G . MucCuthan ; Our Hymnody ―A Manual of the Methodist Hymnal―(The Methodist Book Concern, 1937)
John Wesley ; The works of John Wesley, vol.14(Zondervon,1892)
Frederick. C. Gill ; The Romantic Movement And Methodism ―A Study of English Romanticism and the Evangelical
Revival―(Haskell House 1966)
原 恵 『賛美歌』―その歴史と背景―(日本基督教団出版社,1980)
戸田義雄、永藤武編『日本人と讃美歌』(桜楓社、1978)
斎藤 勇『讃美歌研究』(研究社、1962)
北村宗次『教会の音楽』(日本基督教団出版社、1979)
竹内 信『讃美歌の研究』(日本基督教団出版社、1980)
園部治夫『チャールズ・ウェスレーの讃美歌』
(「礼拝と音楽」18号、特集「18世紀の讃美歌」、日本基督教団出版社、1976.9)
原 恵 『近代讃美歌の系譜① ②』(「礼拝と音楽」1964.8.9.月号)
園部治夫『愛唱・聖歌詞100選』(教会音楽研究会、1973)


B 神学 および教会史関係
Charles Wesley ; The Journal (Baker Book House Company,1989,vol.1, 2)
Henry Cater ; The Methodist Heritage (Abingdon cokesbury press,1951)
野呂義雄『ウェスレーの生涯と神学』(日本基督教団出版社、1975)
サムエル・チャドウィック『キリスト者の完全への招き』(日本ウェスレー出版協会,1971)
蔦田二雄『18世紀英国の危機とウェスレーの宗教運動』(同上、1957)
M.A.テニ―『ウェスレーの神学の実際問題』(福音文書刊行会、1979)
メンデル・テイラー『伝道の歴史的探求』(同上、1977)
メソジストの一伝道者『戦う使徒ウェスレー』(同上、改訂再版、1971)
小林和夫『ウェスレー研究』(「ホーリネスの友」、日本ホーリネス教団出版)
ワインクープ『ウェスレアン=アルミニアン神学の基礎』(福音文書刊行会、1972)
W・M・グレイトハウス『ウェスレー神学の源流』(福音文書刊行会、1980)
塚田 理『イギリスの宗教』(聖公会出版、1980)
野呂義男『説教 上・中・下』(「ウェスレー著作集」、新教出版社)
R・H・カルペパー(中村訳)『贖罪論の理解』(日本基督教団出版社、1968)
パウロ・ティリッヒ『キリスト教思想史Ⅰ』 (「ティリッヒ著作集、別巻2」、白水社、1980)
ハルナック(山谷省吾訳)『基督教の本質』(岩波書店、1977)
矢崎正徳『18世紀宗教復興の研究』(福村出版、1973)

C  宗教哲学関係他
藤田富雄 『宗教哲学』(大明堂、1966)
波多野精一『宗教哲学序論』(岩波書店)
波多野精一『宗教哲学』(岩波書店)
岸本羊一、北村宗次編『キリスト教礼拝辞典』(日本基督教団出版局、1977)

D  讃美歌、聖歌関係
『讃美歌』(日本基督教団出版局)
『讃美歌第二編』(日本基督教団出版局)
『聖歌』(日本福音連盟)
Crusader hymn and hymn stories,(ビリーグラハム伝道協会、1967)
The Methodist Hymnal (The Methodist Book Concern, 1935)






本論⑪ 18世紀の英国のメソジスト運動における新しい歌 <9>

2005-05-11 22:41:56 | 講義
4. メソジスト運動にける讃美歌の機能

◆あらゆる大きな宗教運動には必ずといってよいほど讃美歌が相伴っていた。(脚注55)
たとえばワルド派(拙注・1170年頃南フランスに起こったキリスト教の一派)、フス派、ロラード派(拙注・14~16世紀に英国のジョン・ウィクリフの語った革新的宗教思想)などの改革をめざした宗教運動はそれぞれ自分の讃美歌をもっていた。またルターやカルヴァンによる宗教改革においても讃美歌の果たした役割はいくら評価しても過大になるということはない。しかしながら、それぞれの宗教運動の讃美歌についての理解には多様性がみられるのである。
◆「メソジスト運動はより広い範囲に讃美歌についての新しい概念を与えた」(脚注56)といわれたけれども如何なる意味においてであろうか。すでに第二章において近世プロテスタント讃美歌の歴史を通観したが、そこには讃美歌の理解について大きく2つの相異なる系統があるように思われる。その相違はとりわけ、カルヴィン系とメソジスト系との比較において明瞭に見ることができる。カルヴィン系の讃美歌観は「神に向かって賛美する」という傾向が強い。人間の言葉を用いた創作讃美歌を一切認めず、詩篇のみを音律化して自国語で歌った。従ってその内容は神そのもの、神の統治、神の救済行為についてうたったものが多い。これは教理にもなる。しかもその役割はあくまでも礼拝を中心にして考えられている。
◆それに対して、ウェスレー兄弟を中心とするメソジスト系の讃美歌観は福音の真理を主観的に個人的に表現したもの、つまり救われた人間の信仰体験、及び心情をうたう「救いの心情表明」的傾向をもっている。この傾向は自己の魂を内省的にうたうドイツの敬虔主義の流れをくむモラヴィア派の影響を受けたものである。カルヴィン系のように礼拝のために考えられておらず、むしろ伝道を目的とする霊感に満ちた媒体として考えられている。
◆メソジスト系の「新しい歌」はあらゆる信仰体験が表出された霊の歌(spiritual song)であった。チャールズ・ウェスレーはその生涯に6500以上の讃美歌を作ったといわれるが、その多くが人々をイエス・キリストをとおして神に導くというただ1つの目的のために書かれ、また歌われた。彼にとっては明らかに福音を知らない無学な男女を、讃美歌を通して悔い改めと信仰に導くのが狙いであった。それゆえに伝道の武器としての讃美歌は、簡明率直で、しかも迫力に富んだものでなければならなかった。
◆さて、ウェスレー兄弟が福音的回心を体験して以来、彼らは人類のしもべとなって福音を伝えるが、1739年、英国国教会は彼らに対して門戸を閉ざすようになった。そのために彼らは、ホイットフィールドの提案もあって、余儀なくブリストルでの野外伝道を始めることになった。   
◆ジョン・セニック(John Cennick 1718~1755)(脚注57)という信徒説教者がブリストル郊外のキングスウッドという町で、炭鉱で働く労働者たちを相手に伝道した模様を記したその記録が残されている。(脚注58)これによると、当時の伝道は全く音楽伝道、ないしは讃美歌伝道と称すべきものであった。セニックは良い声をもった、すぐれた歌い手であって、その天分を発揮して   讃美歌歌唱で伝道集会を助けた。彼の指導によって幾つかのよく知られた讃美歌が歌われ、その間に祈りが捧げられる。そのあとで新作のチャールズ・ウェスレー讃美歌を1行ごとに独唱して会衆に唱和させる。その合間になされる解説がそのまま説教になる‥‥という具合に。
◆当時のキングスウッドという町は、教会もなく祭司もいないところであり、そこの住民たちの野卑な日常生活は知れ渡っていた。(脚注59)メソジストの集会は最初、教会の礼拝として考えられていなかったので、無教育な炭坑の貧しい労働者たちは不調和だと思うこともなく、自然にチャールズの讃美歌をうたう習慣を身につけながら、大切な信仰の真理が教えられたのである。しかも彼らがうたう歌詞は、彼らの霊を新たにし、同時に、友人や隣人の心に語りかける、生きたメッセージとなった。こうした伝道がメソジスト運動の初期の模様であった。
◆チャールズ・ウェスレーの讃美歌は最初から自分自身の信仰と体験を表わしたものであるゆえに、それをメソジストの人々に、会衆歌として提供することによって、共通の福音の理解と体験を呼び起こす開示する道具となった。そればかりでなく、共通の情緒的反応を引き起こして、集団を統一させる道具として機能したのである。
◆最後に、メソジスト運動における讃美歌の効用についてジョン・ウェスレーが果たした貢献について言及しておきたい。シャッフ博士は「ジョン・ウェスレーは讃美歌の価値を最初に認めた英国の聖職者の1人であった」と述べている(脚注60)が、確かにジョン・ウェスレーがメソジズムの伝道を「うたう伝道」とした貢献は見落とすことができないものがある。その貢献は一般に認められているよりも大きく、また重要なものである。H・E・クッコックとP・ハッチンソンはその貢献を次のように3つの面において指摘している。(脚注61)
◆その第一の面は、編集者としての貢献である。ジョン・ウェスレーはチャールズや他の初期のメソジスト作家の讃美歌のために編集者として行動した。ジョンは彼らの作品を弱めてしまうと思われる表現の放縦(無節制)から救った。彼は過度に熱狂的なものを良しとせず、修正し、また変更したのである。
◆第二の面は、翻訳者としての貢献である。彼は最も高い霊的な性質を持った讃美歌をメソジストにもたらした。彼はモラヴィア派や他のドイツの敬虔主義的讃美歌から24の讃美歌を翻訳した。
◆最後の面は、会衆の歌が高められるものであることを強調し、新しい位置にまで引き上げた。それは会衆唱歌を、福音を拡大する新しい方法として用いたことである。その前兆は、すでに1737年、南カロライナのチャールスタウンで出版した最初の讃美歌集 Collection of Psalms and Hymns にみることができる。そこには国教会の礼拝を思わせるようなものが何ひとつ含まれていなかったということは注目すべきことである。(脚注62) その理由はジョージア伝道に向かう船旅の中で聞いたモラヴィアンの讃美歌によって、讃美歌の霊的可能性に対して彼の目が開かれたからである。彼は英国国教会の韻律化された詩篇のまじめな歌い方に反発して、性質を異にする熱情的なタイプの讃美の歌い方を集会に導入した。1738年5月の福音的回心後、ジョンはチャールズと協力して54の音楽に関する印刷物を出版した。(脚注63) そのことはメソジストをして「歌うメソジスト」と言わしめるほど、讃美歌の会衆歌唱を重視したことであり、英国の教会でも独特の伝統を作りあげたのである。

(脚注55)
◆例外として、初期クウェーカーは讃美歌を礼拝から排除してしまったが、後に漸次採用するようになった。
(脚注56)
◆メンデル・テイラー著『伝道の歴史的探求』369頁。
(脚注57)
◆ジョン・セニックはブリジストンの郊外のキングスウッドの学校の教師であったが、後にメソジストの信徒説教者として活躍する。ウェスレーとホイットフィールドが選びの教理に対する立場の相違から分かれた時、セニックはホイットフィールドに従ってウェスレーから去った。その後、間もなくホイットフィールドからも離れてモラヴィア教会に転じた。37歳で召された。
(脚注58)
◆竹内信著『讃美歌の研究』からの引用。180~183頁。349~350頁参照。
(脚注59)
◆野呂芳雄著 前掲書。158頁。
(脚注60)
◆『戦う使徒ウェスレー』228頁からの引用。
(脚注61)
◆以下は、H. E. Luccock and P. Hutchinson; The Story of Methodist, 115~117頁を参照。
(脚注62)
◆James Salle; The Evangelistic Hymnody,第一章参照。ウェスレーの最初の讃美歌集、Collection of Psalms and Hymns には、ウォッツと他の人々の70篇から成っており、ジョン・ウェスレーによる5つの翻訳を含んでいる。
(脚注63)
◆The works of John Wesley, vol.14, 1892.318~346頁には、Poetical work が49篇、Musical workが5篇載せられたリストがある。



本論⑪ 18世紀の英国のメソジスト運動における新しい歌 <8>

2005-05-10 21:34:25 | 講義
3. チャールズ・ウェスレーの讃美歌の特質

(2) 神学的内容

③キリスト者の完全
◆この教理はウェスレー兄弟の生涯の最大の業績であり、独自の貢献であった。ジョンは「ホーリネス―内的、外的なホーリネスはわれわれの追求の課題であった。そして、神は聖なる民を起こすべく、われわれを押し出し給うた」と述べている。彼はこの恵みが無視されるところには、運動は必ず衰退するものと見ていた。次の讃美歌には全き愛の賜物を求めてうめいている祈りが歌われている。

O for a heart to praise my God
A heart from sin set free
A heart that’s purified with the Blood
So freely shed for me

私が切望するのは神をほめたたえる心
罪から解き放たれた心
かくまで惜しげもなく私のため流したまえる血潮をもって
洗い浄められた心

A heart resigned submissive meek
My great Redeemer’s Throne
Whose only Christ is heard to speak
Where Jesus reigns alone

神を甘んじて受け、それに服従し、
柔和であってわが偉大な贖罪者の
御座となっている心
キリストのみ言葉だけが聞こえてくる
イエスだけが治めたもう

A humble lowly contrite heart
Believing true and clean
Which neither life nor death can part
From Him that dwells within

へり下り、思いを低うし、悔いる心
信仰あり、真実あり、浄らかな心
胸中に住むキリストからは生
死も離し得ない心

A heart in every thought renewed
And full of love Divine
Perfect and right and pure and good
A copy Lord of Thine

事々に思いを新たにし、
神の愛に満ちている心
欠けなく正しく清く善く
主よ、み心のうつしである心

Thy nature gracious Lord impart
Come quickly from above
White Thy new Name upon my heart
Thy new best Name of Love

恵深き主よ、おんさが性をわかち
速やかに天から来たり臨みたまえ
新たなる御名を、新たなるいと最よ善き愛の
御名を わが心に記したまえ (脚注51)

(斉藤勇訳)

◆ジョン・ウェスレーは「私は世にあるものでひそかないくつかの誘惑を知った。私の危険は私個人からのものである」と述べている。さらに、「ここには疑いなく、罪なき安息と聖書的完全の状態にまで魂を回復する愛を求める福音と祈りがある」と評価している。しかしながら、一般的に魂に確証を与える明白な第二の経験としての「キリスト者の完全」の教理に反する根深い偏見がある。
◆その例として Love divine all loves excelling.(『讃美歌』352番「あめなるよろこび」『聖歌』118番)の原詩の第二節を取り上げてみよう。この第二節は日本の讃美歌においてはその教義的な問題のために削除されている。

Breath, O breath Thy loving Spirit.
Into every troubled breast !
Let us all in Thee inherit
Let us find the promised rest
Take away our bent to sinning
Alpha and Omega be
End of Faith as its beginning
Set our hearts at liberty (脚注52)

◆その問題の1つは次のとおりである。ジョン・ウェスレーは1780年Collection でこの第二節を除外したが、1786年のPocket Hymn Book, York で再び取り戻した。2節の5行目は本来、チャールズは Take away our power of sinningとしたが、ジョンはこの表現は弱いとして、Take away our bent of sinningにした。さらに1829年までに、bent of sinning が bent to sinningに変更されたといういきさつがある。問題のもう1つの点は4行目のLet us find that second rest が1935年には、Let us find that promised restに直されているという事実である。
◆チャールズ・ウェスレーが「第二の安息」(second rest)としているのは回心の後にくるキリスト者にとって明確な経験であった。それは罪から自由にされた存在の状態である。
◆ある人々のように、第二の経験は「段々に聖くなる。(becoming holy)という成長の事柄ではない。それはいかなる場合にも、物事の性質を変えるものではない。ウェスレーによれば、聖めは減少する過程であり、瞬間的にされるとする。成長ということは人々の理性の感覚に訴えるが、生まれつきの傾向が突然除去されることは自然の過程と調和しないとさせる。
◆チャールズ・ウェスレーが「第二の安息」という時、それは回心後に起こる一回的な危機的な体験である。これはまた7行目にあるフレーズからも理解できる。即ち、回心と聖化の2つの経験は「信仰の始まり」と「信仰の終わり」として考えられているからである。
◆チャールズ・ウェスレーは「キリスト者の完全」の教理を「安息」とか「自由」、「解放」という概念で描くことが特徴である。(脚注53) いずれにせよ、ウェスレー兄弟や初期のメソジストたちはこの教理に明確な確信をもつことが、彼らの伝道と証しに大きな力を与える結果となったのである。
◆以上、チャールズ・ウェスレーの讃美歌における神学的内容について述べてきたが、最後に彼の讃美歌には初期メソジストの人々の、生活のあらゆる状況をも描いていることを付記しておこう。
たとえば「家族が使うための讃美歌」と表示された主題を扱った歌集をみてみると、そのことがよく分かる。その中には「産気づいた婦人のために」、「安産のための感謝」、「1人の子どもの洗礼の時に」、「寄宿学校に子どもを送るにあたって」、「天然痘から回復した後の感謝」、「病気にかかった子供のための祈り」、「息子のための父の祈り」、「坑夫の賛美」、「迫害されている夫のために」、「貧乏な家族のために」、「お茶の時にうたうため」、「田舎に休養する者のために」、「結婚のうた」。それに加えて「親と子供たちのため、主人としもべたちのため」などの讃美歌もある。(脚注54)
◆このように、チャールズ・ウェスレーの心がすべての状況の中で神に向けられたという事実は驚くべきことである。


(脚注51)
◆ Hymns and Sacred Poems 1742.詩篇51篇10節に基づいて書かれている。「メソジスト讃美歌」370番、現行『讃美歌』11番「あめつちにまさる」。しかし翻訳はこの讃美歌の本意を伝えていない。
(脚注52)
◆Hymns for those that seek and those that have redemption in the blood of Jesus Christ. 1747。原詩の第二節、「メソジスト讃美歌」372番。
(脚注53)
◆特に初期に見られる作品には、「安息」の概念が多い。野呂芳雄訳「ウェスレ著作集」の『説教』にも多く載せられている。
(脚注54)
◆Halford. E. Cuccock and Paul Hutchinson; The Story of Methodism 1926年。

本論⑪ 18世紀の英国のメソジスト運動における新しい歌 <7>

2005-05-07 20:30:33 | 講義
3. チャールズ・ウェスレーの讃美歌の特質

(2) 神学的内容

◆チャールズ・ウェスレーの讃美歌は最初から自分自身の信仰と体験を表わしたものであるが、それは何ら教理的な奇抜さをもってはいなかった。彼は新しい発見をしなかったし、新しい説を創案しなかった。彼の教説の独自性はその強調点(アクセント)にある。即ち古い真理を生きる魂の深みから語り出された、生ける声をもって宣言したのであった。
◆チャールズ・ウェスレーは一人のクリスチャンの経験が、多くの神学的な理論よりもっと価値のあることを知っていた。チャールズ・ウェスレーの偉大さは経験によって生命力を与えられた真理を、彼の讃美歌の中に単純な言葉で表現したことであったといえよう。
◆チャールズ・ウェスレーがその讃美歌の中で強調して歌っている内容を、サムエル・チャドウィックにならって、①キリストの福音の普遍性、②救いの確証、③キリスト者の完全、の3つに分けてみることにしたい。(脚注41)

①キリストの福音の普遍性

◆「キリストはすべての人のために死なれた」という教えは、18世紀の英国においては天啓ともいうべきものであった。チャールズは次のように歌った。

Come, sinners, to the gospel feast;
Let every soul be Jesus guest;
Ye need not one left behind,
For God hath bidden all mankind.

罪人よ、福音のうたげに来たれ
すべての魂はイエスのまろうどとなれ
ただひとり とり残されることなし
神 すべてのものを招きたまわん

Sent my Lord, or you I call;
The invitation is to all;
Come al the world ! Come, sinner thou !
All things in Christ are ready now

主に遣わされし我は 汝らに勧む
主の招きはすべてのものにあり
来たれ世人よ! 来たれ罪人よ!
すべてのものキリストに備えらるれば (脚注42)

◆チャールズ・ウェスレーは神学的にはアルミニアニズムの立場に立って、すべての人間が神の前に平等に救いに招かれていることを強調して歌っている。
◆ワインクープはウェスレーが登場した時代の神学的状況について次のように書いている。「ウェスレー兄弟‥が生活したのは、アルミニウスの死後およそ100年のことであった。彼らは英国の宗教にあった誤謬の2つの源泉に直面した。ひとつは自由主義的アルミニアニズム。(脚注43) 今ひとつは冷たい超カルヴィニズムから由来したものであった。(脚注44) 両者のいずれも飢え渇いた心の要求に答えず、また国力を侵食しつつあった大きな社会悪に立ち向かうことができなかった」と。(脚注45)
◆特に後者は、選びと予定の教理に拘束されていた。カルヴィニズムは神の絶対主権にして敬虔な敬意を払い、強力な生徒たちを作り出した。カルヴィニズムはその最も露骨な形においては独占と特権と階級制度を意味した。少数の者は選ばれ、あとの者は見放された。
◆ウェスレー兄弟、及びメソジストたちは全力をあげてこのカルヴィニズムと戦っただけでなく、それ以上に、どこでも普遍的な愛の福音を繰り返し強調し、歌ったのである。
◆社会的背景に目を留めると、この時代は産業的変革期であった。従来の貧弱でそまつな手工業に代わって様々な機械工業が至る所に取り入れられ、工業、商業の著しい振興を見はじめると共に、一般下層民衆には底なしの不安と焦燥とが増してゆく時代であった。経済は次第次第に資本主義的形態へと移行し、資本主義社会特有の貧富間の感情的対立も深刻化して行く産業革命の黎明期であったのである。(脚注46)
◆貧しい大衆が顧みられなかったこうした時代にあって、メソジストたちによって、大衆への霊的救済の手が伸ばされるようになったのである。
◆チャールズ・ウェスレーが回心した二日後に作られた讃美歌はこの教えを歌っている。

Outcasts of men, to you I call,
Harlots, and publicans and thieves !
He spread his arms to embrace you all !
Sinners alone His grace receive,
No need of Him the righteous have;
He came the lost to seek and save.

②救いの確証

◆すべての人が救われるという普遍性という教理だけでなく、自分がキリストにあって受け入れられているということを自覚する「確証の教理」は福音の主観的、個人的体験を支える重要な点である。これは単なる体験理解内の教理としてではなく、「聖霊の証し」の教理と結合させられるものである。(脚注47)
◆聖霊による「確証」について、ジョン・ウェスレーは彼の「霊のあかし」という説教の中で、「御霊の証しとは、魂における内的な印象であるが、それによって神の霊は直接に私の霊に、私が神の子であるということ、イエス・キリストが私を愛し、ご自身を私のためにお与え下さったということ、私のすべての罪が抹消し、私、この私が神と和解しているということを証しするのである」と定義している。(脚注48)
◆救いの確かさの「確証」はまず、チャールズ・ウェスレーの体験の中にその根拠をもっている。チャールズ・ウェスレーの1738年2月24日、4月28日の『日記』にはペーター・ベーラーとの会話が記されている。第一章で引用したように、如何に救いの信仰と信仰の確証が得られるのかという点に集中していた。幾度の内的格闘を経ながら遂に、5月21日にその体験に到達したと思われる。
◆当時の『日記』には「私はブレイ氏を呼びにやった。そして自分が信じたかどうか彼に尋ねた。彼は答えた。私がそれを疑うべきでないことを、それとはキリストが私に語ったことである。彼はそれを知ってともに祈ろうとした。『しかし、まず。』といって、『私が偶然開いた所を読みましょう。』といった。『幸いなことよ、そのそむきを赦され罪をおおわれた人は‥‥。』なおも私は信じることに対する激しい反発と抵抗を感じた。しかし依然として、なおも神の霊が私の不信仰の暗やみを追い払うまで私自身の霊と戦った。私は自分が確信させられたのがわかった。どのようにしてか、またいつということは分からなかったが、瞬間的にとりなしに陥落した。」と記している。

Arise my soul arise
Shake off thy guilty tears
The blooding Sacrifice
In my behalf appears
Before the throne my surety stands
My name is written on His hands

わが魂 怖れを去れ
救い主は み座の前に
この身の名前を御手に書きとめて
あかしを 立てたもう

My God is reconciled
His pardoning voice I hear
He owns me for His child
I can no larger fear
With confidence I now draw nigh
And “Father Abba Father” cry

我は聞けり 赦しの声
子とせられて 怖れはなし
はばからず今は御前に進みて
「父よ」と呼ぶなり  (脚注49) (訳)『聖歌』177番

◆チャールズ・ウェスレーはこの讃美歌の中で、子とさられたことの神の御霊の「確証」について歌っている。「御霊の証は今や子たる者の特権であるとして、すべての福音的な教会で認められているが、それを人々にもたらしたのはウェスレー兄弟たちであった。」(脚注50) Arise, my soul, ariseは多くのまじめな求道者たちを回心へ導く決定的な媒体であった。


(脚注41)
◆サムエル・チャドウィック著『キリスト者の完全への招き』1~19頁参照。
(脚注42)
◆Hymns for those that seek and those that have Redemption in the Blood of Jesus Christ,1747.ルカ福音書14章16節~24節にもとづく。原詩の第二節を引用。
(脚注43)
◆アルミニウスの教えを逆用して、人間を高揚して救い主の必要性を否定する神学的自由主義。人は救い主に信頼し続けなければならないほどに罪に束縛されているとは考えず、したがって教育し、また社会的不平等を是正することによって、人々をその窮状から「救い出す」ことが可能となる、とする立場。
(脚注44)
◆ドルト会議の5ヶ条によって定義され、ウェストミンスター信仰告白に詳しく述べられたもの。ある者は救いが予定され、その他の者は滅びへ予定されている。救いにおいて人間は何もすることができない、とする立場。
(脚注45)
◆ワインクープ著『ウェスレアン=アルミニアン神学の基礎』98~99頁。
(脚注46)
◆蔦田二雄著『18世紀英国の危機とウェスレーの宗教運動』1973年。6頁。
(脚注47)
◆この点に関して、小林和夫教授の小論参照。「ホーリネスの友」11号。
(脚注48)
◆野呂芳雄訳『説教 上』(ウェスレー著作集3)新教出版社、270頁。
(脚注49)
◆Hymns and Sacred Poems 1742「メソジスト讃美歌」211番。原詩第一節、第五節を引用。
(脚注50)
◆サムエル・チャドウィック著 前掲書。8頁。


本論⑪ 18世紀の英国のメソジスト運動における新しい歌 <6>

2005-05-06 15:46:20 | 講義
3. チャールズ・ウェスレーの讃美歌の特質

(1) 特 徴

②感情の発露 ―歓喜の基調―
◆チャールズ・ウェスレーの讃美歌をとおして、全体的に「歓喜」を基調とした「驚き」、「怖れ」、「感謝」などの調子が鳴り響いている。特に、初期の作品はそうである。回心した二日後に作られた讃美歌をみよう。
Where shall my wounding soul begin?
How shall I all to Heaven aspire? (1739)

同じく、回心の年に作られたものである。

nd can it be that I should gain
An interest in the Savior’s blood?
Died He for me Who cause His pain?
For me Who Him to death pursued ?
Amazing love! How can it be
  That Thou, my Lord, shouldst die for me?
‘Tis mystery all! Th’ Immortal dies!
   Who can explore His strange design? (脚注33)
 
◆一般的に、例にあげた2つの讃美歌のように、疑問詞をもって始まっているものは多くはない。しかしここにみられるのは疑問の表現ではなく、驚き、怖れの表現である。前者の讃美歌はチャールズ・ウェスレーの魂のうちになされた奇蹟の驚きであり、後者のそれはキリストの死の秘義に対する驚きと怖れの表現である。疑問詞(how, where, what ?)や感嘆詞(!)によって表わされるこうした驚き、怖れはチャールズ・ウェスレーの讃美歌における特徴の1つである。
◆クリフ・バロウは「チャールズ・ウェスレーはアイザック・ウォッツの初期の作品のことを思っていたかも知れない」と述べている。(脚注34)

Alas and did my Savior blood ?
And did my Sovereign die?
Would He devote that sacred head
For such a worm as I ?
Was it for crimes that I have done
He groaned upon the tree ?
Amazing pity ! Grace unknown
And love beyond degree ! (脚注35)

◆チャールズ・ウェスレーにもアイザック・ウォッツにも同様にみられる「歓喜」を基調とした感情の爆発的発露は、当時の時代にはきわめてユニークで新しいことばであった。文学的見地から言うなら、これこそ「同時代の詩人より切り離し、また後に現われるロマン派詩人の先駆けとさせたものである。」(脚注36)
◆しかしながら、当時の「非国教徒集団はそのアルヴィニズムの知的影響から当然にも情意的、感性的な要素に反感の嫌悪さを示した」のであった。(脚注37) 他方、理神論も霊的確信や熱情を非難した。チャールズ・ウェスレーの讃美歌は当時の人々に強烈なショックを与えたのであり、その反発も大きかった。
◆チャールズ・ウェスレーにみられるロマン主義的要素はアルミニウス主義の見解が表明されているところに明瞭に見出される。兄ジョンと共に、彼は個々の魂の至高な価値と、神の視点からそのユニークな本質をそしてはかることのできない可能性を強調した。つまり、無謀な滅びの教えと、救いの制限された見解によるカルヴィニズムの狭い教理に反対して、ウェスレー兄弟は神がすべての人に関心をもたれ、すべての魂の中にある愛をたえず求められるというアルミニアンの教えを述べ伝えた。それは抒情的、情意的特質を伴って、メソジズムをいっそう生き生きとさせるのに役立ったのである。(脚注38)
◆ロマン的特徴は形容詞の用法にみることができる。その具体例をあげてみよう。
「計り知れない」(Immense, unfathomed)、「制限のない」(unconfined)、「不変の」(everlasting)、「あふれるばかりの」(infinity)「至高の」(sovereign, record)、「驚くべき」(wondering, amazing)、「不動の」(steadfast)、「喜びあふれる」(joyful)、「勝利にみちた」(victorious)、「輝かしき」(glorious)、「言い尽くすことのできない」(unspeakable)などを見ることができる。
◆園部治夫氏は上に掲げた形容詞だけでなく、「この上もなく多く、豊かに広く」、「益々高く掲げられ」、「祝宴にいい尽くせない喜びの灯をかかげて」、「喜びで有頂天になる程の勝利」、「目もくらむばかりの歓喜」等の語句にいたるまで、また数量を表わす語では「千」、「万」等がいたる所で見出され、そのほか「全ての」、「どれでも」、「全然」なども繰り返して使用されていると述べている。注39
◆以上のように、「大きさ」、「広さ」、「多量」という概念はチャールズ・ウェスレーの詩情をそそり、顕著な特異性を表わしているといえよう。一見、大げさともいえる表現がなされているにもかかわらず、その内容は他の詩人と比べて驚くほど単純である。園部氏は「詩人のウェスレーは作詞にあたり、明瞭、実在性、迫力―この三要素は特に魂を救うための讃美歌に不可欠なもの―を表明する用語をきわめて適切に使い分け、その言いたいことを最も簡明に、率直に実情に則して詩に託したので大衆の心を強く捕らえた」(脚注40)と述べていることは卓見といえよう。


(脚注33)
◆Hymns and Sacred Poems,1739「メソジスト讃美歌集」229番1、2節前半。現行『第二讃美歌』230番「わが主を十字架の」として翻訳されている。
(脚注34)
◆Cliff Barrows, Billy Graham and the Crusade Musicians; Crusader hymns and hymn stories.1967年。61頁。
(脚注35)
◆現行『讃美歌』138番、「ああ、主は誰がため」
(脚注36)
◆園部治夫著『チャールズ・ウェスレーの讃美歌』(「礼拝と音楽」1976年9月号、20頁)
(脚注37)
◆矢崎正徳著『18世紀宗教復興の研究』273~275頁参照。
(脚注38)
◆Frederick C.Gall; The Romantic Movement and Methodism,(A study of English Romanticism and The Evangelical Revival) Haskell House 1966.31頁。
(脚注39)
◆園部治夫著、前掲書。20頁。
(脚注40)
◆園部治夫著『チャールズ・ウェスレーの讃美歌』(「礼拝と音楽」1976年9月号、20頁)


本論⑪ 18世紀の英国のメソジスト運動における新しい歌 <5>

2005-05-05 19:30:13 | 講義
3. チャールズ・ウェスレーの讃美歌の特質

(1) 特 徴

①個人の強調 ―讃美歌における主観性の問題―
◆チャールズ・ウェスレーの讃美歌の特質を考察するに当って、まずチャールズ・ウェスレーと彼以前に活躍した讃美歌作家の代表作の初行を見比べるところから始めたい。どちらもそれぞれ4つの讃美歌を取り上げてみよう。
〔チャールズ・ウェスレー以前の讃美歌〕
a.ウォッツ     Before Jehovah’s awful throne(現行『讃美歌』5)
b.アジソン     The spacious firmament on high(同74)
c.ブレンディ    While shepherds watched their flocks by might(同143)
d. サムエル・ウェスレー(チャールズの父)Behold the savior of mankind

〔チャールズ・ウェスレーの讃美歌〕
a.A Charge to keep I have(『聖歌』317)
b.Depth of Mercy! Can there be mercy still reserved for me(『讃美歌』246)
c.Arise, my soul, arise(『聖歌』177)
d.Jesus, Lover of my soul(『讃美歌』274) 

◆ここにあげた目的は、チャールズ・ウェスレーのものが他の者よりも良いことを示すためではなく、人称代名詞に注意するためである。チャールズ・ウェスレーの讃美歌をみるとき第一人称単数の使用はきわめて多く、しかも、そのことは彼の讃美歌において重要な事柄なのである。第二章で述べたように、福音の主観的個人的表現の先駆けをなしたのはアイザック・ウォッツであった。しかしその推進者となったのはチャールズ・ウェスレーである。
◆初期のメソジストたちは歌う人々であったゆえに、喜びに満ちているといわれてきた。なぜなら、彼らは福音を個人的な信仰により喜びに満ちて歌っていたからである。当時のカルヴィニズムの客観主義に対して、また、国教会の儀式化、固定化した宗教に対して、チャールズ・ウェスレーはメソジストの人々に福音を第一人称単数で歌うように始めさせた。このことがチャールズ・ウェスレーの讃美歌をして英国の歴史における大きな転換をもたらすことになったのである。(脚注22)
◆讃美歌学者R・G・MucCuthanは「すぐれた詩の特質は強烈な個人的経験によって得られることができるのであって、他のどんな源泉からでもない」と述べている。(脚注23) 言うまでもなく、チャールズ・ウェスレーの讃美歌における個人の強調は第一章でも考察したように、彼自身の神体験、福音体験ときわめて密接に関わっているのである。
◆ジャック・デラモッテ(Jack Delamotte)はチャールズ・ウェスレーについてこう語っている。「私たちがブレンドンで、特に最後を過した時、『わがために、わがために死なれたお方(Who for me, for me hath died)』と歌いながら、彼は自分の魂の中に沁み込むことばを見出した」と。(脚注24)
“Who for me, hath died”というフレーズは多少語句の順序が変化しながらも、チャールズ・ウェスレーの讃美歌の中にかなり多く用いられているフレーズである。 たとえば

I felt my Lord’s atoning blood
Close to my soul applied
Me, me. He lobed – the Son of God
For me, for me He died  (脚注25)

O Love divine, what hast Thou done !
Th’ incarnate God hath died for me !
The Father’s co-eternal Son
Bore all my sins upon the tree!
The Son of God for me hath died:
My Lord, my Love is crucified:  (脚注26)

◆キリストによる十字架の贖罪はチャールズ・ウェスレーの心の中にいつもあった。彼は「神が人を愛し給う」という福音の中核を主観的、個人的に表現しようとする。右にあげた例の一節を見ても分かるとおり、第一人称単数、I, my, meの数はおびただしい程である。一人称の世界にはある種の激しさがある。はつらつとした感覚の歓喜に近い響きがみられる。 

◆讃美歌における「主観性」ということは讃美歌研究上の大きな問題である。(脚注27) 

I felt my Lord’s atoning blood
Close to my soul applied

◆贖罪の出来事は決定的に客観的事実である。即ち、AD28~30年頃、エルサレムの町の外、ゴルゴダと呼ばれる丘の上で、イエスといわれた人の身に一度限り起こった歴史的事実である。繰り返し得ないこと、事実、繰り返す必要のない何事かが歴史の中に生起したのである。それは普遍的な意義を持つただ一回限りの歴史的事実である。しかしそれが私にとっての救いの意義を持つには、客観的出来事が「わがために(for me)」として主観的に個人的に受けとめられなければならない。罪の出来事が私個人にとって経験の事柄となることが神の目的である。(脚注28) チャールズ・ウェスレーはこの経験の事柄がただ聖霊の御業によってのみ、生かされ、適応されるものであるとしている。

Then with my heart I first believed,
Believed with faith Divine,
Power with the Holy Ghost received
To call the Savior mine. (脚注29)

◆聖霊は、人をして個人的な信仰の経験によってのみ受けることができる真理の領域へと導くのである。しかしこれだけでは前にあげたチャールズ・ウェスレーの讃美歌の一節の中にみられる5つも7つも、異常なほどの第一人称単数の多用の意図は説明されない。一人称で表わされる個人をチャールズは如何なる脈絡の中で用いているであろうか。
◆それはマルチン・ブーバーの言う「我と汝」という関わりの中で説明されるであろう。それは生ける神との人格的関係であり、その関係の成立根拠は神の愛(アガペー)である。そうした脈絡の中で用いられている第一人称の個人的な表現は、かつてチャールズが『神聖クラブ』ジョージア伝道時代の楽観的人間観にもとづくものでは最早なかった。それは罪人としての「われ」である。
◆「あまつましみづ」の改訂詩のように、三人称的世界への一般化はたとえ共有された信仰告白であろうとも、この罪人を忘れさせ、神との人格的関係をも薄れさす危険性がないとも限らないのである。(事実、「きみのめぐみは われにこそ」という原詩の二人称が避けられている。)しかし、「チャールズ・ウェスレーは決して罪人を忘れなかった。」(脚注30)
◆「自分の魂の中に沁みこむことばを見出した」といわれる、「わがために、わがために死なれたお方(Who for me, for me hath died)」というフレーズは第一章でも述べたように、ルターのガラテヤ書の註解によって出会ったのであった。ガラテヤ書の二章の終結の部分はチャールズ・ウェスレーにとって、福音的回心の体験をもたらした一つの契機であったばかりでなく、讃美歌創作の霊感の源泉となっていると思われる。少し、その箇所の意味する所に目を留めてみよう。
◆ガラテヤ書の終わりの部分(特に2章19節~21節)はパウロの福音体験を要約している所であり、ガラテヤ書におけるパウロの主張する論点を全体的に支える支点となっている。パウロは2章19節で「わたしは律法により律法に死にました」と書いているが、そもそもパウロにとって「律法」とは何を意味したであろうか。(脚注31) 「律法は」パウロにとっては価値あるすべてであり、彼の誇りであり、生きがいのすべてであった。またそれは同時に、イスラエル民族の伝統でもあり、彼の属していた共同体の価値観の総体と存在根拠そのものであった。パウロはその「律法」の中に生まれ「律法」を拠り所として生きてきたエリートであった。従って、パウロにとって「律法」は実にその血肉の一部であったというよりも、彼自身そのものであったと言えるのである。
◆それではなぜパウロの存在根拠であった「律法」に対して激しく「否」と言わなければならなかったのであろうか。それは彼がこの「律法」によって神の前に義とされようとする試みの中に、人間の最大の罪を見せられたからであった。「律法」それ自体は聖なるものであるが、「律法」を追求し、それによって生きることの中に、それが神に対して自己を主張する媒介となってしまっていたのである。「律法」をも自己正当化の道具としてしまう自らの内なる罪にパウロは目が開かれたといえよう。と同時に、罪人である自分のために、自分の罪責を担い、自分の行くべき死の現実を自分に代わって身に引き受けていて下さっているお方を十字架のキリストにおいて見出したのである。そのことによって初めてパウロは「律法」に死ぬことができ、「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によって」贖われた新しい自分を受け取ることができたのである。パウロはこの体験を「御霊によって」(ガラテヤ書3章2節)と言っている。
◆この福音体験はルターにとっても、またチャールズ・ウェスレーにとっても然りであったといえよう。 ⇒第一章を参照。
◆罪の責めに苦しめられ、悩まされた者ほどイエス・キリストの十字架の血による贖いを御霊により、信仰によって、主観的に、個人的に把握される時、そこには一種の強烈な救いの体験がある。罪の自覚が増し加えられる時、それとは反比例して神の恵みもまたさらに増し加えられるのである。
◆チャールズ・ウェスレーにとって、その讃美歌における第一人称単数によって表わされる個人の強調は、罪人である私。その私のために死なれたイエス・キリストとの生ける人格関係の中で考えられなければならないのである。しかもその強調点は、人間の必要の大きさとキリスト・イエスにある神の恵みの十分さを指し示そうとしているのである。

What shall I say Thy grace to move ? 
Lord, I am sin, but Thou art love.
I give up every plea beside Lord
I am lost, but Thou hast died. (脚注32)


(脚注22)
◆Halford. E. Luccock and Paul Hutchinson ;The Story of Methodism,1926.110~111頁。
(脚注23)
◆R.G.. MucCuthan ; Singing Church. W.K. Anderson 編“Methodism”153頁。
(脚注24)
◆.G. MucCuthan ; 前掲書 152頁。
(脚注25)
◆“Hymns and Sacred poems”1739.‘O for a thousand tongues to sing’として知られる詩の原詩の第五節。「メソジスト讃美歌」(1935)162番(現行『讃美歌』62番、『聖歌』91番にはいずれも原詩の第七節~第十二節までが載せられている。
(脚注26)
◆Hymns and Sacred Poems, 1742.第一節。
(脚注27)
◆ここに「主観性」の問題を考えさせるにふさわしいひとつの例がある。それは、 戸田義雄、永藤武編著『日本人と讃美歌』(桜楓社、135~143頁参照)にある、永藤武の「讃美歌『天つ真清水』と月―永井ゑい子の伝統的抒情世界―」と題する論文である。彼はその論文の中で、永井ゑい子の「あまつましみづ」(1884年作)を別所梅之助が改変した時の諸問題について述べている。まず永井ゑい子の原作の第一節を掲げる。「あまつましみづ ながれきて よにもわれにも あふれけり ながくかわける わがためよのみずいかで たりぬべき」。次に別所梅之助が改変した第一節を掲げる。これは現行「讃美歌」の217番にある。「あまつましみず ながれきて あまねく世をぞ うるおせる ながくかわきし わがたましいも くみていのちに かえりけり」。原詩全文と改訂の双方を比較検討してみると「われ」、「わが」という言い方が原詩には5回も出てくる。全般として発想が一人称である点が原詩の特徴である。それに対して改訂詩では「わが」は1回しか出てこない(しかも付加的である)。永藤氏は「改訂にあたって、彼(別所のこと)には創作であれ、翻訳であれ、歌集には一切、個人を表立って出したくないとの確固たる編集方針があった。‥‥信仰の歌たる讃美歌の共有性を達成しようとしたのであると考えられる」と述べている。
(脚注28)
◆R・H・カルペッパー、中村和夫訳『贖罪論の理解』、189頁以降参照。
(脚注29)
◆Hymn and sacred poems, 1739.‛ O for a tongues to sing‚と知られる詩の原詩の第4節。
(脚注30)
◆R・G・MucCuthan; 前掲書 153頁。
(脚注31)
◆以下の論述は、渡辺英俊著『愛への解放』ガラテヤ書、現代聖書講解説教4(新教出版社、1980年、40~144頁参照。
(脚注32)
◆Hymns and Sacred Poems,1739「メソジスト讃美歌集」201番4節(原詩12節)。





本論⑪ 18世紀の英国のメソジスト運動における新しい歌 <4>

2005-05-04 16:17:54 | 講義
2. 近世賛美歌の歴史におけるチャーズ・ウェスレ-の位置

◆チャールズ・ウェスレーの賛美歌がどのような傾向・特質を持っているのか、またそれがメソジスト運動において果たした機能は何かということを考察する前に、彼の賛美歌が近世プロテスタントの賛美歌の歴史の中で、どのような位置にあるのかをまず通観しておきたい。
◆プロテスタントの賛美歌の歴史といえば、ふつうは16世紀の宗教改革からということになる。それはルターによる衆賛歌(コラール、Choral)カルヴァンによる詩篇歌(プサーム、Psalm、彼に関するものをことにジュネーヴ詩篇歌と呼んでいる)などによって始められ、18世紀の英語賛美歌(ヒム、Hymn)において開花したとみられる意味での賛美歌の歴史である。
◆それぞれの時代の賛美歌の果たした機能は単一のものではない。またその傾向も性格も多様である。ドイツ語による衆賛歌(コラール)、フランス語によるジュネーヴ詩篇歌についてこれまで述べてきたので、ここでは、英語による詩篇歌から見てゆきたい。

(1) 英語ジュネーヴ詩篇歌

◆フランス語圏のスイス、ジュネーヴを中心にカルヴァンによって始められた宗教改革の中で詩篇歌が作られたのは1541年からのことであった。この影響を受けて、これより少し遅れて英国においても会衆の歌唱をめざした英語の韻律詩篇歌が用意され始めた。
◆それはヘンリー8世(脚注13)の宮廷にいたトーマス・スターンホールド(1500頃~49)が主となってなされた。彼は始め自分の楽しみのために詩篇の英語韻律訳を試みた。ヘンリー8世の皇太子エドワード6世が即位後、スターンホールドに勧めたこともあって、それは1549年(脚注14)に ”Certayne Psalms drawen into English metered by Thomas Sternhold”という題で出版された。これが英語詩篇歌の最初のものであるが、これは教会での歌唱は考えず、個人用として用いられることを考えていた。出版は同年のスタンホールドの死後になった。その後、ジョン・ホプキンスが引き継ぎ、二人の詩篇歌を合わせたものが何回か版を重ねた。ところがローマ・カトリックを信奉するメアリ女王(在位1533-1558)の治世になって、新教徒は厳しい迫害を受けた。そのために指導者たちは海外に亡命を余儀なくされ、多くはスターンホール=ホプキンス編の詩篇歌集を携えて、まずストラスブールにそしてジュネーヴに滞在した。そこで英国人亡命教徒のために1556年に出版されたのが『アングロ・ジュネーブ詩篇歌』である。(脚注15)
◆1558年にメアリが死に、避難していた人々が英国に戻ってくるが、追加されたものも含めて1562年にそれまでのものが全部まとめられて “Whole Book of Psalms” という題で出版された。それを通称『旧訳詩篇歌集』(Old Version)と呼んでいる。これは1696年にネイハム・ライトとニコラス・ブレイディが全詩篇をより文学的に、詩的に改訳した。いわゆる『新訳詩篇歌集』(New Version of the Psalms of David)が出版されるまで国教会、非国教会(ピューリタン教会)を通じて長く用いられた。
◆さて、2世紀にわたり、本来散文である詩篇を会衆が歌える詩型にふさわしく韻律化した詩篇歌時代も次第に衰退して、次の創作賛美歌の時代を迎えるようになる。
◆その原因を日本の賛美歌学者、原恵氏は2つあげている。(脚注16) その1つは、多数の詩篇歌の文学的価値が低いことであったとしている。『旧約』をはじめ、16世紀の詩篇歌は詩的、叙情的な表現においてかならずしも良いものではなかった。当時のシェイクスピアを始めとする文芸華やかな時代に、これらが見劣りしたのは当然であった。後の『新訳』の出版もこの点を補うのが1つの目的であったが、いずれもあまり成功しなかった。
◆その理由として、詩篇歌の限界というべき内容から来る問題点があげられる。それは、詩篇が旧約聖書の中にあり、もともとキリストの福音を歌ったものではないからである。

(2) 英語賛美歌

◆上に述べたような欠陥が英国における会衆歌唱を著しく不活発なものとしていた時に、代わって英語の創作賛美歌の時代が開けてきた。その先駆をなしたのが「英語賛美歌の父」といわれる非国教会のアイザック・ウォッツ(Isaac Watts、1674-1748)である。
◆ウォッツはそれまでの伝統的な詩篇歌に対して不満であった。彼は公式の礼拝の中で使用するための新しいタイプの詩の必要を感じていた。彼の父は、彼が18歳の時、彼によりすぐれた詩を書くようにチャレンジしたことから、旧来の詩篇歌の型を破って、ウォッツは自由で新しいユニークな創作賛美歌を作り始めた。そしてその最初の試みを夕拝の集会で紹介した。これがウォッツにとって賛美歌作家の始まりであった。
Behold the glories of the Lamb
Amidst His Father’s throne.
Prepare new honors for His name
And songs before unknown.

◆ヨハネ黙示録の第5章に基づくこの賛美歌は詩篇歌にあきていた人々から大いに歓迎された。そのために彼は2年間にわたって賛美歌を提供しなければならなかった。ウォッツが33歳の時、それらを『賛美歌と霊の歌』(Hymns and Spiritual Songs、1707)として出版した。
◆また彼は詩篇歌を改革して、1719年に138の現代的な詩篇歌をまとめ『新約聖書の用語法で模倣したダビデの詩篇』(The Psalms of David imitated in the language of the New Testament)として出版した。これは詩篇のもつ内容的欠点をかなり大胆に補足し、いわゆるキリスト教化(新約化)を行ったものであった。従って詩篇歌と創作賛美歌の過渡期を示すような作品となっている。(脚注17) しかし、これは1707年に出版した『賛美歌と霊の歌』と同じようには公的な関心を捕らえることができなかった。(脚注18)
◆詩篇歌の古い習慣から離れることは異端とみなされる時代にアイザック・ウォッツは650の賛美歌を書いたが(脚注19)、その最も代表的な作品の一節を引用しよう。(現行『讃美歌』142「さかえの主イェスの十字架をあおげば」)
When I survey the wondrous Cross
On which the Prince of glory died.
My richest gain I count but loss.
And pour contempt on all my pride.

栄光の君がその上に死にたまいし
驚くべき十字架を われ思うとき
わが最上の利得を損失に過ぎずと思い
わが誇りをも さげすむ      (原 恵訳)

◆この讃美歌はガラテヤ書6章14節にもとづいて書かれたものである。ここには新約の福音の中心的思想が個人との関係において表現されている。このようにウォッツの偉大な貢献は讃美歌の中にきわめて多くの福音の主観性と個人的表現をもたらしたことにより、すでに教会の新しい形式の歌、即ち、福音讃美歌への橋渡しをしたことに見ることができるのである。
◆ウォッツは福音讃美歌において、本質的に次の3つの新しい標準を立てたといわれる。(脚注20)
①福音的であるべきこと。
②聖書の正確な翻訳よりも自由な創作であるべきこと。
③作詞者の考えや感情を表出したもの。
◆讃美歌の新しい運動はウォッツによって始められた。しかしそれは礼拝を目的とした霊感に満ちた媒介をキリスト教に与えようとしたものにもかかわらず、英国の伝統に影響を与えるような効果はすぐにはなかったのである。彼の讃美歌は非国教会おいて、あの韻律詩篇歌に段々と取って代わったが、多くの教会ではなおもまだ詩篇歌を歌い続けていたのである。これが、ウェスレー兄弟が登場した時の会衆歌の状況であったのである。(脚注21)
◆チャールズはウォッツの『讃美歌と霊の歌』が出版された年、1707年に生まれた(ちなみにジョンは1703年生)。チャールズおよびジョン・ウェスレーらは、ウォッツによって始められた福音讃美歌を質においても、量においてもさらに推進させたのである。そして続く、トップレディー(Augustus Montague Toplady,1740~1778)、ニュートン(John Newton,1725~1807)、クーパー(Cowper,1731~1800)らを刺激し、やがては19世紀半ばのアメリカにおける福音唱歌(ゴスペルソング)にもつながっていく。
◆いずれにせよ、18世紀初頭において英語の創作である福音讃美歌は奔流のように流れ出したのであり、その中でチャールズ・ウェスレーは「英国讃美歌作家の第一人者」として多くの人々から評価されている。ルターやカルヴァンがそうであったようにチャールズ・ウェスレーおよびジョン・ウェスレーは英国において、会衆歌に清新の気を取り戻したのである。そしてその讃美歌は、礼拝のためというよりも、伝道と聖徒の霊的向上のために歌われたのである。

(脚注13)
◆英国がローマ教会の支配を離れたのは1534年の英国王ヘンリー8世の時である。
(脚注14)
◆同じ年に英国における宗教改革の中で生み出された第一祈祷書(The Book of Common Prayer)が発行された。
(脚注15)
◆ジョン・ノックス(長老派教会)は、ジュネーヴに亡命した英国人教会の牧師を2年間務めた後、1559年に母国スコットランドへ帰ったが、このとき「アングロジュネーヴ詩篇歌」を持ち帰り、改訂を加えて教会で用いたため、スコットランドも詩篇歌の国となった。
(脚注16)
◆原 恵著『近世讃美歌の系譜』34頁参照。あるいは同著『詩篇歌について』(「音楽と礼拝」、1974年)
(脚注17)
◆現行の『讃美歌』にとられているウォッツの詩篇歌は次のとおりである。5番(詩篇10篇)、81番(同36篇)、52番(同84篇10節)、88番(同90篇)、196番(同84篇)、220番(同72篇)、286番(同46篇)などである。これらの歌はピューリタンの峻厳な神学が反映している。
(脚注18)
◆James Salle; “A History of Evangelistic Hymnology” (Baker Book House Company. 1978,11~12頁)。
(脚注19)
◆創作賛美歌としては、現行『讃美歌』の60番、138番、167番、181番、330番、480番である。
(脚注20)
◆James Salle, 前掲書参照。ウォッツは「ゴスペルソングの父」とも言われている。
(脚注21)
◆James Salle; “A History of Evangelistic Hymnology” (Baker Book House Company. 1978,12頁。

本論⑪ 18世紀の英国のメソジスト運動における新しい歌 <3>

2005-05-03 12:36:16 | 講義
(2) チャールズの信仰経験

③自己確立時代

◆体も精神も疲れ切っていたチャールズ・ウェスレーは、しばらくしてロンドンに住む真鍮細工を職業とするジョン・ブレイの家で寝起きするようになった。ブレイは貧しく無学な細工人で、知るといえばキリストの他は何も知らなかった。しかしキリストを知ることのゆえにすべてをわきまえているといった人物であった。チャールズは1738年5月11日の『日記』の中で、「神は私のところにブレイを送ってくださった。・・・彼は今やベーラ-の代理である」と記している。(脚注10)
◆真鍮細工人の家はチャールズのように霊的な確証と平安を捜し求める者たちを招く港であった。5月17日、そこへアメリカから帰ったウィリアム・ホーランドがルターのガラテヤ書の注解書を持ってきたのである。何が起こったのか。チャールズの『日記』に目を留めてみよう。
「・・今日、はじめてルターのガラテヤ書を見た。それはホーランド氏が偶然見つけたものであった。私たちは読み始めた。・・ルターのことを聞いて私の友人はため息をつき、言いようもないうめき声を出すほど、ひどく心動かされた。私たちをもうひとつ別の福音の方へ、キリストの恵みの中へと招いているルターと私たちが、あまりにもかけ離れているということに私自身、驚いた。私たちの教会が信仰によってのみ義とされるこの重要な事柄に根拠をおいているということを誰が信じているであろうか。私はこの新しい教理を絶えず思うべきであることに驚いている。特に私たちの信仰箇条や訓戒が廃止されずにいる間は、知識の鍵は依然として取り去られない。この根本的真理、すなわち信仰のみによる救いは、一つの思想ではなく、また死んだ信仰でもなく、愛によって働く信仰である。この信仰に入った多くの友人たちと同じように、このときから私もまた、ここに基礎を置くことに努めようと思った。これは、すべての善きわざ、すべてのきよさを生み出すに必要なものなのである」。
◆このように、チャールズは高教会的教理の上に立って、神の恵みに支えられたところの人間の善きわざによって救われると確信していた。ところが今は、明確に、善きわざによっては救われないということ、徹底的に神の恵みのみによって人は義とされることを理解した。つまり、福音的回心の体験以前に、チャールズは論理的に、信仰による救いの教理を正しいものと確信している。『日記』はさらに続いている。「今晩、私は数時間一人でルターとともに過ごした。非常に恵まれた。ことにその2章の結論が良かった。『私を愛し、私のためにご自身をお捨てになったお方はいったい誰なのか』」(脚注11) を知ろうと努め、待ち望み、そして祈った」。
◆チャールズに大きな影響を与えることになったルターのガラテヤ書注解書、第2章の結論には、キリストが私のため、またあなたのために生き、死に、再びよみがえったというルターの熱心なあかしがしるされている。以下それを引用しよう。
「キリストはペテロやパウロだけを愛し、彼らのためにご自身を与えたのではなく、その同じ恵みが彼らと同様に、この<私>のうちにも把握されるのである。私たちがすべて罪人であること、アダムの罪によってすべて失われた者であり、神の怒りとさばきのもとに服していることは否定できないように、キリストが私たちを義とすることも否定できないのである。キリストが死んだのは義人のためではなく、不義なる者を無罪とするためである。それゆえ、私がアダムの違反によって罪人であることを私自身が感じ、告白するとき、理由は分からないが、私はキリストの義によって義とされるのである。とりわけ、キリストが私を愛し、私のためにご自身をお捨てになったと聞く時はなおさらである。『私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった方』、この言葉は偉大で力ある慰めに満ちている。それゆえ、それは私たちのうちに信仰を呼び起こす力である」。(脚注12)
◆ルターの声はいかに力強くチャールズに語りかけたであろうかは、先の『日記』に記されているとおりである。ルターのあかしはチャールズにとって、救いのための唯一のキリストに対する信仰を燃え上がらせることに大きな影響を与えたのであった。「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった」というガラテヤ書2章20節のフレーズは、チャールズの讃美歌の中でも特に重要な表現であり、讃美歌創作の生命的源泉となっている。どんなに確固たる客観的根拠があろうが、それが依然として、いつまでも単なる客観にとどまるならば、そこには何らの生命的な宗教運動も活動も期待することはできない。比類のない客観的事実が信仰によって主観的、個人的に把握され、それが人格と生涯とを改変していくことこそ、福音の体験である。それは聖霊による恵みの体験の信仰的事実である。
◆ところで、チャールズ・ウェスレーがパウロやルターと同じ恵みの確かな経験の中に入るまで、さらに4日を要したのである。5月21日、ペンテコステの日であった。午前中、「・・あなたは偽ることのできないお方です。私はあなたの最も重要な約束に信頼します。あなたの時と方法によって実現してください」と祈りながら眠りについた。そのとき、真鍮細工人ブレイの妹は聖霊により、チャールズに語るように導かれた。「ナザレのイエスの名によって、起き上がって信じなさい。そうすればあなたの病はいやされます」と言うと、逃げるようにしてそこを立ち去った。その後、すぐにブレイがやってきて、「幸いなことよ、そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ、主が咎をお認めにならない人。心に欺きのないその人は。」と聖書を読んだ。チャールズはこれを聞くと、信ずることに対する激しい反発と抵抗を感じながらも、単純な信仰をもって救いを握ることができたのである。『日記』にはその内的な戦いと救いの確信とが次のように記されている。
◆「しかし依然として、なおも神の霊が私の不信仰の暗闇を追い払うまで、私自身と悪霊に戦った。私は自分が確信させられたのがわかった。どのようにしてかということはわからなかったが、瞬間的に、とりなしに陥落した」。そこで聖書を開くと、以下の聖句があった。「『主よ、今私は何を望みましょう。私の望みはあなたにあります』。さらに、『主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげる賛美の歌を私の口に授けられた・・』であった。その後、私はイザヤ書40章1節のみことばを聞いた。『あなたがたの神は言われる。慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ。その服役の期は終わり、その咎はすでに赦され、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた』。今や、私は自らの神に対して平和を得ていることを思い出し、キリストを愛することを思って喜んだ。」
◆このようにして、チャールズ・ウェスレーは福音的回心を体験し、ここに新しい歌の霊感を見出したのである。この体験はチャールズの讃美歌作家としての生涯に決定的な重要性を持っていたと言わなければならない。この体験によって彼の詩の賜物は最高度に発揮されることになるのである。
◆二日後の『日記』には、「私はキリストの保護のもとに目覚め、自己放棄して魂も体も主にささげた。・・九時に私は自分の回心に関する一つの讃美歌を作り始めた」と記されている。その讃美歌とは、主がチャールズ・ウェスレーの魂になされたことの最良の注解であり、縮図である。おそらくこの讃美歌は、5月24日にジョンが救われた夜、チャールズとジョンと数人の友人たちが声を合わせて歌ったものと思われる。

1.  
Where shall my wondering soul begin ?
How shall I all to heaven aspire ?
A slave redeemed from death and sin,
A brand plucked from eternal fire,
How shall I equal triumphs raise,
Or sing my great Deliverer’s praise ?

いかに歌うべしや 驚きに満てるわが魂は
いかにわがすべては御国を慕うべしや
死と罪より贖いだされし奴隷
永遠の火より取り出されし燃えさし
いかにわれ 勝ち歌をうたい
わが大いなる救い主をたたうべしや

2.  
O how shall I the goodness tell?
Father, which Thou to me hast showed?
That I, a child of wrath and hell,
I should be called a child of God
Should know, should feel my sins forgiven,
Blest with this ante past of heaven!

おお父よ、ながわれに示したまいし
我その慈しみをいかに告ぐるべしや
怒りと地獄の子たりしわれさえも
神の子と呼びたもうとは
わが罪、赦されたるを覚え
御国の幸を今、味わうとは

3.  
And shall I slight my Father’s love?
Or basely fear His gifts to own?
On mindful of His favors prove?
Shall I, the hallowed cross to shun,
Refuse His righteousness to impart,
By handing it within my heart?

さるをわが父の愛をみなし
愚かにも賜物を受くるを恐れ
み恵みを心に留めずしてあるべきか
聖なる十字架を避け
神の義を心に秘して
これを分かち与うるを拒みうるか

4.  
Outcasts of men, to you I call,
Harlots, and publicans, and thieves!
He spreads his arms to embrace you all!
Sinners alone His grace receives,
No need of Him the righteous have;
He came the lost to seek and save

世人に見放されし者 われ汝らに呼ばわん
娼婦、居酒屋、そして盗人よ
主は御手を広げて 汝らを受け入れたまう
罪人 主の恵みを受くるのみ
正しき者 主を必要とはせじ
主は失われし者を探し救わんとて来たり給わん

 (1738.5.23ペンテコステ)

(脚注10)
◆チャールズがロンドンに来たのは、単純に「魂の安らぎ」を見出した一人の男(J・ブレイ)と接触するためであったと思われる。
(脚注11)
◆下線の部分は、実際の『日記』ではイタリック体になっている。
(脚注12)
◆Henry Cater 前掲書。34~35頁。