教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論③ 初代教会における礼拝とその特徴 <2>

2005-04-13 11:46:52 | 講義
2 初代教会の礼拝の特徴

(1)アクティヴ

◆初代教会の礼拝の様式からその内容に重点を移してみる。初代教会の礼拝の特徴は何か。イエスの弟子、いわゆる使徒、預言者、教師たちがすべての準備をして行なうものではなかった。会衆は受動的ではなく、すべてにおいて能動的(アクティブ)であった。

(2)エクスタシス ・・・―聖霊に酔う経験/自由、流動的、いのちに溢れた感動、即興的―

◆初代教会礼拝の著しい特徴としてエクスタシスをあげたい。エクスタシスとは、我を忘れ、我を脱している姿である。それは我を忘れて恍惚とした状態になることで、様々な形で人々に経験されている。神に酔う、聖霊に酔うという経験である。初代キリスト教会には初めからこのエクスタシスの経験があった。使徒の働き2章のいわゆる「ペンテコステ」の出来事である。人々がペンテコステによって御霊に満たされ、異言で語るようすを見た人々は「酒に酔っている」と言った。聖霊に満たされた礼拝、霊に燃やされた礼拝、これこそ初代教会の礼拝を特徴づけるものである。

(3) 霊の祈り(賛美)と知性の祈り(賛美)

◆コリント教会のある人々は、神秘宗教と同じくエクスタシスをもって最高最深の宗教体験となし、それを誇り、これのない信者を軽んじたようである。そのために礼拝の中に混乱が生じた。それは異言による霊の祈り、霊の賛美が強調されたからである。そのため使徒パウロは自分の徳の建て上げだけでなく、むしろ他者の徳を高めるために異言による祈りや賛美や感謝を抑制し、知性による祈りや賛美、そして感謝を勧め、行き過ぎた振り子をもどしている。そして教会の混乱を正し、秩序あるものにしようと教えている。しかしそれは決して生き生きとした霊に燃えた礼拝を阻むものではない。パウロは誤った熱狂主義を警戒しながらも、他方で「御霊を消してはならない」(Ⅰテサロニケ5章19節)「霊に燃え、主に仕えよ」(ローマ12章11節) と勧告している。

(4) 自由な聖霊の流れの優先

◆初代教会の礼拝には一定の形式はみられない。そこには自由があり、感動的で、流動的であった。祈りや賛美は単純な新鮮な、生き生きとした即席のものであった。これはすべて、イエスの復活と昇天に続いて与えられた聖霊によって可能となったものである。教会がユダヤ教の遺産にどんなに多くを負っているとしても、この聖霊経験の一事から、新約聖書の礼拝が独自のものとなったことは明らかである。

3. 初代教会における春から夏へ

(1) エクスタシスの鎮静

◆パウロの時代以降、聖霊によるエクスタシスは鎮静し、俗悪なものに流れていく傾向にある、第二、三世代の教会の現状に対して、秩序を保って信仰の闘いを戦い抜かせるための健全な教えが強調されるようになる。そのために「監督」「長老」「執事」といった職が前面に出てくるようになる。(牧会書簡参照)。それによって、礼拝は次第に形式化し、固定化していった。これは決して衰退でも堕落でもなく、次の段階の必然的なプロセスなのである。第二世紀ともなると、教会の礼拝は固定化、式文化の一途をたどる。そしてその傾向は時代が進むにつれて一層はなはだしくなる。第二世紀の前半から第四世紀の後半にかけては<礼拝様式形成の時代>となっていく。

(2) エクスタシスの継承

◆初代教会の礼拝がかなり自由であったことはすでに述べた。礼拝の準備をするが、彼らは神が集会で自由に働いてくださるということをいつも期待していたのである。しかし、3世紀初めになると、教会指導者のある人たちはこの自由に不安を感じ、疑問を抱くようになった。それは教会の中に異端や無秩序が生まれるのを恐れたからである。自由な集団を<モンタノス主義>(脚注)と名づけた。モンタノス派の礼拝では、失われてしまった初代教会の礼拝の特徴をとどめていたといわれる。

(脚注)
◆「モンタノス主義はキリスト教初期の預言者的情熱の再現と、約束の聖霊の来臨思想と、終末信仰が結合した運動であった。これは異端として退けられたが、歴史の中に再三再四現れる聖霊運動の走りであり,古代教会に制度化を促す一つの運動となった。」 (『新キリスト教事典』いのちのことば社)。


最新の画像もっと見る