教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑯ テゼ共同体における日ごとの祈りの歌 <2>

2005-06-14 20:47:47 | 講義
2. テゼ共同体の日ごとの<祈りの歌>の特徴

①何度も繰り返し歌う歌詞で構成されている。
◆一日3回、すべての人が、テゼの丘に立つ「和解の教会」に集まり、共に祈りをささげる。祈りで用いられる「テゼの歌」は、多くの言語をもとに作曲され、何度も繰り返し歌う歌詞で構成されている。それは、信仰の核心を端的に表し、人の心に共鳴し、そしてさらにその人の全存在をゆっくりと貫いていく。夜の祈りでは、このような祈りの歌が深夜まで続く中、何人かのブラザーたちが聖堂に残り、個人的な悩みや質問を持つ人々に耳を傾ける。
②単純で覚えやすい
◆テゼの歌は年月とともに静かに広がり、老若を問わず多くの人々に親しまれるようになってきた。なぜ多くのキリスト者が、祈りの助けとしてテゼの歌を歌うのか。それは、ひとつにはテゼの歌が単純で覚えやすい。
③大変美しい
◆また、少人数の祈りの集いで歌われてもたいへん美しいからである。まさに、テゼの歌は歌による祈りなのである。テゼー共同体ではそれを「日毎の讃美」としてを共同体の生活そのものとして守っている。テゼー共同体の「日毎の讃美」は、詩編、聖書朗読、うた、そして祈りという四つの主要な部分からなっており、これは伝統的な「聖務日課」の構造にそっている。

3. テゼの歌の今日的意義とは何か

(1)「日毎の祈リと賛美」の見直し
◆祈りと賛美はいつでも、またどこでも可能である。しかしながら、毎日の一定の時刻に祈りと賛美を神にささげるということは決して容易なことではない。「日ごと」の伝統は初代の教会にはあった(使徒3章1節、2章15節、10章9節)。しかし、紀元322年、コンスタンチヌス大帝のキリスト教公認以後、教会は祈りと賛美の生活に大きな影響を及ほすこととなった。つまり、日ごとの祈りと賛美は、聖務日課として修道院の手にゆだねられたのである。それはキリスト教公認以後、人々の多くが日曜日の務めさえ果たせばそれでよいと考えるようになっため、当時興隆してきた修道院は、彼らに対するプロテストとして特別な生活原則と形態をつくり、日毎の祈りと賛美を充実・発展させたのである。
◆聖務日課の成立においては、ベネディクト派修道院が大きな役割を果たした。日毎の祈りと賛美は、修道院や兄弟団(ヘルンフート)など、キリスト教共同体の存在と深くかかわっている。フランスのテゼ共同体、西ドイツのミヒャエル兄弟団、同ダルムシュタットのマリヤ福音姉妹会等、そのいずれも、日ごとの祈りと賛美が、それぞれの共同体生活において占めている位置はきわめて大きい。教会の存在はいつの時代においてもキリストにある共同体的存在である。その意味において、教会は、あらためて、日毎の祈りと賛美の今日的見直しの必要を迫られていると言えよう。

(2) 祈りを支える単純で素朴な、新しい歌を生み出すたゆみない模索
◆テゼで作られ、歌われる曲のほとんどが4小節、ないしは8小節からなっている。中には2小節というのもある。テゼの歌は、作曲家と作詞家の長期にわたる模索の結果生み出され、それは実際にテゼにおける若者たちとの共同の祈りで試用され、その実りとして最終版が出版される。このようにしてそれぞれの歌は統一性とスタイルを保持することができる。このような共同の模索は、テゼ共同体の若者たちへのミニストリーやテゼや各地で開かれる数千人の集いでどのような祈りが相応しいのかという絶えることのない模索と固く結びついている。生きた祈りの共同体において、それを支える模索が、今日の教会に求められているのではないか。

(3) 沈黙という祈りの力を経験すること
◆テゼ共同体の「日ごとの賛美」の中でより重要な意味をもっている部分は「沈黙の時」である。この沈黙、ないしはメディタシオン(黙想)は、祈りの中の間ではなくて、ひとつの祈りなのである。注3テゼー共同体の日毎の讃美が行なわれる「和解の教会」は、この黙想を助ける雰囲気なり、照明などの点でよく工夫されている。沈黙の祈りについて、私たちはより訓練されなければならない。
◆こうした雰囲気をかもし出す環境は、一朝一夕にして作られることはない。事実、テゼでの日ごとの賛美と祈りは、すでに60年以上も続けられているのである。こうした継続的な営みの中で培われるくる神の臨在は、人の演出によってもたらすことなど不可能なのである。

<附記>
●2002年夏、関西学院大学(兵庫県)から5名の学生と1名のチャプレンのグループがテゼを訪問した。以下は、同行したチャプレンによる旅の感想(打樋啓史:社会学部宗教主事。現在、研究期間でロンドン在住)
「・・・学生たちはテゼでの祈りがとても好きでした。様々な言語が用いられるので内容のすべてを理解することはできなかったようですが、いつも祈りの時を心待ちにしていました。とりわけ彼らは、歌を何度も繰り返して歌うこと、沈黙の時、そして教会の中に置かれた様々なシンボル―美しい仕方でわたしたち自身を超えるものを指差すシンボル―を眺めるのが好きでした。キリスト者である一人の学生(男性)は、テゼでこう語りました。『日本での生活の中で、信仰が時々とても複雑なものに思えることがあります。そしてしばしば、『善いキリスト者』になるためにあまりにも多くの条件があるように思ってしまうのです。でも、ここでの祈りの時間に、沈黙の中で教会の正面に吊るされた布の色を眺めていたとき、『そうではない』と感じました。今は、神が共におられ、ただ単純にわたしたちを愛しておられると感じます。そして、わたしに必要なただひとつのことは、そのことに信頼することです―ただ単純素朴に。何か偉大なことや特別なことを成し遂げることではないと思います。こう気づいたことは、キリスト者として日本で生きていく上で大きな励ましになりました。』」(脚注4)


(脚注3)
◆ジェームズ・フーストン著『神との友情』(いのちのことば社、1999年)の中で<観想の祈り>ついて次のように述べている。 「ここで『観想(黙想)の祈り』として知られている祈りのスタイルについて考察する必要がある。観想の祈りとは、魂が神の御前に引き出され、臨在の内に黙してひたすら聴き、神の愛に引き寄せられることを意味する。それは、様々な面を持つ私たちの祈りの経験の一部である。・・祈りには、ある種のとらえどころのない面がある。他の問題に取り組むように、「ハウ・ツー」式で祈りに取り組もうとしてもうまくいかない。それは、祈りが方法論よりも、むしろ祈りにおける交わりー関係性―と深く関わっているからである。祈りでは、むしろ、神に対する自己放棄の内に見られる率直さ、信頼、注意力、愛を問題とする。祈りに成長するには、このような次元においてである。観想(黙想)の祈りを学ぶために修道院に入る必要はない。ただ神ご自身のいのちと愛に自分の全人格をあずけるとき、祈りのあらゆる深みを知ることが許される。祈りへの鍵はすべて内なる生活をどのように神に向けるかにかかっている。・・観想の道を行くとは、キリストのみが私たちの霊的渇きを癒す方であり、それに比べれば、他のものは無に等しいと認識することである。イエスに「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばをもっておられます」(ヨハネ6章38節)と言ったとき、ペテロはこのことを認識していた。生の究極的な充足は、私たちが自ら死に、キリストにあって新しいいのちに入れられることによってのみもたらされる。そのとき体験する愛の光は、さらに深く神を渇き求める生活へと私たちを導く。さまざまなキリスト者が、このことに記している。・・観想に生きるキリスト者にとって、人生は決して退屈なものとはならない。なぜなら、きよい畏れと驚異の念、恵みを数える思いが、神の御前での礼拝を喜びと感謝で満たすからである。」(第9章「聖三位一体の内にある友情」209~213頁参照)

(脚注4)
◆テゼ共同体のHPを参照。

 (4) テゼの歌

以下のアドレスには、テゼでうたわれている祈りの歌の楽譜が掲載されている。

http://www.taize.fr/ja_rubrique427.html



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