教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑧ マルチン・ルターとコラール <2>

2005-04-25 17:30:19 | 講義
3.  ルターのコラールを作る上でのコンセプト

(1) わかりやすさ
◆ルターが新しい歌である<コラール>を作るにあたって第一に配慮したことは、聖書の翻訳のときと同じく、歌詞が誰にもわかることと、メロディーが親しみやすいことであった。また、従来のカトリック礼拝に歌われていた聖歌の歌詞のすべてはラテン語のものであったため、その中から良いものをドイツ語に翻訳することもまた緊急の仕事であった。
(2) 改作の能力
◆ルターは新作を多く作ることよりも、原則として、できるだけ古くから歌い継がれている歌詞、およびメロディーを土台とし、それらを一般会衆になじみやすいように改作することに努めた。

①古い讃美歌のメロディーをそのまま用いた。
②古い讃美歌の歌詞を部分的に手を入れた。
③歌詞によく合うように、グレゴリオ聖歌のメロディーを工夫してつなぎ合わせた。  
④古くからドイツに歌い継がれてきた多くの民謡や、当時歌われていた世俗歌の中から少しでも良いメロディーであればただちに採用して、それに宗教詩をつけ代えた。これは、一つには民衆に早くなじませて覚えさせるための一方法であった。  
⑤すぐれたメロディーは、三つ、ないしは四つの詩をつけることもあった。つまり、良いものを用いて最善のものを作ることに苦心を重ねた。

◆このように、ルターはカトリックのすべてを否定して新しいものを作ったのではなく、良いものは良いとするバリアフリーの態度を持っていたと言える。この意味で、礼拝に対するルターの基本的姿勢はこのように保守的であったといえる。

4. コラール集の出版

◆ルターがコラールの製作に力を注いだのは、主に1523~24年の両年にかけてである。この一年間以内に大小4種類の重要なドイツ・コラール集が出版された。
◆1524年に、ヨハン・ワルターとルター共編によるヴィッテンベルグの<小讃美歌集>が出版された。これには32の讃美歌に35の四、五声部に編曲した物が収録されている。この四、五声部のコラールは聖歌隊用のもので、コラールのメロディーはソプラノのパートではなく、テノールに置かれた。この2年後に、ヴィッテンベルクで出版されたワルターの<コラール聖歌集>の単行本が、本当の意味での<ドイツ会衆讃美歌集>の最初のものとなった。  
◆この歌集では重要な二つの先例を作った。
①歌詞に単声メロディーのついたものと、多声の教会聖歌隊用のものを作ったこと。
②異なった歌詞(テキスト)に、同じメロディーを当てる習慣を作ったこと。

5. ドイツ・ミサについて

◆1525年の10月29日、ヴィッテンベルグの教区内の教会で、新しい内容による礼拝式をはじめて用いるという記念すべき日を迎えた。これまで一般の信徒にはほとんど理解されなかったこれまでのラテン語のミサとは違って、自国語によるものであり、深い感動の渦が巻き起こったという。
◆この礼拝での音楽はルターの指示を受けたヨハン・ワルターが書いたものであった。この礼拝式は当時の人々に歓迎され、その年のクリスマスから正式に教会で用いられるようになった。そして翌年の1月に、ルターはこのための序文を書き、印刷し、出版したものが<ドイツ・ミサ>と言われるものである。したがって、この<ドイツ・ミサ>はプロテスタント教会最初の自国語による礼拝式として重要なものであり、グレゴリオ聖歌と共にドイツ・コラールが礼拝の中で重要な位置を占めるようになった最初のものとして特別の意味をもっている。(脚注5)
◆長い間、伝統的に行なわれてきたものを改革する前には、たとえそれが良いものであったとしても、必ず多くの反対に出会うのが常である。ルターが礼拝の順序の内容を変えようとしたときにもそうであった。その内容は、従来よりもっと自由なものに変えるということであった。礼拝を行なう時に用いる言葉は、ラテン語でなければならないとか、形式云々とか、ミサにかける時間は・・等、ルターは「そのときに応じて自由であってよい」としたのである。
◆ちなみに、ルターの<ドイツ・ミサ>の順序は以下のようであった。1526年。(脚注6)

① コラール (詩篇34篇2~23節をグレゴリオ聖歌の第1旋法で歌う)
② キリエ (9回ではなく、3回に)
③ 集祷 (牧師は聖壇に向く)
④ 使徒書の朗読 (グレゴリオ聖歌第8旋法で歌う)
⑤ コラール (聖歌隊の合唱) (脚注7)
⑥ 福音書の朗読 (グレゴリオ聖歌第5旋法で歌う)
⑦ 信条のコラール
⑧ 説 教
⑨ 主の祈り
⑩ 聖餐の勧め
⑪ 聖列・配餐・・この間、コラール (脚注8)
⑫ 特別祈祷
⑬ 祝 祷

6. ルター自身のコラール

◆日本基督教団出版社の『讃美歌』の中では以下のものが収められている。
①「神はわがやぐら」(作詞・作曲)・・・・〔讃美歌267〕
②「深き悲しみの淵より」(作詞・作曲)・・〔讃美歌258〕
◆いずれも詩篇46篇、130篇からのもので、ルターの真摯さ、強さ、特徴が鮮明に出ている。

 「神はわがやぐら」
1.
神はわがやぐら  わが強き盾
苦しめるときの 近き助けぞ
己が力 己が知恵を 頼みとせる
陰府(よみ)の長も など恐るべき
2.
いかに強くとも  いかでか頼まん
やがて朽つべき  人の力を
われと共に戦いたもうイエス君こそ
万軍の主なる  あまつ大神
3.
悪魔世に満ちて  よし脅すとも
神のまことこそ  わがうちにあれ
陰府の長よ ほえ猛りて 迫り来とも
主のさばきは   汝がうえにあり
4.
暗き力の     よし防ぐとも
主のみ言葉こそ  進みにすすめ
わが命も わが宝も 取らばとりね
神の国は     なお我にあり

◆この讃美歌は宗教改革の軍歌として知られる。ルターはこれを詩篇46篇にヒントを得て作った。この歌全体を詩篇と比べるとき、決して詩篇46篇の忠実な訳ではなく、その一部の発想を借りた自由なルターの詩篇というべきものである。そしてここで特に注意すべきことは、日本の翻訳(現行讃美歌)では讃美の主体がすべて「わが」となっているが、原詩では「われら」と複数になっていることである。ということは、この時代のコラールは教会的、公同的性格をもっていたということができる。宗教改革期のコラールが万人祭司の実現をめざす一端として、まず公同礼拝への会衆参加を第一の目的として、そのために必要なものが積極的に生み出されたということであり、その意義は大きいといえる。(脚注9)

(脚注5)
◆コラール(会衆讃美歌)が礼拝に入ることによって、それは牧師の説教、および祈祷や聖歌隊の合唱と同等の地位を持つようになった。それ以来、福音教会には会衆の歌なしの礼拝というものは全くなくなったのである。改革当時は、讃美歌の本の中の歌一曲を歌うごとに献金が行なわれた。それはほほえましい感じである。それだけ礼拝が親しみやすいものとなり、礼拝の中で会衆が讃美歌を共に歌えるようになったことへの喜びの気持ちの現われであった。
(脚注6)
◆ルターが福音教会(プロテスタント教会)のために新しい礼拝順序を定めたときには、伝統を尊重して、キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、アニュスデイは従来のままラテン語で歌わせている。
(脚注7)
◆ここにしばしばカンタータを置いた。これは説教内容を音で表現する音楽で聴くことであり、これを聴いてから説教を聴くという趣向であった。
(脚注8)
◆昇階唱の代わりに「我ら今聖霊を求む」というコラールを用いた。また聖餐式のところでは、フスの歌やドイツ語に訳された「聖なるかな」「神の小羊」(アニュス・ディ)ガ用いられた。(『キリスト教礼拝辞典』166頁)
(脚注9)
◆宗教改革期のドイツ讃美歌には「われ」という第一人称単数代名詞はあまり使われておらず、「われら」という複数形が頻繁に用いられている。ルターから始まった宗教改革は教会だけの出来事にとどまらず、ルター派とカトリック派の諸侯の争いに発展し、やがて30年戦争(1618~1648)で頂点に達する。これを転機にして戦闘的なルター派の教会も次第に制度化し、形式化して沈滞し、ドイツの人々は教会に対する信頼を失い始める、その反動として讃美歌も教会的、公同的なものから、個人的な信仰を重視する敬虔主義の時代へと続いていく。この敬虔主義の一躍を担うことになったモラヴィア派の主観的で情熱的な賛美歌は、後に英国のウェスレ-兄弟に影響を与え、メソジスト運動を呼び起こす原動力となる。ドイツ讃美歌の歴史は、敬虔主義をもって一応終わりを告げることになる。

〔講義本論⑧の参考文献〕
●長輿恵美子著『コラールのあゆんだ道―ルターからバッハへの二百年』(東京音楽社、1987)


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