(写真はムーディ)
4. アメリカの福音唱歌 (Gospel Song) という<新しい歌>
◆17世紀末から18世紀にかけ、ヨーロッパ各国の移民が続々と新大陸のアメリカに流入した。それとともに、いろいろの民族的・宗教的背景をもった賛美歌が輸入された。これらはフォーク・ヒムノディー(民謡調賛美歌)といわれ、近年は黒人霊歌に対して白人霊歌と呼ばれるようになったこの白人霊歌は素朴な五音または六音音階の曲が多く、東洋的な感じもして、明治期から日本で愛称されてきた。(脚注3) それらは大衆伝道集会でも広く用いられ、リバイバル集会でさかんに歌われた。キャンプ・ミーティング(天幕集会)・ソングやゴスペル・ソングの先駆けとなった。
◆そして、アメリカ南部のフォーク・ヒムノディー(白人霊歌)とキャンプ・ミーティング・ソングの延長線上の大衆的賛美歌が、福音唱歌(Gospel Song)、福音聖歌(Gospel Hymn) である。
(1) 特 徴
◆これは、伝統的賛美歌とは異なった新しいスタイルの賛美歌である。キャンプ・ミー-ティング・ソングと大差はないが、いっそうポピュラー化し、さらにセンチメンタルな傾向が強い。歌詞の面から言えば、率直な表現で個人の救いと、その喜びのあかしを歌うとともに、救いの喜びを積極的に世の人々に分かとうとする伝道精神を歌ったものが多い。その意味で、福音唱歌は作者の信仰告白としての要素が強いといえる。また、創作時の事情や作者の周囲の人々が記録し、発表したものが多いため、作られたときの状況が、一般の賛美歌よりも知られているものか多い。
◆福音唱歌の多くは「おりかえし」(ChorusまたはRefrain)を持つことが特色で、反復による強調とともに、ソング・リーダーが各節の前半を歌い、会衆が後半のおりかえしを歌うという使い方において、便利な構成であった。曲の面からは、旋律的で、大衆受けのする甘美な、あるいはやや感傷的なメロディーと、軽快なリズムを、単純なコードで支える曲が多い。初期の段階をすぎると次第に半音階的な動きも加わってくる。(脚注4)
(2) 福音唱歌の第一人者、サンキー
その作品から・・「九十九匹の羊は」(聖歌429)
作詞クレファン 作曲 アイラ D.サンキー (1840-1908)
◆エリザベス C.クレファン(1830-1869)は、彼女が死ぬちょっと前、特に子供達のために『九十九ひきの羊は』を書いた。これは『子供の時間』という雑誌に掲載された。それから5年後、アメリカ人伝道者のムーディーとサンキーが伝道旅行で英国を訪問した。ある日、サンキーは列車の停車場でアメリカのニュースを知りたいと新聞を買った。そして何気なくページをめくっているときに、このエリザベス C.クレファンの詩を発見したのである。彼はムーディーに、その内容に興味を持つように促したが、彼はその日の説教の準備に忙しく、サンキーはその詩のページを破り取って、ポケットの中にしまってしまった。
◆その日の午後の集会、ムーディーの説教の主題は、ルカ15:3-7をテキストにした『良い羊飼い』であった。その最後に、ムーディーはサンキーに、その説教にあった歌を歌うように頼みました。サンキーはその時、何も適当な歌を思い付かなかった。その時、突然、自分のポケットにしまい込んだあの詩のことを思い出したのである。おもむろにその新聞の切れ端を取り出し、足踏みオルガンのはしにクリップでとめると、大きく息をして主の助けを求め、彼は Aフラットのコードでこの詩を歌いだした。歌い進むごとに、メロディーは与えられていった。今もこの曲はあの時のままである。サンキーは述懐している。「あの時は本当に精神を集中させた時の一つだ」と。彼はこの歌がスコットランドの会衆に、直ちに伝わったと感じたことが分かった。「私の歌が終わりに近づいた時、ムーディー先生は泣いていました。それは私も同じです」とサンキーは報告している。そしてムーディー先生が立ち上がり、救いのために招きをすると、多くの『失われていた羊たち』がキリストの招きに応えたのである。
◆彼らの英国での伝道旅行の間に、ムーディーとサンキーはスコットランドのメルローズにも行った。エリザベス C.クレファンの二人の妹がその会衆の中にいた。人はおそらく想像できるであろう。すでに召されてしまっていた姉の詩がサンキーの曲とともに歌われ、人々の福音のさらに深い理解のために、この歌が霊的なインパクトになっていることを知った時の、この二人の驚きと喜びを・・・。(脚注5)
(3) フランセス・J・ヴァン・アルスタイン夫人(通称ファニー・クロズビー 1820~1915)
◆サンキーとムーディーとともに忘れてはならないのが、ファニー・クロズビーである。6歳のとき眼病の誤った治療のために失明。38歳のとき、盲学校の音楽教師と結婚、95歳で天に召されるまで、6千に達する賛美歌を書いた。彼女が福音唱歌を書き始めたのは40歳すぎで、また、彼女の場合には主として出版社の要請に応じて作られ、ある時期には毎週3篇ずつ作詞したと言われる。
◆彼女の歌を愛唱歌としている人は少なくない。代表作として「ああうれし、わが身も」(讃529)である。この賛美歌はサンキーの福音唱歌集に収録され、英米で急速に普及した。
1 ああうれし、わが身も 2 残りなくみむねに
主のものとなりけり。 まかせたるこころに、
うき世だにさながら、 えもいえずたえなる
あまつ世のここちす。 まぼろしを見るかな。
(おりかえし)
うたわでやあるべき、 3 むねのなみおさまり、
すくわれし身のさち、 こころいとしずけし。
たたえでやあるべき、 われもなく、世もなく、
みすくいのかしこさ。 ただ主のみいませり。
(脚注3)
◆例えば、①讃美歌478 (D F# E D B E E D A B A B D B A・・・) ②讃美歌402 (D G E G A G E D ・・)
(脚注4)
◆原 恵著『賛美歌―その歴史と背景―』(日本基督教団出版局 1982年) 235~237頁参照。
(脚注5)
◆Kenneth W. Osbeck 101 Hymn Stories, Kregel Publications, Grand Rapids, Michigan 1982 pp.251-252 訳・ 石原
4. アメリカの福音唱歌 (Gospel Song) という<新しい歌>
◆17世紀末から18世紀にかけ、ヨーロッパ各国の移民が続々と新大陸のアメリカに流入した。それとともに、いろいろの民族的・宗教的背景をもった賛美歌が輸入された。これらはフォーク・ヒムノディー(民謡調賛美歌)といわれ、近年は黒人霊歌に対して白人霊歌と呼ばれるようになったこの白人霊歌は素朴な五音または六音音階の曲が多く、東洋的な感じもして、明治期から日本で愛称されてきた。(脚注3) それらは大衆伝道集会でも広く用いられ、リバイバル集会でさかんに歌われた。キャンプ・ミーティング(天幕集会)・ソングやゴスペル・ソングの先駆けとなった。
◆そして、アメリカ南部のフォーク・ヒムノディー(白人霊歌)とキャンプ・ミーティング・ソングの延長線上の大衆的賛美歌が、福音唱歌(Gospel Song)、福音聖歌(Gospel Hymn) である。
(1) 特 徴
◆これは、伝統的賛美歌とは異なった新しいスタイルの賛美歌である。キャンプ・ミー-ティング・ソングと大差はないが、いっそうポピュラー化し、さらにセンチメンタルな傾向が強い。歌詞の面から言えば、率直な表現で個人の救いと、その喜びのあかしを歌うとともに、救いの喜びを積極的に世の人々に分かとうとする伝道精神を歌ったものが多い。その意味で、福音唱歌は作者の信仰告白としての要素が強いといえる。また、創作時の事情や作者の周囲の人々が記録し、発表したものが多いため、作られたときの状況が、一般の賛美歌よりも知られているものか多い。
◆福音唱歌の多くは「おりかえし」(ChorusまたはRefrain)を持つことが特色で、反復による強調とともに、ソング・リーダーが各節の前半を歌い、会衆が後半のおりかえしを歌うという使い方において、便利な構成であった。曲の面からは、旋律的で、大衆受けのする甘美な、あるいはやや感傷的なメロディーと、軽快なリズムを、単純なコードで支える曲が多い。初期の段階をすぎると次第に半音階的な動きも加わってくる。(脚注4)
(2) 福音唱歌の第一人者、サンキー
その作品から・・「九十九匹の羊は」(聖歌429)
作詞クレファン 作曲 アイラ D.サンキー (1840-1908)
◆エリザベス C.クレファン(1830-1869)は、彼女が死ぬちょっと前、特に子供達のために『九十九ひきの羊は』を書いた。これは『子供の時間』という雑誌に掲載された。それから5年後、アメリカ人伝道者のムーディーとサンキーが伝道旅行で英国を訪問した。ある日、サンキーは列車の停車場でアメリカのニュースを知りたいと新聞を買った。そして何気なくページをめくっているときに、このエリザベス C.クレファンの詩を発見したのである。彼はムーディーに、その内容に興味を持つように促したが、彼はその日の説教の準備に忙しく、サンキーはその詩のページを破り取って、ポケットの中にしまってしまった。
◆その日の午後の集会、ムーディーの説教の主題は、ルカ15:3-7をテキストにした『良い羊飼い』であった。その最後に、ムーディーはサンキーに、その説教にあった歌を歌うように頼みました。サンキーはその時、何も適当な歌を思い付かなかった。その時、突然、自分のポケットにしまい込んだあの詩のことを思い出したのである。おもむろにその新聞の切れ端を取り出し、足踏みオルガンのはしにクリップでとめると、大きく息をして主の助けを求め、彼は Aフラットのコードでこの詩を歌いだした。歌い進むごとに、メロディーは与えられていった。今もこの曲はあの時のままである。サンキーは述懐している。「あの時は本当に精神を集中させた時の一つだ」と。彼はこの歌がスコットランドの会衆に、直ちに伝わったと感じたことが分かった。「私の歌が終わりに近づいた時、ムーディー先生は泣いていました。それは私も同じです」とサンキーは報告している。そしてムーディー先生が立ち上がり、救いのために招きをすると、多くの『失われていた羊たち』がキリストの招きに応えたのである。
◆彼らの英国での伝道旅行の間に、ムーディーとサンキーはスコットランドのメルローズにも行った。エリザベス C.クレファンの二人の妹がその会衆の中にいた。人はおそらく想像できるであろう。すでに召されてしまっていた姉の詩がサンキーの曲とともに歌われ、人々の福音のさらに深い理解のために、この歌が霊的なインパクトになっていることを知った時の、この二人の驚きと喜びを・・・。(脚注5)
(3) フランセス・J・ヴァン・アルスタイン夫人(通称ファニー・クロズビー 1820~1915)
◆サンキーとムーディーとともに忘れてはならないのが、ファニー・クロズビーである。6歳のとき眼病の誤った治療のために失明。38歳のとき、盲学校の音楽教師と結婚、95歳で天に召されるまで、6千に達する賛美歌を書いた。彼女が福音唱歌を書き始めたのは40歳すぎで、また、彼女の場合には主として出版社の要請に応じて作られ、ある時期には毎週3篇ずつ作詞したと言われる。
◆彼女の歌を愛唱歌としている人は少なくない。代表作として「ああうれし、わが身も」(讃529)である。この賛美歌はサンキーの福音唱歌集に収録され、英米で急速に普及した。
1 ああうれし、わが身も 2 残りなくみむねに
主のものとなりけり。 まかせたるこころに、
うき世だにさながら、 えもいえずたえなる
あまつ世のここちす。 まぼろしを見るかな。
(おりかえし)
うたわでやあるべき、 3 むねのなみおさまり、
すくわれし身のさち、 こころいとしずけし。
たたえでやあるべき、 われもなく、世もなく、
みすくいのかしこさ。 ただ主のみいませり。
(脚注3)
◆例えば、①讃美歌478 (D F# E D B E E D A B A B D B A・・・) ②讃美歌402 (D G E G A G E D ・・)
(脚注4)
◆原 恵著『賛美歌―その歴史と背景―』(日本基督教団出版局 1982年) 235~237頁参照。
(脚注5)
◆Kenneth W. Osbeck 101 Hymn Stories, Kregel Publications, Grand Rapids, Michigan 1982 pp.251-252 訳・ 石原