教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑥ 中世のローマ式典礼の概要とその特徴 <2>

2005-04-20 12:58:50 | 講義
3. 聖務日課

◆中世カトリック教会には、ユダヤ教の祈りの習慣を受け継いで(詩編119・164参照)、詩篇を用いて一定の時刻に祈りながら生活全体を神に奉献していくために、5世紀から6世紀にかけて形成され発展してきた「聖務日課」という祈りの形式(時課とも言う)がある。この聖務日課は、教会が日々継続していく祈りとして、ミサに次いで大切にしてきたもので、聖職者や修道者には、毎日、この聖務日課を行う務めが課せられていた。(脚注1)
◆聖務日課は通常、聖書朗読(一年間、朝課を通じて旧約を1回、新約を2回通読できるようにされている)、および詩篇朗誦(一週間の朝課と晩課で全体を読み通すこと、また、詩篇119篇が毎日の1、3、6、9時課の四つに分けて朗誦される)や賛歌(これは平日ではなく、祝日に歌われる)の歌唱、祈祷とで構成され、式順は一様ではなかった。これらの中で賛歌(Laudes)と晩歌(Verpers)は、古い時代の会堂内での礼拝に由来し、そこで行なわれた朝と晩の礼拝とほぼ一致していた。
◆すべての聖務日課に一般の会衆が参加することは、最初、認められていた。しかし592年のベネディクトゥス(480~543)による南イタリヤのモンテ・カッシーノにベネディクト修道院が設立されてからは、聖務日課が行なわれる場所は修道院ということになり、朝課と晩課だけが広く教会で行なわれる礼拝として残された。このような理由から、後の時代の作曲者たちは、これら二つの聖務日課に集中して多声音楽書法による作品を作るようになった。
◆聖ベネディクトゥスは聖務日課を、一年を通して毎日8回ずつ行なう礼拝の制度を定めた。それは、一日を「オクターヴの法則」に従って7つの間隔で8つに分けたものである。ここには中世の音楽理論の特色が見られるのである。(脚注2) そして日々の礼拝はほぼ以下のような輪郭を持つものに標準化されていった。
(1) 朝課・・・・・夜中とその終わり
(2) 賛歌・・・・・夜明け
(3) 第一時課・・・午前六時頃
(4) 第三時課・・・午前九時頃                     
(5) 第六時課・・・正午
(6) 第九時課・・・午後三時頃
(7) 晩課・・・・・午後六時頃
(8) 終課・・・・・日没後

4. 記譜法について

◆キリスト教会の初期の年代には、記譜法の問題について頭を悩ますようなことはほとんどなかった。というのは、保存する必要に迫られるほど、典礼や音楽が複雑なものではなかったこと、また、口伝えによる伝統の中で、容易に伝えられるものであったからである。
◆しかし、教会が諸地域にできて、高度に組織立てられた典礼が急速に発展するにつれて、記譜法の問題は次第に急を要するものとなっていった。特に、ローマ式典礼と一体になって、西洋のすべての地域にその手段を広めようとした段階では、ますます重要な要求となっていった。一地域から他の地域へ聖歌を伝えようとする場合、音を書き記すいくつかの形式が絶対的に必要となった。

〔講義本論⑥の参考文献〕
●A・スィー著(村井範子・藤江効子訳)『中世社会の音楽』(東海大学出版社、1973)
●キャサリン・ル・メ著『癒しとしてのグレゴリオ聖歌』(柏書房、1995)
●岸本羊一・北村宗次編『キリスト教礼拝辞典』(日本基督教団出版社、1977)

〔附記〕修道院運動

◆三世紀の終わりごろから、修道院運動がリバイバル運動の様相を呈して発展していく。修道士たちは神への全き献身、祈りと学びと瞑想の生活を強調し、社会的霊的退廃の暗黒の時代(500~1300年)とも言われているこのころに、霊的に光り輝いた存在となった。制度的教会で失われてしまった聖霊の超自然的賜物も、修道院運動の中には見られ、多くの修道士が祈りの力を得ようとし、いやしや悪霊の抑圧からの解放や他のしるしや奇跡を生ずる霊的力を受けようとしたという。レオン・ジョゼフ・スエネンズは、「修道院運動は事実、その始まりにおいて一つのカリスマ運動であった」とも言い切っている。
◆修道院運動では、
①アントニー(251~356、修道院運動の創始者とも言われている) 
②パコマウス(292~346)
③アタナシウス(295~373)
④ヒラリオン(305~385)
⑤アンブロシウス(340~397、彼のメッセージはアウグスチヌスを真理に導く役割を果たし、アウグスチヌスに洗礼を授けてもいる)
⑥ジェロメ(347~420、聖書のラテン語訳で有名)
⑦アウグスチヌス(354~430、387年に回心し、後に北アフリカのヒッポの監督となり、教会教父の中でも最も偉大な人物としてしばしば言及される)
⑧ベネディクト(480~547、529年にモンテカシーノで修道院を設立し、後の中世の多くの修道院革命運動の原型ともなる)
などが活躍した。尾形 守著『リバイバルの源流を辿る』(18~19頁)

(脚注1)
◆修道院の聖務日課の中で詩篇は毎日歌われた。ベネディクト修道院の会則には次のように定められている。「毎週150篇ある詩篇をすべて歌い、日曜の前夜の礼拝ではまた新しく歌い始めること。自ら誓約した礼拝において、詩篇全曲と慣習的に定められた賛歌を一週間で歌えないような修道士は怠惰だと見なされる。歴代の教皇たちは、この仕事を一日でこなしていたようだ。私たちはそれに比べるとだいぶ生ぬるいが、せめて一週間でやり遂げようではないか」と。第二ニカイア公会議(587)は、詩篇を全部暗誦しなければ、司教に叙任されないことを規定した。またトレド第8公会議(653)では、「今後、詩篇の全部を暗誦しないものは高位の聖職に昇任することができない」という法令を公布した。このように詩篇を暗誦することは聖職に叙任される条件として要求されたのである。
(脚注2)
◆これについては、キャサリン・ル・メ著『癒しとしてのグレゴリオ聖歌』(柏書房、1995)の第二章「中世の世界観と音楽」の項を参照。


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