教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑮ ゴスペルを生み出したアフロ・アメリカンの人々の歴史と信仰 <3>

2005-06-12 19:27:18 | 講義
3.  黒人霊歌から黒人ゴスペルへ

 (1) 都会での貧困と疎外という社会的背景

◆奴隷制崩壊後、新たに作り出された抑圧制度である人種隔離制度の拘束を脱するために、多くの黒人達が自由の幻想を求めて北部へと移動を始めた。しかし彼らがそこに見いだしたものは、「飢えと孤独への自由」でしかなかった。そのような彼らのブルー(陰鬱)な気持ちを歌ったのが「ブルース」である。そこには、都市生活の孤独という南部の農村とは全く違った生活環境が反映している。この点を黒人音楽の研究家北村崇郎氏は『ニグロ・スピリチュアル』の中で、アイリーン・サザーンの言葉を引用することによって、以下のように指摘している。
◆「黒人たちが1920年代になってアメリカ中の都市へ移動しはじめたとき、彼らは喜びのスピリチュアルをもってやってきたが、田舎生まれの音楽は都会地には合わなくて、彼らの現実的な要求を満たさないと知った。結果として、教会で歌手たちはもっと彼らの感情を表現できる音楽を創造し、その音楽をゴスペルと呼んだ。しかし、この新しい歌は伝統的な白人的ゴスペルとはまったく異なったものであった。黒人のゴスペルは都会で歌われるブルースの欠けた部分、つまり、人間の聖なる部分を補うものであった。それはブルースと同じように、ピアノ、ギター、その他の楽器の伴奏で歌われる即興音楽の伝統を受け継ぐものである」。
◆トマス・ドーシーの名曲「尊き主よ、わが手を取りたまえ」(Precious Lord,my hand)は、その黒人ゴスペルを代表するものである。
◆この歌は彼がわが子の出産の期待を胸に秘めながら、リバイバル(信仰復興)集会の奉仕をしていた時に、一連の電報を受け取り急遽帰宅してみると、愛する妻ネリーが急逝し、その時助かった幼子も二日後には天に召されるという悲劇に出会った挫折体験から立ち上がった時に作られたものだという。
Precious Lord, take my hand
Lead me on, let me stand,
I am tired I am Weak I am worm.
Through the storm, through the night
Lead me on to the light,
Take my hand, precious Lord,
Lead me home.
尊き主よ、我が手を取りたまえ、
われを導き、われを立たしめたまえ、
われは衰え、力弱く、疲れ果てたり。
嵐の中、闇夜を突き抜けて、
われを光に導きたまえ尊き主よ、わが手を取りて、
みもとに導きたまえ。

◆北部大都市のビルの谷間で、1929年から始まる経済大恐慌によって、彼らの極貧状況はさらに深められていった。まさに「働くに職無く、食べるに食なし」の悲惨な生活であった。そんな言語に絶する逆境の中から生み出されたのが、黒人霊歌の宗教性と、ブルースやジャズの世俗性を結合し、それに強烈なビートを付け加えた黒人ゴスペルなのである。そしてこの黒人ゴスペルは、やがて1960年代の自由と平等を求める公民権運動を支える歌となるのである。

 (2) 公民権運動とフリーダム・ソング 

◆アメリカの憲法では黒人にも投票権があり、公共施設利用などには何の制限もなかった。しかし、それは文字の上だけのことで、人種差別意識の強い南部諸州では以前と何一つ変っていなかった。黒人たちは以前にも増して貧しく辛い生活を強いられた。彼らは社会のあちこちで差別を受けた。学校に自由に通えず、職業を選ぶ自由も、レストランで自由に食事をすることも許されず、バスの座席、水飲み場、選挙の投票所、刑務所でさえも、白人と黒人専用に分けられていた。しかし彼らはそれでも生きることをあきらめずに、神に祈り、歌を歌いながら、希望をもって生きた。そんな中から、人間の自由と平等とを求める闘い・公民権運動が生まれたのである。(脚注3)
◆マルチン・ルーサー・キング牧師は、公民権運動の偉大な指導者である。彼は、白人たちの憎悪と暴力に対し、キング牧師は愛と非暴力で対抗することを人々に呼びかけた。デモ行進中に逮捕され、留置場に入れられることがあっても、彼らはひるまずに闘い続けた。そして、ゴスペルの歌の数々がそんな彼らを支えたのである。ワイヤット・ウォーカーは、公民権運動を<歌う運動>(singing movement)であったと繰り返し述べている
◆公民権運動の中では、それは<フリーダム・ソング>(自由歌)としてゴスペル調で歌われた。そこでは、たとえば黒人霊歌の<イエス>を<自由>というふうに言い替えて歌っている。キング牧師は次のように述べている。
◆「大衆集会の一つの重要な部分は自由歌であった。ある意味で自由歌は運動の魂であった。…それは奴隷たちが歌った歌の替え歌-悲しみの歌、歓喜の歌であり、また戦闘歌であった。私は人々がそれらの歌のビートとリズムについて語るのを聞いたことがあるが、運動の中では、われわれはその言葉によっても励まされたのである。『今朝私は心が自由になって目が覚めた』.“Woke Up This Morning With My Mind stayed on Freedom.”(歌の“Jesus”を“Freedom”と言い替えた)という歌詞は音楽がなくてもよく分かる言葉である」、と。
◆承知のように、アメリカ公民権運動は非暴力運動であった。しかしそれは、剥き出しの暴力の前での<非暴力>運動であったことを考えると、黒人ゴスペルのような強烈な音楽なしにはとても推進できなかった運動といえる。まさに、彼らにとってゴスペルはサバルバル・ソングであった。

◆1963年 ワシントン広場に集まった20万人もの人々に向かって、キング牧師は叫んだ。
“ I have a dream! “ (私には夢がある)と。5年後、キング牧師は暗殺される。しかし、彼が見た
夢は、その後も人々の心を動かし続け、アメリカの歴史の中に大きな変革を生み出す力となった。
 ●私には夢がある。いつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷主の子孫たちとが共に兄弟愛のテーブルに着くことができるようになるだろう。私には夢がある。いつの日か私の幼い四人の子どもたちが、彼らの肌の色によって評価されるのではなく彼らの人格の深さによって評価される国に住めるようになるだろう。私にはそんな夢があるのだ!
 ●これが私たちの希望なのである。この信仰を持って私は南部に帰る。このような信仰があれば、私たちは絶望の山から希望の石を切り出すことが出来る。このような信仰があれば、私たちはこの国の騒々しい不協和音を、兄弟愛の美しいシンフォニーに変えることが出来る。このような信仰があれば、私たちは共に働くことができる。共に祈ることができる。共に闘うことができる。共に監獄に行くことができる。共に自由のために立ち上がることができる。いつは自由になると信じることができるのだ。
●私たちが自由の鐘を鳴らせば、その時にはすべての村という村で、すべての集落という集落で、すべての州という州、街という街で「神の子どもたち」となったすべての者らが、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人も、プロテスタントもカトリックも、すべての者らが手に手を取ってあの古い黒人霊歌を口ずさむようになるだろう。
「自由になった!ついに自由だ!全能の神に感謝すべきかな。私たちはついに自由になった!」

◆まさに黒人霊歌も、また黒人ゴスペルも、アフロ・アメリカンの人たちの、苦難の歴史の中に生まれた「祈りの歌」といえる。そしてその歌の数々は、現実の苦難の中にあっても生きる希望を捨てないで、生まれてきた喜びを感じて生きていこうとするエネルギーで満ち溢れている。
だからこそ、ゴスペルは、今も聞く人々の心に、その魂に迫る力を持っているのではない
だろうか。(脚注4)

(脚注3)
◆1861年南北戦争。北の州の勝利により1865年黒人奴隷解放。法律の上では「平等」。
その後約90年間、差別は「しきたり」として残る。1950年代公民権獲得運動が起こる。。
(脚注4)
◆東神戸教会牧師、神戸マス・クワイアリーダーの川上盾(じゅん)師は、ゴスペルの醍醐味についてこう述べている。
「ゴスペルを歌っていくと、必ず訪れる瞬間がある。歌うみんなの思いがひとつの声の固まりになる瞬間、これを”One voice”と呼んでいる。・・音楽的な完成度としてはそんなに高い点数がつけられないような演奏の中でも、その瞬間は訪れる。・・これは、いくら練習を積んでも、それだけでは訪れない。アフロ・アメリカンの人たちの歴史を知り、彼らを支えた信仰心に思いを馳せ、自分自身の体験の中で共感できる部分をそれぞれすり合わせていく作業を経て、初めてそれはやってくる。そこに訪れる「魂を揺さぶられる瞬間」-それがゴスペルの本道の醍醐味だ。」(『礼拝と音楽』No.108)





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