教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑰ 歌と踊りを伴うイスラエル・ジューイッシュ・ソング <2>

2005-06-21 15:17:34 | 講義
3. シオニズム運動(ユダヤ人国家建設運動)とその主題歌「ハクティバ」

◆シオニズムとは、ユダヤ人(ユダヤ教徒)を独自の民族とみなし、ユダヤ人の国家を作ることでユダヤ人の民族としての再生をはかろうとする思想である。紀元70年にローマ軍によって、ユダヤ人は全世界に流浪の民(ディアスポラ)となった。その後彼らは中世ヨーロッパでの十字軍による虐殺をはじめ、中世スペイン末期の異端審問、そして現代のホロコーストなど数え切れない迫害と差別の苦難に満ちた歴史を歩むことになる。その中で、<シオンの地>へ帰還し、ユダヤ民族の復興と存続をはかろうというシオニズム運動が起きる。
◆典型的なシオニズムを示す聖書個所は、詩篇137篇1~6節。そこには、バピロン捕囚を経験した者の歌が見出される。

1 バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。
2 その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。
3 それは、私たちを捕え移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を  求めて、「シオンの歌を一つ歌え。」と言ったからだ。
4 私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。
5 エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。
6 もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。

◆バビロンで捕囚の民となったユダヤ人がイスラエルに戻りたいと待ち焦がれているのは、シオニズムを言い表わしている。<シオン>という言葉がここで2回使われているが、「エルサレム」と同義語として使われている。シオンは思い出されるべきものであり(1節)、その歌も思い出されるべきものである。(3節)エルサレムは、忘れてはならないものであり(5節)、最上の喜びにもまさって好まれるものである。(6節)注3
◆19世紀の中頃、ユダヤ人解放を人間の意志と力で実現すべしと思想が芽生え、その実現のため<シオンの地>、パレスチナへの入植、国家建設を提唱する人々が現われた。 しかし、この考えは1870年代までは注目されず、ユダヤ人社会にほとんど影響を与えなかった。当時は、移住地の社会で他民族と同化することによって平等の権利を得て、周囲に受け入れられるという楽観論が支配的だったからである。しかし、楽観論とは反対に、ロシア各地で発生した1880年代の大ポグロム(ユダヤ人大虐殺)をはじめ、ユダヤ人解放の夢はおろか、平等の権利は与えられず、以前として言われなき中傷を受け、彼らは殺された。しだいに同化思想をあげてユダヤ人社会から離れ、ユダヤ教の戒律を守ることを拒否してしていた人々もシナゴーグ(ユダヤ教会)へ帰ってきた。このような伝統への回帰と精神上の復活だけでなく、父祖の地パレスチナに国家建設の運動が、やがて具体的に動き始めるのである。その実現に政治的に拍車をかけたのが、テオドール・ヘルツェル(1860-1904職業はジャーナリストで、近代シオニズムの父と呼ばれた。)である。彼は1897年8月、スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議を開き、これより政治シオニズムが運動を展開することとなった。                             
◆ヘルツェルはその日の日記に、「私は今日、ユダヤ国家の基礎を置いた。そう言えば世界は笑うだろう。しかし5年後、いや50年後、世界はその実現を見るであろう。」と、預言的な言葉を記したが、驚くべきことに50年と9ヶ月後の1948年5月14日にイスラエル国家は独立したのである。このときに歌われたのが「ハクティバ(希望)」(1878年作)であった。この時から「ハクティバ」がイスラエルの国家となった。この歌は、1897年の第一回シオニスト会議が開かれた時に歌われ、それ以来、シオニズム運動の主題歌となっていた。その希望とは、「自由の民となって、祖国シオンとエルサレムに住むこと」である。
           
われらの胸に ユダヤの魂が脈打つかぎり
われらの目が東の彼方 シオンに向かって未来を望み見るかぎり、
二千年われらが育み続けてきた希望は失われることはない
その希望とは われらが自由の民となって
祖国シオンとエルサレムの地に住むことである

(1) シオン(Zion)をたたえる歌
◆ユダヤ人の世界各地からのイスラエルの移住の流れは、19世紀末から盛んになっていたが、正式に国家が再建されると、今までの小川は、大河のようになってイスラエルに流れ始めた。イスラエルの各地にキブツが作られ、砂漠と沼地の開拓が進められ、砂漠が緑の畑になり、沼が埋められてそこに街がつくられた。そして街にはシナゴーグが建てられ、再びイスラエルに祈りの調べが聴かれるようになった。帰還者たちが持ち帰ってきた調べは、移り住んだ地方によって、またコミュニティによっていろいろと異なっていた。その中の一つであるハシディズムの歌は、今でも歌われ、特に結婚式や祭りの日には欠かせない音楽となっている。
◆キブツと呼ばれる集団農場から、多くのフォーク・ソングやフォーク・ダンスが生まれた。キブツに生まれた国民的歌手ナオミ・シェメルが作詞作曲した「イェルシャライム シェル ザハヴ」(黄金のエルサレム1967)は、ユダヤ民族の象徴ともいうべきエルサレムに思いを寄せた賛歌である。この歌は、エルサレムの市歌となり、第2国歌とも呼ばれるほどポピュラーな歌として、全世界のユダヤ人に愛唱されている。なぜなら、その歌には常に未来への明るい希望と確信をもって歌おうとしているからである。注4

 (2) 今日のシオニストの賛美―メシアニック・ジュイッシュの賛美の高まりー
◆長い歴史の中で差別され続け、ユダヤ人が自由を謳歌できるようになったのはほんの最近のことなのである。ゲフェン氏は昨年(2003年)にこう述べている。
「25年前、イスラエルにはイスラエル風のヘブライ語の賛美歌というものはありませんでした。初のメシアニックの賛美はアメリカで英語によって書かれました。25年前になって、初めて、イスラエルの指導者たちが集まって、へブライ語でイスラエル固有の賛美を作る必要があると、話し合ったのです。ところがそれを話し合ったら非常に激しい議論が起こりました。ほとんどのイスラエルの牧師たちは、ユダヤの音楽は短調で暗いからと反対したのです。イスラエル固有のヘブライ語の賛美歌が普及するまでには、相当に長い年月がかかりました。今では、ヘブライ語の賛美歌が何百と書かれて、世界中で歌われるようになりました。しかし、25年前にはヘブライ語の賛美歌は全く無かったのです。皆は、それを書くことすら恐れていました。」
◆ハーベスト・タイムの主幹、中川健一氏も月刊誌「つのぶえ」の中でこう述べている。
「昨年(1997)から今年にかけて、いくつかの顕著な祝福が見られる。先ずは、メシアニック・ジュイッシュ・ミュージックの高まりを挙げよう。すべてのリバイバル運動には、霊的な音楽の祝福が伴うものである。最近のイスラエルのメシアニック・ジューの動きの中で特筆すべきは、多くの曲が作られ、歌われ、それらがCDの形で頒布されるようになってきたことである。ヘブル語で賛美していることもあるのだろうが、西洋のゴスペルとは一味違う、ユダヤ的な雰囲気のプレイズになっていることが特徴である。それらのCDの音楽的な質の高さには驚かされる。・・・・メシアニック・ジュイッシュ・ミュージックの高まりは、単にイスラエルのメシアニック・ジューたちの間にリバイバルが起こりつつあることを意味するのではなく、異邦人クリスチャンにも賛美の在り方、礼拝の在り方の面で、大きな影響を与えることであろう。今後、メシアニック・ジュイッシュ・ミュージックが、世界のキリスト教会にどのような影響を与えていくのか、非常に楽しみである。」
◆イスラエルは西洋と東洋の中間に位置し、その文化も東西両方の文化の要素を融合した形が見られる。また移民国家であることから、各国の多様な要素も取り込んでいる。イスラエルの文化は、バイタリティとバラエティをもつ、エネルギッシュな文化であるといえる。

(脚注3)
◆今日のイスラエルの首相シャロン氏は、徹底したシオニストである。彼の家にある居間の壁には、詩篇137篇5節の聖句がヘブル語で書かれている。
(脚注4)
◆詩篇137篇では、バビロンの捕囚となったイスラエルの民は,神を礼拝し、賛美する楽器である「立琴」を柳の木々に立て掛けた。しかし、神の民は立琴を立て掛けてはならない。神を賛美するために、再び、神に向かって立琴を取り、歌わなければならない。「黄金のエルサレム」では、エルサレムに向かって、「私は立琴で歌おう」と歌われている。 

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