教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

結論 新しい歌を主に向かって歌う今日的課題とは何か

2005-06-27 19:28:29 | 講義
1. それぞれの時代に新しい歌が生まれた歴史的必然性があった。

①教会が制度化、組織化、固定化、伝統化されていく中で、つまり、キリストのいのちが希薄になっていた状況の中で生まれた新しい歌。例: ダビデの歌、ドイツ・コラール、ジュネーブ詩篇歌、創作賛美歌、リバイバル・ソング、Praise & Worship song等。

②苦しみの中で生まれた歌もある。例: バビロンの捕囚中の詩篇、黒人霊歌、黒人ゴスペル,ハシディズムの歌。

③主のみわざによる喜びから生まれた歌。例: 捕囚後の詩篇、ルカの預言的賛歌、
Messianic Jewishの賛美、等。

④歴史的使命感から生まれた歌もある。例: テゼの和解を目指す祈りの歌

2. いのち(本質)と器(いのちの表現スタイル)との関係

①スタイルは時代と共に変わる。しかし変わらないものはいのち、すなわち、Jesusである。いのちは器を必要とする。ダビデの幕屋礼拝がソロモンの神殿を必要としたように。

②賛美のスタイルはその時代の人々の信仰のスタイルと大きく関係するため、しばしばスタイルの相違が世代間の断絶をもたらした。

③「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」というイエスが教えたように、新しい真理の啓示、いのちの回復には新しい皮袋が必要であるということが歴史をみるとわかる。

④ひとつのスタイルはそれ自身、ある種の完結性をもっている。

⑤ひとつのスタイルが完結し、固定化し、見捨てられても、いのちそれ自体は流動的に次の時代の新しい皮袋に受け継がれていく。

⑥時代時代において、いのちを入れる皮袋(器)を形成する人々の存在を通して、それが拡大し、広められていった。器がなければ人々の間に共有されることはないからである。その器はその時代の人々が共有できるものでなければならない。

⑦各時代のスタイルとしては、旧約の神殿礼拝(モーセの幕屋構造)、シナゴーグ礼拝、中世のローマ式典礼、修道院の聖務日課、グレゴリオ聖歌、コラール、福音唱歌、テゼの祈りの歌、プレイズ&ワーシップ・・等。

3. いのちの通路となった担い手の存在

①ダビデ(詩篇)
②聖アンブロシウス(創作賛美歌)
③中世の修道院(グレゴリオ聖歌)
④ルター(コラール)
⑤カルヴィン(詩篇歌)
⑥チャールズ・ウェスレー(福音唱歌)・・等。

4. 今日的課題

①絶えずいのちの源泉である神に立ち返ること。
②各時代のいのちの表出スタイルに対して謙虚に学び、良いものを現代的に応用すること。
③いのちの通路となるスタイルに対する柔軟な態度と認識をもつこと。
④賛美の中におられる主との親しい交わりを楽しむこと。


本論⑰ 歌と踊りを伴うイスラエル・ジューイッシュ・ソング <3>

2005-06-22 11:21:17 | 講義
4. メシアニック・ダンス

(1) 用 語

◆今日、いろいろな言い方がなされている。
① イスラエル・フォークダンス (Israel Folk Dance)
② メシアック・ダンス (Messianic Dance)
③ メシアニック・ジュウイッシュ・ダンス (Messianic Jewish Dance)
④ デイヴィディック・ダンス (Davidic Dance)

(2) 現代におけるダンス(踊り)の回復

◆今日、ダンバリンによる踊り、またワーシップダンスなど、踊りをもって主を賛美するということは、イスラエルの歴史においてかなり早くからあったにも関わらず、新約の教会においてダンスが主への賛美と礼拝に取り入れられたのは、実に、近年のことである。神はこの終わりの時代の主の教会において、踊りを回復しておられる。なぜなら、神は終わりの日に〔喜び〕を教会に回復しておられるからである。手をたたくことも、手を上げることも、声をあげることも、そして体を動かし、踊ることもすべて賛美礼拝の表現形態なのである。
◆今日、イスラエルの国では祭りの日にイスラエルの町々で踊っている。彼らが回復された母国をもつことができたという本当の喜びであるゆえに、このことは、今日、霊のイスラエルである教会にもまた起こりつつあるのである。今日のキリストの教会に祭り(Celebrate)の季節がやってきた。というのも、神がとうとうご自身の民を訪れ、回復の時が近づきつつあるからである。
 
(3) 踊りと歌をもって喜びを表現する<クレズマー音楽>

◆”Klezmer(クレズメル)”というタイトルのフォークダンスがある。タイトルである「クレズメル」ということばは、ひとつの音楽スタイルを意味しており、「クレズマー音楽」というひとつのジャンルでもある。この音楽スタイルが形成される裏にユダヤ民族のたどった軌跡がある。   
  ① 用 語
◆「クレズメル (klezmer)」という言葉はヘブライ語の「クレ・ゼメル」を語源としています。「クレ」は「道具・用具・器具・用品」、「ゼメル」は「歌唱・演奏、歌・曲・旋律・メロディー」のことで、「クレ・ゼメル」は直訳すると「演奏の道具」とでもいった意味で「楽器」を示していた。この言葉が中世の東ヨーロッパで発展したイディッシュ語では「演奏者」を意味するようになった。今世紀に入ってからは、このユダヤの演奏者が演奏する音楽そのものを意味するようになった。
  ② クレズマー音楽とそのメロディの特徴
◆クレズマー音楽とは、東ヨーロッパから発祥したユダヤ人の音楽のことである。クレズマー音楽はヨーロッパ各地(主に中欧・東欧)の民族音楽を取り込んで発展し、今世紀に入り多くのユダヤ人たちがヨーロッパからアメリカへと移住し、このクレズマー音楽に大きな変化が訪れる。もともと放浪とともに現地の音楽を取り込んできた音楽であるゆえに、アメリカで芽生え始めたジャズやブルースやチャールストンやスイングなどをも積極的に取り込んで大変化を遂げた、いわば、音楽てんこ盛り状態である。そうした無国籍的混沌とした中にも、ユダヤの民族性という1本のしっかりとした太い筋が通っていて、この音楽に秩序を与えている。明るく楽しい中にも、魂の奥から込み上げてくるような、激しい情感のこもった魅力あふれる音楽である。
◆クレズマー音楽は、踊りと歌をもって、人生の喜びを表現する音楽である。それゆえ、クレズマーなしの結婚式は涙のない葬式よりも悪いと言われてきた。
◆その音楽のメロディーの特徴は、増2度音程にある。たとえば、F#―G―F#―Eb―D である。D―F#-Eb―D のようにである。

(4) 終末論的賛美

◆イスラエルのジューイッシュの歌には終末の神の訪れを待ち望む歌が多い。終末とは、キリストの再臨によって実現される千年王国の到来である。千年王国においてキリストは王の王、主の主として世界を統治する。イスラエルはその支配国となり、イスラエルに約束されたすべてが成就する。地の呪いは癒され、すべての戦いは終わりを告げ、神の平和が実現する。そのときを待ち望む歌と喜びの踊りこそ、イスラエル・ジューイッシュ・ソングの特徴であり、これからますます盛んになっていくと思われる。その担い手の一人に、Paul Wilberがいる。

①イェヴァレヘハ
主はシオンからあなたを祝福される。あなたのいのちの日の限り、
エルサレムの繁栄を見よ。あなたの子たちを見よ。
イスラエルの上に平和があるように。(詩篇128篇5、6節)

②バール・ハァバ ベ シェム アドナイ 
主の御名によって来る方に、祝福があるように。
主よ、立ち上がり、安らぎの地に来ませ みいつと栄光もて
民は喜び、義の衣まとい声の限り歌おう (words & music by Paul Wilbur)

③メゴサレ 
喜び、楽しみ、神をほめたたえよう 小羊の婚宴の時が来たから
輝く衣を身にまとい 花嫁は整い 主は王となられた 喜び叫べ メゴサレ


本論⑰ 歌と踊りを伴うイスラエル・ジューイッシュ・ソング <2>

2005-06-21 15:17:34 | 講義
3. シオニズム運動(ユダヤ人国家建設運動)とその主題歌「ハクティバ」

◆シオニズムとは、ユダヤ人(ユダヤ教徒)を独自の民族とみなし、ユダヤ人の国家を作ることでユダヤ人の民族としての再生をはかろうとする思想である。紀元70年にローマ軍によって、ユダヤ人は全世界に流浪の民(ディアスポラ)となった。その後彼らは中世ヨーロッパでの十字軍による虐殺をはじめ、中世スペイン末期の異端審問、そして現代のホロコーストなど数え切れない迫害と差別の苦難に満ちた歴史を歩むことになる。その中で、<シオンの地>へ帰還し、ユダヤ民族の復興と存続をはかろうというシオニズム運動が起きる。
◆典型的なシオニズムを示す聖書個所は、詩篇137篇1~6節。そこには、バピロン捕囚を経験した者の歌が見出される。

1 バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。
2 その柳の木々に私たちは立琴を掛けた。
3 それは、私たちを捕え移した者たちが、そこで、私たちに歌を求め、私たちを苦しめる者たちが、興を  求めて、「シオンの歌を一つ歌え。」と言ったからだ。
4 私たちがどうして、異国の地にあって主の歌を歌えようか。
5 エルサレムよ。もしも、私がおまえを忘れたら、私の右手がその巧みさを忘れるように。
6 もしも、私がおまえを思い出さず、私がエルサレムを最上の喜びにもまさってたたえないなら、私の舌が上あごについてしまうように。

◆バビロンで捕囚の民となったユダヤ人がイスラエルに戻りたいと待ち焦がれているのは、シオニズムを言い表わしている。<シオン>という言葉がここで2回使われているが、「エルサレム」と同義語として使われている。シオンは思い出されるべきものであり(1節)、その歌も思い出されるべきものである。(3節)エルサレムは、忘れてはならないものであり(5節)、最上の喜びにもまさって好まれるものである。(6節)注3
◆19世紀の中頃、ユダヤ人解放を人間の意志と力で実現すべしと思想が芽生え、その実現のため<シオンの地>、パレスチナへの入植、国家建設を提唱する人々が現われた。 しかし、この考えは1870年代までは注目されず、ユダヤ人社会にほとんど影響を与えなかった。当時は、移住地の社会で他民族と同化することによって平等の権利を得て、周囲に受け入れられるという楽観論が支配的だったからである。しかし、楽観論とは反対に、ロシア各地で発生した1880年代の大ポグロム(ユダヤ人大虐殺)をはじめ、ユダヤ人解放の夢はおろか、平等の権利は与えられず、以前として言われなき中傷を受け、彼らは殺された。しだいに同化思想をあげてユダヤ人社会から離れ、ユダヤ教の戒律を守ることを拒否してしていた人々もシナゴーグ(ユダヤ教会)へ帰ってきた。このような伝統への回帰と精神上の復活だけでなく、父祖の地パレスチナに国家建設の運動が、やがて具体的に動き始めるのである。その実現に政治的に拍車をかけたのが、テオドール・ヘルツェル(1860-1904職業はジャーナリストで、近代シオニズムの父と呼ばれた。)である。彼は1897年8月、スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議を開き、これより政治シオニズムが運動を展開することとなった。                             
◆ヘルツェルはその日の日記に、「私は今日、ユダヤ国家の基礎を置いた。そう言えば世界は笑うだろう。しかし5年後、いや50年後、世界はその実現を見るであろう。」と、預言的な言葉を記したが、驚くべきことに50年と9ヶ月後の1948年5月14日にイスラエル国家は独立したのである。このときに歌われたのが「ハクティバ(希望)」(1878年作)であった。この時から「ハクティバ」がイスラエルの国家となった。この歌は、1897年の第一回シオニスト会議が開かれた時に歌われ、それ以来、シオニズム運動の主題歌となっていた。その希望とは、「自由の民となって、祖国シオンとエルサレムに住むこと」である。
           
われらの胸に ユダヤの魂が脈打つかぎり
われらの目が東の彼方 シオンに向かって未来を望み見るかぎり、
二千年われらが育み続けてきた希望は失われることはない
その希望とは われらが自由の民となって
祖国シオンとエルサレムの地に住むことである

(1) シオン(Zion)をたたえる歌
◆ユダヤ人の世界各地からのイスラエルの移住の流れは、19世紀末から盛んになっていたが、正式に国家が再建されると、今までの小川は、大河のようになってイスラエルに流れ始めた。イスラエルの各地にキブツが作られ、砂漠と沼地の開拓が進められ、砂漠が緑の畑になり、沼が埋められてそこに街がつくられた。そして街にはシナゴーグが建てられ、再びイスラエルに祈りの調べが聴かれるようになった。帰還者たちが持ち帰ってきた調べは、移り住んだ地方によって、またコミュニティによっていろいろと異なっていた。その中の一つであるハシディズムの歌は、今でも歌われ、特に結婚式や祭りの日には欠かせない音楽となっている。
◆キブツと呼ばれる集団農場から、多くのフォーク・ソングやフォーク・ダンスが生まれた。キブツに生まれた国民的歌手ナオミ・シェメルが作詞作曲した「イェルシャライム シェル ザハヴ」(黄金のエルサレム1967)は、ユダヤ民族の象徴ともいうべきエルサレムに思いを寄せた賛歌である。この歌は、エルサレムの市歌となり、第2国歌とも呼ばれるほどポピュラーな歌として、全世界のユダヤ人に愛唱されている。なぜなら、その歌には常に未来への明るい希望と確信をもって歌おうとしているからである。注4

 (2) 今日のシオニストの賛美―メシアニック・ジュイッシュの賛美の高まりー
◆長い歴史の中で差別され続け、ユダヤ人が自由を謳歌できるようになったのはほんの最近のことなのである。ゲフェン氏は昨年(2003年)にこう述べている。
「25年前、イスラエルにはイスラエル風のヘブライ語の賛美歌というものはありませんでした。初のメシアニックの賛美はアメリカで英語によって書かれました。25年前になって、初めて、イスラエルの指導者たちが集まって、へブライ語でイスラエル固有の賛美を作る必要があると、話し合ったのです。ところがそれを話し合ったら非常に激しい議論が起こりました。ほとんどのイスラエルの牧師たちは、ユダヤの音楽は短調で暗いからと反対したのです。イスラエル固有のヘブライ語の賛美歌が普及するまでには、相当に長い年月がかかりました。今では、ヘブライ語の賛美歌が何百と書かれて、世界中で歌われるようになりました。しかし、25年前にはヘブライ語の賛美歌は全く無かったのです。皆は、それを書くことすら恐れていました。」
◆ハーベスト・タイムの主幹、中川健一氏も月刊誌「つのぶえ」の中でこう述べている。
「昨年(1997)から今年にかけて、いくつかの顕著な祝福が見られる。先ずは、メシアニック・ジュイッシュ・ミュージックの高まりを挙げよう。すべてのリバイバル運動には、霊的な音楽の祝福が伴うものである。最近のイスラエルのメシアニック・ジューの動きの中で特筆すべきは、多くの曲が作られ、歌われ、それらがCDの形で頒布されるようになってきたことである。ヘブル語で賛美していることもあるのだろうが、西洋のゴスペルとは一味違う、ユダヤ的な雰囲気のプレイズになっていることが特徴である。それらのCDの音楽的な質の高さには驚かされる。・・・・メシアニック・ジュイッシュ・ミュージックの高まりは、単にイスラエルのメシアニック・ジューたちの間にリバイバルが起こりつつあることを意味するのではなく、異邦人クリスチャンにも賛美の在り方、礼拝の在り方の面で、大きな影響を与えることであろう。今後、メシアニック・ジュイッシュ・ミュージックが、世界のキリスト教会にどのような影響を与えていくのか、非常に楽しみである。」
◆イスラエルは西洋と東洋の中間に位置し、その文化も東西両方の文化の要素を融合した形が見られる。また移民国家であることから、各国の多様な要素も取り込んでいる。イスラエルの文化は、バイタリティとバラエティをもつ、エネルギッシュな文化であるといえる。

(脚注3)
◆今日のイスラエルの首相シャロン氏は、徹底したシオニストである。彼の家にある居間の壁には、詩篇137篇5節の聖句がヘブル語で書かれている。
(脚注4)
◆詩篇137篇では、バビロンの捕囚となったイスラエルの民は,神を礼拝し、賛美する楽器である「立琴」を柳の木々に立て掛けた。しかし、神の民は立琴を立て掛けてはならない。神を賛美するために、再び、神に向かって立琴を取り、歌わなければならない。「黄金のエルサレム」では、エルサレムに向かって、「私は立琴で歌おう」と歌われている。 

本論⑰ 歌と踊りを伴うイスラエル・ジューイッシュ・ソング <1>

2005-06-20 06:50:05 | 講義
1. 19世紀、東ヨーロッパのユダヤ人の間に勃興したハシディズムの流れ

 (1) 離散の歴史
◆二千年近いユダヤ人の離散の歴史は、ユダヤ人にとってもどこに住もうと似たりよったりであった。ユダヤ人に対する差別のひどかったところ、たとえばゲットーの壁の中でしか暮らしていけなかったところもあれば、比較的自由に行動できたところもあった。しかし統治者が変われば、環境もいつ変わるか分からないのがユダヤ人の運命だった。ユダヤ人が移り住んだのは、西アジア、アフリカ、ロシア、東西ヨーロッパと西半球のほとんどの国々。19世紀に入ると、アメリカに移住するユダヤ人も多くなった。世界各地に散っていったすべてのユダヤ人の後を追いかけていくことは、不可能である。
◆キリスト教が支配したヨーロッパに住むユダヤ人が受けた迫害は大きかった。常にキリスト教への改宗を迫られ、それを受けない限り、憎悪と差別から逃れることができなかった。
◆ドイツに住むユダヤ人は、16世紀、17世紀にひどい圧制と迫害を受けるようになり、その難を逃れて、東ヨーロッパに移動し始めた。こうしてポーランドやウクライナを中心にロシアなどに、多くのユダヤ人コミュニティが生まれた。
 
(2) 二つの方向
◆18世紀までゲットーの中で、経済や道徳、そして心までが荒廃していった。このとき、ユダヤ民族の中に二人の指導者が現われた。モーゼス・メンデルスゾーン(脚注1)とバール・シェム・トーヴである。メンデルスゾーンは、ユダヤ人がゲットーから解放されるためには、啓蒙主義のヨーロッパ社会に同化することが必要だと説いた。それに対し、バール・シェム・トーヴは、貧困と迫害という現実から逃れるには、精神的にそれを乗り越えて、ユダヤ民族の本質に向かうべきだとした。これが神秘主義の流れをひく、いわゆるハシディズムである。ハシディズムというのは、18世紀の半ばに、東ヨーロッパのユダヤ人たちの間に起こった宗教復興運動である。一言でいえば、貧困と迫害の苦しい現実からのがれ精神を高めていくなかで、ユダヤ人の本質を取り戻し、そこに喜びを見出そうというものである。・・多くのユダヤ人、特に貧しいユダヤ人の間に、たちまちこのハシディズムは広まっていった。
◆このように、一方は、ヨーロッパ社会に同化(文脈化)しようという考え方、他方は、精神を高めてユダヤの本質に帰ろうとする考え方、そのいずれもがユダヤ人の生活の中に深く入り込んでいった。そして、前者はヨーロッパ音楽に、後者はユダヤ音楽に大きな影響を与えることとなる。
(牛山 剛著『ユダヤ人音楽家-その受難と栄光―』84~96頁、ミルトス社、1991)

2. イスラエル・フォークソングの源流としてのハシディズム

 (1) ハシディズムの特徴
◆知名度は低いが、この18世紀に東ヨーロッパ(ポーランド、ロシア)で勃興したハシディズム運動は、ユダヤ教の信仰復興運動として注目すべき出来事である。この運動の創始者バール・シェム・トーブ、通称べシュトはカリスマ的魅力をもっており、大勢の信奉者を集めた。各地で、人々の病を癒しながら、次第に多くの信者を得て、広まっていった。またこの運動は、歌や踊りを取り入れて、恍惚(エクスタシー)状態による神と人の直接の交わりを重視した。この恍惚は神を知ることから生まれる恍惚である。
◆そもそも、ハシディム派は正統派ユダヤ教注2の知識偏重主義への反発として始まった。その教えの強調点は、生き生きとした信仰、情熱的な礼拝、同胞意識の喚起、共同体生活の重視などにある。
◆ハシディムという語は、「敬虔な者」を表わす「ハシッド」から来ている。ハシディム派のユダヤ教とは、「教えの体系」というよりも「生きる道」と考えたほうが分かりやすい。以下はハシディムの強調点である。
①神の遍在性を主張する。
②律法主義ではなく個人的な信仰を要求する。
③知識より経験を評価する。
④女性が信仰上果たす役割を強調する。
⑤自分を無にし、心を込めて祈るなら祈りには効果があると信じる。
⑥霊的な指導者への忠誠心を強調する。

(2) ハシディズムのメロディー
◆ハシディズムから生まれたのがハシディック・ニグン(言葉のない調べ)である。ハシディズムの音楽は、東欧に移ってくる前に住んだドイツのシナゴーグの音楽と、移住後影響を受けたスラブ・東欧系の音楽、この二つの要素から成り立っていた。そして後者の要素がいちだんと強まって生まれたのが、ハシディズムの音楽だった。
◆詩や言葉を離れて歌われるニグンは、一つのシラブルを、さまざまなメリスマを用いて、即興的に歌われる長い節が特徴である。陽気な中に、哀愁をこめた旋律は、西洋と東洋が混ざり合って生まれたものであるが、どちらかといえば、東洋的な色合いが強くにじみ出ている。
◆歌い方や一定のメロディーは最初、バール・シェム・トーヴが作ったが、1760年に彼が死んでからは、弟子たちがこれを広め、やがてたくさんの新しいメロディーが生まれた。それは後に、ユダヤのフォーク・ソングとなり、現代のイスラエルでも歌われ続けている。しかし音楽的特徴よりも、それを創り出した精神的な背景のほうがずっと重要で、かつ深い意味を持っている。
◆ここで<ハシディックな歌>をいくつか聴いてみることにしよう!!
“From the Bible for Revive”(HATAKUT 1999) のCDを参照。

(脚注1)
◆モーゼス・メンデルスゾーン(1729-86)。音楽家フェリックス・メンデルスゾーンの祖父で、哲学者である。メンデルスゾーンは、自分の哲学を通じてユダヤ人社会を物理的にも精神的にもゲットー(隔離居住区)から解放し、外の近代的で世俗的な世界につれだそうとした人間なのである。18世紀の前半、ドイツやイタリアのユダヤ人社会にも「ハスカラ(ユダヤ啓蒙運動)」と呼ばれる、啓蒙主義の動きが高まっていく。メンデルスゾーンはその中心的な唱導者でだった。「ハスカラ」は、ユダヤ教の教えしか知らないユダヤ人に、ヨーロッパ文化にも興味をもたせ、ヨーロッパ人としての教養を身につけさせることによって、ユダヤ人差別も解消していこうとした。この志向は、当時のユダヤ人のあいだにドイツ文化に対する愛着が生まれていたことの表れである。「まずドイツ人、つぎにユダヤ人であれ」というのが、
ユダヤ啓蒙主義者たちのモットーだった。彼らは、ユダヤ人に課してきた移動や衣服に関する中世的な制限をやわらげたことで、ドイツ人のユダヤ憎悪もやわらいだのだと誤認したのである。この致命的な幻想は、芸術と幻想が誇らかに栄えたその後の150年間つづき、第3帝国の業火のなかで完全に消滅することになる。メンデルスゾーンが最大の目標としたのは、世俗生活と宗教思想との融和にほかならなかった。

(脚注2)
◆正統派は最も体系化された形のユダヤ教である。その根本になっているのは、口伝律法によって解釈されたトーラーの教えである。タルムードは、それらの口伝律法を集大成したものである。正統派はタルムードこそが信仰、道徳、一般生活など、全ての事柄に関する最終的な権威とみなしている。
 

本論⑯ テゼ共同体における日ごとの祈りの歌 <2>

2005-06-14 20:47:47 | 講義
2. テゼ共同体の日ごとの<祈りの歌>の特徴

①何度も繰り返し歌う歌詞で構成されている。
◆一日3回、すべての人が、テゼの丘に立つ「和解の教会」に集まり、共に祈りをささげる。祈りで用いられる「テゼの歌」は、多くの言語をもとに作曲され、何度も繰り返し歌う歌詞で構成されている。それは、信仰の核心を端的に表し、人の心に共鳴し、そしてさらにその人の全存在をゆっくりと貫いていく。夜の祈りでは、このような祈りの歌が深夜まで続く中、何人かのブラザーたちが聖堂に残り、個人的な悩みや質問を持つ人々に耳を傾ける。
②単純で覚えやすい
◆テゼの歌は年月とともに静かに広がり、老若を問わず多くの人々に親しまれるようになってきた。なぜ多くのキリスト者が、祈りの助けとしてテゼの歌を歌うのか。それは、ひとつにはテゼの歌が単純で覚えやすい。
③大変美しい
◆また、少人数の祈りの集いで歌われてもたいへん美しいからである。まさに、テゼの歌は歌による祈りなのである。テゼー共同体ではそれを「日毎の讃美」としてを共同体の生活そのものとして守っている。テゼー共同体の「日毎の讃美」は、詩編、聖書朗読、うた、そして祈りという四つの主要な部分からなっており、これは伝統的な「聖務日課」の構造にそっている。

3. テゼの歌の今日的意義とは何か

(1)「日毎の祈リと賛美」の見直し
◆祈りと賛美はいつでも、またどこでも可能である。しかしながら、毎日の一定の時刻に祈りと賛美を神にささげるということは決して容易なことではない。「日ごと」の伝統は初代の教会にはあった(使徒3章1節、2章15節、10章9節)。しかし、紀元322年、コンスタンチヌス大帝のキリスト教公認以後、教会は祈りと賛美の生活に大きな影響を及ほすこととなった。つまり、日ごとの祈りと賛美は、聖務日課として修道院の手にゆだねられたのである。それはキリスト教公認以後、人々の多くが日曜日の務めさえ果たせばそれでよいと考えるようになっため、当時興隆してきた修道院は、彼らに対するプロテストとして特別な生活原則と形態をつくり、日毎の祈りと賛美を充実・発展させたのである。
◆聖務日課の成立においては、ベネディクト派修道院が大きな役割を果たした。日毎の祈りと賛美は、修道院や兄弟団(ヘルンフート)など、キリスト教共同体の存在と深くかかわっている。フランスのテゼ共同体、西ドイツのミヒャエル兄弟団、同ダルムシュタットのマリヤ福音姉妹会等、そのいずれも、日ごとの祈りと賛美が、それぞれの共同体生活において占めている位置はきわめて大きい。教会の存在はいつの時代においてもキリストにある共同体的存在である。その意味において、教会は、あらためて、日毎の祈りと賛美の今日的見直しの必要を迫られていると言えよう。

(2) 祈りを支える単純で素朴な、新しい歌を生み出すたゆみない模索
◆テゼで作られ、歌われる曲のほとんどが4小節、ないしは8小節からなっている。中には2小節というのもある。テゼの歌は、作曲家と作詞家の長期にわたる模索の結果生み出され、それは実際にテゼにおける若者たちとの共同の祈りで試用され、その実りとして最終版が出版される。このようにしてそれぞれの歌は統一性とスタイルを保持することができる。このような共同の模索は、テゼ共同体の若者たちへのミニストリーやテゼや各地で開かれる数千人の集いでどのような祈りが相応しいのかという絶えることのない模索と固く結びついている。生きた祈りの共同体において、それを支える模索が、今日の教会に求められているのではないか。

(3) 沈黙という祈りの力を経験すること
◆テゼ共同体の「日ごとの賛美」の中でより重要な意味をもっている部分は「沈黙の時」である。この沈黙、ないしはメディタシオン(黙想)は、祈りの中の間ではなくて、ひとつの祈りなのである。注3テゼー共同体の日毎の讃美が行なわれる「和解の教会」は、この黙想を助ける雰囲気なり、照明などの点でよく工夫されている。沈黙の祈りについて、私たちはより訓練されなければならない。
◆こうした雰囲気をかもし出す環境は、一朝一夕にして作られることはない。事実、テゼでの日ごとの賛美と祈りは、すでに60年以上も続けられているのである。こうした継続的な営みの中で培われるくる神の臨在は、人の演出によってもたらすことなど不可能なのである。

<附記>
●2002年夏、関西学院大学(兵庫県)から5名の学生と1名のチャプレンのグループがテゼを訪問した。以下は、同行したチャプレンによる旅の感想(打樋啓史:社会学部宗教主事。現在、研究期間でロンドン在住)
「・・・学生たちはテゼでの祈りがとても好きでした。様々な言語が用いられるので内容のすべてを理解することはできなかったようですが、いつも祈りの時を心待ちにしていました。とりわけ彼らは、歌を何度も繰り返して歌うこと、沈黙の時、そして教会の中に置かれた様々なシンボル―美しい仕方でわたしたち自身を超えるものを指差すシンボル―を眺めるのが好きでした。キリスト者である一人の学生(男性)は、テゼでこう語りました。『日本での生活の中で、信仰が時々とても複雑なものに思えることがあります。そしてしばしば、『善いキリスト者』になるためにあまりにも多くの条件があるように思ってしまうのです。でも、ここでの祈りの時間に、沈黙の中で教会の正面に吊るされた布の色を眺めていたとき、『そうではない』と感じました。今は、神が共におられ、ただ単純にわたしたちを愛しておられると感じます。そして、わたしに必要なただひとつのことは、そのことに信頼することです―ただ単純素朴に。何か偉大なことや特別なことを成し遂げることではないと思います。こう気づいたことは、キリスト者として日本で生きていく上で大きな励ましになりました。』」(脚注4)


(脚注3)
◆ジェームズ・フーストン著『神との友情』(いのちのことば社、1999年)の中で<観想の祈り>ついて次のように述べている。 「ここで『観想(黙想)の祈り』として知られている祈りのスタイルについて考察する必要がある。観想の祈りとは、魂が神の御前に引き出され、臨在の内に黙してひたすら聴き、神の愛に引き寄せられることを意味する。それは、様々な面を持つ私たちの祈りの経験の一部である。・・祈りには、ある種のとらえどころのない面がある。他の問題に取り組むように、「ハウ・ツー」式で祈りに取り組もうとしてもうまくいかない。それは、祈りが方法論よりも、むしろ祈りにおける交わりー関係性―と深く関わっているからである。祈りでは、むしろ、神に対する自己放棄の内に見られる率直さ、信頼、注意力、愛を問題とする。祈りに成長するには、このような次元においてである。観想(黙想)の祈りを学ぶために修道院に入る必要はない。ただ神ご自身のいのちと愛に自分の全人格をあずけるとき、祈りのあらゆる深みを知ることが許される。祈りへの鍵はすべて内なる生活をどのように神に向けるかにかかっている。・・観想の道を行くとは、キリストのみが私たちの霊的渇きを癒す方であり、それに比べれば、他のものは無に等しいと認識することである。イエスに「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばをもっておられます」(ヨハネ6章38節)と言ったとき、ペテロはこのことを認識していた。生の究極的な充足は、私たちが自ら死に、キリストにあって新しいいのちに入れられることによってのみもたらされる。そのとき体験する愛の光は、さらに深く神を渇き求める生活へと私たちを導く。さまざまなキリスト者が、このことに記している。・・観想に生きるキリスト者にとって、人生は決して退屈なものとはならない。なぜなら、きよい畏れと驚異の念、恵みを数える思いが、神の御前での礼拝を喜びと感謝で満たすからである。」(第9章「聖三位一体の内にある友情」209~213頁参照)

(脚注4)
◆テゼ共同体のHPを参照。

 (4) テゼの歌

以下のアドレスには、テゼでうたわれている祈りの歌の楽譜が掲載されている。

http://www.taize.fr/ja_rubrique427.html



本論⑯ テゼ共同体における日ごとの祈りの歌 <1>

2005-06-13 13:40:40 | 講義
<はじめに>

◆本論⑮において、アフロ・アメリカンの人たちの苦難の歴史の中に生まれた「祈りの歌」である黒人霊歌と黒人ゴスペルを取り上げたが、第二次世界大戦以後、人々との和解を模索する中で生まれたもう一つの祈りの歌がある。本論⑯で取り上げる<テゼ共同体>の日ごとの祈りの歌(歌による祈り)がそうである。
◆今日、世界中から何千何万もの若い者たちがフランスの小さな村、テゼを訪れている。彼らはそこで祈りの歌を歌いながら沈黙し、神との交わりを通して、世界の平和と和解、そして信頼のために働こうと自ら整えている。

1. ブラザー・ロジェの夢・・・キリスト者同士の和解の実現

 (1) 和解の夢の背景
◆ヨーロッパにおいて、人類を引き裂くことになる第2次世界大戦のただ中にあった1940年8月、当時25歳だったブラザー・ロジェは、人々との和解を日々実際に生き抜いてゆくようなキリスト者のコミュニティを創設しようと思い巡らしていた。ブラザー・ロジェが、自分の故郷の町スイスを離れ、フランスの小さな村テゼにたどり着いたとき、一軒の家が売りに出ているのを知った。テゼで彼を出迎えたのはひとりの老婦人であった。彼女に自分の計画を告げると、彼女は「ここに留まってください。私たちはここで孤独なのです。」と言った。ロジェは婦人を通して神が語られていると感じ、そこに移り住んだ。そして彼はそこで、人類のさまざまな分裂を乗り越えるために、まずキリスト者の間の和解の道を開こうとしたのである。
 
 (2) テゼ共同体の始まり
◆「共同体のたとえ」として生きること、そのための修道共同体をそこで始めることが彼の夢であった。(脚注1) 祈りを中心とした彼の生活は、ナチの占領下から逃れてきたユダヤ人難民を彼の家にかくまうことから始まった。1940年から42年にかけて彼はテゼに留まったが、当時彼はまったくひとりであった。一日三回のひとりの祈りが小さな礼拝堂でささげられた。(脚注2)
◆1944年、ブラザー・ロジェは、それまでに出会った彼の最初の「兄弟」たちを伴ってテゼに戻った。そして1949年、数人の兄弟たちと共に、生涯を観想の修道生活にささげる誓願をたてた。独身生活、院長の司牧への従順、物質的かつ霊的なものすべてを共有する誓願。院長ブラザー・ロジェは、1952年、兄弟たちのために、短い生活の規律『テゼの規律』を書いた。これは後に、『テゼの源泉』と呼ばれるようになった。
◆年が経つにつれて、兄弟たちはその数を増した。最初の兄弟たちはプロテスタントであったが、次第にカトリックの兄弟たちも加わるようになった。現在、すべての大陸の約25の国を出身とする兄弟たち
が生活している。
 
 (3) テゼ共同体の現在
◆1960年代頃から、共同体のブラザーたちによって準備される週単位の集いに参加しようと、世界中からたくさんの青年たちがテゼを訪れるようになった。祈りと分かち合いの生活を通して、彼らは、自らの内面的な生き方を深く求め、同時に人類という一つの家族の中でいかに自分を捧げ責任を果たしてゆくかということについての関心を持つ。60カ国もの国々から、6000人にも及ぶ人たちがテゼを訪れる週もあるという。
◆わずか数時間をテゼで過ごしていく何千もの巡礼者を別にしても、このような毎週開かれる国際的な集いには、夏には3000人から5000人の、春や秋には500人から1000人の青年たちが参加する。ここ数年にわたって、テゼを訪れる何千何万もの青年たちは、ひとつのテーマについて思い巡らす。それは「内なる命と人々との連帯」である。
◆現在、約90名の、カトリックとプロテスタント各教派出身者で、20数カ国の違った国々を出身地とした、修道生活への誓願をたてたブラザー(修道士)たちがいる。ブラザーたちは、自分たち自身の労働によって生計を立て、他の人たちと分かち合っている。彼らは外部からの献金や寄贈を一切受け取らない。あくまでも自らの労働によってコミュニティを維持し、同時に多くの人々の生活を支えている。遺産を相続する場合も、ブラザーたちは自分たちのためにそれを用いず、それらはすべて貧しい人々のために用いている。フラタニティーと呼ばれる小さなグループとして、世界の国々の貧しい地域で暮らすブラザーたちも、テゼと同じように働きながら共同生活をし、祈りを中心とした生活をしている。また、1966年から聖アンドレ修道女会のシスターたちが、テゼ共同体を訪れる人たちを迎え入れる役割の一端を担うようになった。
◆テゼ共同体は、何よりもまず、その存在そのものによって、分裂したキリスト者たちの間で、またすべての分かたれた人々の間で、和解の「しるし」となっている。テゼ共同体は、自らが「交わりのたとえ」であることを望んでいる。それは人が日々そこで和解を求め、生きるところであるからである。確かに、キリスト者間の和解はテゼの召命の中心であるが、それはそこで終わるものでは決してない。それを通してキリスト者が、人々の間の和解、国々の間の信頼、そして地上における平和のパン種になることを、テゼは願っているのである。

(脚注1)
◆テゼの創始者ブラザー・ロジェは、彼の人生を方向づけた初期の影響についてこう語っている。それは、彼の祖母(未亡人)が、第一次世界大戦のとき、老人、幼い子ども、妊婦らの難民に自分の家を開放した。彼女はよくこう言った。「分裂したキリスト者たちが互いに殺しあってきた。新たな戦争を防ぐために、もしキリスト者たちだけでも互いに和解することができるなら・・・」と。彼女は何世代にもわたるプロテスタントの家に生まれたが、まず自分の中で和解を現実のものにしようとカトリック教会を訪ねるようになった。①どんなときにも、もっとも困難な人々のために危険を顧みないこと、②ヨーロッパの平和のためにカトリックの信仰と和解していくこと、祖母のこの二つの意志は、ブラザー・ロジェの後の人生に深く刻まれることになった。(ブラザー・ロジェ著、植松巧訳「テゼの源泉」、ドン・ボスコ社、1996)
(脚注2)
◆この形は、今日もかわることなく踏襲され、テゼでは1日3回の賛美と祈りが続けられている。

本論⑮ ゴスペルを生み出したアフロ・アメリカンの人々の歴史と信仰 <3>

2005-06-12 19:27:18 | 講義
3.  黒人霊歌から黒人ゴスペルへ

 (1) 都会での貧困と疎外という社会的背景

◆奴隷制崩壊後、新たに作り出された抑圧制度である人種隔離制度の拘束を脱するために、多くの黒人達が自由の幻想を求めて北部へと移動を始めた。しかし彼らがそこに見いだしたものは、「飢えと孤独への自由」でしかなかった。そのような彼らのブルー(陰鬱)な気持ちを歌ったのが「ブルース」である。そこには、都市生活の孤独という南部の農村とは全く違った生活環境が反映している。この点を黒人音楽の研究家北村崇郎氏は『ニグロ・スピリチュアル』の中で、アイリーン・サザーンの言葉を引用することによって、以下のように指摘している。
◆「黒人たちが1920年代になってアメリカ中の都市へ移動しはじめたとき、彼らは喜びのスピリチュアルをもってやってきたが、田舎生まれの音楽は都会地には合わなくて、彼らの現実的な要求を満たさないと知った。結果として、教会で歌手たちはもっと彼らの感情を表現できる音楽を創造し、その音楽をゴスペルと呼んだ。しかし、この新しい歌は伝統的な白人的ゴスペルとはまったく異なったものであった。黒人のゴスペルは都会で歌われるブルースの欠けた部分、つまり、人間の聖なる部分を補うものであった。それはブルースと同じように、ピアノ、ギター、その他の楽器の伴奏で歌われる即興音楽の伝統を受け継ぐものである」。
◆トマス・ドーシーの名曲「尊き主よ、わが手を取りたまえ」(Precious Lord,my hand)は、その黒人ゴスペルを代表するものである。
◆この歌は彼がわが子の出産の期待を胸に秘めながら、リバイバル(信仰復興)集会の奉仕をしていた時に、一連の電報を受け取り急遽帰宅してみると、愛する妻ネリーが急逝し、その時助かった幼子も二日後には天に召されるという悲劇に出会った挫折体験から立ち上がった時に作られたものだという。
Precious Lord, take my hand
Lead me on, let me stand,
I am tired I am Weak I am worm.
Through the storm, through the night
Lead me on to the light,
Take my hand, precious Lord,
Lead me home.
尊き主よ、我が手を取りたまえ、
われを導き、われを立たしめたまえ、
われは衰え、力弱く、疲れ果てたり。
嵐の中、闇夜を突き抜けて、
われを光に導きたまえ尊き主よ、わが手を取りて、
みもとに導きたまえ。

◆北部大都市のビルの谷間で、1929年から始まる経済大恐慌によって、彼らの極貧状況はさらに深められていった。まさに「働くに職無く、食べるに食なし」の悲惨な生活であった。そんな言語に絶する逆境の中から生み出されたのが、黒人霊歌の宗教性と、ブルースやジャズの世俗性を結合し、それに強烈なビートを付け加えた黒人ゴスペルなのである。そしてこの黒人ゴスペルは、やがて1960年代の自由と平等を求める公民権運動を支える歌となるのである。

 (2) 公民権運動とフリーダム・ソング 

◆アメリカの憲法では黒人にも投票権があり、公共施設利用などには何の制限もなかった。しかし、それは文字の上だけのことで、人種差別意識の強い南部諸州では以前と何一つ変っていなかった。黒人たちは以前にも増して貧しく辛い生活を強いられた。彼らは社会のあちこちで差別を受けた。学校に自由に通えず、職業を選ぶ自由も、レストランで自由に食事をすることも許されず、バスの座席、水飲み場、選挙の投票所、刑務所でさえも、白人と黒人専用に分けられていた。しかし彼らはそれでも生きることをあきらめずに、神に祈り、歌を歌いながら、希望をもって生きた。そんな中から、人間の自由と平等とを求める闘い・公民権運動が生まれたのである。(脚注3)
◆マルチン・ルーサー・キング牧師は、公民権運動の偉大な指導者である。彼は、白人たちの憎悪と暴力に対し、キング牧師は愛と非暴力で対抗することを人々に呼びかけた。デモ行進中に逮捕され、留置場に入れられることがあっても、彼らはひるまずに闘い続けた。そして、ゴスペルの歌の数々がそんな彼らを支えたのである。ワイヤット・ウォーカーは、公民権運動を<歌う運動>(singing movement)であったと繰り返し述べている
◆公民権運動の中では、それは<フリーダム・ソング>(自由歌)としてゴスペル調で歌われた。そこでは、たとえば黒人霊歌の<イエス>を<自由>というふうに言い替えて歌っている。キング牧師は次のように述べている。
◆「大衆集会の一つの重要な部分は自由歌であった。ある意味で自由歌は運動の魂であった。…それは奴隷たちが歌った歌の替え歌-悲しみの歌、歓喜の歌であり、また戦闘歌であった。私は人々がそれらの歌のビートとリズムについて語るのを聞いたことがあるが、運動の中では、われわれはその言葉によっても励まされたのである。『今朝私は心が自由になって目が覚めた』.“Woke Up This Morning With My Mind stayed on Freedom.”(歌の“Jesus”を“Freedom”と言い替えた)という歌詞は音楽がなくてもよく分かる言葉である」、と。
◆承知のように、アメリカ公民権運動は非暴力運動であった。しかしそれは、剥き出しの暴力の前での<非暴力>運動であったことを考えると、黒人ゴスペルのような強烈な音楽なしにはとても推進できなかった運動といえる。まさに、彼らにとってゴスペルはサバルバル・ソングであった。

◆1963年 ワシントン広場に集まった20万人もの人々に向かって、キング牧師は叫んだ。
“ I have a dream! “ (私には夢がある)と。5年後、キング牧師は暗殺される。しかし、彼が見た
夢は、その後も人々の心を動かし続け、アメリカの歴史の中に大きな変革を生み出す力となった。
 ●私には夢がある。いつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷主の子孫たちとが共に兄弟愛のテーブルに着くことができるようになるだろう。私には夢がある。いつの日か私の幼い四人の子どもたちが、彼らの肌の色によって評価されるのではなく彼らの人格の深さによって評価される国に住めるようになるだろう。私にはそんな夢があるのだ!
 ●これが私たちの希望なのである。この信仰を持って私は南部に帰る。このような信仰があれば、私たちは絶望の山から希望の石を切り出すことが出来る。このような信仰があれば、私たちはこの国の騒々しい不協和音を、兄弟愛の美しいシンフォニーに変えることが出来る。このような信仰があれば、私たちは共に働くことができる。共に祈ることができる。共に闘うことができる。共に監獄に行くことができる。共に自由のために立ち上がることができる。いつは自由になると信じることができるのだ。
●私たちが自由の鐘を鳴らせば、その時にはすべての村という村で、すべての集落という集落で、すべての州という州、街という街で「神の子どもたち」となったすべての者らが、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人も、プロテスタントもカトリックも、すべての者らが手に手を取ってあの古い黒人霊歌を口ずさむようになるだろう。
「自由になった!ついに自由だ!全能の神に感謝すべきかな。私たちはついに自由になった!」

◆まさに黒人霊歌も、また黒人ゴスペルも、アフロ・アメリカンの人たちの、苦難の歴史の中に生まれた「祈りの歌」といえる。そしてその歌の数々は、現実の苦難の中にあっても生きる希望を捨てないで、生まれてきた喜びを感じて生きていこうとするエネルギーで満ち溢れている。
だからこそ、ゴスペルは、今も聞く人々の心に、その魂に迫る力を持っているのではない
だろうか。(脚注4)

(脚注3)
◆1861年南北戦争。北の州の勝利により1865年黒人奴隷解放。法律の上では「平等」。
その後約90年間、差別は「しきたり」として残る。1950年代公民権獲得運動が起こる。。
(脚注4)
◆東神戸教会牧師、神戸マス・クワイアリーダーの川上盾(じゅん)師は、ゴスペルの醍醐味についてこう述べている。
「ゴスペルを歌っていくと、必ず訪れる瞬間がある。歌うみんなの思いがひとつの声の固まりになる瞬間、これを”One voice”と呼んでいる。・・音楽的な完成度としてはそんなに高い点数がつけられないような演奏の中でも、その瞬間は訪れる。・・これは、いくら練習を積んでも、それだけでは訪れない。アフロ・アメリカンの人たちの歴史を知り、彼らを支えた信仰心に思いを馳せ、自分自身の体験の中で共感できる部分をそれぞれすり合わせていく作業を経て、初めてそれはやってくる。そこに訪れる「魂を揺さぶられる瞬間」-それがゴスペルの本道の醍醐味だ。」(『礼拝と音楽』No.108)





本論⑮ ゴスペルを生み出したアフロ・アメリカンの人々の歴史と信仰 <2>

2005-06-09 11:19:38 | 講義
2. 信仰の歌としての黒人霊歌

◆黒人霊歌の中には、旧約聖書・出エジプト記から作られた歌が多くみられる。エジプトで奴隷苦役を強いられていたイスラエル民族。しかし、その嘆き叫ぶ声を神が聞かれ、モーセという指導者を送って救い出された物語、その「出エジプト記」と自分たちの境遇を重ねながら、いつの日か神が与えてくださる「救いの日」を信じて、彼らは歌い続けた。

Kum Ba Yah

Kum Ba Yah, My Lord, Kum Ba Yah
Oh, Lord Kum Ba Yah
来てください わが主よ いまここに
おお主よ、来てください

Go Down, Moses
(Traditional Spiritual)

(1) When Israel was in Egypt's land, Let my people go,
Oppressed so hard they could not stand, Let my people go,
イスラエルの民がエジプトの地で奴隷とされている。私の民に自由を!
抑圧は激しくもう彼らは耐えられない。私の民に自由を!

(2) Thus, saith the Lord, bold Moses said, Let my people go,
If not I'll smite your first-born dead, Let my people go,
Go Down, Moses, 'Way down in Egypt's land,
Tell old Pharoah, Let my people go.
大胆なモーゼは神はこう言われたと言う!「私の民に自由を!」
さもなければ、私はお前達を滅ぼす。私の民に自由を!
行け、モーゼよ。エジプトの地まで。
そしてパロに伝えよ「私の民に自由を!」と。

(中略)
(17)Oh, let us all from bondage flee, Let my people go,
And let us all in Christ be free, Let my people go,
ああ、我々みんなを囚われの身から解放させよ。私の民に自由を!
そしてキリストを信じる信仰において我々みんなに自由を。私の民に自由を!

(中略)
(25)I do believe without a doubt, Let my people go,
That a Christian has a right to shout, Let my people go,
Go Down, Moses, 'Way down in Egypt's land,
Tell old Pharoah, Let my people go.
私は確信をもって信じている。私の民に自由を!
キリストを信じるものには叫ぶ権利があることを。私の民に自由を!
行け、モーゼよ。エジプトの地まで。
そしてパロに伝えよ「私の民に自由を!」と。

◆旧約聖書のストーリーのイメージと黒人奴隷達の希望との相関性がはっきりと見える代表的なSpirituals(黒人霊歌)である”Go Down, Moses”。歌詞は何と25番まである。”Go Down, Moses”の作者は、日常生活において現実的な切望である白人奴隷主からの解放と、信仰による魂の救いという精神的な解放の双方を強く希求し、この歌を作ったことがはっきりとわかる。



本論⑮ ゴスペルを生み出したアフロ・アメリカンの人々の歴史と信仰 <1>

2005-06-07 21:34:44 | 講義
<はじめに>
◆日本でブラック・ゴスペルブームといわれ始めたのは、ここ5、6年のことである。要因の一つとして、映画「天使にラブソングを」の影響は大きい。そのノリのよさやカッコよさ、人間の声の一体感、といった要素がウケていると思われる。今日のポップスはこのブラック・ゴスペルを通じて発展したと言われるほど、世界の音楽界、ないしは賛美の歴史において特異な位置を築いている。
◆教会の歴史における<新しい歌>である黒人霊歌、および黒人ゴスペルは、サバイバル・ソングとも言われる。その理由は、この地上に生存したもろもろの民の中でも、近代史上最も過酷な生を強いられた黒人が、人間として生き残るために創出された歌―つまり、彼らの故郷であるアフリカ大陸から何千マイルも離れた見知らぬ地に奴隷船で運ばれ、そこで奴隷として生きなければならなかったという極めて切迫した現実の中で生まれた歌-だからである。それは、黒人霊歌(スピリチュアソング)から始まり、初期のゴスペル・フリーダムソングと歌い継がれて今日のブラック・ゴスペルソングへと至っている。 
◆とりわけ、本講義では、そうしたゴスペルを生み出したアフロ・アメリカン(脚注1)の人々の歴史的背景について知ることから始めたい。

1. The Sprituals(黒人霊歌)の歴史的背景

(1) Hush habor (ハッシュ・ハーバー) ―奴隷たちの唯一の避難所―
◆ゴスペルの歴史は、大西洋を渡る奴隷船から始まった。アフリカ大陸で人間を動物のように生け捕りにし、強制的に新大陸に送り込んだヨーロッパ諸国による「奴隷貿易」は、17世紀初頭に始まり、18世紀に最も盛んに行われた。その間、控えめに言って、1400万人以上のアフリカ人達が大西洋を渡ったと言われている。
◆アメリカに奴隷として連れて来られた黒人達の苦しみは想像を超えていた。アフリカで平和に暮らしていたある日、彼らは突然捕らえられ、鎖をかけられ奴隷船 に乗せられ強制的にアメリカに連れて来られ、奴隷として売買されていった。 彼らはそこで厳しい労働を強いられ、明日、自分の身がどうなるか分からない日々を送った。年をとったり、怪我をして働くことができなくなったりすれば、さらに安価で売買され、また、少しでも雇い主に反抗すれば厳罰、リンチ、最悪の場合は一方的に殺されることもあった。
◆1861-65年の南北戦争は、有名な「奴隷解放宣言」によって黒人たちにやっと自由をもたらしたが、解放後の彼らを待ち受けていたのは、厳しい「人種差別」であった。特に南部では人種差別が根強く、黒人であるというだけで、就職、経済活動、教育、政治参加などあらゆる面で制限を受け、絶えずリンチにおびえる生活を強いられていたのである。
◆アメリカ合衆国に連れて来られた彼らは、奴隷主である白人に教会に連れていかれ、教会の礼拝を経験した。しかし、彼らが真の意味で魂の解放を得たのは、一日の苦役を終えた夜遅くに仲間と秘密に集まり、白人達の家から離れた場所で、自分達だけの礼拝を持ち、神に神に祈り、歌い、踊り、力と希望を得たのであった。それが彼ら自身のキリスト信仰の形であった。
◆彼らが集まった場所はHush Harborと呼ばれる祈りの場所(小屋)で、白人達の教会を「目に見える教会」としたならば、Hush Harborは社会的に「見えない教会/隠れた教会」といえる。(脚注2) 白人の奴隷主たちは、奴隷たちが集団を形成することを非常に警戒していたため、Hush Harborが発見されれば、奴隷たちに刑罰が加えられるのは明白であった。しかしながら、そんな危険の中で彼らは集まったのである。
◆Spirituals (黒人霊歌)の歌詞と音楽は、逆にそうしたテンションによって強められたともいえる。切迫した日常からの解放、人間としての真の自由を求める魂、彼らがアフリカ人として継承してきた文化/伝統・習慣の発現、イエス・キリストを信じる新しい信仰の中で彼らの求める自由が実現されるという希望の確信、そのすべてによってSpirituals (黒人霊歌)は生み出されていったのである。このようにSpirituals (黒人霊歌)はHush Harborのような場所を中心に、彼らの伝統的な母国アフリカの音楽に西洋の教会音楽が結びついた新しいスタイルの歌が、口伝により、世代を越えて継承され、長い時間をかけて形成されていった。それが黒人霊歌(スピリチュアル)なのである。

 (2) ハッシュ・ハーバー的な黒人霊歌からコンサート・パフォーマンスとしての黒人霊歌へ
◆19世紀後半になると、ハッシュ・ハーバー的な黒人霊歌からコンサート・パフォーマンスとしての黒人霊歌の発展が始まる。そのきっかけとして有名なのが、1866年に創設された黒人学校Fisk Schoolが財政困難解消のために考案したFisk jubilee Singersであった。
◆それは、9人のFisk Schoolの男女混合の歌手達が(ひとり以外はすべて元奴隷)各所を公演して回り、Spiritualsのレパートリーを歌い、寄付を集めるというものであった。黒人霊歌を白人の聴衆の前で歌うという試みは初めてであり、正当な評価を得られないのではと恐れも大きかった。ところが、1871年10月からツアーを初め、次第に白人の聴衆から高い評価を受け、その後も公演を続け、当時のグラント大統領に招かれホワイトハウスで歌ったりもして、その第1回Fisk jubilee Singersツアーの最後にはなんと$20,000もの寄付を集めたと伝えられている。1873年にはメンバーを増やし、ヨーロッパへの公演旅行にも行き、数カ国では王室の前でもパフォーマンスをした。この成功によって、帰国までに$150,000を集め、FiskをAfrican Americanのために第一級の教育を提供する有数の大学として発展させる基礎を作った。また、このFisk jubilee Singersの公演をきっかけに、Spiritualsの素晴らしさはアメリカ全土、そしてヨーロッパにも広まったのである。
◆黒人霊歌は、Fisk jubilee Singersの公演をきっかけに、アレンジされた形でパフォーマンスされることが多くなった。第1次世界大戦以降、それはひとつの音楽のスタイルとしてアメリカ国内で定着することとなった。
◆1862年に奴隷解放宣言が公布され、奴隷制時代が終わると共に、黒人霊歌の発展にも変化が生まれた。その変化とは、この公布とともに新たな黒人霊歌が生まれる機会が減ったのである。黒人霊歌は、奴隷貿易が最も盛んだった18世紀の中頃から終わりにかけて最も多く作られたとされている。それから今日まで、アフリ・アメリカンによって作られた黒人霊歌は6,000作以上と言われている。

(脚注1)
◆ 「アフロ・アメリカン」とは、Africa-American アフリカ系アメリカ人の略称をいう。
(脚注2)
◆「見えない教会/隠れた教会」であるHush Harborでは、楽器などもなく、歌を作り歌い始める者がリーダーとなったといわれる。。彼らは、神とつながるために歌を通して会衆の魂に触れたのである。会衆とリーダーはコール・アンド・レスポンス(かけあい)によって精神的な高みにまで共に昇りました。歌の中で喜びをあらわし、祈りの中で神に助けを求め、叫び、踊り、時には一晩中神を賛美したと言われている。今日のアフリカ系アメリカ人教会の礼拝の中にも同様な神への熱烈な賛美や祈り、献身の形が特徴的にみられることで、この伝統が今も彼らの内部に息づいている。



本論⑭ Praise & Worship の起源とその流れ <3>

2005-06-02 20:27:40 | 講義
5.  <新しい歌>としての預言的賛美・・「霊の歌」

◆プレイズ&ワーシップを語る上で、忘れてはならないのは<霊の歌>を歌うことの恵みである。それは、私達が聖霊様によって瞬間的に与えられた曲をもって神様に賛美をささげたり、主からの預言の歌を歌うことである。霊の歌を歌うことによって、私達の内側の霊が直接神様を賛美することができると同時に、教会全体が霊的に引き上げられ、一致をもたらすことができるのである。また、クリスチャンが主との個人的な交わりの中で、霊の歌を歌うことによって、主の臨在の中に入っていくことが容易にできるようになる。
◆「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(エペソ5:19)「詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」(コロサイ3:16)とあるように、「詩」とは旧約聖書の詩篇を指し、「賛美」とは人の手によって作らされた創作賛美歌を言う。その内容は人々に対して主の証をするものや、神様に対して歌うものがある。そして「霊の歌」とは、聖霊によって与えられ、即興的、即時的、自発的に作られた賛美として今日、理解されている。ただし、この理解はペンテコステ・カリスマの流れにある教会においてである。
◆2002年4月にCFNJ聖書学院に来られたCFNIの講師であるマルコス・バリエントス師は、「新しい歌」を主に向かって歌うこと、そして預言的賛美との関連について以下のように述べている。(脚注6)

■新しい歌とは・・

◆聖書のなかには『新しい歌を主に歌え』という命令が多く記述されており、9回にわたって主に向かって新しい歌を歌いなさいとも教えられています。
『新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。』詩篇33篇1~3節
『主は、私の口に新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。』詩篇40篇3節〔他96篇1節、98篇1節、149篇49節。黙示録5章9節参照〕。
◆新しい歌とはへブル語で"シール・カダシュ"と言い、この地上で以前一度も歌われたことのないものという意味です。・・・誰も使ったことのない新鮮な『新しい歌で主に歌う』ことを主は願っておられるのです。その新しい歌、今まで地上に存在したことのない歌をギリシャ語では"オデカイノス"と言います。他の人からもらった歌ではなく、私たち自身が直接主に向かって歌うとき新しい歌が生まれるのです。・・・自分しか知らない新しい歌を歌うときは、心を100パーセント主に向けて歌わなければなりません。

■預言的賛美とは・・

◆神は音楽というすばらしいものを創造されました。この音楽と神の言葉が結合してひとつとなったときに打ち破りが起こり、賛美と祈りがひとつとなったとき力が表されるのです。この音楽は霊から生まれます。・・
◆さて、音楽と預言がどのようなつながりを持っているか見てゆきましょう。旧約の時代ダビデは賛美奏楽者をさまざまなグループに分けました。I歴代誌25章1節では「また、ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、立て琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。」とあります。つまり、メロディとハーモニーとを持って預言する者を取り分けたのです。また「立て琴をもって主をほめたたえ、賛美しながら預言する彼らの父エドトンの指揮下にあった」(3節)とあり、「・・その父の指揮下にあって、シンバル、十弦の琴、立琴を手に、主の宮で歌を歌って、王の指揮の下に神の宮の奉仕に当たる者たちである。アサフ、エドトン、ヘマン」(6節)とあります。彼らは皆、楽器を弾きながら預言をし、賛美をしながら預言をしたのです。
◆ここで賛美礼拝者には預言的油注ぎが伴うことが聖書から証明できます。音楽は神の言葉を受け取りやすい心の状態に私たちを変えてくれるのです。預言者エリシャはモアブ王に立ち向かおうとしているいるイスラエルのヨラム王に預言するように命じられます。しかし、当のエリシャはモアブ王にこう答えます。「もし私がユダの王ヨシャパテのためにするのでなかったら、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。」(第2列王記3章14節)。預言者エリシャの心は、モアブ王に対して正しい心を持てず、預言をする気が全くないことを告白しています。そこには憤りすら読み取れます。しかし、エリシャの気持ちがどうあっても、彼は預言をしなければならないことを知っていました。そこでエリシャは意を決します。「しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上にくだり、彼は次のように言った」(第2列王記3章15節)。音楽によってエリシャの憤りの心は次第に落ち着き、正されていったのです。音楽が奏でられたとき、預言の霊がエリシャの上に下りました。音楽は神によって創造されました。そして音楽と神のことばがひとつとなるように願っておられるのです。音楽はことば以上に神とのコミュニケーションの道具でもあるのです。・・また、音楽に合わせて預言をすることも願っておられます。音楽と神のことばが結合されたとき、ブレークスルー、打ち破りが起こるからです。

■預言的な歌を解き放つための三つのステップ

◆預言的な歌を解き放つには3つのステップを踏まなければなりません。ではそのステップとは具体的にどのようなものがあるでしょう。
◆まず第1に、私たちは信仰を働かせて口を開くことです。主の言葉が与えられても語らなければ言葉となりません。新しい歌の源は私たちの内側にあり心の奥底にあるのです。『だれでも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れでるようになる。』ヨハネ7章37、38節。ここでいう心の奥底とは直訳すると、腹からという意味になります。腹とは私たちの聖霊が住まわれるところであり、霊が動くところなのです。泉からでる川が流れ出るように、唯一私たちの内側(腹)からいのちのことばが流れ出るのです。そして、私たちが口を開くとき、川が流れでて歌となり、ことばとなるのです。
◆預言的な歌を解き放つ第2番目の要素は、神の霊を受けることです。神は人間を創造するとき、ご自身の息を吹き込まれました。"その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は、生きものとなった"創世記2章7節。信仰によって息を吸い込むとき、実際に神の息を吸い込むことができます。神の息はいのちをもたらします。
◆預言的な歌を解き放つ第3番目の要素は、偏見に勝利することです。それはしばしば自分について抱いている固定観念です。「私は歌が下手だから。」と決め付けて歌わない人がいます。しかし、下手だから歌わないのではなく、「歌わないから下手」なのです。・・私たちは受けた賜物を使うことによって磨きあげていくのです。信仰によって使いつづけることが重要です。しかし使わないと、失ってしまうのです。ですから、歌いつづけましょう。もうひとつの偏見は、「それは私のミニストリーではない」と思い込んでしまうことです。主は約束しておられます。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」第一ペテロ2章9節 すべての神の民は祭司として選ばれており、信仰をもって一歩を踏み出すときに、新しい預言的な歌は解き放たれていくのです。

(脚注6)
◆“CFNJ NEWS”2002.6・7月号(NO.99)に講義の要約が掲載されている。そこからの抜粋。