教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑰ 歌と踊りを伴うイスラエル・ジューイッシュ・ソング <1>

2005-06-20 06:50:05 | 講義
1. 19世紀、東ヨーロッパのユダヤ人の間に勃興したハシディズムの流れ

 (1) 離散の歴史
◆二千年近いユダヤ人の離散の歴史は、ユダヤ人にとってもどこに住もうと似たりよったりであった。ユダヤ人に対する差別のひどかったところ、たとえばゲットーの壁の中でしか暮らしていけなかったところもあれば、比較的自由に行動できたところもあった。しかし統治者が変われば、環境もいつ変わるか分からないのがユダヤ人の運命だった。ユダヤ人が移り住んだのは、西アジア、アフリカ、ロシア、東西ヨーロッパと西半球のほとんどの国々。19世紀に入ると、アメリカに移住するユダヤ人も多くなった。世界各地に散っていったすべてのユダヤ人の後を追いかけていくことは、不可能である。
◆キリスト教が支配したヨーロッパに住むユダヤ人が受けた迫害は大きかった。常にキリスト教への改宗を迫られ、それを受けない限り、憎悪と差別から逃れることができなかった。
◆ドイツに住むユダヤ人は、16世紀、17世紀にひどい圧制と迫害を受けるようになり、その難を逃れて、東ヨーロッパに移動し始めた。こうしてポーランドやウクライナを中心にロシアなどに、多くのユダヤ人コミュニティが生まれた。
 
(2) 二つの方向
◆18世紀までゲットーの中で、経済や道徳、そして心までが荒廃していった。このとき、ユダヤ民族の中に二人の指導者が現われた。モーゼス・メンデルスゾーン(脚注1)とバール・シェム・トーヴである。メンデルスゾーンは、ユダヤ人がゲットーから解放されるためには、啓蒙主義のヨーロッパ社会に同化することが必要だと説いた。それに対し、バール・シェム・トーヴは、貧困と迫害という現実から逃れるには、精神的にそれを乗り越えて、ユダヤ民族の本質に向かうべきだとした。これが神秘主義の流れをひく、いわゆるハシディズムである。ハシディズムというのは、18世紀の半ばに、東ヨーロッパのユダヤ人たちの間に起こった宗教復興運動である。一言でいえば、貧困と迫害の苦しい現実からのがれ精神を高めていくなかで、ユダヤ人の本質を取り戻し、そこに喜びを見出そうというものである。・・多くのユダヤ人、特に貧しいユダヤ人の間に、たちまちこのハシディズムは広まっていった。
◆このように、一方は、ヨーロッパ社会に同化(文脈化)しようという考え方、他方は、精神を高めてユダヤの本質に帰ろうとする考え方、そのいずれもがユダヤ人の生活の中に深く入り込んでいった。そして、前者はヨーロッパ音楽に、後者はユダヤ音楽に大きな影響を与えることとなる。
(牛山 剛著『ユダヤ人音楽家-その受難と栄光―』84~96頁、ミルトス社、1991)

2. イスラエル・フォークソングの源流としてのハシディズム

 (1) ハシディズムの特徴
◆知名度は低いが、この18世紀に東ヨーロッパ(ポーランド、ロシア)で勃興したハシディズム運動は、ユダヤ教の信仰復興運動として注目すべき出来事である。この運動の創始者バール・シェム・トーブ、通称べシュトはカリスマ的魅力をもっており、大勢の信奉者を集めた。各地で、人々の病を癒しながら、次第に多くの信者を得て、広まっていった。またこの運動は、歌や踊りを取り入れて、恍惚(エクスタシー)状態による神と人の直接の交わりを重視した。この恍惚は神を知ることから生まれる恍惚である。
◆そもそも、ハシディム派は正統派ユダヤ教注2の知識偏重主義への反発として始まった。その教えの強調点は、生き生きとした信仰、情熱的な礼拝、同胞意識の喚起、共同体生活の重視などにある。
◆ハシディムという語は、「敬虔な者」を表わす「ハシッド」から来ている。ハシディム派のユダヤ教とは、「教えの体系」というよりも「生きる道」と考えたほうが分かりやすい。以下はハシディムの強調点である。
①神の遍在性を主張する。
②律法主義ではなく個人的な信仰を要求する。
③知識より経験を評価する。
④女性が信仰上果たす役割を強調する。
⑤自分を無にし、心を込めて祈るなら祈りには効果があると信じる。
⑥霊的な指導者への忠誠心を強調する。

(2) ハシディズムのメロディー
◆ハシディズムから生まれたのがハシディック・ニグン(言葉のない調べ)である。ハシディズムの音楽は、東欧に移ってくる前に住んだドイツのシナゴーグの音楽と、移住後影響を受けたスラブ・東欧系の音楽、この二つの要素から成り立っていた。そして後者の要素がいちだんと強まって生まれたのが、ハシディズムの音楽だった。
◆詩や言葉を離れて歌われるニグンは、一つのシラブルを、さまざまなメリスマを用いて、即興的に歌われる長い節が特徴である。陽気な中に、哀愁をこめた旋律は、西洋と東洋が混ざり合って生まれたものであるが、どちらかといえば、東洋的な色合いが強くにじみ出ている。
◆歌い方や一定のメロディーは最初、バール・シェム・トーヴが作ったが、1760年に彼が死んでからは、弟子たちがこれを広め、やがてたくさんの新しいメロディーが生まれた。それは後に、ユダヤのフォーク・ソングとなり、現代のイスラエルでも歌われ続けている。しかし音楽的特徴よりも、それを創り出した精神的な背景のほうがずっと重要で、かつ深い意味を持っている。
◆ここで<ハシディックな歌>をいくつか聴いてみることにしよう!!
“From the Bible for Revive”(HATAKUT 1999) のCDを参照。

(脚注1)
◆モーゼス・メンデルスゾーン(1729-86)。音楽家フェリックス・メンデルスゾーンの祖父で、哲学者である。メンデルスゾーンは、自分の哲学を通じてユダヤ人社会を物理的にも精神的にもゲットー(隔離居住区)から解放し、外の近代的で世俗的な世界につれだそうとした人間なのである。18世紀の前半、ドイツやイタリアのユダヤ人社会にも「ハスカラ(ユダヤ啓蒙運動)」と呼ばれる、啓蒙主義の動きが高まっていく。メンデルスゾーンはその中心的な唱導者でだった。「ハスカラ」は、ユダヤ教の教えしか知らないユダヤ人に、ヨーロッパ文化にも興味をもたせ、ヨーロッパ人としての教養を身につけさせることによって、ユダヤ人差別も解消していこうとした。この志向は、当時のユダヤ人のあいだにドイツ文化に対する愛着が生まれていたことの表れである。「まずドイツ人、つぎにユダヤ人であれ」というのが、
ユダヤ啓蒙主義者たちのモットーだった。彼らは、ユダヤ人に課してきた移動や衣服に関する中世的な制限をやわらげたことで、ドイツ人のユダヤ憎悪もやわらいだのだと誤認したのである。この致命的な幻想は、芸術と幻想が誇らかに栄えたその後の150年間つづき、第3帝国の業火のなかで完全に消滅することになる。メンデルスゾーンが最大の目標としたのは、世俗生活と宗教思想との融和にほかならなかった。

(脚注2)
◆正統派は最も体系化された形のユダヤ教である。その根本になっているのは、口伝律法によって解釈されたトーラーの教えである。タルムードは、それらの口伝律法を集大成したものである。正統派はタルムードこそが信仰、道徳、一般生活など、全ての事柄に関する最終的な権威とみなしている。
 

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