教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論④ 使徒教父時代からローマ帝国公認宗教となるまで<1>

2005-04-14 14:41:11 | 講義
<はじめに>
◆本論④ではその範囲を使徒教父(脚注1)時代からキリスト教がローマ帝国において公認(313年)されるまでの時代を扱う。この間(250年間)は、キリスト教会において迫害の嵐をくぐりぬけた時代であり、まさに十字架を忍んだ時代である。その中で、教父たちは自らの生命を賭けて福音を伝え、ひとたび伝えられた福音を正しく伝承し、これを当時の人々に理解できる形で表現しようと努めた。教父たちは使徒たちから継承した信仰をヘレニズム文化の土壌で伝達しようとしたのである。そのために、教父たちがその神学的な思索にしばしば援用したのはギリシア哲学であった。当時の文化の中心がギリシャ哲学であった以上、ギリシャ哲学の概念を用いることなくしては、理性ある人々に訴えかけることはできなかったのである。彼らは聖書を自分の心に持ち、ギリシャ哲学をその手足として使ったのである。それゆえ、聖霊に導かれた初代教会の自由でエクスタシスな傾向は、第二世代以降においては消滅せざるを得なくなったのである。

1. 使徒教父時代の教会が当面した問題

◆1世紀末から2世紀中頃まで一般に使徒教父時代と呼ばれている。使徒教父たちは使徒たちの生き証人とも言える弟子たちであり、キリスト教的伝統遵守の傾向をもっている。すでにキリスト教会においては、ユダヤ教との戦いは過去のものとなり、それにかわって、異教徒が理解し得るために彼らに対するキリスト信仰の弁証の必要が生じてきた。この時代における教会の最大の関心事は使徒の教えを正しく継承して宣べ伝え、それを教会内外の分派や異端からいかに守るかということにあった。

(1)教会内の問題・・・グノーシス主義という異端との戦い
◆キリスト教を脅かす内部からの危険は、グノーシス主義という異端であった。これは極端に二元論的な教えで、グノーシス(知恵)を得ることによって肉体から解放された魂が救われると説いた。物質を創造した神を悪神とみなしてイエスの受肉、十字架、復活の教理をすべて否定する教えであった。このような異端に対して、使徒的教会は正しい信仰告白をもって対抗しなければならなかった。「使徒信条」はその代表的なものである。これは従来、12使徒がそれぞれの告白を持ちよって作ったと信じられ、使徒信条と呼ばれたものであるが、その起源は使徒後時代のローマ教会の洗礼式における受洗者の信仰告白にあったと言われている。「我は・・・信ず」(クレド)。その告白の内容は「天地の造り主」から「からだのよみがえり」に至るまで、グノーシス主義などの異端に反対する大胆な信仰の告白である。このように、使徒教父の時代にはエクスタティックな霊の活動はほとんど消滅してしまった。それにかわってある種の教会統一を作り出す信仰基準が登場するようになった。異端との戦いを通して、教会は使徒的伝承を保持する戦いを余儀なくされた、きわめて重要な時代と言えるのである。

(2) 教会外の問題・・・迫害
◆初代教会の歴史はまさに殉教の歴史であった。ローマ帝国による迫害の前には、ユダヤ教から、そして世界各地の異教からも迫害されてきたが、ローマ帝国からの迫害が本格的に始まったのは、ネロ帝治世のAD64年からである。そしてこの迫害はコンスタンティヌス帝の寛容令(313)の発布まで、約250年間にわたって続いた。この間、10回にわたる大迫害が行なわれ幾百万のキリスト教徒が殉教の栄光を受けたのである。しかし、2世紀の教父テルトリアヌスが言ったように、まさに「殉教の血は、教会の種子」となったのである。(脚注2)
①<迫害の理由>
a. 皇帝礼拝の拒否  b. 祭儀関係者の反感 c. 平等意識への目覚め
②<キリスト教公認となった背景>
◆ところで、なぜコンスタンティヌス帝がキリスト教に対して寛容令を出すことになったのか? 帝国内には武力をもって教会を屈服させるか、あるいは教会と盟約を結びそれを利用するか、二つの政策を主張する勢力があった。コンスタンティヌス帝は後者の融和政策を取っていた。そして312年の12月、迫害政策と融和政策との決定的な戦いが起った。
◆一説によれば、決戦前夜、コンスタイティヌスは夢で一つのしるしを見、『このしるしにより勝利を収めよ!』とのお告げを受けた。そのしるしは、ギリシヤ語でキリストを意味する「クリストス」の最初の二文字、X とPとの組み合わせであった。翌朝彼は、自軍の兵士のかぶとや盾にこのしるしを塗り、決戦で大勝した。この決戦の意義は大きい。なぜなら、ローマ皇帝がキリスト教の神、キリストの加護によって勝利したこと、つまり、迫害政策の失敗が万人の心に印象づけられたからである。
◆「新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。主は御救いを知らしめ、その義を国々の前に現わされた。」(詩篇98篇1、2節) この聖句は、最初の教会史家エウセビオスが、コンスタンスティヌス帝によって、キリスト教の神がついに勝利を収めたと感慨を込めて、著書『教会史』の最終巻の冒頭で引用した詩篇である。勝利の賛美を歌う教会―これは4世紀の教会の姿を見事に表現している。ついに、日の目を見た教会、それまで異端と戦い、迫害に甘んじてきたキリスト教会がローマ帝国において公認を勝ち取った。そんな教会を想像してみると、賛美と喜びの声はどのように響いたことだろうか。「新しい歌」とは象徴的である。それは4世紀の教会がそれまでの歴史の中で経験したことのない新しい状況の中に置かれたことを意味する。しかしそこに至るまで、キリスト教会は、まさに迫害の嵐をくぐり、十字架を忍ばなければならなかったのである。

(脚注1)
◆12使徒の教えを忠実に代弁し、また、きよい生活を送り、1世紀から5世紀にかけて初代教会の主教(司祭、監督)として活躍した人たちを、教父―公式な教会の称号は5世紀以降から使われたーと呼ぶようになった。なお、1世紀末から2世紀中頃にかけて正統的文書を記した教父を、特に「使徒教父」と呼んでいる。
①クレメンス・・・使徒ペテロの三代目の後継者、ローマの監督。
②ボリュカルポス(69~156)・・・使徒ヨハネの弟子、スミルナの監督。殉教。
③イグナティウス(67~110)・・・使徒ヨハネの弟子、アンテオケの監督。殉教。
④パピアス(70頃~115)・・・ヒエラポリスの監督。著者「主の説教の釈義」。殉教。
⑤ユスティノス(100~167)・・・著者「キリスト教弁証論」、ローマで殉教。
⑥エイレナイオス(130~200)・・・リヨンの監督。殉教。
⑦オリゲネス(185~254)・・・学者。獄死。
⑧テルトリアヌス(160~220)・・・ラテン・キリスト教の父。
⑨エウセビウス(264~340)・・・教会史の父。
⑩ヨハネ・クリュソスモス(345~407)・・・大説教家、注解者。流刑。
⑪アウグスチヌス(354~430)・・・神学者、ヒッポの監督。

(脚注2)
AD61 パウロ、ローマに滞在。
AD62 主の兄弟ヤコブ(エルサレム教会の柱、使徒会議議長)が殉教
AD64 ローマの大火、ローマ帝国の第1回大迫害 ネロ帝はキリスト教徒をローマ大火の放火の犯人と仕立て上げ、大迫害を行い、キリスト教徒は猛獣の餌食にされたり、体に油を塗られた松明代わりにされたり、残忍な処刑にあい、多くの者が殉教した。この後この方式に倣って全土に迫害が拡大した。
AD67 パウロはローマで斬首され殉教 ペテロもローマで逆さ十字架にかかり殉教。
AD70 エルサレムの陥落と神殿の崩壊(64年、ヘロデ王によってエルサレム神殿が完成した)
AD81~96 ドミチアヌス帝による第2回目の大迫害。皇帝礼拝を拒否したためであった。この間に、ヨハネは福音書を執筆、95年バトモス島に流刑となるが、ネルヴァ帝(96~98)により釈放されて、エペソで黙示録を執筆。100年頃、ヨハネはエペソで94才の天寿を全うする。
AD98 トラヤヌス帝による第3回目の大迫害。告発による処罰した。アンテオケ教会の二代目監督イグナチウスは猛獣に投げ与えられて殉教。
AD156 スミルナ教会の監督ポリュカルポスが殉教。
AD161 第4回目の大迫害(アウレリウス帝)
AD193 第5回目の大迫害(セベルス帝)
AD235 第6回目の大迫害(トラクス帝) 特に教会の指導者たちが殉教。
AD249 第7回目の大迫害(デキウス帝) 
AD251 第8回目の大迫害(バレリアヌス帝) ローマ帝国の人口40%がキリスト教徒になり急増中。
AD270 第9回目の大迫害(アウレリアヌス帝)  この頃、エジプトでは修道院運動が起こる。
AD303 第10回目の大迫害(ディオクレチアヌス帝) 10年間で約50万人が殉教する。会堂破壊、聖書の没収、教職者の東国、神々へのいけにえの強制等の迫害が帝国全域においてなされた。
AD313 コンスタンチヌス帝、ミラノで「寛容令」を発布、帝国全域でキリスト教公認。
AD325 第一回ニカイア会議が開かれ、アリウス主義を異端と定める。
AD380 テオドシウス帝、キリスト教を国教とすることを勅令で発布。





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