教会史における「新しい歌」 ー賛美と礼拝の歴史神学的考察ー

「新しい歌」がどのように生み出され、受け継がれ、また新たな歌を必要とする状況を生み出したかを歴史的に検証します。

本論⑧ マルチン・ルターとコラール <1>

2005-04-24 20:13:18 | 講義
1.  マルチン・ルターという人物 

◆キリスト教が4世紀にローマの国教として制定されてから、約千二百年を経た16世紀の前半、1517年から1524年にかけて、カトリックの最も真面目な司教の一人であったルターは、乱脈のきわみに達していたカトリックの世界をなんとか是正したいという気持ちから、大胆にも、教皇庁に対して一投石を放った。その一投石とは、「95箇条の提題」を書いた板をヴッテンベルグの城教会の扉に打ち付けた事件であった。この事件は、ルターが自分でも予想だにしなかった歴史的事件、すなわち、<宗教改革>へと発展してしまった。(脚注1)

●〔1483〕・・・・・・・・・ ルター誕生
●〔1501〕(18歳)・・・・エルフルトの大学に入学(法律を学ぶため、父親に従って)
●〔1505〕(22歳)・・・・ルターは優等な成績で修士の学位を受ける。父親の願いに従って立身出世の道に励んだ。しかし<落雷の体験>による死の恐怖からの突然の回心。その際に誓いを立て、このとき初めて父に反抗し、父の許可なく大学を辞めて修道院に入る決心をする。彼は修道院に入ることによって死の問題の解決が与えられると期待した。ルターが入ったアウグスチヌス派修道院は、最も厳格な戒律と訓育をもって知られた修道院であった。彼はそこで壮絶な苦悶をしながら、模範的な生活を続けた。しかし良心の平安はなかった。
●〔1507〕(24歳)・・・・司祭となる。聖歌隊で歌っているときに発作を経験。突然、床に倒れ、何かにとりつかれたように、とりとめのないことをわめき、うなった。しかしこの発作は、父親からの亡霊からの新しい夜明けを意味する経験であった。
●〔1513〕(30歳)・・・・神学博士になり、聖書を地道に学ぶ中で「塔における啓示」を経験する。それは学究的な経験で、「信仰による神の義」という真理に目が開かれる経験であった。その経験をしたヴィテンベルグ大学で詩篇の講義をするようになる。このころから人々の告解を聴き、民衆が免罪符を買うことを強いられてひどく苦しめられていることを初めて知った。
●〔1517〕(34歳)・・・・ヴィンテンベルグの教会の扉に「95か条の提題」を打ち付ける。同時に、ドイツの大司教にも書簡として送った。この日が10月31日で、現在の宗教改革記念日となった。絶対的な力をもつ教会を批判したとされ、ルターは教皇庁の審問を受ける。そして彼はそこで「我ここに立つ。神よ、我を助けたまえ。アーメン」の言葉で絶句する。1520年には教会から破門、翌1521年には帝国から帝国追放刑(事実上の死刑)を宣告される。
●〔1521〕(38歳)・・・・その後、ルターはザクセン選帝候のフリードリッヒの計らいで誘拐され、ヴァルトベルグ城の中にかくまわれ、その保護の下で聖書の翻訳に取り掛かる。
●〔1522〕(39歳)・・・・その時、11週間と言う速さで新約聖書をドイツ語に、次いで1534年には旧約聖書全体を翻訳する。このことにより、ラテン語の解らない一般の大衆に聖書を読む機会を与えたばかりでなく、結果的に、各地の方言に分かれていたドイツ語を統一するのに大きな貢献をすることとなつた。また、人々が歌いやすいような讃美歌を数多く作った。そのようにしてルターは、物心両面でイエス・キリストの福音を人々に分かりやすく、また身近なものとしたのである。

2. <新しい歌>の必要性

◆1521年、ルター38歳。ヴィッテンベルグでの改革が活発になっていくにつれて、この派の礼拝順序、および礼拝(ミサ)をどのように行なうべきかを早急に決めなければならない気運が盛り上がってきた。ヴィッテンベルグ大学の神学部長カールシュタット(ルターと共に聖書講義をしていた)は思い切った改革的な形での礼拝を行なったが、ルターにとってはそれは衝撃であった。ルターはどちらかといえば保守的性格の持ち主であった。
◆讃美歌は数の上ではすでにボヘミヤ同胞会(脚注2) のものもあって不足はなかった。しかしルターが用意すべきものは、新しい福音教会の理念にかなった内容のものでなければならなかった。
◆また、ルターは教会の中ばかりではなく、会衆の家庭の中まで讃美歌を浸透させることを願った。彼はだれか良い作詞と作曲のできる人物を探し求めたが、適任者が見当たらず、結局、ルター自身がペンを取ることとなった。そして生まれた「ドイツ宗教詩」という新しい分野が開拓され、多くの追従者、継承者がこれに倣うようになったのである。(脚注3) これが<コラール>と呼ばれるものである。(脚注4)


(脚注1)
◆中世カトリック教会の腐敗ぶりを見て宗教改革をしなければならないと考えたのはマルチン・ルターが最初ではない。それ以前にも同じ志を抱く人はいた。ボヘミア (チェコ) 生まれのプラハ大学教授ヤン・フスもその一人であった。しかし当時の社会情勢では教会の迫害がこわいため、フスを表立って支持する人はなく、フスは1415年、 教会会議で異端と宣告されて火刑に処せられた。 ルターの宗教改革 (1517) に先立つこと約1世紀であった。
◆もしルターがフスの時代に登場していたら、 だれからも支持の声は上がらなかっただろう。 では、フスがなしえなかった宗教改革を、 なぜルターがなしとげることができたのか。 政治情勢の変化もあったが、 最大の理由は、 印刷術が普及していたことである。 フスの刑死から40年後の1455年に、ドイツのグーテンベルクが鉛活字による活版印刷術を発明した。それから約60年、ルターの時代には低価格で大量の印刷物を作り、 配布することができるようになっていた。ルターがウィッテンベルク城内の教会の扉に張り出した 「九十五ヵ条の論題」 の原文はラテン語であったが、ただちにドイツ語に翻訳されて、 知識階級の間に配布された。ルター支持の世論は高まり、神聖ローマ帝国の政治に参画する諸侯―選帝侯―にも影響を与えた。また、危害を防ぐためにルターの身柄をかくまう領主もいて、バチカンはついにルターを処刑することはできなかった。
(脚注2)
◆ルターの手によるドイツ訳の「新約聖書」が出版される1世紀前に、ボヘミヤの偉大な殉教者ヤン・フス(1369~1415)はプラハの教会の牧師となり、チェコ語で説教をし、また歌った。フス自身もまた、多くの讃美歌を作った。彼の亡き後、彼の流れをくむフス派の一派がボヘミヤ同胞会を組織し、母国語、またはその仲間たちの方言による讃美歌を盛んに歌った。1501、1505年には、それぞれ89曲と400曲を擁する全く別々の内容を持つ讃美歌集を出版している。ルターかドイツ語による讃美歌集の作成を急いだのには、こうした刺激があったという見方がある。
(脚注3)
◆ルターには下地があった。彼は少年の頃からラテン語の讃美歌を歌うことを何よりも好んでいたし、また学生時代の友人たちはルターを音楽家と呼んでいたほどである。また長年、詩篇とのかかわりを通して、人間の魂の根底にある神への畏敬の念や表現の崇高な美しさなどを吸収していた。無我夢中で論敵と戦うことに没頭していた頃のルターにとって、まさか自分自身が詩やメロディーを書くことになるだろうとは予想だにしていなかったに違いない。しかし彼はすでに非凡なものを持っていた。そしてそれが余すところなく表現されるようになったのである。
(脚注4)
◆「コラール」の基本は「単旋律」である。コラールの語源は「群集」という意味の「コロス」から来ており、つまりみんなで1つの旋律を歌うことから来ている。この「コラール旋律」にどのような和音をつけようが、どのような対旋律をつけようが、その曲はみんな「コラール」と基本的には呼ばれる。その旋律はドイツの民衆のなかにしっかりと根付くことになった。 聴衆はコラールの旋律を聴くだけでそれがどのような歌であるかすぐにわかったし、そのコラールの歌詞にこめられた感情をもすぐに理解することができた。 コラールの旋律は聴衆にとって、まさに「自分たちの音楽」だったのである。


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