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探求☆散策記

見たこと、聞いたこと、思ったことを綴った、日常探検記録。

去年クレムリンで

2015年08月16日 10時10分54秒 | 建築探訪
 
モスクワのクレムリン
ロシア連邦の大統領府や大統領官邸が置かれている建物で、正面には赤の広場がある。クレムリンとはロシア語で「城塞」を意味するが、モスクワのクレムリンはそれらのなかでも最も有名かつ壮大な...
 

 


ブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)

2014年08月25日 00時04分16秒 | 建築探訪

ブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)はトルコのイスタンブールを代表する世界遺産のひとつである。オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1616年に7年の歳月をかけて建造された、世界で最も美しいモスクと言われる。優美な6本のミナレットと直径30m程度の大ドームをもち、内装は青い装飾タイルやステンドグラスで施工され、色調の美しさからブルーモスクとも呼ばれている。ビジターの服装と入場時刻は制限があるので注意が必要。



内部の状況。ロウソクが現在は電飾になっている。


イスタンブールの路地裏

2014年08月24日 00時31分19秒 | 建築探訪

イスタンブールの商店街はいつも活気にあふれています。でも、路地裏に一歩入ると落ち着いて町並みを堪能することも出来ます。


国旗を見ていたら街ネコが近寄ってきました。駄目だニャー。


陳列商品の品定めをしても呼び止められませんでした。堅気の商売だね。

オープンバーの連なる通りもありました。


こちらは静かなカフェ。内緒話しでしょうか。



グム百貨店

2014年08月22日 21時01分14秒 | 建築探訪

グム百貨店は、モスクワの赤の広場に隣接する百貨店である。「グム」とはロシア語で「総合百貨店」を意味する略称である。帝政ロシア時代の1893年から存在し、ソビエト連邦時代も経済のショーウィンドーの役割を果たしてきた。当初は国営であったが、ペレストロイカ政策により民営化された。この際、従来の「国営百貨店」から「総合百貨店」に名称が変更されたが、ロシア語では綴りが似ているため、引き続き使われる事になった。また、赤の広場に面するかつての入口が再び開放され、グム百貨店はロシア革命以前の姿へと回帰した。現在グム百貨店内には200店舗が営業されている。


夜間はきらびやかな電飾が灯る。

赤の広場に面する。


雨上がりの石畳に電飾が映える。


吹抜け三層のアーケードを持つ2棟が外部通路をはさみ、平行に並ぶ配置となっている。


ドーム屋根の設計はウラジーミル・シューホフによる。ロシアの構造体といえばシューホフ。


カザン聖堂

2014年08月20日 12時20分19秒 | 建築探訪

カザン聖堂は、サンクトパテルブルグの目抜き通りであるネフスキー大通りに面して建つ半円状に弧を描くコリント式列柱の回廊である。聖堂はラテン十字形のプランであり、当初予定案では、南側にも列柱による半弧回廊が建設されるはずであった。ドームの建設に当たり設計者のヴォロニーヒンは、採光用の天窓を設置し外側ドームの天井画が自然光によって浮き上がるように演出した。



 


聖イサアク大聖堂

2014年08月19日 11時43分39秒 | 建築探訪

サンクトペテルブルグの現在の聖イサアク大聖堂はアレクサンドル1世の時代に建造されたもので、フランス人宮廷建築家オーギュスト・ド・モンフェランの設計による。1858年まで、40年の長きに工事が行われた。ソ連崩壊後、大聖堂としての活動を再開し、祭日における奉神礼が行われている。従来のロシア・ビザンチン建築様式(ギリシャ十字の平面プラン、中央部に巨大ドーム、四方に小ドームを配置する)を基本に新古典主義様式によるファザードで建設された。壁柱や床、彫像は様々な色彩の花崗岩や大理石による。


夜の大聖堂


大聖堂と右が隣接するホテル・アストリア。第二次世界大戦のレニングラード攻防戦では、アドルフ・ヒトラーが、レニングラード陥落後の祝勝会をこのホテルで行おうと考えたと言われる。

大聖堂内部








(有料)螺旋階段を上り、上部へ行くことが出来る。




一部改修中。木製の足場。


血の上の教会

2014年08月18日 00時27分11秒 | 建築探訪

血の上の教会とは農奴解放令(1861年)を出した「解放皇帝」アレクサンドル2世が、1881年3月1日、この地で暗殺されたことに由来する。建物は1907年に完成した。ソ連時代はジャガイモの倉庫として利用され「ポテトの上の教会」と呼ばれていたようです。この教会はモスクワの前出の「聖ワシリー大聖堂」をモデルとしています。中世ロシアの伝統的な建築様式で「世界一美しい教会」として世界遺産に登録されています。ネフスキー大通りからグリボエードフ運河に沿って歩くとすぐ前方
に確認することが出来ます。


運河沿いを歩いて来ると非対称に見えますが隣の公園側からの望むとシメントリーであることが判ります。

 


ポクロフスキー教会(サンクトペテルブルグ)

2014年08月16日 22時40分51秒 | 建築探訪

キジ島の釘を使わない木造教会は有名ですが、サンクトペテルブルグ近郊の「ポクロフスキー教会」も同じ材料や建築技術を用い、キジ島と同じ設計者により建てられています。キジ島までは時間に余裕がなければなかなか足を運べませんが、「ポクロフスキー教会」は市街地より車で1時間程度で伺うことが可能です。私はレンタカーで行ってみましたが、訪れる方は敬虔な信者のみで観光客らしき人は見えず、落ち着いて見学することが出来ました。木造の屋根でありながら、銀色に輝いて見えるのは、屋根材に白柳が使用されているためです。本教会はロシア正教の教会として、今もなお地元の信者に愛されながら利用され続けています。

敷地外部から


本堂裏側から


内側です。(こっそり慌てて撮ったのでピンぼけですが。)


モスクワのクレムリン

2014年08月15日 20時46分29秒 | 建築探訪

ロシア連邦の大統領府や大統領官邸が置かれている建物で、正面には赤の広場がある。クレムリンとはロシア語で「城塞」を意味するが、モスクワのクレムリンはそれらのなかでも最も有名かつ壮大なものである。城壁の総延長2.25km。20の城門を備え、内部には様々な時代の様式による宮殿や大聖堂(寺院)が林立している。

モスクワのクレムリンの夜景です。

モスクワ川を渡り、クラスナヤ広場に向かいます。

左側にクレムリンの時計台(名称不明)が見えます。

右側(クレムリンの外側)には世界遺産の聖ワシリー大聖堂があります。

朝の状況です。

クレムリン正面にはレーニン廟(無料)があります。その拝謁のための長い列ができます。

キリル文字で「レーニン」と書いています。内部はもちろん撮影禁止。
 

クレムリン内部へは有料で入場が可能です。クレムリン(城塞)へ至る観光用の入口です。武器庫やダイヤモンド庫は別料金です。

カテドラル内部の状況です。


エルミタージュ美術館

2014年08月09日 15時53分44秒 | 建築探訪

エルミタージュ美術館は、サンクトペテルブルクにあるロシアの国立美術館。 1990年に世界遺産に包括登録されている。「エルミタージュ」とはフランス語で「隠遁者/世捨て人」の部屋という意味である。世界の三大博物館の一つ(他は大英博物館、ルーブル美術館)であり、他と違う点としては本美術館そのものが歴史の舞台であったという事と収蔵品の数が桁違い(約300万点)であることである。






機械仕掛けの黄金の鳥時計


ロシア国立図書館(モスクワ)

2014年08月08日 16時15分53秒 | 建築探訪

ロシア国立図書館は2つ(もう一つはサンクトペテルブルグ)あり、こちらは1862年設立のモスクワの建物。ソ連国内で出版された書籍は、少なくとも一冊をこの図書館に納めることが義務付けられていた。図書館内のに収蔵している資料数は4200万点(1700万点の書籍、1300万点の新聞、35万点の楽譜・音声資料、15万点の地図など)である。ロシア語文献のみでなく、外国語資料の占める割合は全体の約3割にもなる。図書館の正門前には、ロシアの文豪ドストエフスキーの記念碑が建てられている。


救世主ハリストス大聖堂

2014年08月06日 21時36分01秒 | 建築探訪

救世主ハリストス大聖堂は、モスクワ川のほとりにある正教会の大聖堂である。全世界にある正教会の大聖堂中、最も高い103メートルの偉容を誇る。1883年に大聖堂は成聖されたが1931年に宗教弾圧政策をとるソ連によって爆破された。現在の建物の歴史は浅くソ連崩壊後の2000年に再建された。なお、現在改装中である。


縁結びの御利益があるようで、橋の欄干には願掛けの錠が多数取り付けられている。


シューホフ・タワー

2014年08月05日 22時06分46秒 | 建築探訪

ロシア人技術者、ウラジーミル・シューホフは1919年にモスクワのシャボロフカでラジオ塔の建設を始めた。1922年3月半ば頃にラジオ塔は完成し、モスクワのシンボルとなった。しかし今日、老朽化が進む塔は撤去される運びとなったようである。シューホフは、1880年代から、建設に使用する材料、時間、労働を最少量にする屋根の設計に取り組み、9段の双曲面構造を積み上げて建設する構想を展開させた。エッフェル塔の4分の1より少ない鋼材で、高さはエッフェル塔を50メートル凌ぐ、高さ350メートルの塔を設計した。しかし、当時は材料の調達が不可能だったため、レーニンより塔の高さを150メートルに抑えるよう指示を受けたのであった。