16世紀の半ばに建築された、ローマの「ヴィラジュリア」における、ラングとパロールについて記述する。ヴィニョーラ(ジャコモ・バロッツィ)の名声を一躍高め、同世代の「8番目の不思議」と言われるほど興味深い建築として、又当時ローマ一美しいヴィラとして人々に讃えられたヴィラである。ヴィニョ-ラの他にもジョルジュ・ヴァザーリやバルトロメオ・アンマナーティ等フィレンツェのマニエリスト達が参画した他ミケランジェロも関与したのではないかと言われている。
様式上の特徴が建築におけるラングとすると、ルネッサンス建築の特徴は古代建築に基ずいた正確な細部意匠や比例のみならず、建築類型やその構想にいたるまで古代建築に範をとった事である。さらに、人文主義における人間の理性に訴えかける調和、均整を目的とする造形原理は、建築の配置や平面には直角直交を原則とする単純明快な幾何学的規則性として現れた。その規則性は建築の立面をも支配し、同じ形の開口部、均等な柱間が反復連続するファサ-ドの構成に建築家達は心を砕いた。平面、立面を問わず、軸線の強調や均整、均衡を重んじ水平線を強調した左右対称が造形の基本となり、安定した調和の取れた意匠が良しとされた。建築各部の大きさの間の量的関係であるプロポーション比例も重要視される。ルネッサンス建築の比例は、美的な構成要因としての数の法則性に深くかかわる計算された調和としての比例であり、それは優れて感性としての問題の、鑑賞されるべき比例であった。
市民階級の台頭に支えられたルネサンス建築では、教会をはじめ、都市の邸館(パラッツィオ)、別荘(ヴィラ)市庁舎等も大きく発展するが、これらのどの建築類型にも共通してオーダーが用いられ、各オーダーの固有の比例が建物に均整の取れた調和を与え、古代建築の刻印を押した。比較的自由にいろいろな形態の建築に適用されるルネサンスのオーダーは、建築の架構法としての構造がそのままオーダーとなるギリシャ建築のそれではなく、構造からは分離された装飾としての古代ローマのオーダーであり、アーチをオーダーで枠取った意匠を持つセプティミウス・ウェルスの凱旋門やコロッセウムなどが模範とされた。
ブラマンテ、ラファエロの時代の後、ルネサンス美術の終わりの段階としてマニエリスムが出現する。その特徴は、ルネサンスの威厳と落ち着きに変わり、また古典言語の正確さからの逸脱も見せ、奇新さ、落ち着きのなさ、見るものに不安を与える造形が建築の表層を覆い、調和よりも不調和が、古典としての正確さよりも芸術家個人の手法(マニエラ)が尊ばれた事にあった。
次に、これらルネサンス、マニエリスムの時代の中で建てられた「ヴィラ」の特徴についてであるが、この時代のヴィラは人文主義的な「愉しみの家」あるいは「隠楯所」すなわち「古代の知の探求の場」としての意味と大地、自然の中での運動や農業と深い関わりを持つ施設という二重の意味を備えたクリエーションの場であった。その源泉は古代のヴィラにある。都市における邸宅ドムスとの違いは、ヴィラが外部に対して開放的であったことにあり、ポルティコがその典型的なエレメントであった。海へ、又田園風景へと開かれたポルティコは自然の景観や農業との親密な関係を示し、テラスも重視された。ヒッポドロムス、バリネウム、パレストラ或いはスタディオといった施設、図書館や四阿などの建物、さらには小宮殿、エディキュラ、番小屋が庭園に配置される。これら庭園を構成する諸々の要素は、ヴィラ本体と共に更に植え込みや果樹園、園路や広場なども含めて、古代人の抱く自然観、居住の理想を示すものである。都市の居住には欠けた全てのものを、ヴィラに措いては実現しているかに見える。建物が垂直或いは水平に延び広がる一方で、池や噴水や滝は水の静けさや動き、深さのイメージをグロッタは深く暗いイメージを喚起する。その他様ような要素の連合によってヴィラは自然の様ような相をそこで展開し、不可視の神々やニンクまでも形象化して含み込む。それはまさにユートピアそのものであった。
さて「ヴィラジュリア」の建築をパロールとして読み取る場合、このヴィラを著しく特徴ずけている特異な点は、場所、配置の構想にあり、中庭形式をとるに至ったのも、その場所の特異性とは無関係では無いと思われる。このヴィラは丘の上や中腹、河畔といった眺望の開けた場所ではなく、両側から丘がせまるその谷間に立てられているのである。この場所そのものにヴィラ・ジュリアの垂直的イメージがすでに胚胎しており、谷間、古代の水道、周囲の丘の線がこのヴィラを大きく規定している。中庭に関しては、中庭全体が劇場として考えられたとも言われている。他のヴィラに特有の、外部に対して開放的な扱いは、このヴィラには全く見られないのである。古代ローマ建築の豊かな建築言語、装飾の駆使という点において、ヴィラ・ジュリアは15世紀的ヴィラではなく16世紀初頭以来ローマで展開されたヴィラ構想の嫡子、つまりブラマンテ、ラファエロによって実現された古代的で壮麗な手法「グランドマナー」が敬称されたものであるということは疑いがない。例えばヴィニョーラのよるとされるカジノの表現はまさしく「グランドマナー」によると考えられるが、そこに見られるジュリオ・ロマーノを思わせる粗面仕上げの戸口や、窓に意匠は注意を引く。ジュリオ・ロマーノのパラッツィオ・デル・テは本質的には郊外のヴィラであったとはいえ、両者の間に類縁関係を求めることはできない。マニエリスム的手法が鮮やかに見られるこのパラッツィオの表現における古典的建築言語の転倒や、そこからの逸脱といった柄も、カジノのは取り入れられる事はなかった。カジノは庭園側の半円形ロッジアによって特徴ある表現を与えられたが、このロッジアは筒型ヴォールトの天井を持ち、ぶどう棚、小動物等で豊かに装飾されており、その内容においては、初期キリスト教の小教会堂、サンタ・コスタンツァの外陣部に範を求めることができる。また、庭園側ファサードはパンテオン内部の一層目と類似することが大きく、大アーチと水平のエンタブラチュア、円柱の組み合わせが両者で共通している。又、湾曲して外部を取り込む様は、パレストリ-ナの神域最上部の表現を喚起させこれらの点からも16世紀初頭以来注目られ始めた古代建築の反映を認めることができるのである。
ニンファエウム或いはフォンターナの特異な空間が、中庭の劇場イメージと共にこのビラを独特なものにしていることは最も強調されるべき点である。ニンファエウムの直接的な源泉を、それがヴィラにおける水の演出のひとつと考えるならば、水の演出は他のヴィラにも多く見られるが、地下2階に掘り込まれた泉というのは他に例がない。また、第一、第二、第三の庭といった交互の繰り返し、3連アーチやセルリアーナ、或いは凱旋門モチーフの繰り返し、半円形平面の変化のある繰り返し、カジノの丈高いスケールの上への垂直性とニンファニュウムの低めのスケール、下への垂直性との対比など、不意をついてドラマティックに展開するこのヴィラの構想は意味深いしつらえに満ちている。特に、半円形の3層分の空間は、全くユニークというより他はないであろう。最もエトルリア文化の重要な作品が揃う博物館が併設されている。 博物館以外にも庭園には、復元されたエトルリアの神殿や彫像、噴水で構成されているニンフェウムなど見所がある。
ヴィラ・ジュリア ローマ
教皇ユリウス3世のための別荘であり、大部分がヴィニョーラ GiacomoBarozzi da Vignola(1507-73)、ジョルジョ・ヴァザーリ Giorgio Vasari(1511-74)、バルトロメオ・アンマナーティ Bartolomeo Ammannati(1511-92)、ミケランジェロが関わる。当時の別荘建築の代表であり、高低差をもつ独立した3つの庭からなる。大部分ヴィニョーラの設計であるが、ベルヴェデーレはアンマナーティによる。建物は内側に半円形の優雅な回廊を持ち、それに呼応するかのように、庭園の反対側に軸線に沿って、半円形の一段下がった庭がある。
ルネサンスからバロックにおける建築と音楽
15世紀の建築の外壁は、計画案も含め、ほとんどは直線か円弧であり、円弧の場合は外側に膨らむ。そして建築は内部のひとつひとつの空間が完結し、互いに貫入しあうことがなく、全体もまた外部から独立している。
しかし、16世紀に入ると、バロックへの橋渡しをしたヴァチカン宮殿の《ヴェルヴェデーレ》(1513)のように、庭園に面する壁が凹型の曲面になっており、その上部が半ドームによってえぐられた建築が登場する。また《ヴィラ・マダーマ》(1525)や《ヴィラ・ジュリア》(1555)も、同様に半円形にへこませた壁を使う。馬蹄形の建築が庭園を受けとめる構成をもつ。これらの例では、ファサードのくぼみは前面に広がる空間によって満たされるものと考えられる。凹型の曲面が壁の外側に用いられていると、建築はあたかもその部分だけくり抜かれた不完全なものに見える。形態は自律していない。これは外部空間の存在によってはじめて補完される。しかし、外部の空間はモノではない。見えない休符としての空間である。不完全さ、すなわち形態の欠如は、空虚な存在を前提とした表現といえよう。ちなみに、実際に設計を行なう場合、こうした輪郭は作図上も、建物の外側にコンパスの中心を置かねばならない。施工にあたっても、おそらく外側から距離を計ることになる。つまり、外部との関係性により、内部が形成されるのだ。
17世紀には、外部に面して凹型の曲面をもつ建築が数多く設計された。バロックの建築では、内部と外部が相互貫入する。それ以前の自己完結したルネサンス期の建築に比べると、バロックは外部空間をより意識して作られた。ゆえに、形態の完結性を失う。バロックの時代に建築が外部の空間に対して開き、前面の広場や都市計画が積極的に提案されたのは偶然ではない。またバロックとルネサンスの比較研究から、空間の概念が注目されたのも当然だろう。ボルロミーニの作品を見よう。《サンタンドレア・デッレ・フラッテ》(1652)のドーム上部や《オラトリオ会時計塔》(1650)は、円柱の一部が大胆にそぎ落とされた残りの塊に見える。《サンティーヴォ聖堂》(1660)の頂部は規則的にえぐれており、中庭ファサードでは、凹型曲面の外壁が中庭空間を包む。《サン・カルロ聖堂》(1668)の波うつファサードは、下層が凹凹凹、上層が凹凸凹のパターンを激しく繰り返し、不完全な断片のようだ。《サンタニエーゼ聖堂》(1652)の正面は、凹型の壁をもち、矩形の塊から中央部分だけを円弧の型でナヴォナ広場側からくり抜く。つまり、外部と内部のインターフェイスが発生している。
グァリーニの《サン・ロレンツォ》(1680)の頂部も、へこんだ不完全な形をもつ。《パラッツォ・カリニャーノ》(1683)も凹凸凹の湾曲したファサードをもち、凸凹凸のヴォリュームがあれば、パズルのように組み合わせられる。グァリーニによる《フィリッポ・ネーリ》(1679[パンフレット表紙])の平面の突起部分は一見、不自然なものに思えるかもしれない。だが、周囲に円形を反復したパターンを補うと、なぜこの形態を導いたかが容易に理解できる(パンフレット裏表紙)。建築は無限に広がる空間のグリッドの一部なのだ。
バロック的な都市建築は、庭園ではなく、まわりの広場や道路に補われて完結する。例えば、《サンティニャツィオ広場》(1728)を囲む建物は、3つの仮想の楕円によって切りとられた形態をしている。つまり、不整形な壁面は、この広場に描かれた見えない楕円形の空間の輪郭線なのだ。バロックの建築は、広場の見えない空間を感じたときに初めて完全なものとして理解できる。ヴォリュームの一部が欠けた建築は、自律しえず、無限に広がる世界の一部として認識されるだろう。
15世紀の教会の外壁がおおむね直線か凸型であるのと同様に、宗教音楽は小節の途中から始まる曲は少なく、最初の音が鳴ったときが曲の始まりだった。いずれも自己完結した形態をもち、外部との関係性は薄い。が、16・17世紀になると、一般的に建築では凹型曲面の外壁が増え、音楽では小節の冒頭1拍目から開始せず、休符の後に鳴り始める曲が登場する。ともにそれだけでは何か欠如した印象を受容者にあたえるだろう。すなわち、建築の造形は外部の中心が生成する見えない幾何学によって空間をえぐりとられる。一方、音楽には沈黙が侵入し、不完全な断片となる。ゆえに、開かれた存在になった両者の内部は、見えない空間(外部の広場)や聴こえない時間(空白の拍子)という外部によって補完され、はじめて完結した存在となる。これらの不完全な建築と音楽は、目に見えるもの、あるいは耳に聴こえるものの実体を超えた客観的な指標を獲得して可能になった表現である。しかし、この不完全はより高度の完全性なのだ。それは無限に展開する絶対的な時間や空間の概念が確立したからこそなせる手法といえよう。つまり、(自律した)完全から(表層的な)不「完全」へ、というわけだ。
様式上の特徴が建築におけるラングとすると、ルネッサンス建築の特徴は古代建築に基ずいた正確な細部意匠や比例のみならず、建築類型やその構想にいたるまで古代建築に範をとった事である。さらに、人文主義における人間の理性に訴えかける調和、均整を目的とする造形原理は、建築の配置や平面には直角直交を原則とする単純明快な幾何学的規則性として現れた。その規則性は建築の立面をも支配し、同じ形の開口部、均等な柱間が反復連続するファサ-ドの構成に建築家達は心を砕いた。平面、立面を問わず、軸線の強調や均整、均衡を重んじ水平線を強調した左右対称が造形の基本となり、安定した調和の取れた意匠が良しとされた。建築各部の大きさの間の量的関係であるプロポーション比例も重要視される。ルネッサンス建築の比例は、美的な構成要因としての数の法則性に深くかかわる計算された調和としての比例であり、それは優れて感性としての問題の、鑑賞されるべき比例であった。
市民階級の台頭に支えられたルネサンス建築では、教会をはじめ、都市の邸館(パラッツィオ)、別荘(ヴィラ)市庁舎等も大きく発展するが、これらのどの建築類型にも共通してオーダーが用いられ、各オーダーの固有の比例が建物に均整の取れた調和を与え、古代建築の刻印を押した。比較的自由にいろいろな形態の建築に適用されるルネサンスのオーダーは、建築の架構法としての構造がそのままオーダーとなるギリシャ建築のそれではなく、構造からは分離された装飾としての古代ローマのオーダーであり、アーチをオーダーで枠取った意匠を持つセプティミウス・ウェルスの凱旋門やコロッセウムなどが模範とされた。
ブラマンテ、ラファエロの時代の後、ルネサンス美術の終わりの段階としてマニエリスムが出現する。その特徴は、ルネサンスの威厳と落ち着きに変わり、また古典言語の正確さからの逸脱も見せ、奇新さ、落ち着きのなさ、見るものに不安を与える造形が建築の表層を覆い、調和よりも不調和が、古典としての正確さよりも芸術家個人の手法(マニエラ)が尊ばれた事にあった。
次に、これらルネサンス、マニエリスムの時代の中で建てられた「ヴィラ」の特徴についてであるが、この時代のヴィラは人文主義的な「愉しみの家」あるいは「隠楯所」すなわち「古代の知の探求の場」としての意味と大地、自然の中での運動や農業と深い関わりを持つ施設という二重の意味を備えたクリエーションの場であった。その源泉は古代のヴィラにある。都市における邸宅ドムスとの違いは、ヴィラが外部に対して開放的であったことにあり、ポルティコがその典型的なエレメントであった。海へ、又田園風景へと開かれたポルティコは自然の景観や農業との親密な関係を示し、テラスも重視された。ヒッポドロムス、バリネウム、パレストラ或いはスタディオといった施設、図書館や四阿などの建物、さらには小宮殿、エディキュラ、番小屋が庭園に配置される。これら庭園を構成する諸々の要素は、ヴィラ本体と共に更に植え込みや果樹園、園路や広場なども含めて、古代人の抱く自然観、居住の理想を示すものである。都市の居住には欠けた全てのものを、ヴィラに措いては実現しているかに見える。建物が垂直或いは水平に延び広がる一方で、池や噴水や滝は水の静けさや動き、深さのイメージをグロッタは深く暗いイメージを喚起する。その他様ような要素の連合によってヴィラは自然の様ような相をそこで展開し、不可視の神々やニンクまでも形象化して含み込む。それはまさにユートピアそのものであった。
さて「ヴィラジュリア」の建築をパロールとして読み取る場合、このヴィラを著しく特徴ずけている特異な点は、場所、配置の構想にあり、中庭形式をとるに至ったのも、その場所の特異性とは無関係では無いと思われる。このヴィラは丘の上や中腹、河畔といった眺望の開けた場所ではなく、両側から丘がせまるその谷間に立てられているのである。この場所そのものにヴィラ・ジュリアの垂直的イメージがすでに胚胎しており、谷間、古代の水道、周囲の丘の線がこのヴィラを大きく規定している。中庭に関しては、中庭全体が劇場として考えられたとも言われている。他のヴィラに特有の、外部に対して開放的な扱いは、このヴィラには全く見られないのである。古代ローマ建築の豊かな建築言語、装飾の駆使という点において、ヴィラ・ジュリアは15世紀的ヴィラではなく16世紀初頭以来ローマで展開されたヴィラ構想の嫡子、つまりブラマンテ、ラファエロによって実現された古代的で壮麗な手法「グランドマナー」が敬称されたものであるということは疑いがない。例えばヴィニョーラのよるとされるカジノの表現はまさしく「グランドマナー」によると考えられるが、そこに見られるジュリオ・ロマーノを思わせる粗面仕上げの戸口や、窓に意匠は注意を引く。ジュリオ・ロマーノのパラッツィオ・デル・テは本質的には郊外のヴィラであったとはいえ、両者の間に類縁関係を求めることはできない。マニエリスム的手法が鮮やかに見られるこのパラッツィオの表現における古典的建築言語の転倒や、そこからの逸脱といった柄も、カジノのは取り入れられる事はなかった。カジノは庭園側の半円形ロッジアによって特徴ある表現を与えられたが、このロッジアは筒型ヴォールトの天井を持ち、ぶどう棚、小動物等で豊かに装飾されており、その内容においては、初期キリスト教の小教会堂、サンタ・コスタンツァの外陣部に範を求めることができる。また、庭園側ファサードはパンテオン内部の一層目と類似することが大きく、大アーチと水平のエンタブラチュア、円柱の組み合わせが両者で共通している。又、湾曲して外部を取り込む様は、パレストリ-ナの神域最上部の表現を喚起させこれらの点からも16世紀初頭以来注目られ始めた古代建築の反映を認めることができるのである。
ニンファエウム或いはフォンターナの特異な空間が、中庭の劇場イメージと共にこのビラを独特なものにしていることは最も強調されるべき点である。ニンファエウムの直接的な源泉を、それがヴィラにおける水の演出のひとつと考えるならば、水の演出は他のヴィラにも多く見られるが、地下2階に掘り込まれた泉というのは他に例がない。また、第一、第二、第三の庭といった交互の繰り返し、3連アーチやセルリアーナ、或いは凱旋門モチーフの繰り返し、半円形平面の変化のある繰り返し、カジノの丈高いスケールの上への垂直性とニンファニュウムの低めのスケール、下への垂直性との対比など、不意をついてドラマティックに展開するこのヴィラの構想は意味深いしつらえに満ちている。特に、半円形の3層分の空間は、全くユニークというより他はないであろう。最もエトルリア文化の重要な作品が揃う博物館が併設されている。 博物館以外にも庭園には、復元されたエトルリアの神殿や彫像、噴水で構成されているニンフェウムなど見所がある。
ヴィラ・ジュリア ローマ
教皇ユリウス3世のための別荘であり、大部分がヴィニョーラ GiacomoBarozzi da Vignola(1507-73)、ジョルジョ・ヴァザーリ Giorgio Vasari(1511-74)、バルトロメオ・アンマナーティ Bartolomeo Ammannati(1511-92)、ミケランジェロが関わる。当時の別荘建築の代表であり、高低差をもつ独立した3つの庭からなる。大部分ヴィニョーラの設計であるが、ベルヴェデーレはアンマナーティによる。建物は内側に半円形の優雅な回廊を持ち、それに呼応するかのように、庭園の反対側に軸線に沿って、半円形の一段下がった庭がある。
ルネサンスからバロックにおける建築と音楽
15世紀の建築の外壁は、計画案も含め、ほとんどは直線か円弧であり、円弧の場合は外側に膨らむ。そして建築は内部のひとつひとつの空間が完結し、互いに貫入しあうことがなく、全体もまた外部から独立している。
しかし、16世紀に入ると、バロックへの橋渡しをしたヴァチカン宮殿の《ヴェルヴェデーレ》(1513)のように、庭園に面する壁が凹型の曲面になっており、その上部が半ドームによってえぐられた建築が登場する。また《ヴィラ・マダーマ》(1525)や《ヴィラ・ジュリア》(1555)も、同様に半円形にへこませた壁を使う。馬蹄形の建築が庭園を受けとめる構成をもつ。これらの例では、ファサードのくぼみは前面に広がる空間によって満たされるものと考えられる。凹型の曲面が壁の外側に用いられていると、建築はあたかもその部分だけくり抜かれた不完全なものに見える。形態は自律していない。これは外部空間の存在によってはじめて補完される。しかし、外部の空間はモノではない。見えない休符としての空間である。不完全さ、すなわち形態の欠如は、空虚な存在を前提とした表現といえよう。ちなみに、実際に設計を行なう場合、こうした輪郭は作図上も、建物の外側にコンパスの中心を置かねばならない。施工にあたっても、おそらく外側から距離を計ることになる。つまり、外部との関係性により、内部が形成されるのだ。
17世紀には、外部に面して凹型の曲面をもつ建築が数多く設計された。バロックの建築では、内部と外部が相互貫入する。それ以前の自己完結したルネサンス期の建築に比べると、バロックは外部空間をより意識して作られた。ゆえに、形態の完結性を失う。バロックの時代に建築が外部の空間に対して開き、前面の広場や都市計画が積極的に提案されたのは偶然ではない。またバロックとルネサンスの比較研究から、空間の概念が注目されたのも当然だろう。ボルロミーニの作品を見よう。《サンタンドレア・デッレ・フラッテ》(1652)のドーム上部や《オラトリオ会時計塔》(1650)は、円柱の一部が大胆にそぎ落とされた残りの塊に見える。《サンティーヴォ聖堂》(1660)の頂部は規則的にえぐれており、中庭ファサードでは、凹型曲面の外壁が中庭空間を包む。《サン・カルロ聖堂》(1668)の波うつファサードは、下層が凹凹凹、上層が凹凸凹のパターンを激しく繰り返し、不完全な断片のようだ。《サンタニエーゼ聖堂》(1652)の正面は、凹型の壁をもち、矩形の塊から中央部分だけを円弧の型でナヴォナ広場側からくり抜く。つまり、外部と内部のインターフェイスが発生している。
グァリーニの《サン・ロレンツォ》(1680)の頂部も、へこんだ不完全な形をもつ。《パラッツォ・カリニャーノ》(1683)も凹凸凹の湾曲したファサードをもち、凸凹凸のヴォリュームがあれば、パズルのように組み合わせられる。グァリーニによる《フィリッポ・ネーリ》(1679[パンフレット表紙])の平面の突起部分は一見、不自然なものに思えるかもしれない。だが、周囲に円形を反復したパターンを補うと、なぜこの形態を導いたかが容易に理解できる(パンフレット裏表紙)。建築は無限に広がる空間のグリッドの一部なのだ。
バロック的な都市建築は、庭園ではなく、まわりの広場や道路に補われて完結する。例えば、《サンティニャツィオ広場》(1728)を囲む建物は、3つの仮想の楕円によって切りとられた形態をしている。つまり、不整形な壁面は、この広場に描かれた見えない楕円形の空間の輪郭線なのだ。バロックの建築は、広場の見えない空間を感じたときに初めて完全なものとして理解できる。ヴォリュームの一部が欠けた建築は、自律しえず、無限に広がる世界の一部として認識されるだろう。
15世紀の教会の外壁がおおむね直線か凸型であるのと同様に、宗教音楽は小節の途中から始まる曲は少なく、最初の音が鳴ったときが曲の始まりだった。いずれも自己完結した形態をもち、外部との関係性は薄い。が、16・17世紀になると、一般的に建築では凹型曲面の外壁が増え、音楽では小節の冒頭1拍目から開始せず、休符の後に鳴り始める曲が登場する。ともにそれだけでは何か欠如した印象を受容者にあたえるだろう。すなわち、建築の造形は外部の中心が生成する見えない幾何学によって空間をえぐりとられる。一方、音楽には沈黙が侵入し、不完全な断片となる。ゆえに、開かれた存在になった両者の内部は、見えない空間(外部の広場)や聴こえない時間(空白の拍子)という外部によって補完され、はじめて完結した存在となる。これらの不完全な建築と音楽は、目に見えるもの、あるいは耳に聴こえるものの実体を超えた客観的な指標を獲得して可能になった表現である。しかし、この不完全はより高度の完全性なのだ。それは無限に展開する絶対的な時間や空間の概念が確立したからこそなせる手法といえよう。つまり、(自律した)完全から(表層的な)不「完全」へ、というわけだ。