探求☆散策記

見たこと、聞いたこと、思ったことを綴った、日常探検記録。

建築のラングとパロールについて

2003年12月20日 22時37分08秒 | デザイン
 16世紀の半ばに建築された、ローマの「ヴィラジュリア」における、ラングとパロールについて記述する。ヴィニョーラ(ジャコモ・バロッツィ)の名声を一躍高め、同世代の「8番目の不思議」と言われるほど興味深い建築として、又当時ローマ一美しいヴィラとして人々に讃えられたヴィラである。ヴィニョ-ラの他にもジョルジュ・ヴァザーリやバルトロメオ・アンマナーティ等フィレンツェのマニエリスト達が参画した他ミケランジェロも関与したのではないかと言われている。
様式上の特徴が建築におけるラングとすると、ルネッサンス建築の特徴は古代建築に基ずいた正確な細部意匠や比例のみならず、建築類型やその構想にいたるまで古代建築に範をとった事である。さらに、人文主義における人間の理性に訴えかける調和、均整を目的とする造形原理は、建築の配置や平面には直角直交を原則とする単純明快な幾何学的規則性として現れた。その規則性は建築の立面をも支配し、同じ形の開口部、均等な柱間が反復連続するファサ-ドの構成に建築家達は心を砕いた。平面、立面を問わず、軸線の強調や均整、均衡を重んじ水平線を強調した左右対称が造形の基本となり、安定した調和の取れた意匠が良しとされた。建築各部の大きさの間の量的関係であるプロポーション比例も重要視される。ルネッサンス建築の比例は、美的な構成要因としての数の法則性に深くかかわる計算された調和としての比例であり、それは優れて感性としての問題の、鑑賞されるべき比例であった。
 市民階級の台頭に支えられたルネサンス建築では、教会をはじめ、都市の邸館(パラッツィオ)、別荘(ヴィラ)市庁舎等も大きく発展するが、これらのどの建築類型にも共通してオーダーが用いられ、各オーダーの固有の比例が建物に均整の取れた調和を与え、古代建築の刻印を押した。比較的自由にいろいろな形態の建築に適用されるルネサンスのオーダーは、建築の架構法としての構造がそのままオーダーとなるギリシャ建築のそれではなく、構造からは分離された装飾としての古代ローマのオーダーであり、アーチをオーダーで枠取った意匠を持つセプティミウス・ウェルスの凱旋門やコロッセウムなどが模範とされた。
 ブラマンテ、ラファエロの時代の後、ルネサンス美術の終わりの段階としてマニエリスムが出現する。その特徴は、ルネサンスの威厳と落ち着きに変わり、また古典言語の正確さからの逸脱も見せ、奇新さ、落ち着きのなさ、見るものに不安を与える造形が建築の表層を覆い、調和よりも不調和が、古典としての正確さよりも芸術家個人の手法(マニエラ)が尊ばれた事にあった。
 次に、これらルネサンス、マニエリスムの時代の中で建てられた「ヴィラ」の特徴についてであるが、この時代のヴィラは人文主義的な「愉しみの家」あるいは「隠楯所」すなわち「古代の知の探求の場」としての意味と大地、自然の中での運動や農業と深い関わりを持つ施設という二重の意味を備えたクリエーションの場であった。その源泉は古代のヴィラにある。都市における邸宅ドムスとの違いは、ヴィラが外部に対して開放的であったことにあり、ポルティコがその典型的なエレメントであった。海へ、又田園風景へと開かれたポルティコは自然の景観や農業との親密な関係を示し、テラスも重視された。ヒッポドロムス、バリネウム、パレストラ或いはスタディオといった施設、図書館や四阿などの建物、さらには小宮殿、エディキュラ、番小屋が庭園に配置される。これら庭園を構成する諸々の要素は、ヴィラ本体と共に更に植え込みや果樹園、園路や広場なども含めて、古代人の抱く自然観、居住の理想を示すものである。都市の居住には欠けた全てのものを、ヴィラに措いては実現しているかに見える。建物が垂直或いは水平に延び広がる一方で、池や噴水や滝は水の静けさや動き、深さのイメージをグロッタは深く暗いイメージを喚起する。その他様ような要素の連合によってヴィラは自然の様ような相をそこで展開し、不可視の神々やニンクまでも形象化して含み込む。それはまさにユートピアそのものであった。
 さて「ヴィラジュリア」の建築をパロールとして読み取る場合、このヴィラを著しく特徴ずけている特異な点は、場所、配置の構想にあり、中庭形式をとるに至ったのも、その場所の特異性とは無関係では無いと思われる。このヴィラは丘の上や中腹、河畔といった眺望の開けた場所ではなく、両側から丘がせまるその谷間に立てられているのである。この場所そのものにヴィラ・ジュリアの垂直的イメージがすでに胚胎しており、谷間、古代の水道、周囲の丘の線がこのヴィラを大きく規定している。中庭に関しては、中庭全体が劇場として考えられたとも言われている。他のヴィラに特有の、外部に対して開放的な扱いは、このヴィラには全く見られないのである。古代ローマ建築の豊かな建築言語、装飾の駆使という点において、ヴィラ・ジュリアは15世紀的ヴィラではなく16世紀初頭以来ローマで展開されたヴィラ構想の嫡子、つまりブラマンテ、ラファエロによって実現された古代的で壮麗な手法「グランドマナー」が敬称されたものであるということは疑いがない。例えばヴィニョーラのよるとされるカジノの表現はまさしく「グランドマナー」によると考えられるが、そこに見られるジュリオ・ロマーノを思わせる粗面仕上げの戸口や、窓に意匠は注意を引く。ジュリオ・ロマーノのパラッツィオ・デル・テは本質的には郊外のヴィラであったとはいえ、両者の間に類縁関係を求めることはできない。マニエリスム的手法が鮮やかに見られるこのパラッツィオの表現における古典的建築言語の転倒や、そこからの逸脱といった柄も、カジノのは取り入れられる事はなかった。カジノは庭園側の半円形ロッジアによって特徴ある表現を与えられたが、このロッジアは筒型ヴォールトの天井を持ち、ぶどう棚、小動物等で豊かに装飾されており、その内容においては、初期キリスト教の小教会堂、サンタ・コスタンツァの外陣部に範を求めることができる。また、庭園側ファサードはパンテオン内部の一層目と類似することが大きく、大アーチと水平のエンタブラチュア、円柱の組み合わせが両者で共通している。又、湾曲して外部を取り込む様は、パレストリ-ナの神域最上部の表現を喚起させこれらの点からも16世紀初頭以来注目られ始めた古代建築の反映を認めることができるのである。
 ニンファエウム或いはフォンターナの特異な空間が、中庭の劇場イメージと共にこのビラを独特なものにしていることは最も強調されるべき点である。ニンファエウムの直接的な源泉を、それがヴィラにおける水の演出のひとつと考えるならば、水の演出は他のヴィラにも多く見られるが、地下2階に掘り込まれた泉というのは他に例がない。また、第一、第二、第三の庭といった交互の繰り返し、3連アーチやセルリアーナ、或いは凱旋門モチーフの繰り返し、半円形平面の変化のある繰り返し、カジノの丈高いスケールの上への垂直性とニンファニュウムの低めのスケール、下への垂直性との対比など、不意をついてドラマティックに展開するこのヴィラの構想は意味深いしつらえに満ちている。特に、半円形の3層分の空間は、全くユニークというより他はないであろう。最もエトルリア文化の重要な作品が揃う博物館が併設されている。 博物館以外にも庭園には、復元されたエトルリアの神殿や彫像、噴水で構成されているニンフェウムなど見所がある。

ヴィラ・ジュリア ローマ
教皇ユリウス3世のための別荘であり、大部分がヴィニョーラ GiacomoBarozzi da Vignola(1507-73)、ジョルジョ・ヴァザーリ Giorgio Vasari(1511-74)、バルトロメオ・アンマナーティ Bartolomeo Ammannati(1511-92)、ミケランジェロが関わる。当時の別荘建築の代表であり、高低差をもつ独立した3つの庭からなる。大部分ヴィニョーラの設計であるが、ベルヴェデーレはアンマナーティによる。建物は内側に半円形の優雅な回廊を持ち、それに呼応するかのように、庭園の反対側に軸線に沿って、半円形の一段下がった庭がある。


ルネサンスからバロックにおける建築と音楽

15世紀の建築の外壁は、計画案も含め、ほとんどは直線か円弧であり、円弧の場合は外側に膨らむ。そして建築は内部のひとつひとつの空間が完結し、互いに貫入しあうことがなく、全体もまた外部から独立している。
しかし、16世紀に入ると、バロックへの橋渡しをしたヴァチカン宮殿の《ヴェルヴェデーレ》(1513)のように、庭園に面する壁が凹型の曲面になっており、その上部が半ドームによってえぐられた建築が登場する。また《ヴィラ・マダーマ》(1525)や《ヴィラ・ジュリア》(1555)も、同様に半円形にへこませた壁を使う。馬蹄形の建築が庭園を受けとめる構成をもつ。これらの例では、ファサードのくぼみは前面に広がる空間によって満たされるものと考えられる。凹型の曲面が壁の外側に用いられていると、建築はあたかもその部分だけくり抜かれた不完全なものに見える。形態は自律していない。これは外部空間の存在によってはじめて補完される。しかし、外部の空間はモノではない。見えない休符としての空間である。不完全さ、すなわち形態の欠如は、空虚な存在を前提とした表現といえよう。ちなみに、実際に設計を行なう場合、こうした輪郭は作図上も、建物の外側にコンパスの中心を置かねばならない。施工にあたっても、おそらく外側から距離を計ることになる。つまり、外部との関係性により、内部が形成されるのだ。
17世紀には、外部に面して凹型の曲面をもつ建築が数多く設計された。バロックの建築では、内部と外部が相互貫入する。それ以前の自己完結したルネサンス期の建築に比べると、バロックは外部空間をより意識して作られた。ゆえに、形態の完結性を失う。バロックの時代に建築が外部の空間に対して開き、前面の広場や都市計画が積極的に提案されたのは偶然ではない。またバロックとルネサンスの比較研究から、空間の概念が注目されたのも当然だろう。ボルロミーニの作品を見よう。《サンタンドレア・デッレ・フラッテ》(1652)のドーム上部や《オラトリオ会時計塔》(1650)は、円柱の一部が大胆にそぎ落とされた残りの塊に見える。《サンティーヴォ聖堂》(1660)の頂部は規則的にえぐれており、中庭ファサードでは、凹型曲面の外壁が中庭空間を包む。《サン・カルロ聖堂》(1668)の波うつファサードは、下層が凹凹凹、上層が凹凸凹のパターンを激しく繰り返し、不完全な断片のようだ。《サンタニエーゼ聖堂》(1652)の正面は、凹型の壁をもち、矩形の塊から中央部分だけを円弧の型でナヴォナ広場側からくり抜く。つまり、外部と内部のインターフェイスが発生している。
グァリーニの《サン・ロレンツォ》(1680)の頂部も、へこんだ不完全な形をもつ。《パラッツォ・カリニャーノ》(1683)も凹凸凹の湾曲したファサードをもち、凸凹凸のヴォリュームがあれば、パズルのように組み合わせられる。グァリーニによる《フィリッポ・ネーリ》(1679[パンフレット表紙])の平面の突起部分は一見、不自然なものに思えるかもしれない。だが、周囲に円形を反復したパターンを補うと、なぜこの形態を導いたかが容易に理解できる(パンフレット裏表紙)。建築は無限に広がる空間のグリッドの一部なのだ。
バロック的な都市建築は、庭園ではなく、まわりの広場や道路に補われて完結する。例えば、《サンティニャツィオ広場》(1728)を囲む建物は、3つの仮想の楕円によって切りとられた形態をしている。つまり、不整形な壁面は、この広場に描かれた見えない楕円形の空間の輪郭線なのだ。バロックの建築は、広場の見えない空間を感じたときに初めて完全なものとして理解できる。ヴォリュームの一部が欠けた建築は、自律しえず、無限に広がる世界の一部として認識されるだろう。
15世紀の教会の外壁がおおむね直線か凸型であるのと同様に、宗教音楽は小節の途中から始まる曲は少なく、最初の音が鳴ったときが曲の始まりだった。いずれも自己完結した形態をもち、外部との関係性は薄い。が、16・17世紀になると、一般的に建築では凹型曲面の外壁が増え、音楽では小節の冒頭1拍目から開始せず、休符の後に鳴り始める曲が登場する。ともにそれだけでは何か欠如した印象を受容者にあたえるだろう。すなわち、建築の造形は外部の中心が生成する見えない幾何学によって空間をえぐりとられる。一方、音楽には沈黙が侵入し、不完全な断片となる。ゆえに、開かれた存在になった両者の内部は、見えない空間(外部の広場)や聴こえない時間(空白の拍子)という外部によって補完され、はじめて完結した存在となる。これらの不完全な建築と音楽は、目に見えるもの、あるいは耳に聴こえるものの実体を超えた客観的な指標を獲得して可能になった表現である。しかし、この不完全はより高度の完全性なのだ。それは無限に展開する絶対的な時間や空間の概念が確立したからこそなせる手法といえよう。つまり、(自律した)完全から(表層的な)不「完全」へ、というわけだ。

日本建築史

2003年12月20日 22時29分27秒 | デザイン
 日本の建築は古代に唐、中世に宋、近世に明といった時代に中国文化を導入している。日本の支配者階級の邸宅では新しい様式として以降昇華していった寝殿造、書院造、数奇屋造という3つの様式が起こり、現在の「和」の根幹を成しているといえる。変化の過程では、西欧のように古い様式の否定や克服によって新しい様式が成立するのではなく、旧様式を骨子に新様式の特性を付加する方法を積み重ねていった。以下、外来の文化が日本の建築にどのような影響を与えたのか、寺院建築、寺社建築、支配者層の住宅と都市の形成について其々の特徴と共に述べる。
 寺院建築は仏教という宗教のもとに生み出された建築で、仏教思想を表現し、その研学や信仰の空間となってきた。日本における仏教は南都六宗と称される顕教に始まり、平安時代に天台宗や真言宗などの密教が伝わり、そこから末法思想や浄土信仰が生まれた。さらに平安末から鎌倉時代に、浄土宋や浄土真宗、時宗、日蓮宗などが開かれ、大陸からは禅宗が伝えられて中~近代を通じて発展した。その過程で、神道や陰陽道、民間信仰などを習合し、仏教は日本的な宗教へと変貌を遂げた。この信仰の空間として創造を重ねてきたのが寺院建築である。当初は大陸から伝えられた意匠や構造であったが、奈良・平安時代を通して日本の風土や好みに合わせ国風化が進められた。鎌倉時代に入ると大陸から新たな様式が再び移入されると共に在来の様式に影響を与え、多彩な造社が可能となった
 6世紀中ごろに百済から正式に仏教が伝えられ、容仏派と排仏派の抗争を経て、本格的に寺院の造営が始まった。法興寺(飛鳥寺)が推古4年(596年)に竣工したのに始まり、聖徳太子が発願した四天王寺や法隆寺が創建された。当初は純粋に形態を伝えることに主眼が置かれたが。やがて日本に風土、志向に合った建築へと変化始めた。例えば法隆寺の様式は中国における隋や唐、それ以前の様式を組み合わせたものであったし、その20~30年後の天平2年(730年)に造営された薬師寺東塔に見られる様式は唐の様式が採用されたものであったが、平安時代に入ると、天平の様式を基本に国風化が進行し、奈良の軸太で力強い建築に代わって、繊細で優美な意匠の建築が生み出されたのである。構造的にも日本の多雨な気候に対応する為に野小屋を生み出すと共に垂木割や組物配置などを整然と構成し、均整の取れた精美な意匠を目指した。この時代にはさらに小乗戒の思想による教学の研究組織である奈良仏教に替わり、基本的な姿勢を大乗仏教、救済の仏教とした天台宗と真言宗が伝えられた。両宗の建築は平地においては南部以来の流れを継いだが、山岳に措いては独自色を発揮した。伝来した仏教が古来からの山岳進行と一体化して咀嚼され、建築も大陸風から日本的なものへの変化を遂げたといえる。また、仏教は怨霊・御霊信仰と相まって呪術化を進め本地垂迹説を確立し、されに末法思想を契機として極楽往生を願う浄土信仰へと展開した。その中で藤原道長や白河上皇などの有力者は競って寺院を造営し、浄土教建築を生み出し、穏やかで優美な平安の和洋建築を完成させたのである。
その特徴は、基壇の上に礎石を置き、その上に胴張の柱(初期の頃)を立てた。柱は、貫によって結ばれ、柱の上には組物が乗っており、深く重い軒を支えている。屋根は、本瓦葺きでそりがつけられている。木は彩色されていて、柱-赤・小口-黄・連子窓(れんじまど)-緑、と鮮やかに塗られている。全体的に曲線を多用している。
 鎌倉時代に入り、武士によって幕府が開けれると、仏教はさらなる広がりを見せる。禅宗の伝来と浄土宗など新宗派の開宗、そして旧仏教の復興である。建築においても、新鮮な意匠や合理的構造を持つ新たな様式が伝えられた。禅宗による禅宗様と、念仏聖重源による大仏様である。禅宗様とは、禅宗と共に宋の建築様式が伝えられ、宋教と一体となって発展、普及したものであり、唐様とも呼ばれる。渡宋3度の経験を持つ中国仏教聖地の巡礼僧であった重源が、南宋の様式によって東大寺大仏殿の再建にあたった際に採用された様式を指し、天竺様とも呼称された。他の仏教建築より部材が細く、引き締まった感じを受ける建築で、具体的な特徴は以下のとおりである。
・基壇の上に建ち床を張らない
・柱に粽があり、下に礎盤を置く
・組物は、詰組
・海老虹梁を用いる
・扇垂木
・拳鼻
・外陣は化粧屋根裏、内陣は鏡天井 
大仏様の特徴が架構や細部だけなのに対し、禅宗様は、禅宗の教義に基づき、伽藍配置や、建物の平面・構造、細部意匠などすべてにわたり特色があるといえる。
大仏様は構造自体を意匠として見せる大胆な建築様式であり、初めての採用が東大寺の再建の時といわれている。それまでの仏教建築にはない豪快な表現で、太い柱と柱に差し込まれた貫によって大規模な建築に適した構造になっている。材料は、規格されていて工期を短くするための工夫がされていた。細部の特徴を羅列すると以下のようになっている。・貫を用い長押を使わない
・挿肘木は左右に広がっていない
・組物の間に遊離尾垂木
・隅扇垂木
・木鼻
・一軒、鼻隠板で垂木の小口が見えない
・化粧屋根裏
・虹梁は円形で太く釈
・杖彫をつける
・出入り口に桟唐戸を付け藁座で固定
だが、大仏様は急速に衰退していく。その背景に政治的な要因があるが、そもそも、東大寺に大仏様が採用されたのは、源頼朝が藤原氏を意識して、再建を任命された重源はあえて大陸からの新様式を採用したからであった。豪快な意匠も日本人の好みとは違っていた。但し、合理的で構造上優秀な技法は他の様式に吸収されていった。
禅宗様は複雑で緻密な構造を持ち、上昇感のある空間をもたらしたが、和様はその両者に影響されて新和洋を確立した。
和様の特徴は大仏様・禅宗様という二つの新様式が登場した鎌倉時代に、伝統的な手法を整備した様式である。床が存在し、「六枝掛」という合理的な設計方法を採用している。・基壇がなく、亀腹があり礎石も自然石を使用
・床縁(切目縁が多い)
・柱は、母屋・庇は円柱、裳階(もこし)は面取り方柱
・簡素な蟇股(かえるまた)
・軸組は、長押と頭貫で固定
さらに意匠と構造の両面で複合化を積極的に進め、折衷様を誕生させた。宋様式の導入により建築の中心が移ったかの様に思うのは錯覚であり、実際にもその中心的役割を果たしたのは和洋であった。そして、あくまでもその和洋を軸にしながら、外来の新様式を吸収し、構造的にさらに堅牢で新しい意匠感覚のある建築を、その結晶として創り出していったのである。

 次に寺社建築であるが、弥生時代末から古墳時代、中国大陸の特に東南アジアから高床の稲作文化が流入し、新しい住環境である床の発生をみた。これが高床式住居であり、さらにこれが発達の極みに達したものに寺社建築があると考えられている。
仏教が日本に伝わってくる以前の建築とは、特徴として柱は、円柱で地面に直接刺さっている堀立柱となっおり、棟を直接支える棟持柱がある。屋根は、基本的には茅葺き(檜皮葺きもある)で千木(ちぎ)や竪魚木(かつおぎ)が採用されていた。材木は桧の素木(しらき)が一般的で。床は、高床になっている。 素朴で明快な構造であった。
平安時代になると、神仏習合思想の広がりと共に、寺社建築は仏教建築の影響を強く受けるようになる。その基礎となる建築形式は古代の寺社建築を引き継ぐものであったが、平面構成や立面の処理、意匠に新しい手法が導入されることで、様ような社殿形式が生み出された。中世以降も、寺社建築は仏教建築や住宅建築の技術や手法を古代以上に積極的に用いている。確立された形式の墨守は神社建築のもっとも特徴的な面であるが、その制約の中であらゆる面に新しい技法が導入されたのである。そうして生まれた寺社建築は、自由で伸びやかな雰囲気を今に伝えている。

 最後に支配者層の住宅と都市の形成としてはまず、飛鳥・奈良時代に当時の隋、唐の失進構造が朝鮮半島を通じて渡来した影響が挙げられる。それらをモデルにして造られたのが、平城京、平安京であり、基盤目状に整然と配した都市計画がはじめてなされ、そこに本格的な隋、唐の住様式が導入されていった。奈良時代末から平安時代になると、貴族の住宅としての寝殿造りが形成された。
寝殿造とは、平安時代の貴族は、寝殿と呼ばれる主屋を中心とした住宅形式に住んでいた。この形式を寝殿造と呼ぶ。敷地の規模は1町(120m)四方が標準だとされています。寝殿の全面には広い庭があり、ここが儀式や舞の場となった。さらに南は、池が掘られており舟遊びができるようになっていた。寝殿造の建物は現存しないので発掘調査から平面を判断するが、立面や内部の様子は分からないので、「年中行事絵巻」などの巻物から判断する。その結果、寝殿と対屋はほぼ同じ平面で、板敷に置畳としとねをしいた座の生活とだということが解っている。寝殿の中で寝室になっているものは塗籠(ぬりごめ)と呼ばれる小さな箱の中である。これは、風通しが悪く夏場は塗籠の外にでて寝たという記録もある。
主殿造とは、主殿を中心に、台所・厩(うまや)などを配した中世の武士の住宅にみられる様式である。配置は、左右対称でなくなり新しい夫婦のために増築もするようになった。寝殿造では天井がなかったが、中世になり天井が張られ間仕切りが比較的自由になった。また、室内に畳を敷き詰めることが多くなり、次第に敷きつめが一般的になっていった。寝殿造の塗籠は、納戸に変わり外から鍵がかけられるようもなった。
 鎌倉時代には宋から禅宗が導入され封建社会の武家文化が徐々に成立すると同時に住様式にも変化が起こり、書院造りの新様式が形成される。その室内には床、棚など様ような装置が形成されたが、これらに唐物を飾るという作法は接客の基本として重要視された。書院造の特徴は、主室に座敷飾りの床(とこ)・違棚・書院・帳台構を備えた建物の様式である。柱は四隅の面を取った角柱で、畳を敷き詰め、建具は引き違いになっている。内部は完全な「部屋」に別れ(主殿造りまでは、間仕切りをしていても上部が開いていた)ている。平面は、対面の作法が大きく変化したためそれに伴い様変わりしていた。中世までは、南面中央の部屋で庭に向かって客が座り、出迎えた主人は、庭側に対峙していた。近世になると対面が2~3室にまたがり、相対的な位置関係が格式によって細かく決められるようになり、主室は南面の一番奥になった。
 中国から伝来した喫茶の風習は、桃山時代になると、いわゆる草庵風の茶として発展した。それは千利休を経て完成されたが、その際茶の湯は和敬静寂を重んじる詫び茶となり、建築はもとより茶道具、花入、書画を総合化して、日本独自の芸術に昇華した。
 寝殿造り書院造りと古代から中世に渡って大きく様式を変化させてきた日本住宅は、近代に入るとさらに様相を変えた。わけても徳川幕府は300年の太平の世が続き、江戸、京、大阪といった3都の発展があって、様ような都市施設が成長した。そこでは長崎を通じて南蛮、紅毛や中国明の舶来文化を導入、そこで新たに流行意匠を育て、奇想性に富んだ数奇(好み)の変化を多様に求め、やがて数奇屋造の新様式を形成するに至ったのである。

近代社会の変化に建築はどう答えたか?

2003年12月20日 22時28分13秒 | デザイン
1.近代建築思想の発祥
 19世紀後半さまざまな文化領域においてそれまでの価値や規範を破壊しようとする動きが現れた事に起因する。基本的にはそれまでの規範である歴史主義(様式主義)に反抗する試みという特徴を持っている。
歴史的背景として、中世以降本当の意味での近代ヨーロッパ社会の確立は2つの革命がキーポイントである。
産業革命と市民革命であるが、産業革命では産業資本主義を確立させ、上層中産階級と労働者階級といった新しい社会階級を誕生させた。
市民革命では生産を拘束する封建的な諸制度を崩壊させることで、産業革命を受け入れる社会を準備したといえる。

2.近代建築の特徴
 この社会的変化に対する建築の変貌として、産業革命以前の建築はもっぱら教会や貴族の邸宅を中心に展開されていたのに対し、工業化時代の社会では、工場や倉庫といった産業関連施設や職住分離の新しい生活形態に対応した住宅が新たな課題となった。
 特徴的には工業生産された鉄やガラス、コンクリートといった新たな生産材を用いた材料で作られ生産需要をなお喚起させていったのである。
こういった新材料を使用した建築はそれまでのあり方とさまざまな面で大きく異なっている。
 まず、様式の問題であるが、それまでの石やレンガといった材料とはプロポーションを異にし、鉄やガラスのよる建築は歴史的様式をモチーフにした装飾を部分的に付加したり、あるいは全く排除することにより新たな建築形態を見出していった。それにより建築が様式に支配される時代は終わりを告げたのである。
 次に、建築活動における工業技術者の台頭が挙げられる。美術的側面においては建築家の領域ではあったが、新たな建築材料が加わってきた為にその新材料に対応できる技術者が柔軟な発想を駆使し活躍するようになっのである。
 社会変化に伴い、住宅環境も変化していった。産業革命により職場と分離した専用住宅が生まれてきた。資本家でも労働者でもない中間層が郊外住宅の主役である。イギリスのガーデン・サバーブなどが代表的であるが、こういった郊外専用住宅の発現は近代社会が初の特徴といえる。
 都市造形面における特徴として、トニー・ガルニエの「工業都市」が代表的であるが、工業を近代社会の中心に位置ずけ、それを中心とした都市の提案を行ったのである。
デザイン的には合理性を主体に直線的で装飾を省いたものであり、造形的革新性でその後の建築家による都市提案に影響を与えた。
巨匠ル・コルビジェは都市造形は近代都市をより明快に描き、「アテネ憲章」へと理念を繋いだ。つまり、「居住」、「労働」、「レクリエーション」、「交通」の4つの機能を抽出し都市計画の基盤をおく計画である。

3.具体的変遷
 19世紀後半のヨーロッパ建築では、工業化の進展に反発した、アーツ・アンド・クラフツ運動や過去の様式に囚われないアール・ヌーヴォーの思想が展開したが、機会時代の大量生産方式とは相容れない様式として短命に終わった。
20世紀初頭に入り、当時のヨーロッパでは「美しい時代(ベル・エポック)」と呼ばれた時代があった。テクノロジーの進歩に酔い、つかの間の繁栄と平和を享受していたのである。そんな時代にキュビズムが誕生した。過去からの切断を試みた設計思想であった。伝統や様式が否定される一方で科学や近代的な技術が賛美されている。その成否の判断は、それが近代生活に相応しいか否かの価値判断に拠っていた。但し、人間疎外的であり、基本モデルである「機械」は無限なる進歩という信仰が成立しうる時代においてこそ有効に機能しえたのであった。
 その後、ドイツを中心に「表現主義」が展開されるようになる。表現主義の基本的性質は人間の内面表出に基礎をおいていた。19世紀後半の西欧近代社会が生み出した諸問題への抵抗を、美的実践を通じて行おうとするものであった。
具体的には、第一にゴシック建築のイメージである。ゴシック様式はさまざまな工人が力を合わせる総合芸術の象徴でであり、人間の精神を浄化する空間であった。すなわち人間性の回復を意味していたのである。
第二に、結晶の持つシンボリズムである。これは平凡な紛灰は自然界の荒波によりダイヤモンドに昇華するように、芸術によって凡庸な日常生活を生まれ変わらせようとする結晶に例えたイメージである。
第三は、生成と変化のイメージである。鉄筋コンクリートが彫刻的アプローチを容易にし建築家の表現を直接的に反映できるようになった。また、有機的創造物にとらえられた。第四は、人間と自然の一体感である。ヒューマッヒャーによれば、レンガ建築は自然の生命に満ちたものであるというもの。
 一方、アメリカに措いては、広大な国土を有し労働力が当時少なかったことから早期に建材が規格化された。特徴として四つの譜系に分類できる。
第一に、シカゴにて鉄筋ラーメン構造のオフィス高層建築が技術的に確立していった。
5大湖に接する交通の利便性をもとに、商工業都市として発達するが、土地の集約的な有効利用として高層オフィス需要を喚起した。又、労働力不足への合理性や大火への反省から具現化していった。
第二に、マッキム/ミード&ホワイトらによる古典主義的様式の公共建築が実現していった。
第三に、フランク・ロイド・ライトが「有機的建築」を唱え、「フローリング・スペース」という空間構成によりアメリカ独自の独立住宅を実現した。
コロニアル様式の伝統から、テラスやポーチといった半外部空間を楽しむものである。
つまり「箱」を解体し、広大な大地と呼応する「プレーリーハウス」の空間構成である。第四に、シンドラーやノイトラといったヨーロッパ移住者がヨーロッパの前衛建築と同等な独立住宅を実現した。つねに新しい技術や規格化された素材への関心が根底にあった。 近代主義建築の成立として、ドイツでは、グロピウスとアドルフ・マイヤーにより「モデル工場」を設計したが、「定型化」の概念により、建築部材を規格化し、大量生産することによって、建築コストの削減と新しい造形システムの確立とを同時に達成することを想定していた。工業技術の進歩が可能にした形態と空間の性質が的確に示されている。簡素で実用的な形態を要求した結果である。「バウハウス」では建築が最上位の芸術行為と位置ずけられ、建築家を志すものはいずれかの手工技術を習得し、充分な造形訓練を積んでいる事を要求した。
 国際的な普遍性が認識された背景として、交通手段の充実による遠距離移動の自由や、速報性のあるメディアの発達により互いが結び付けられ、共通認識の形成へと徐々に至った。その結果「インターナショナル・スタイル」が成立したのである。
インターナショナル・スタイルとは、①ヴォリュームとしての建築、②規則性を持つ建築、③装飾忌避の建築である。
 当時の装飾の主流がアール・デコであったが、モダニズムは「工場のようだ」と悪口を言われたが、これはデザインを建築物の用途・格式との関係を破壊した為であり、アール・デコは「工場のような」幾何学解体を華麗な装飾の体系に換えた手法である。オフィスビルはエレベータ、空調機といった機械設備に依存していた為である。
 1960年代に入ると近代建築の持っていた上昇感は急速に変質を始める。アメリカのベトナム戦争泥沼化、公害による環境汚染、資源の枯渇など科学と技術による未来に陰りが見え始めた。また、環境への取り組みや、多様性の採用など近代への懐疑がなされた。
 1970年代になり「ポスト・モダン」として近代主義批判が表現された。建築形態の象徴性や記号性、多様性が高く評価された。これは歴史的建築物を参照し、地域の特性を反映した表現を重要視したものである。また、装飾や象徴性が復権したのである。

人間の体とメディアとの相関関係について

2003年12月20日 22時19分35秒 | デザイン
 テレビは20世紀後半のメディアを代表していたが、近年、携帯電話、PDA(情報携帯端末)などの新しいメディアの登場によってテレビは衰退しつつあるといわれている。ところがテレビが映し出した9・11事件の映像は衝撃的であった。事件勃発当初、人々はテレビの画面に見入った。もちろん、インターネットの検索サイトにアクセスした人々もいた。けれども、事件を速報する巨大メディア・サイトは毎分数千件の同時アクセスに対応できず、映像を届けることができなかった。そこで、人々はWebからテレビへと向かった。こうして事件を知りたいと思ったほとんどの人々がテレビに殺到したのである。
 テレビが伝える内容は、どの番組でもビルへの飛行機の突入とビルの崩壊場面を流し続けた。やがて、その後もテレビに釘付けになっていた米国の人々の中では、テレビ番組が流す政府寄りのメッセージが繰り返し脳裏に焼き付けられることとなった。すなわち、「テロリストの攻撃に対して報復することは善である」というメッセージである。番組の報道姿勢は、従来から政府寄りの放送局であっても、比較的リベラルな放送局であっても大差なく、政府を支持する報道内容で溢れていた。もちろん、もし東京の高層ビルにテロリストの飛行機が激突すれば、日本のメディアも政府支持報道一色になるであろう、という意見もわかる。しかしだからといって、多様性をこよなく愛する米国における事件報道が画一化され、メディアの自主規制が横行している現状はやはり異常な状況である。
 事件は、やがてアフガニスタンに対する米軍による報復攻撃へと移っていった。そこでは、湾岸戦争においてさえも(制限つきながら)実現していたメディアクルーによる現地取材は許されなかった。そのため、報復攻撃の模様やその被害状況は、米国政府の公式発表以外は一切報道されないまま、アフガニスタンの解放を迎えた。まさに戦争報道は、アフガニスタン現地で取材されたのではなく、ホワイトハウスで作り出されたのであった。しかし、タリバーン政権が崩壊して「ハッピー・エンド」を迎えた9・11事件の続報は、オサマ・ビンラディンを逮捕・処刑できなくても、もはや米国視聴者の心を以前ほど引きつけることはなくなった。
 9・11事件は、米国の中心都市の象徴的なビルに、意表をつく形で飛行機が激突したことで歴史に名を残した。しかしながら、近年、企業の再編・統合が進み、メディア業界における独占的企業グループの影響力が強まる中でそれを報道するメディアとしてのテレビは、政府と愛国的な視聴者の中で、情報操作に屈せず批判的に事実を伝えるかどうかが問われた。 そこで、9・11事件におけるテレビと、インターネットの役割を分析し、事件後の両者の関係について論じたいと思う。
 米国では30年代から映画が国民の中に強い存在感を持っていたが、遅れて登場したテレビは20世紀後半を代表するメディアとなった。しかし、日本におけるメディアとしてのテレビの位置づけは、米国以上に、国民の時代心情により密接に結びつく形で普及したといえる。
 60年代に日本の家庭に進出したテレビは、当時の日本の最先端技術を駆使した商品であった。もっとも、技術力に物を言わせた商品であっても、それが国民の中に深く受け入れられるためには、当時の国民の心情を揺り動かす必要があった。60~70年代のテレビは、大河ドラマ、ホームドラマ、紅白歌合戦といった国民的番組を通じて日本人のナショナルな側面を代弁することで国民の娯楽の殿堂となった。その番組を見るために、当時の日本人であれば誰もが同じ時間帯にテレビの前に座り、主人公の言葉やしぐさに一喜一憂した。そうすることで日本人としての同期的な体験を享受する心地よさを得ていたのであった。
 しかし、こうしたテレビ黄金時代も80年代終わり頃からかげりを見せてきた。海外のメディア企業の日本進出、衛星放送の開始、新しいメディアの登場というメディア側の理由の他に、視聴者のライフスタイルや価値観の多様化などによって、国民的一体感を象徴するコンテンツへの関心が低下してきた。紅白の視聴率低下などに現れている。メディアの側でも人々の意識の側でも変容したのである。
 もちろん、あらゆるコンテンツに人気がないわけではなく、ワールドカップサッカー中継や拉致事件被害者帰国報道は、ナショナルな感情を刺激する社会的事件として突発的に同期的一体感が形成された。けれども、こうしたコンテンツがテレビだけで報道される時代ではもはやなくなってきていることも事実である。
 では、テレビ時代以後のメディアとはどういうものであろうか。80年代以後に流行した新しいメディアとして、ウォークマン、テレビゲーム、ビデオ録画、携帯電話、デジタルカメラ・ビデオ、コンピュータなどがあげられる。
 80年初旬に発売されたウォークマンは、それまで家、喫茶店、レコード店にあるプレイヤーでしか聞けなかった音楽を、常に自分専用に持ち歩ける点でヒットした。固定電話の場合、それまで家という「場所」に帰属していても、そこから家族の特定の個人には直接つながらなかった。けれどもそれがコードレスフォンをへて携帯電話に変わったことで、家という「場所」を飛び越えて直接個人につながるようになった。メディアは「場所」から切り離されて、自分自身へと「身体化」されたのである。このように身体に密着することでメディアは人間の拡張された機能の一部となったのである。
 ラジオ、テレビ、映画は、リアルタイムで番組や作品を楽しむことを前提に作られたメディアである。しかし、データを保存する技術が発展したことで、別の時間に楽しむことが可能になった。つまり、日本全国の多くの人々が同じ時間帯に同じ番組を楽しむという社会的な同期化が成り立たなくなった時代の流れに対応して、番組や作品を保存する録画技術が急速に伸長してきた。購入したビデオ作品も、録画することでいつでも見られるようになった。インターネットの普及も、メールやWebによる非同期的な対話を促進している。このように社会的な非同期性が拡大することで、同期性の必要性がますます低下してきている。従来のように社会的な同期性に基づく友人・知人、家族という小グループ内でも、国民全体という大きなグループ内でも社会的な同期性を維持することが困難になってきているのである。
 テレビ番組や映画作品がビデオ録画できることで時間の同期性が崩れてきたが、近年の特徴は安価な録画機材を使って高品質な作品の自己編集ができることにある。携帯型のデジタルビデオカムコーダ、ビデオ編集ソフト、コンピュータの性能が飛躍的に向上したため、初心者でも安価で、かつ容易にビデオ作品や音楽作品を創作できることになった。このことは一方で複製技術の濫用という問題を抱えているが、それでもユーザの自己編集範囲を飛躍的に広げたことは間違いがない。大衆は、メディア情報の受動的な受け手であるという従来のイメージを変え、自ら主体的に編集・発信する主体としての役割が大きくなった。
 以上をまとめると、80年代以後、人々はメディアを携帯し、また必要なテレビ番組や映画作品などは録画して保存し、作品を自ら編集・発信する行動的なライフスタイルが可能になったのである。これまでメディア関係者以外の人々はメディアを自ら駆使する機会は少なかったが、今後はこうしたメディアに直接身体がさらされる時代に生きることになったのである。
 もちろん、メディアが身体により近くなり、身体の拡張としての意味を持ち始めてきたにせよ、生身の人間である以上、メディアは身体そのものではない。けれども、メディアの側から人間に働きかける機会が増えることで、従来間接的な働きかけしか受けなかった身体とは異なる存在となろう。しかしその一方で、メディアに受動的に晒されるだけでなく、むしろメディアを駆使し、メディアに働きかける可能性も広がってくるのである。
 新しいメディアの登場とその隆盛の渦中に、9・11事件によってテレビが一過性的に脚光を浴び、そこから発せられる映像に人々は釘付けになった。けれども、その中で、政府の規制と巨大メディア自身による自己規制は、政府と独立した報道を旨とするメディアの役割を危うくするものであった。
 米国の場合、テレビ視聴者のかなりの割合が地元ケーブルテレビ会社と受信契約を結んでいる。地方自治体は、民間企業に地域の独占的な放送事業の権利を与える代わりに、市民が自主制作した番組を放送するという取り決めをケーブルテレビ会社とすることが多い。公共的な放映権を民間企業が利用する場合に、市民の多様な意見や表現する機会を与えようという動きがあった。市民は自主制作ビデオを持参すれば放映されるし、ビデオ編集のサポートも受けられ、制作技術講座も受講できる。作品の質や編集技術は玉石混合であるが、市民の多様な表現を保障する場として機能している。
 これらのパブリックアクセスチャンネルは、当初は大規模テレビ局に対する地域の市民テレビ局と位置づけられていたが、近年は、後述のインターネットとの相互交流が盛んになってきて、テレビの新しい形を模索しているといえる。
 テレビに比べて政府の規制が少ないインターネットの世界でも、9・11事件当初には主流派メディアによる政府支持報道や国民の中の愛国的な風潮の中で有効な反撃がとれないままであった。しかし、米国によるイラクへの武力行使の危険性が近づくにつれて反対運動に対する共感が広がってきた。
 その背景には、国連安全保障理事会や他国の反対があろうとも、米国政府が単独で武力行使する意思を明らかにしている、という前例のない事態が続いていることがあり、ブッシュ大統領支持率が9・11事件以降6割を切った。対テロ戦について、70%だった支持が55%まで急落し、国連安保理の支持なしに数カ国で攻撃する場合の支持は39%まで下がった。世論の動きは、事件直後の武力行使圧倒的支持から、武力行使に対する懸念へと急速に変化したのである。
 反戦行動は、主流派メディアでは報じられなかったため、集会参加者はWebやメーリングリストなどのインターネットの世界から情報を得た。今回の集会が成功した原因として、参加者のほとんどがインターネットへのアクセスが可能であることと、参加団体のほとんどは、Webサイトとメーリングリストを運営していることで、主流派メディアとは異なる情報交流が可能になった。インターネットは人々を鼓舞し、組織し、動員するほか、人々に自分が大きな運動の一角をなしていると実感させることができる。
 新しいメディアの登場の中では、かつてのようにテレビ単独で国民の関心を引きつけることは不可能であり、むしろインターネットなどの新しいメディアとの相互交流の中で存在意義を示すことで意味がある。
 9・11事件においては、テレビの強さと弱さの双方が明らかになった。強さとは、膨大なアクセスがあったとしても、映像を配信し続けることができたことである。不特定多数の視聴者に映像を配信する方式としては依然一歩リードしている。この優位を元に、視聴者とのインタラクティブな関係を作り上げることでテレビの新しい道を模索しようとするのが、デジタルTV放送への道である。コンテンツ不足や巨額の投資経費など、多くの難題を抱えている中で、開局に向けた準備が進められている。
 その一方で、弱みも明らかになった。メディアの巨大化・統合化が進み、政府との距離が保てなくなると、批判的な視点での報道が難しくなるのである。米国主流メディアが政府支持報道一色であることに疑問を持つ人々は、自発的にインターネットなどのメディアを駆使して、独自情報を入手したり、行動を組織しようとしている。
 こうした人々の動きが単に主流派メディアの局外にあり、大きな影響を及ぼさないと考えるのではなく、むしろメディアを受容するだけでなく、自らメディアの主体者となることで、メディアと人間との相互関係を再構成する試みと考えることができないだろうか。テレビの黄金時代には、テレビという技術とコンテンツを通じて国民的な心情を反映することができた。けれども、現在ではもはやそうした一体感を復活させることは難しい。新しい時代には、より身体的なメディアを身にまとい、非同期的なつながりによって、人々が新しいメディアを形成する空間が生まれ出てくるのであろう。

経営資源としての「デザイン」あり方

2003年12月20日 22時17分29秒 | デザイン
 これまで「デザイン導入で付加価値を高める…」といったスローガンに代表される効用を信じて行われている行政によるデザイン振興も、付加価値とデザインを単純に結びつける発想で事が足りてきた。それは、自主開発力の弱い中小、零細の製造業に、なんとか自立型の実力をつけようという考えからであったことはいうまでもない。基本的に下請け型の企業が多くを占める中小・零細規模の製造業は、技術の質や精度の高度化には熱心でも、いわゆる付加価値を商品や製品の真価値にまで包含して位置付ける状態にまで成熟できていなかった。大企業ならいざ知らず、多くが、経営者の意志を通せるほどの、いわゆる適正規模の企業であるにもかかわらず、デザインに目覚め、その導入をはかることができていないのはなぜか、その理由を明らかにすることから、新しいデザイン振興は出直す必要がある。その意味では、旧来のデザイン導入の方法の踏襲は回避したほうが良い。問題は、実はそれ以前の、「デザインを理解する基礎能力」の部分にあると考えたほうが良いのかもしれないし、さらには、デザインが、経営と企業のあり方の問題として考えられなければ、国策としてデザインの活用を模索するアジアの国々の追い上げに対して、競争力をもてないままに、コスト競争の波に飲み込まれてしまうことになる。後から追い上げて来たアジア諸国の産業経済力開発シナリオには、最初からデザインが必要条件として書き込まれているのであり、日本の産業デザインのあり方も先端的な部分から大きく変化し始めている昨今だが、大勢を占める中小製造業の体質改善の遅れは、守りにはいった日本の状況をふまえて考えればなお、産業政策上も個々の企業の再生能力の上でも、急ぎ手を打たねばならない最重要課題であるといってよい。
 昨今の低成長成熟化時代において、デザインという経営資源をどのようにとらえ、導入とその活用を推進するのがよいのだろうか。これを考えるには、まず、「デザインを造形技能というくくりで理解してきた大方の人々の思い込みを捨て去ること」から始めなければならない。その前提が実現されないとすれば、「製品や商品の実質的機能に付加価値を与える形態処理造形技術」としてのデザインというこれまでの概念を超えられず、すでに限界が見え始めた産業体質改善に「デザイン」本来のポテンシャルを有効活用できないままに終わる。まだデザインに目覚めていない企業は特に、デザインという概念の理解を、「過去のデザイン概念」の理解から始めてはならない。
 新しいデザインの定義とは、企業経営にてらしていえば、人事組織づくりも、製造工程も、取引先との関係についても、社風についても、対地域社会との接し方も、労働環境整美にも、もちろんそうした企業の身振りを反映する製品や商品自体にも通底する「価値創造を支える思想と技術の融合を実現する構想力であり、創造的調整能力」といってよい。つまり、大方の理解にあるところの「デザインが造形技術の範疇にある」とする考え方が、デザイナーという専門職能人の活動の目に見える姿からの思い込み、あるいは一側面でしかない事に気付くことからしか、「新たなデザイン導入」は始まらないのである。
 これからデザインを導入しようとする企業、あるいは、導入途上にある企業の取り組みに限って、そのポイントを述べてみたい。まず、製造部門寄りの発想で、企画、開発にデザイナーあるいはデザイン技術者をスタッフとして雇い入れることは、デザイン導入においては二の次である。まず先行すべき原点は、経営者がデザインに目覚め、デザインを理解することである。これまでの論法では、単に目覚めればよしとされた。すなわち、経営者は見様見真似でも「デザインは重要だ」と言えばよかったといえる。このことは確かにデザイン導入の端緒を開くきっかけには重要であった。しかし、注意すべきことは、デザインを十分理解しないままに導入することが、結局、デザインのポテンシャルを生かしきれない結果を生む危険である。経営者が日常の仕事において使っている能力、つまり思考は、まさに、デザイン能力である。造形の道具や器具は使わないかもしれないが、状況を察知し、適材適所の組み立てをし、実現目標への行動要件の優先順位を図り、輻輳する諸関係を調整すべく策を練り、そして覚悟をきめて決断する…そうした一連のプロセスを支える能力こそ、デザイン能力といってよい。経営者は、企業という組織体全体を「デザイン」することが最も重要な仕事なのである。この「デザイン」と、製品開発あるいは商品開発におけるデザインが、その原点を共有しているという認識がなければ、デザイン導入は、成功しない。「デザイン導入」とは、まず、経営者がデザインを理解すること…が大前提であって、デザイン部門を設けたり、専門家を雇うこととは、一線を画することといってよい。
 確かに、デザインの有用性を、企業が生かす方法は、それぞれの企業の実態に即して、個別の対応が必要である。ゆえに、デザイン・コンサルタントの活用が有効になる。デザイン導入は、経営者が、デザインを経営資源として理解し、位置付ける…ことを意味する。
これからの時代に企業活動を行うには、地域に立地し、広域的市場で活動する企業であればあるほど、国際的な経済情報や商品情報には敏感でなければならないし、その能力を醸成するためにも、デザイン導入が必要なのである。もはや「デザイン」は、商品の付加価値創造という機能を超えて、企業の価値そのものを支配する重要なファクターの位置にある。アジア諸国の追い上げによる国内産業の空洞化を、新しい企業活動を創造することで回避するためにも、「デザイン」に求められる期待は、これまでより以上の切迫感をもっているといってよい。

2)今後のデザインのあり方(考察)
(1)「形は機能に準ずる」に徹底する
 バウハウス的な「形は機能に準ずる」に徹底したデザインほど完成度は高く、その分、将来に向かって変革の可能性は少ないといえる。当然「形は機能に準ずる」という思想は今世紀以降においても継承されていくと思われる。

(2)時代性を反映する
 近代のエポックデザインを考えると、「時代」や「社会」と「デザイン」の関係性を見逃すことはできない。つまり大衆の趣味、技術の発展、流通、貿易問題などなど。デザイナーという職能の発生起源も当然20世紀の産業社会を反映していた。20世紀の産業手法である大量生産、大量消費の見直しまで、デザインは常にその時代と社会の要求に準ずるのである。

(3)仮説創造
 PCの普及は、デザイナーにとって、発想のプロセス、産業・生産プロセス、シミュレーション、情報の共有化など、それまでのデザインやシステムへの考えを大きく変え、人間のコミュニケーションとクリエーションに大きな刺激を与え続けている。まったく新しい発想を生む可能性など、デザインはまたとない仮説創造の場となるべきである。

(4)人に優しく
 20世紀を象徴するモダンデザインの多くは機能絶対主義の下、余分なものを削ぎ落とし機能を形に表した。しかし、コンピュータが普及した80年以降、デザインでは「形」よりも人と機械のインターフェイスがクローズアップされるようになっている。機械(道具)がどれだけ人に優しくなれるかが21世紀のデザインの課題となる。

(5)デザインのフュージョン化
 デザインの世界においてジャンルの壁が取り払らわれつつある。デザインワーク自体多くの人を巻き込みながら、様々な人々が関わるフュージョン化がクリエイティブの現場に浸透し、専門性を保ちながらも、「枠」にとらわれないデザイナー的資質が様々な世界に波及している。その組み合わせは無限のアイデアソースと言える。

(6)バロック的、ロマンティシズム的、あるいは過剰なデザイン
 昨今、映画「マトリックス」に代表されるような、云わばマンガのような過剰な表現がなぜうけているのか。相手に何かをリアルに伝えようとすると、どうしても多少の誇張が必要になってくる。バロック的、浪慢主義的と言ってもいいかもしれない。マンガは表現を容易にリアルに受け取りたいという人々に受け入れられている。デザインや製品にも、機能性を超えた過剰な訴えかけが必要とされている。また、形だけでなく徹底的に人間の感覚にこだわったデザイン。フィットする、暖かい、柔らかいなど触覚などの感覚を刺激するようなオーガニックで癒されるデザインも求められている

参考文献
  1.都市環境デザイン会議編「日本の都市環境デザイン'85~'95」(学芸出版社)
  2.ア-バ-クロンビ-著「芸術としての建築」(鹿島出版社)
  3.馬場俊介監修「景観と意匠の歴史的展開」(信山社 サイテック)
  4.「建築大辞典」(彰国社)

デザインとは

2003年12月20日 22時16分26秒 | デザイン
「デザイン」とはあらゆる人口品の考案や企画のことであり、基本的に生活の質向上のための手段であるといえる。特に「20世紀のデザイン」とは、近代産業社会の所産で、生活のために必要ないろいろな物を作るにあたって、物の材料や構造や機能はもとより、美しさや調和を考えて、一つのものの形態あるいは形式へとまとめあげる総合的な計画、設計の事と定義されていた。価値創造を支える思想と技術の融合を実現する構想力であり、創造的調整能力といえる。
 「デザイン」という言葉は非常に広い意味で用いられているが、その理由はこの語が意匠、設計、計画、構造的仕組みという人間活動の全てを含んでいるからであり、ほかにそのような意味の広がりを許容する言葉がなかった為と思われる。デザインの領域は今日きわめて細分化されている。欧州では「デザイン」は生活環境を総合的によりよく改善していくための手法で、本質的に社会的なものという理解がその起源から強く保持されている。
 デザインの起源は産業革命および機械化生産の誕生あたりにまでさかのぼる。それ以前は、モノは手工芸でつくられていた。つまり、モノの考案(デザイン)は、その具体化とともに、個々のつくり手に委ねられることが多かったのである。モダン・デザインのはじまりは19世紀デザイン改革者、わけても理論と実践の融合を試みたウィリアム・モリスから発展したと考えられている。この取り組みは、モリスが選択した手工芸を基本とする生産方式のため、おおかた不成功に終わったが、彼の改革理念はモダン・ムーブメントの発展に多大な影響を与えた。20世紀初頭にヴァルター・グロピウスらが、新しい工業生産方式によってデザイン理論と実践とを統合して初めて、モダン・デザインはここで本当の意味で誕生したのである。社会的理想主義と第一次世界大戦終結まで存在した商業的現実との間の溝を埋め、新興技術文化へうまく対応できるようにと、1919年、バウハウスが設立された。そこで教えられたモダン・デザインの目標は、芸術的な取り組みと新技術の探求によって、知的、実用的、商業的、審美的な要素をすべて含んだ作品を作ることであった。

 次に装飾とは本来、デザインの美しさを引立てるために用いられる手法である。しかしながら日本のデザインにおいて、装飾は「良くないもの」「悪いもの」と捉えられることがある。悪者と捉えられる理由には、次の様な背景が考えられる。例えば土木デザインにおいて、お化粧的手法を乱用した結果、装飾自体がデザインの低さをごまかすために付け加えられるものというイメージをつくってしまった事。次に、20世紀の建築デザインにおいて、「装飾をまとわない物こそ美しいデザインである」と言ったような考え方が流行したため、装飾的なデザインは、デザインレベルの低い物という捉え方が植え付けられてしまったこと、の2点である。装飾とは本体の表現を豊かに演出する為の、何らかの形や色、材質の効果の事であるのに、本体が良くない状態になるのが装飾のためというのは、あまりに一方的な結論と言える。装飾とは本来、本体のデザインの一部であり、デザインコンセプトを形として表現する際に、どんな材料を使うのか、どんな構造なのか、どんな工法を用いるのか、どんな色をつけるのか等の一つ一つの結果がその本体の表情を生み出しているのである。このように装飾を悪者として排除してしまうのではなく、美しいデザインのためにその効果を積極的に利用し、本体の表情をさらに豊かにするため有効にに活用すべき表現方法である。飾るために付け加えるような「飾り」としての装飾のみが「装飾」であるかのように扱われることが多いが、飾り・色・目地・材質・模様等、表現手段又は表情を造る要素として捉えることができるものは全て「装飾」と扱うとすると、装飾性の低いデザインでも無装飾ではあり得ないし、「飾り」という装飾が無くても装飾性が高いデザインはあり得るであろう。
 装飾のあり方とはデザイン全体の中で装飾のバランスをどう取るか。またデザインコンセプトを生かす装飾の在り方を見いだす事に主眼が置かれる。その結果美しい構造物や空間には様々な装飾要素がバランス良く使われ、装飾要素をうまくとりこんだデザインが美しいデザインであるという結論に達する。
 先に述べた土木デザインの中で「装飾」が表現要素としてうまく取り入れられず、「飾り」的な意味合いを克服できないのは、「デザイン」という概念が「構造物の設計」の範疇に収まっているからであり、強度や機能から必然的に現れた装飾を、デザインの表現に利用できるものであるという意識で見ることができれば、それらを生かしたデザインへ導くことができる。従ってそれらの装飾を装飾としてどうデザイン要素として利用するのかを考察することによって、全体デザインをまとめていく手がかりを見いだせると考える。

 デザインと装飾の関係とは、①メイン(デザイン)とサブ(装飾)の関係であること。装飾はデザインの一部である。デザインの手段として装飾要素が利用される。それゆえ、一般的には主体(デザイン)のコンセプトが変われば装飾も変わると言える。しかし、装飾が生み出す空間や形がそのものの本質である場合、それが形にとって装飾と扱える物であっても、装飾としては扱われない。装飾の在り方としては例えば、家屋の壁に壁掛け式の照明器具が設置されていたとする。この照明器具は、家屋の壁という面に対する装飾である。しかし、家屋という立体の装飾であるとも言え、さらに居室内という空間に対する装飾であるとも言える。従って、主体は何か、装飾は何か、を明確に把握する必要がある。
②多重性
 デザインの中に装飾を捉えるとき、装飾は多重構造をしていることに気づく。例えば、広場に設置されている照明器具を考える。その照明器具は広場の中で、モニュメントとして、広場を装飾しているとする。灯具は夜間には照明器具としての役割を持っているが、日中は、柱に対する飾りかもしれない。また、灯具に傘がついていればそれは灯具の装飾かもしれないし、傘の模様や色はさらに、傘を装飾している。また、それらは照明柱自体の装飾であるかもしれない。このように、装飾は、装飾の中にもまた装飾があり、装飾の主体もひとつとは限らないという、多重構造をしている。
③装飾性
 装飾要素の数が多いほど、また多重構造の層は厚いほど、印象としては装飾性が高いと感じられる。例えば、絵の額縁を考える。一方はプラスチック等でできた凹凸のない額縁で、他方は木製で彫り物が施されているとする。どちらも絵にとっては額縁というひとつの装飾要素であるが、額縁という主体を取ってみると、前者の装飾要素が色や質感程度の要素であるのに対して後者は色や材質のほかに模様の形や凹凸、彩色等たくさんの装飾要素を持っている。さらにその模様のために加えられた色や、さらなる模様もあるかもしれない。このように、装飾要素の重なりが多い場合、額縁を含めたこの絵の装飾は、総合的には後者の方が装飾要素としては多くなり、装飾性が高いように感じられる。これには「細かさ」も含まれる。模様等が細かくなれば、面積を分割する数が多くなり、その分割された一つ一つも装飾要素と捉えることができるからである。
 また、同じ装飾要素の数でも、装飾性を高く感じさせる形もある。直線より曲線、幾何学形状よりランダム形状の方が装飾性はより高く感じる等、「装飾されている」という印象が強い形状がある。
 例えば、直線のみで構成された柵よりも、曲線を用いた柵の方が「装飾されている」と強く感じる。この定義から言うと、使われている本数や面が分割された数が同じであればどちらも装飾要素の数は変わらないことになる。しかし、装飾性はデザインによって、高くも低くもなるものであると言える。

 デザインは、いくつもの装飾要素がちょうど良いバランスで関わり合っている時に「良いデザイン」であることができる。全体デザインに対して装飾要素が足りなかったり多すぎたり、またそれぞれが関わり合っていない時には悪いデザインとなる。従って、デザインコンセプトという全体枠の中に装飾要素がぴったりと収まっていないと全体デザインは美しい状態を造れない。このように、デザインの中でどの装飾要素をどこにどう用いるかを見極めて全体をまとめることによって、バランスのとれた美しいデザインを生み出すことができるのである。

バウハウス

2003年12月20日 22時15分24秒 | デザイン
 バウハウスは1919年ヴァイマル共和国(ドイツ)の成立と共に生まれ、ナチス台頭と共に終わった。五百人近い卒業生を送り出した教育機関であり、同時に工房であり、一つの文化の象徴でもあった。機能主義美学は、バウハウスと共に国際様式として世界へ広がった。その影響は、デザインのみならず造形全体に渡った。「芸術のための芸術」と「民衆を疎外する産業」を否定したバウハウスは、芸術そのものを否定するダダイスムとは違い、造形芸術の綜合を主張したのである。また、敗戦で打ちひしがれていた若者の心を捉え、その時代の幸福感は貧困を忘れさせたと当時の学生は回想している。
 バウハウスは全ての造形活動の最終目的は建築であるとしている。建築を飾ることがかつて造形芸術の至高の課題であった。工房教育は3年で職人免許を取得することになっていた。そして免状を持つものだけが最終の建築過程に入ることが出来た。「芸術と技術の新しい統一」という目標をはっきりと掲げることで、工業時代の経済機構に対応する合理主義的理論を組み立てていった。バウハウスの確立した規格化は、個人性から公共性への開放をもたらした替わりに、忽ち資本とメディアにすくい上げられ、大量生産と大量消費の画一性に組み込まれてしまうことになった。

 バウハウスは工業化社会という新しい世界の中での美術のスペシャリストを養成する機関だった。創造力は、その辺にある石ころや木をはじめ、どんなものでも材料として認知できるか?という所からスタートするし、作り手としては様々なものを材料として使用できうるために徹底した素材に対する知識と加工技術の知識、着想の幅広さが要求されるのだ。製本工房、織物工房、金属工房などと並んで、石彫、絵画、印刷のクラスも開かれたが、それぞれの工房に入る前、色彩構成などの基礎課程をうけるという点が現在の美術教育に受け継がれている。それぞれの工房を「形態のマイスター(親方)」や「工芸のマイスター」が担当していた。
 教育理念としてファインアートの芸術家だけでなく工芸や職人に光を当てたという点が特筆され、前世紀末イギリスでウィリアム・モリスが率いたアーツ・アンド・クラフツ運動を発端としている機械化、大量生産という技術的革新の波に乗って方針を変え、それが今ではむしろ「バウハウス」的イメージの中核をなしているといえる。
 規模も小さく、最盛期にも200人以下の生徒しかいなかった養成機関であるが、にも関わらず何故それ程までに有名なのか?バウハウスの生き残り達は、本国ドイツばかりでなく、世界中のいろいろな場所で活躍していた。そのフィールドは建築やインテリアデザインはもとより、自動車や航空機を含む工業デザイン、広告やファッション雑誌のディレクターに至るまで非常に広い範囲である。

 閉鎖後、ドイツを追われたバウハウスの残党は、大西洋を渡り、特にアメリカで大活躍した。新時代を象徴する斬新なオフィスビルを求めていたアメリカの資本家達に大いに受け入れられたのである。そして彼らはエンパイアステートビルやロックフェラー・ビルのようなアールデコのエッセンスいっぱいのノスタルジックな摩天楼ではなく、今でも主流の装飾が何一つないコンクリートとガラスの巨大な直方体を作っていった。
 バウハウスで生み出された表現は間違いなくアウ゛ァンギャルドな思想であるといえる。機械テクノロジーが生み出したシステムを原理にすることと、過去の統一性をもった思想に自らの根拠を求めることが同時に行われてしまうところに、バウハウスの実践の矛盾があった。しかしながら、この矛盾点(理念と実践のズレ)こそ、バウハウスのもっている特徴の一つだとも言える。
 ところが、彼らの仕事に共通した様式というのは存在しない。バウハウス様式の建築といった仕様は存在しないのだ。それ自体がバウハウスの思想を見事に表している。バウハウスで教えようとしていたのは、美術の考え方、計画の立て方、職業としてのデザインをするための基礎的な様々な知識と製品の作り方の技術だけだったのだ。どんなものを作ろうとするのかは本人が考える事だった。これは、その時代までの一般的なやり方即ち自分の作り方、考え方だけを伝えようとする徒弟制度的な美術の勉強とは根本的に違っていた。

 その他バウハウスの特徴として特筆すべきは、簿記や見積もり、契約の仕方などのカリキュラムがあった事だ。バウハウスが育てた美術家は、仕事の依頼に見積もりなどを示して現実的な商談を行い、抜け目なく契約書を作成し、帳簿を作って経営戦略を練る優秀なビジネスマンでもあったのだ。国家の繁栄と栄光を目指したナチスにとって、バウハウスは相いれないものではないように思えるが、ナチは本質を見抜いていた。即ち、バウハウスが求めたのは国家の権力や威信を讃えるものではなく、個人的な豊かさ、精神世界の充実を求めるものであり、国家の権威や象徴としての美術とは対立するものだった事である。

 デザインとは、純粋美術に対する応用美術であると分類される。何をどう応用しているのか、はなはだ曖昧な表現だが、少なくとも純粋な芸術ではないと言う事は確かだ。デザインという言葉は中世の頃からあった。しかしその意味は物を装飾し見栄えを良くするという意味であった。簡単に言えば「箱をデザインする」と言うことは箱に絵を描いたり、装飾をどう付けるか?という事であった。だから日本でデザインの事を昔は「図案」と呼んでいたのだ。現在では、計画・構想・筋書き・もくろみなどの意味も併せ持つ言葉である。その探求がバウハウスの思想にあると言えないだろうか。

 日本では文化と技術の西洋化=近代化が進められていたため、極めて早い時期からバウハウスが発したモダニゼーションの刺激に期待が高まってた。「ナショナル・バウハウス・インスティチュート」のリポートがすでに1920年代の日本の美術誌にあらわれているように、1930年代には水谷武彦や山脇巌と道子が日本人留学生としてバウハウスに入学している。1933年には東京銀座で日本のバウハウス「山脇道子によるバウハウス手織物展」が開催された。その後1950年代と1970年代に東京国立近代美術館でバウハウス特別展が催されている。
 日本には数々のしきたりに応じて使い分けられる特有の形をした品質の高い日用品があり普段の暮らしに使われているが、その文化はヨーロッパのデザイナーにも影響を与えており、ヴァーゲンフェルトもそのひとりであった。日本の器に啓発されてガラス製のふたつでひとセットのボウルを作り、それが単なる日用品であっても慎重に扱うことを求めた。使うための必要から生まれたモノは使ってみて初めて分かる良さがあり、その味は使い古されたり飽きられたりする事がないのである。

水の意匠

2003年12月20日 22時12分13秒 | デザイン
 水は洋の東西を問わず、再生のメディアである。万物の源であり、生命維持に必要不可欠であるだけでなく、精神的に疲れを癒し、宗教的にも憑き物を払う存在とされている為である。意匠の基本となる装飾模様においても”渦と流水”、この二つの模様が線の基本であり、閉じられた円や四角はそこに意味が発生するし、閉じられることの無い線もそれを重ねることによりやがて生命の奔放な力を感じさせる力を生じるのである。
 わが国言語においても漢字かな混じり文の文法表記における、”カナ”は女性的存在であり、流水のように連綿とつながる。文法自体も構築的とはいい難く場の状況に合わせ、老若男女や階位によって変わる姿は容器によって変わる水のようである。それは雨量によって変わる川のように、唐の文化、南蛮文化、欧米文化を吸収していった。このような文化を生み出す背景には、平安時代からの無常の世界があった事があげられる。「徒然草」「花伝書」などが物語っている。それぞれに「もののあはれ、世は定めなきこそいみじけれ」や「昨日は今日のむかし、今日は明日のいにしえ」といった表現で表わされている。両の目で現在を捉えようとすると、たちまち過去だけが残ってしまう。時の移ろいを感じさせて揺らぐ水面の波が止むと、水底が現れる。それはまさに死から今を見た時に見る夢のように生き生きとして情景は広がるのである。懐を深くして一切を心の中に注ぎ込み、流れるときにあらがうのではなく、情に棹さして流れてみようとする姿勢が「水の意匠」を成立させる。
 絵画の世界においても光琳により「流水図」の意匠で表現した。形は無いのに千態が可能な水の姿を人生に見立てて、見事な形に収める。その背後に水に洗われる心、流される罪過を隠している。また、浮世絵もその流れるような計算されつくした曲線で美しいプロポーションを表現し、歌舞伎と共に西洋に意識文化を輸出したといえる。
 江戸時代の町人生活文化においても「粋」真髄はは水に通じて相手次第で自在に替われる融通無碍の悟りの境地であったとされる。これら日本文化は水と深く関わり、その文化の中で深く熟成されていったといえる。

 水は何故か人の心を安らげる力を持っている。井戸端会議、と言うように、水のある所には何故か人が集まる。日本庭園には自然をそのまま模したが如く水の流れが作られ、人の心を癒している。理由も無く、海や川へ行くとそこに落ち着いてしまう。子供は水遊びを好むし、大人も「リラクゼーション」として海の音を聞いたりする。雨の音を聞いていると落ち着いてよく眠れる。水に触れ、水を眺めているだけで、何かなつかしい気持ちになったことはないだろうか。ここに、体内の記憶、羊水の中にいた記憶があるのではないかと思う。そしてまた、水から生まれた太古の生物としての記憶があるようにも思う。生き物としてのヒトの精神が、水を求めてやまないのであろう。
 水は日本人独特の美に対する感受性も育てた。水が形を変えた自然現象である雲、霞、露などは、日本の絵画や歌、文学にとって欠かせない主題となっている。また、庭にも水の演出として池や川をつくることが多い。この点は、鮮やかな緑の芝生のある西洋的な庭とは大きく異なる。枯れている、ということに風情を感じるのも、水に対して美しさを感じる裏返しととることができる。庭園方式のうち、水を使わずに石や砂で流水や池を表現する「枯山水」というものがある。水なしで水を表そうとして、水の形を追究した結果、枯れの文化が生まれたのであろう。庭園の省略できるものすべてを省略した極度に象徴化した庭であり、「水のないところ石組みすれば枯山水」といわれる由縁もここにある。無理なこと、無駄なこと、ムラのあることを極限まで排除した、小宇宙ともいえる「枯山水」が醸し出す静寂の空間が、物質的な充足と経済的豊さを求め、人が人として暮らして行く為に重要な「心」の問題を置き忘れた私たちに、何かを問いかけながら、緊張をほぐしていく感覚を体験させるようである。侘び、寂びの静寂の空間を、真理を感じる自分と、感じさせてくれる対象があると言うこと、つまりそこに心を癒される事実が存在する事なのである。
 色に対しても、日本人は淡い色を好むという傾向がある。例えば、海外で好まれるのはもっぱら濃い色の八重桜であるのに対し、日本人に人気があるのは山桜で、こちらはほとんど白に近いようなピンク色である。また、美しさを表現する日本語のひとつとして「みずみずしい」がある。美しさを表現するのに「水分をたくさん含んでいる状態」を指すことからも、日本人の水のイメージがみてとれる。「烏の濡れ羽色」という言いまわしなどはこのよい例である。このように、水は日本人の美的感覚をも養ってきたのである。
 人間はだれしもが、母親の胎内から生まれてくる。周知の通り胎内にいる時には、その小さな生命は羊水と言う水に囲まれ、言い換えれば、守られている。人類としての生命も確かに水の中からうまれたのだろうが、人間としての生命もまた、母親の胎内の水の中から生まれたのだ。天才的な音楽家であったモーツアルトは子供の時に、一度も聞いたことのないはずの曲を楽譜も見ずに弾いていたと言う。実は、これは胎内にいる時に母親が聞いていた曲を無意識に聞いており、その為だと言われている。つまり人間の最初の記憶は胎内にいる時から始まっていると言うのだ。これを踏まえて考える時に、人間が胎内の水の中から生まれたが故に、水の意匠に魅力を感じる理由として納得が行くのではないだろうか。