インターネット前史
1957年、ソ連は最初の人工衛星が打ち上げ、アメリカ合衆国の専門家達をパニックに陥れた。対抗策の一部として合衆国はARPA(Advanced Research Projects Agency)を設立。「奴ら」に遅れをとらないようなテクノロジーの発展に努める事にした。 1960年代の終わりにARPAは実験的なコンピュータネットワーク、Arpanetと呼ばれるものを構築した。このネットワークにはパケットスイッチングと呼ばれる情報伝達の新技術が使われた。そしてこれが後にインターネットの標準技術となったのである。
パケットスイッチングはこんな具合で行われる:情報をネットワークを通じて伝送するためには、まず最初にその情報はパケットに分解される。送信もとのコンピュータが送信先のコンピュータと直接接続される代わりに(電話網と同じ事だ)それぞれのパケットは幾つものコンピュータがつながれたネットワーク上を流れていく。それぞれのパケットは行き先アドレスを持っていて、目的のコンピューターまでの道を「見つけ」られる。そして目的地でパケットはまたもとの形に組み立て直されるのだ。合衆国政府にとってのこのシステムの第一の利点は、もし核爆弾が軍部のネットワークのたとえ一部でも破壊した場合でも、データは生き残っているネットワーク上をうまく迂回して行き先まで賢くたどり着ける、ということだった。
Arpanetは1970年代中盤にかけて非常に早いスピードで発展していった(その時代にかかった資金もものすごいものだったが)。1975年、合衆国軍はネットワークの管理権を掌握し、その利用を軍関係に制限した。このことは、それまでArpanetを利用していた軍関係者以外に独自のネットワーク構築を促すことになった。
Eメールは1972年に発明されたが、その利用価値が広く認められるようになったのはそれからしばらくたってからのことだった
インターネットの普及
ARPAはネットワーク同士をすべて繋ぎあわせるためのTCP/IPというパケットスイッチングのプロトコルの開発を促進した。そしてArpanet自体が1983年からTCP/IPを使いはじめた。TCP/IPソフトウェアは無料で誰にでも手に入る物だった。このネットワーク同士の接続能力が今日のインターネットを創り出した元なのだ。現在、インターネットはTCP/IPを使っている。インターネットは80年代を通じて成長を続け、1990年にはその元となったARPANETは遂に閉鎖された。
インターネットはそれまでに沢山の発展をしてきたが、まだワールドワイドウェブというものは存在していなかった。だからインターネットといってもポイントしてクリックすると情報が得られたり、ダウンロードしてきてグラフィックプログラムを使って開かない限りはイメージをみることもできなかった。
その間には分類化、検索、情報の更新(Archie、gopher、Veronicaなどと呼ばれているのがそれだ)などが可能になったが、大きな変化があったのは1992年になってからだ。その年、CERN(スイスのEuropean Laboratory for Particle Physics)の物理学者ティム・バーナーズ・リーが自身の物理学の研究用にワールドワイドウェブを発明したのだ。彼の目的は自分の利用のためだったが、それはまるで山火事のように瞬く間に世界に広がった。
バーナーズ・リーはSGMLと呼ばれるマークアップ言語を使ってウェブページを作成し、ハイパーテキストリンクを使用した。こうしてコンピュータ言語を理解していない人でもマウスでポイントしてクリックするだけでウェブブラウザ上に必要な情報が取り出せるようになった。 そして1993年、マーク・アンドリーセンと国立スーパーコンピューティング・アプリケーションセンター(NCSA)の彼の同僚が最初のブラウザを開発した。これがモザイクだ。モザイクはグラフィックを見る事ができる。音も出る。gopherを使い、FTP、Eメール、ニュースグループに対応している。これは絵まで付いて、インターネットの全てを網羅する万能ブラウザだった。 その後ブラウザは発展を続け、ストリーミングオーディオ、ビデオ、それにいろんな種類のいかすテクニックに対応するに至っている。
1980年代から90年代にかけてのネットの成長についてHobbes' Internet Timelineを見てみると、インターネットのホスト数(実際にはインターネットホストに接続されているコンピュータの数だ)は1984年の1000台から1992年には100万台、1997年には1600万台にまで膨れ上がっている。 インターネットはこの数年の間に想像を絶するペースで成長してきた。モデムのスピードが速まるにつれ、インターネットアプリケーションの利用できるバンド幅も増えている(バンド幅とはインターネットと電話回線を伝わって君のコンピュータに流れる電流の量のこと)。 将来起こりうる交通渋滞を避けるために、世界的にいくつかの大々的なインターネットプロジェクトが進行している。 合衆国内で行われている大プロジェクトの二つが、ネクスト・ジェネレーション・インターネット(NGI)とインターネット2。インターネットよりも100から1,000倍のスピードのネットワークになるという。6億ドル以上が当てられることになっているこの二つのプロジェクトは1986年に始まったものだ。両ネットワークとも、教育用と政府のリサーチ用に巨大なバンド幅を提供する。これらのネットワークがどの程度インターネットへ接続されるのかはまだはっきりしていないが、Eメールやいくつかの機能にインターネットを利用するのは確からしい。
私とコンピュータ
私の初めてのコンピュータとの関わりは、友人が持っていた「マイコン」を触ったことに始まります。当時一体何に応用できるのか分からないような物珍しい代物は、とてもおこずかいを大枚はたいて購入できる存在ではありませんでした。興味半分高尚な玩具といった感じでした。
その後、かの往年の名機NEC TK-80が発売となりました。NECが日本で最大のパソコンメーカーになったのも、もとを辿ればこのTK-80のおかげといっても過言ではありません。これはいわゆる「パソコン」では無く、「ワンボードマイコン」とも呼ばれた、むき出しの基板に16進キーボードと7セグメントLEDが付いた姿のものあった。OSはおろか言語処理系も付いておらず、プログラミングは機械語で行う必要が有った。Intel 8080互換のNECのCPUに、メモリーは1kB程度と記憶している。私自身、TK-80でプログラミングはほとんどした事がませんし、もっぱらゲームで遊んでいました。
当時のアイドルはApple IIでした。Apple IIは、見た目にも一言「美しい」コンピュータでした。最近のPCのナサケないデザインからすると、Apple IIからある時期のMacintoshまでは本当に美しいデザインでした。当時は「見た目の美しい機械は性能もいい」という確信を持つに至ったといえます。ここで、デザインと言うと、外観だけを指しているように誤解されてしまうかも知れませんが、私は内部のデザインも含めて言っています。Apple IIは中を開けても美しかったのです。基盤裏など分解して初めて分かるのですが、そのアーキテクチャには整然とした流れが素人目にもハッキリと分かる論理性を表わしていました。
そんな友人のPCを指をくわえて見ていた私だったのですが、この年、NECがPC-8801というパソコンを出す、という情報が入tった。このコンピュータ、今となっては当たり前であるが本体とキーボードが離れていてカールコードで接続する(それまでは本体とキーボードが同一筐体のものがほとんど)タイプで、見た目もカッコイイ。その前のベストセラー機種PC-8001と互換性のあるモードを持っていてPC-8001のソフトも動かすことが出来る、機能的にもFM-8と同等以上のものがある、ということで、「こ、これは、あの友人に自慢しかえすためには、これを買うしかない」というわけでついに買ってしまいまったのである。
確か値段は、本体が228,000円、しかしNECでアルバイトをしていたお陰で、30%引きくらい値引きが効きました。ディスプレイはとても買うお金が無かったのですが、幸いにシャープ製ディスプレイを先輩から譲り受ける事ができました。
そんなわけで、やっと私もコンピュータのオーナーに。付属のN88-BASICでいろいろプログラムを作って遊んだり、あと、当時のパソコン雑誌には、プログラムが載っていた(ほとんどゲームかな)ので、それを打ち込んで遊んだり、なんてことやっていた。今と違ってほとんど実用になるようなことは出来なかったのだが、いろいろとコンピュータの仕組みを知る上では貴重な経験だったと思う。
やっとのことで手に入れたPC-8801なわけですが、当時はフロッピーディスクなんて内蔵されていません。外付けでフロッピーディスクドライブがあったのですが、これが馬鹿高い、確か本体価格より高かったような記憶がする。ディスクは、今のような3.5インチじゃなくて5インチか8インチのやつ。このメディアも高くて、1枚1000円以上していた。そのため普通はプログラムなどテープレコーダを使ってカセットテープに録音していた。
私が、OSというものを意識したのは、たぶんこの時が最初だったと思う。PC-8801にはN88-BASICっていうのが付いていたが、これは言語インタープリタに、その開発環境やらOS(モドキ)が渾然となったなんかよく訳の分からないモノだったりするのだが、CP/MなるOSを使うと、そのあたりがしっかり切り分けられていた。
CP/MはDigital Researchっていう会社が開発したパソコン向けのOSで、MS-DOSはこいつを真似して云々、というような話があった。CP/MとMS-DOSは非常に使い勝手はよく似てた。
大学4年頃コンピュータルームではその頃発売になったPC9801を、導入しました。後の通称「無印98」である。CPUはIntelの8086 5MHz位、メモリは標準で128KB、フロッピーディスクはオプションで8インチ2D、漢字ROMが搭載されていた。BASICが得意になっていた私には安心して使い放題にできる端末でした。当時はまだDOSが流行る前で、「パソコンを使う」=「BASICでプログラミングする」だった。CP/M86というOSも入っており、FORTRANやPascalなどのコンパイラを動かして、みたのあるがいろいろやったものの、メモリが少なかった為、あまりうまく行かなかった。
その後、この無印98がモデルチェンジしたPC9801Fというのが出たが、これは測定機の制御用やメインフレームの端末用として、研究室に大量に導入された。これはCPUのクロックが確か8MHzになって、5インチ2DDのフロッピーディスクドライブが2台内蔵されたマシンである。この98Fと一緒に、日本語ワープロも購入してあったので、こっちもいろいろ使い倒した。私が日本語ワープロを触ったのはこれが初めてだったと思う、英文ワープロではWordStarが軽く使い勝手が良かった。今と違って、ハードディスクなどなかった為、フロッピーにプログラムを入れておいて、そのフロッピーで立ち上げるという使い方です。立ち上げフロッピー何枚か死にました。当時はプリンタの方も貧弱で、確かに漢字も印字出来ることは出来るのだが、かなり印字品質が悪い。まだ論文をワープロで書くというのは夢のまた夢だったような気がする。
しかし、パソコンを触っている時間以外はコンピュータ本を読み漁っている日々が続いた私も無事に大学を卒業し、就職となりました。縁があって通信機メーカーであった。かねてからフロッピーに溜め込んだソフトの量、プログラムの雛形などあっという間に私の城を築く手伝いをしてくれました。システムエンジニアとして働く事になったのである。
以降必要なものは自分で買いそろえ当時3,5インチのFDが250円、130MBのHDDを購入した時は26万円という価格であった。EMSメモリも増設し、申し分の無い環境を作って行ったがコンピュータの進化も早い。386、486と進歩したが、全く我慢せず常にフラッグシップを購入し続けた。それと同時に世の中の趨勢がWindowsに移行した段階でもDOSベースのマシンは捨てられず最近になってやっとPentium4で使用環境を統一した。最新のOSにマシンのスペックが追いついて居なかったためである。必ずしも最高スペックが使用者にとっての用途に合うとは言えない。今後パソコンが如何なる形態のデバイスに変貌しても用途に合ったカスタマイズ(多様性)の包含が容易に可能であることが私の持論である。用途に使用者を合わせさせるのではなく、如何なる場面においても所謂痒いところに手が届く身近なデバイスツールであり続けることが、使用者に愛され利用され続ける存在になれる形態と思われる。
1957年、ソ連は最初の人工衛星が打ち上げ、アメリカ合衆国の専門家達をパニックに陥れた。対抗策の一部として合衆国はARPA(Advanced Research Projects Agency)を設立。「奴ら」に遅れをとらないようなテクノロジーの発展に努める事にした。 1960年代の終わりにARPAは実験的なコンピュータネットワーク、Arpanetと呼ばれるものを構築した。このネットワークにはパケットスイッチングと呼ばれる情報伝達の新技術が使われた。そしてこれが後にインターネットの標準技術となったのである。
パケットスイッチングはこんな具合で行われる:情報をネットワークを通じて伝送するためには、まず最初にその情報はパケットに分解される。送信もとのコンピュータが送信先のコンピュータと直接接続される代わりに(電話網と同じ事だ)それぞれのパケットは幾つものコンピュータがつながれたネットワーク上を流れていく。それぞれのパケットは行き先アドレスを持っていて、目的のコンピューターまでの道を「見つけ」られる。そして目的地でパケットはまたもとの形に組み立て直されるのだ。合衆国政府にとってのこのシステムの第一の利点は、もし核爆弾が軍部のネットワークのたとえ一部でも破壊した場合でも、データは生き残っているネットワーク上をうまく迂回して行き先まで賢くたどり着ける、ということだった。
Arpanetは1970年代中盤にかけて非常に早いスピードで発展していった(その時代にかかった資金もものすごいものだったが)。1975年、合衆国軍はネットワークの管理権を掌握し、その利用を軍関係に制限した。このことは、それまでArpanetを利用していた軍関係者以外に独自のネットワーク構築を促すことになった。
Eメールは1972年に発明されたが、その利用価値が広く認められるようになったのはそれからしばらくたってからのことだった
インターネットの普及
ARPAはネットワーク同士をすべて繋ぎあわせるためのTCP/IPというパケットスイッチングのプロトコルの開発を促進した。そしてArpanet自体が1983年からTCP/IPを使いはじめた。TCP/IPソフトウェアは無料で誰にでも手に入る物だった。このネットワーク同士の接続能力が今日のインターネットを創り出した元なのだ。現在、インターネットはTCP/IPを使っている。インターネットは80年代を通じて成長を続け、1990年にはその元となったARPANETは遂に閉鎖された。
インターネットはそれまでに沢山の発展をしてきたが、まだワールドワイドウェブというものは存在していなかった。だからインターネットといってもポイントしてクリックすると情報が得られたり、ダウンロードしてきてグラフィックプログラムを使って開かない限りはイメージをみることもできなかった。
その間には分類化、検索、情報の更新(Archie、gopher、Veronicaなどと呼ばれているのがそれだ)などが可能になったが、大きな変化があったのは1992年になってからだ。その年、CERN(スイスのEuropean Laboratory for Particle Physics)の物理学者ティム・バーナーズ・リーが自身の物理学の研究用にワールドワイドウェブを発明したのだ。彼の目的は自分の利用のためだったが、それはまるで山火事のように瞬く間に世界に広がった。
バーナーズ・リーはSGMLと呼ばれるマークアップ言語を使ってウェブページを作成し、ハイパーテキストリンクを使用した。こうしてコンピュータ言語を理解していない人でもマウスでポイントしてクリックするだけでウェブブラウザ上に必要な情報が取り出せるようになった。 そして1993年、マーク・アンドリーセンと国立スーパーコンピューティング・アプリケーションセンター(NCSA)の彼の同僚が最初のブラウザを開発した。これがモザイクだ。モザイクはグラフィックを見る事ができる。音も出る。gopherを使い、FTP、Eメール、ニュースグループに対応している。これは絵まで付いて、インターネットの全てを網羅する万能ブラウザだった。 その後ブラウザは発展を続け、ストリーミングオーディオ、ビデオ、それにいろんな種類のいかすテクニックに対応するに至っている。
1980年代から90年代にかけてのネットの成長についてHobbes' Internet Timelineを見てみると、インターネットのホスト数(実際にはインターネットホストに接続されているコンピュータの数だ)は1984年の1000台から1992年には100万台、1997年には1600万台にまで膨れ上がっている。 インターネットはこの数年の間に想像を絶するペースで成長してきた。モデムのスピードが速まるにつれ、インターネットアプリケーションの利用できるバンド幅も増えている(バンド幅とはインターネットと電話回線を伝わって君のコンピュータに流れる電流の量のこと)。 将来起こりうる交通渋滞を避けるために、世界的にいくつかの大々的なインターネットプロジェクトが進行している。 合衆国内で行われている大プロジェクトの二つが、ネクスト・ジェネレーション・インターネット(NGI)とインターネット2。インターネットよりも100から1,000倍のスピードのネットワークになるという。6億ドル以上が当てられることになっているこの二つのプロジェクトは1986年に始まったものだ。両ネットワークとも、教育用と政府のリサーチ用に巨大なバンド幅を提供する。これらのネットワークがどの程度インターネットへ接続されるのかはまだはっきりしていないが、Eメールやいくつかの機能にインターネットを利用するのは確からしい。
私とコンピュータ
私の初めてのコンピュータとの関わりは、友人が持っていた「マイコン」を触ったことに始まります。当時一体何に応用できるのか分からないような物珍しい代物は、とてもおこずかいを大枚はたいて購入できる存在ではありませんでした。興味半分高尚な玩具といった感じでした。
その後、かの往年の名機NEC TK-80が発売となりました。NECが日本で最大のパソコンメーカーになったのも、もとを辿ればこのTK-80のおかげといっても過言ではありません。これはいわゆる「パソコン」では無く、「ワンボードマイコン」とも呼ばれた、むき出しの基板に16進キーボードと7セグメントLEDが付いた姿のものあった。OSはおろか言語処理系も付いておらず、プログラミングは機械語で行う必要が有った。Intel 8080互換のNECのCPUに、メモリーは1kB程度と記憶している。私自身、TK-80でプログラミングはほとんどした事がませんし、もっぱらゲームで遊んでいました。
当時のアイドルはApple IIでした。Apple IIは、見た目にも一言「美しい」コンピュータでした。最近のPCのナサケないデザインからすると、Apple IIからある時期のMacintoshまでは本当に美しいデザインでした。当時は「見た目の美しい機械は性能もいい」という確信を持つに至ったといえます。ここで、デザインと言うと、外観だけを指しているように誤解されてしまうかも知れませんが、私は内部のデザインも含めて言っています。Apple IIは中を開けても美しかったのです。基盤裏など分解して初めて分かるのですが、そのアーキテクチャには整然とした流れが素人目にもハッキリと分かる論理性を表わしていました。
そんな友人のPCを指をくわえて見ていた私だったのですが、この年、NECがPC-8801というパソコンを出す、という情報が入tった。このコンピュータ、今となっては当たり前であるが本体とキーボードが離れていてカールコードで接続する(それまでは本体とキーボードが同一筐体のものがほとんど)タイプで、見た目もカッコイイ。その前のベストセラー機種PC-8001と互換性のあるモードを持っていてPC-8001のソフトも動かすことが出来る、機能的にもFM-8と同等以上のものがある、ということで、「こ、これは、あの友人に自慢しかえすためには、これを買うしかない」というわけでついに買ってしまいまったのである。
確か値段は、本体が228,000円、しかしNECでアルバイトをしていたお陰で、30%引きくらい値引きが効きました。ディスプレイはとても買うお金が無かったのですが、幸いにシャープ製ディスプレイを先輩から譲り受ける事ができました。
そんなわけで、やっと私もコンピュータのオーナーに。付属のN88-BASICでいろいろプログラムを作って遊んだり、あと、当時のパソコン雑誌には、プログラムが載っていた(ほとんどゲームかな)ので、それを打ち込んで遊んだり、なんてことやっていた。今と違ってほとんど実用になるようなことは出来なかったのだが、いろいろとコンピュータの仕組みを知る上では貴重な経験だったと思う。
やっとのことで手に入れたPC-8801なわけですが、当時はフロッピーディスクなんて内蔵されていません。外付けでフロッピーディスクドライブがあったのですが、これが馬鹿高い、確か本体価格より高かったような記憶がする。ディスクは、今のような3.5インチじゃなくて5インチか8インチのやつ。このメディアも高くて、1枚1000円以上していた。そのため普通はプログラムなどテープレコーダを使ってカセットテープに録音していた。
私が、OSというものを意識したのは、たぶんこの時が最初だったと思う。PC-8801にはN88-BASICっていうのが付いていたが、これは言語インタープリタに、その開発環境やらOS(モドキ)が渾然となったなんかよく訳の分からないモノだったりするのだが、CP/MなるOSを使うと、そのあたりがしっかり切り分けられていた。
CP/MはDigital Researchっていう会社が開発したパソコン向けのOSで、MS-DOSはこいつを真似して云々、というような話があった。CP/MとMS-DOSは非常に使い勝手はよく似てた。
大学4年頃コンピュータルームではその頃発売になったPC9801を、導入しました。後の通称「無印98」である。CPUはIntelの8086 5MHz位、メモリは標準で128KB、フロッピーディスクはオプションで8インチ2D、漢字ROMが搭載されていた。BASICが得意になっていた私には安心して使い放題にできる端末でした。当時はまだDOSが流行る前で、「パソコンを使う」=「BASICでプログラミングする」だった。CP/M86というOSも入っており、FORTRANやPascalなどのコンパイラを動かして、みたのあるがいろいろやったものの、メモリが少なかった為、あまりうまく行かなかった。
その後、この無印98がモデルチェンジしたPC9801Fというのが出たが、これは測定機の制御用やメインフレームの端末用として、研究室に大量に導入された。これはCPUのクロックが確か8MHzになって、5インチ2DDのフロッピーディスクドライブが2台内蔵されたマシンである。この98Fと一緒に、日本語ワープロも購入してあったので、こっちもいろいろ使い倒した。私が日本語ワープロを触ったのはこれが初めてだったと思う、英文ワープロではWordStarが軽く使い勝手が良かった。今と違って、ハードディスクなどなかった為、フロッピーにプログラムを入れておいて、そのフロッピーで立ち上げるという使い方です。立ち上げフロッピー何枚か死にました。当時はプリンタの方も貧弱で、確かに漢字も印字出来ることは出来るのだが、かなり印字品質が悪い。まだ論文をワープロで書くというのは夢のまた夢だったような気がする。
しかし、パソコンを触っている時間以外はコンピュータ本を読み漁っている日々が続いた私も無事に大学を卒業し、就職となりました。縁があって通信機メーカーであった。かねてからフロッピーに溜め込んだソフトの量、プログラムの雛形などあっという間に私の城を築く手伝いをしてくれました。システムエンジニアとして働く事になったのである。
以降必要なものは自分で買いそろえ当時3,5インチのFDが250円、130MBのHDDを購入した時は26万円という価格であった。EMSメモリも増設し、申し分の無い環境を作って行ったがコンピュータの進化も早い。386、486と進歩したが、全く我慢せず常にフラッグシップを購入し続けた。それと同時に世の中の趨勢がWindowsに移行した段階でもDOSベースのマシンは捨てられず最近になってやっとPentium4で使用環境を統一した。最新のOSにマシンのスペックが追いついて居なかったためである。必ずしも最高スペックが使用者にとっての用途に合うとは言えない。今後パソコンが如何なる形態のデバイスに変貌しても用途に合ったカスタマイズ(多様性)の包含が容易に可能であることが私の持論である。用途に使用者を合わせさせるのではなく、如何なる場面においても所謂痒いところに手が届く身近なデバイスツールであり続けることが、使用者に愛され利用され続ける存在になれる形態と思われる。