探求☆散策記

見たこと、聞いたこと、思ったことを綴った、日常探検記録。

パソコンやネットの歴史と関わり

2003年11月20日 23時03分06秒 | パソコン関係
インターネット前史
 1957年、ソ連は最初の人工衛星が打ち上げ、アメリカ合衆国の専門家達をパニックに陥れた。対抗策の一部として合衆国はARPA(Advanced Research Projects Agency)を設立。「奴ら」に遅れをとらないようなテクノロジーの発展に努める事にした。 1960年代の終わりにARPAは実験的なコンピュータネットワーク、Arpanetと呼ばれるものを構築した。このネットワークにはパケットスイッチングと呼ばれる情報伝達の新技術が使われた。そしてこれが後にインターネットの標準技術となったのである。
 パケットスイッチングはこんな具合で行われる:情報をネットワークを通じて伝送するためには、まず最初にその情報はパケットに分解される。送信もとのコンピュータが送信先のコンピュータと直接接続される代わりに(電話網と同じ事だ)それぞれのパケットは幾つものコンピュータがつながれたネットワーク上を流れていく。それぞれのパケットは行き先アドレスを持っていて、目的のコンピューターまでの道を「見つけ」られる。そして目的地でパケットはまたもとの形に組み立て直されるのだ。合衆国政府にとってのこのシステムの第一の利点は、もし核爆弾が軍部のネットワークのたとえ一部でも破壊した場合でも、データは生き残っているネットワーク上をうまく迂回して行き先まで賢くたどり着ける、ということだった。
 Arpanetは1970年代中盤にかけて非常に早いスピードで発展していった(その時代にかかった資金もものすごいものだったが)。1975年、合衆国軍はネットワークの管理権を掌握し、その利用を軍関係に制限した。このことは、それまでArpanetを利用していた軍関係者以外に独自のネットワーク構築を促すことになった。
 Eメールは1972年に発明されたが、その利用価値が広く認められるようになったのはそれからしばらくたってからのことだった

インターネットの普及
 ARPAはネットワーク同士をすべて繋ぎあわせるためのTCP/IPというパケットスイッチングのプロトコルの開発を促進した。そしてArpanet自体が1983年からTCP/IPを使いはじめた。TCP/IPソフトウェアは無料で誰にでも手に入る物だった。このネットワーク同士の接続能力が今日のインターネットを創り出した元なのだ。現在、インターネットはTCP/IPを使っている。インターネットは80年代を通じて成長を続け、1990年にはその元となったARPANETは遂に閉鎖された。
 インターネットはそれまでに沢山の発展をしてきたが、まだワールドワイドウェブというものは存在していなかった。だからインターネットといってもポイントしてクリックすると情報が得られたり、ダウンロードしてきてグラフィックプログラムを使って開かない限りはイメージをみることもできなかった。
 その間には分類化、検索、情報の更新(Archie、gopher、Veronicaなどと呼ばれているのがそれだ)などが可能になったが、大きな変化があったのは1992年になってからだ。その年、CERN(スイスのEuropean Laboratory for Particle Physics)の物理学者ティム・バーナーズ・リーが自身の物理学の研究用にワールドワイドウェブを発明したのだ。彼の目的は自分の利用のためだったが、それはまるで山火事のように瞬く間に世界に広がった。
 バーナーズ・リーはSGMLと呼ばれるマークアップ言語を使ってウェブページを作成し、ハイパーテキストリンクを使用した。こうしてコンピュータ言語を理解していない人でもマウスでポイントしてクリックするだけでウェブブラウザ上に必要な情報が取り出せるようになった。 そして1993年、マーク・アンドリーセンと国立スーパーコンピューティング・アプリケーションセンター(NCSA)の彼の同僚が最初のブラウザを開発した。これがモザイクだ。モザイクはグラフィックを見る事ができる。音も出る。gopherを使い、FTP、Eメール、ニュースグループに対応している。これは絵まで付いて、インターネットの全てを網羅する万能ブラウザだった。 その後ブラウザは発展を続け、ストリーミングオーディオ、ビデオ、それにいろんな種類のいかすテクニックに対応するに至っている。
 1980年代から90年代にかけてのネットの成長についてHobbes' Internet Timelineを見てみると、インターネットのホスト数(実際にはインターネットホストに接続されているコンピュータの数だ)は1984年の1000台から1992年には100万台、1997年には1600万台にまで膨れ上がっている。 インターネットはこの数年の間に想像を絶するペースで成長してきた。モデムのスピードが速まるにつれ、インターネットアプリケーションの利用できるバンド幅も増えている(バンド幅とはインターネットと電話回線を伝わって君のコンピュータに流れる電流の量のこと)。 将来起こりうる交通渋滞を避けるために、世界的にいくつかの大々的なインターネットプロジェクトが進行している。 合衆国内で行われている大プロジェクトの二つが、ネクスト・ジェネレーション・インターネット(NGI)とインターネット2。インターネットよりも100から1,000倍のスピードのネットワークになるという。6億ドル以上が当てられることになっているこの二つのプロジェクトは1986年に始まったものだ。両ネットワークとも、教育用と政府のリサーチ用に巨大なバンド幅を提供する。これらのネットワークがどの程度インターネットへ接続されるのかはまだはっきりしていないが、Eメールやいくつかの機能にインターネットを利用するのは確からしい。

私とコンピュータ
 私の初めてのコンピュータとの関わりは、友人が持っていた「マイコン」を触ったことに始まります。当時一体何に応用できるのか分からないような物珍しい代物は、とてもおこずかいを大枚はたいて購入できる存在ではありませんでした。興味半分高尚な玩具といった感じでした。
 その後、かの往年の名機NEC TK-80が発売となりました。NECが日本で最大のパソコンメーカーになったのも、もとを辿ればこのTK-80のおかげといっても過言ではありません。これはいわゆる「パソコン」では無く、「ワンボードマイコン」とも呼ばれた、むき出しの基板に16進キーボードと7セグメントLEDが付いた姿のものあった。OSはおろか言語処理系も付いておらず、プログラミングは機械語で行う必要が有った。Intel 8080互換のNECのCPUに、メモリーは1kB程度と記憶している。私自身、TK-80でプログラミングはほとんどした事がませんし、もっぱらゲームで遊んでいました。
 当時のアイドルはApple IIでした。Apple IIは、見た目にも一言「美しい」コンピュータでした。最近のPCのナサケないデザインからすると、Apple IIからある時期のMacintoshまでは本当に美しいデザインでした。当時は「見た目の美しい機械は性能もいい」という確信を持つに至ったといえます。ここで、デザインと言うと、外観だけを指しているように誤解されてしまうかも知れませんが、私は内部のデザインも含めて言っています。Apple IIは中を開けても美しかったのです。基盤裏など分解して初めて分かるのですが、そのアーキテクチャには整然とした流れが素人目にもハッキリと分かる論理性を表わしていました。

 そんな友人のPCを指をくわえて見ていた私だったのですが、この年、NECがPC-8801というパソコンを出す、という情報が入tった。このコンピュータ、今となっては当たり前であるが本体とキーボードが離れていてカールコードで接続する(それまでは本体とキーボードが同一筐体のものがほとんど)タイプで、見た目もカッコイイ。その前のベストセラー機種PC-8001と互換性のあるモードを持っていてPC-8001のソフトも動かすことが出来る、機能的にもFM-8と同等以上のものがある、ということで、「こ、これは、あの友人に自慢しかえすためには、これを買うしかない」というわけでついに買ってしまいまったのである。
確か値段は、本体が228,000円、しかしNECでアルバイトをしていたお陰で、30%引きくらい値引きが効きました。ディスプレイはとても買うお金が無かったのですが、幸いにシャープ製ディスプレイを先輩から譲り受ける事ができました。
 そんなわけで、やっと私もコンピュータのオーナーに。付属のN88-BASICでいろいろプログラムを作って遊んだり、あと、当時のパソコン雑誌には、プログラムが載っていた(ほとんどゲームかな)ので、それを打ち込んで遊んだり、なんてことやっていた。今と違ってほとんど実用になるようなことは出来なかったのだが、いろいろとコンピュータの仕組みを知る上では貴重な経験だったと思う。
 やっとのことで手に入れたPC-8801なわけですが、当時はフロッピーディスクなんて内蔵されていません。外付けでフロッピーディスクドライブがあったのですが、これが馬鹿高い、確か本体価格より高かったような記憶がする。ディスクは、今のような3.5インチじゃなくて5インチか8インチのやつ。このメディアも高くて、1枚1000円以上していた。そのため普通はプログラムなどテープレコーダを使ってカセットテープに録音していた。
 私が、OSというものを意識したのは、たぶんこの時が最初だったと思う。PC-8801にはN88-BASICっていうのが付いていたが、これは言語インタープリタに、その開発環境やらOS(モドキ)が渾然となったなんかよく訳の分からないモノだったりするのだが、CP/MなるOSを使うと、そのあたりがしっかり切り分けられていた。
 CP/MはDigital Researchっていう会社が開発したパソコン向けのOSで、MS-DOSはこいつを真似して云々、というような話があった。CP/MとMS-DOSは非常に使い勝手はよく似てた。
 大学4年頃コンピュータルームではその頃発売になったPC9801を、導入しました。後の通称「無印98」である。CPUはIntelの8086 5MHz位、メモリは標準で128KB、フロッピーディスクはオプションで8インチ2D、漢字ROMが搭載されていた。BASICが得意になっていた私には安心して使い放題にできる端末でした。当時はまだDOSが流行る前で、「パソコンを使う」=「BASICでプログラミングする」だった。CP/M86というOSも入っており、FORTRANやPascalなどのコンパイラを動かして、みたのあるがいろいろやったものの、メモリが少なかった為、あまりうまく行かなかった。
 その後、この無印98がモデルチェンジしたPC9801Fというのが出たが、これは測定機の制御用やメインフレームの端末用として、研究室に大量に導入された。これはCPUのクロックが確か8MHzになって、5インチ2DDのフロッピーディスクドライブが2台内蔵されたマシンである。この98Fと一緒に、日本語ワープロも購入してあったので、こっちもいろいろ使い倒した。私が日本語ワープロを触ったのはこれが初めてだったと思う、英文ワープロではWordStarが軽く使い勝手が良かった。今と違って、ハードディスクなどなかった為、フロッピーにプログラムを入れておいて、そのフロッピーで立ち上げるという使い方です。立ち上げフロッピー何枚か死にました。当時はプリンタの方も貧弱で、確かに漢字も印字出来ることは出来るのだが、かなり印字品質が悪い。まだ論文をワープロで書くというのは夢のまた夢だったような気がする。
しかし、パソコンを触っている時間以外はコンピュータ本を読み漁っている日々が続いた私も無事に大学を卒業し、就職となりました。縁があって通信機メーカーであった。かねてからフロッピーに溜め込んだソフトの量、プログラムの雛形などあっという間に私の城を築く手伝いをしてくれました。システムエンジニアとして働く事になったのである。
 以降必要なものは自分で買いそろえ当時3,5インチのFDが250円、130MBのHDDを購入した時は26万円という価格であった。EMSメモリも増設し、申し分の無い環境を作って行ったがコンピュータの進化も早い。386、486と進歩したが、全く我慢せず常にフラッグシップを購入し続けた。それと同時に世の中の趨勢がWindowsに移行した段階でもDOSベースのマシンは捨てられず最近になってやっとPentium4で使用環境を統一した。最新のOSにマシンのスペックが追いついて居なかったためである。必ずしも最高スペックが使用者にとっての用途に合うとは言えない。今後パソコンが如何なる形態のデバイスに変貌しても用途に合ったカスタマイズ(多様性)の包含が容易に可能であることが私の持論である。用途に使用者を合わせさせるのではなく、如何なる場面においても所謂痒いところに手が届く身近なデバイスツールであり続けることが、使用者に愛され利用され続ける存在になれる形態と思われる。

パソコンの略歴

2003年11月20日 23時01分57秒 | パソコン関係
パーソナルコンピュータの発祥
現在、私たちは身の回りに多数の電子機器群に囲まれた生活を送っている。モバイル端末である携帯電話、PDAやデジタルカメラ、GHP、ICカード、医療系ペースメーカーなど欠かせない存在となっている。それら電子機器が飛躍的に成長してきたのも、1948年に誕生した トランジスタの成功が大きい。
それまでは膨大な数の真空管を使い、1つの機械を作っていた。代表的なものに 1946年に完成した ENIAC がある。それから約50年。さらに部品の小型化は進み、1つのチップに何千万個分ものトランジスタが集積できるまでに技術が発達してきたのである。
 1976年になると、NEC が送り出したコンピュータ、TK-80 が発売された。 TK-80は、マイコンブームのはしりとも言える存在で、現在のパーソナルコンピュータの基礎を作ったとも言える。発売のねらいは文字通り、技術者を養成するためであった。TKとは「トレーニングキット」の略。80は Intel 8080 の セカンドソースとしてNECが開発した uPD8080A から由来する。トレーニングキットという名称からも分かるように、マイクロコンピュータとはどのようなものか、実際に組み立てて分かってもらう事を目的にしたコンピュータであった。
 その頃は、ラジオ、オーディオ、アマチュア無線の送・受信機の自作が盛んに行われており、ラジオ技術、CQ、トランジスタ技術などの技術雑誌には、4あるいは8bitのマイクロコンピュータの製作記事がいろいろと発表され、製作記事で使われた基盤の通信販売が行われるなど、コンピュータを作ろう、あるいは作ってみたいという基盤は出来上がっていた。コンピュータを動かすための基本的なプログラム(BIOSに相当)は、わずか 768バイトのモニターROMに収められていた。その後、日立のベーシックマスターや、SHARPのMZ-80Kの発売などがあるものの、日本初の本格的パーソナルコンピュータと呼べるものは、NECのPC-8001と言える。機械語は 0 と 1 で扱うが、それでは分かり難いので16進数でプログラミングしていく。これは初期の大型コンピュータも変わりらなかった。 大型コンピュータは、時代が進むにつれて人間が理解しやすい記号に置き換えたアセンブリ言語、さらに進化して Fortran や COBOL などが開発された。 プログラミング言語では、それらを総称して高級言語と呼んでいる。
しかし、TK-80にはそのような高級言語はなかった。いや、高級言語を入れるようなスペースが無かったのである。
 「教材」として開発された TK-80 は、コンピュータの仕組みを理解してもらうためものであったが、一般には個人用のコンピュータとして認知されていたための大きな誤解を生んだ。 マイコンブームの起爆剤として大ヒットした TK-80は、1977年に発売された世界で初の本格的パーソナルコンピュータ Apple の AppleII に比べると、天と地の差で、AppleII はそれと比べると、あらかじめBASIC言語が入っており、家庭用テレビにカラー表示できるなど、個人用コンピュータとしては十分な能力を持っていました。 この年は、他社からも本格的パーソナルコンピュータが発売されるなどして、「コンピュータ元年」と言われた年であった。

個人用コンピュータの完成
 同じくNECよりCOMPO BS(電源と外部記憶装置にカセットデッキを採用し、それらを ケースに収めた形状のコンピュータ)が発売され、個人用コンピュータの基礎が出来たといえる。その後NECでは新しい次世代のコンピュータを開発しようと考えていた。初の本格的パーソナルコンピュータといえる、PC-8000シリーズである。
PC-8001もまた、BASICを搭載することになるが、BASICのメーカーは何処にするのか決定しておらず、BASICのメーカーは、現在ではもっともメジャーな Microsoft の BASIC と、NEC の社内で開発された BASIC を搭載するか、といった所まで話が進んでいた。
 Microsoftはビル・ゲイツらが起こした会社で、当時アメリカでのBASICのシェアが非常に大きく、勢力も十分な物であった。現在に至りMicrosoft Windowsなどによって大企業に成長している。
NEC社内で開発されたBASICは、Microsoftのそれと比べて高速な事が証明されていたが、NECはMicrosoft製のBASICを採用した。PC-8001の発売を成功させるためには、Microsoftの知名度を取るべきと言った意見があったためである。
 PC-8001は、Microsoft BASIC が採用され、メインメモリ16KB、CPUに ザイログZ80互換 の uPD780C/14MHz 、そして目玉の8色カラー表示と、パーソナルコンピュータとしては申し分ない性能であった。
 価格は、168,000円に設定し20万円を切っているという、驚異的な価格は、以前にICなどの集積回路分野を担当していたからなしえたことと言える。なぜなら、ICなどの集積回路は6年ごとに1桁値段が安くなると言う定説があり、それを狙って安く値段を設定できたのである。TK-80との最大の違いは、TK-80の教材用の制作キットとしてではなく、パーソナルコンピュータとして最初からの周辺機器に対応していることだったのである。
 1979年に「マイクロコンピュータ ショウ'79」が開催され、そこにPC-8001も姿を見せた。PC-8001の制作プロジェクトが始まった頃は、TK-80の様な売れ方はしないだろうと考えられていたが、予想に反してショウでは大反響。 その後、マイコン雑誌でもPC-8001の特集が組まれ、高い評価が与えられた。PC-8001は発売前から予約が殺到し、生産が全く追いつかないと言う事態にまで発展し、1979年 8月の発売以来、数ヶ月入手できない日々が続いたようである。

世界的の動向
 PC-8001の発売は、大成功を納めまた。その頃、世界のコンピュータではどうなっていたのであるうか。
世界のコンピュータの代表的メーカー、IBMのルーツは1896年に設立された統計表作りを自動化する機械のメーカー、タビュレーティングマシン社にさかのぼる。その後、タイムレコーダと自動計り機のメーカーをまとめた CTR を設立。第二次世界大戦後の1924年には、現在のIBM(International Business Group) に社名変更された。
 紙に穴をあける装置と、それを仕分ける装置、仕分けたデータを処理する装置をまとめた、「パンチ・カード・システム」をレンタル制で供給する商品によって、IBMは勢力を伸ばしていった。
 IBMはその後もパンチカードシステムのノウハウを生かして、電子計算機の分野で大きな発展を遂げた。代表的な物に、UNIVAC、7000Series、事務用の1400Series、System360などが挙げられる。
 IBMもまた、1980年にはパーソナルコンピュータの開発に着手していた。当時は Apple の AppleII が大きなシェアを獲得していた。 AppleII は、内部のアーキテクチャを公に公開しており、外部メーカによる周辺機器の発売など、 サードパーティーが入りやすい環境が整えられていたためである。
 後の 1981年8月、IBMは 16bitパソコン IBM PC の発表に至っている。 CPUに Intel 8088、メモリは16KB(最大で256KB) 、ROMに納められたMicrosoft BASIC、ビジネスを意識した本格的なキーボード、5つある拡張スロットと、本格的な物に仕上がっていた。 外部記憶装置に当時一般的だったカセットテープレコーダも繋げられることもできが、グラフィックスに関しては、AppleIIの方が上であった。
しかし、オペレーティングシステムにMicrosoft BASICと、CP/Mとの互換性を持った PC-DOSを柱とし、CP/M-86も提供するなど、ユーザーが選択出来るといった特徴もあった。そして、もっとも注目する点は、IBM PCの徹底したオープンアーキテクチャである。 回路図、技術情報から、BIOSの仕様に至るまで、全面的に公開していたのである。

PC-8801の発売
IBM PCが発売された頃、NECも 1981年 に2つのパーソナルコンピュータを発表している。一つは、コンピュータ入門機の PC-6001、もう一つはビジネス用途と言える PC-8801 である。PC-6001は、初めてコンピュータにさわると言った一般けに開発されたもので、プログラムを収めたカートリッジ型のROMを本体のスロットに差し込んで電源を入れれば、すぐにゲームや学習物などのアプリケーションを使えた。PC-6001もまた、Microsoft BASICを採用していたが、PC-8001のそれとは互換性が無く、PC-8001のソフトはそのまま使えなかった。一方、ビジネス用途で使うことを意識して作られた PC-8801 は、解像度を PC-8001 のレベルから大幅に高め、複雑な漢字を表示できる基盤を整えてビジネス用途にも耐えられるようになっていた。しかし、実際の漢字ROMを標準搭載する所まではいかなかった。これは、他社メーカーである富士通の FM-8 と同じである。PC-8801は、パワーアップしたハードウェアを生かすため、Microsoft N88-BASICを採用。加えて、従来のPC-8001に搭載されていた N-BASIC を利用できる構造になっていた。発表された2機種は、どちらとも8bitパソコンではあったが、PC-8801においては 16bitパソコンである IBM PC に処理速度の面で勝っていた。PC-8801は、16bit パソコンの一歩手前まで来ていたのである。

PC-9801の発売とNECシェアの拡大
 1982年10月、大ヒットシリーズPC-9801が発表された。PC-9801は、初の16ビットパソコンとして姿を現した。CPUにIntel 8086/5MHz、メモリ128KBというスペックに加え、 グラフィック処理スチップであるGDCや、PC-8801と互換のN88-BASIC(86)を内蔵していた。N88-BASIC(86)は、一時期著作権の関係で問題になりましたが、著作権名やライセンス料を支払うことによって和解し、発表に至った。PC-9801は、IBM PCと同じ16bitのCPUを採用していたが、IBM PCは Intel 8088 と言う内部は16bitで処理し、外部との通信は8bitで処理するCPUを採用。しかし、PC-9801はIntel 8086と言う内部/外部処理共に16bitのCPUを採用した。
 PC-9801の滑り出しは好調ではあったが、当初ソフトウェアの本数が少なく、8bitパソコンを使ってきたユーザーが、より早いパソコンを求めてPC-9801に飛びつくと言った事はあったが、肝心のビジネス層にはなかなか受け入れられなかった。 しかし、しばらくするとPC-9801用と銘打った製品もソフトハウスから発売され、ようやく8bitパソコンに届くぐらいのソフトウェアの本数となった。この間は、NECとソフトハウスの大変な努力によってなしえたことだといえる。
 アメリカでは 1982年 に IBM PC の新機種、XTの発表をしたが、XTは10MBのハードディスクを内蔵し、IBM PCのシェアはますます大きくなっていった。
 Microsoftは大量の情報を階層化により効率的に管理できるMS-DOS 2.0の開発などを行っていました。 PC-9801には、このようなソフトウェアが必要だったと言える。既に MS-DOS 1.25はPC-9801用に用意していたものの、このような機能は搭載していなかった。
 PC-9801のソフトウェアは、増えたと言っても依然とBASICで書かれており、そして売れるソフトはゲームであった。この頃、アメリカのIBM PCではOSにBASICではなく、CP/Mを採用し表計算やワードプロセッサ、データベースと多彩なビジネスソフトウェアが生まれ、 16bitパソコンになると、MS-DOSによって新たな時代が築かれようとしていた。
 NECは、OSのターゲットとしてMS-DOSを選択。Microsoftからライセンスを会得し、PC-9801用に移植を行った。ソフトメーカに対し起動する際のバンドル料、つまりサブライセンス料は「いっさい対価を求めない」とした。それがソフトウェア普及のためには、最適な方法であった。
 IBMの日本支社である、日本IBMもまた、漢字が表示できるパソコンを開発した。完成した機種は IBM PC/JX と名付けられ、1984年に発表。JXは CPU に Intel 8088を採用していたが、IBM PC/XTをベースに日本語化したもので、これが失敗の元だったといえる。 Intel 8088は外部とのやりとりは 8bit で行うため、16bit化の波に飲まれてしまったのです。
 後に日本IBMは、IBM PC/ATをソフトウェアのみでグラフィックスを使って日本語化する、PC-100と似たようなシステムを採用したOS、DOS/Vによってようやく日本語対応マシンを築き上げることが出来た。1990年の出来事である。 PC/ATはPC/XTの最上位機種として発売されたマシンで、CPUにIntel 80286を採用、グラフィックスやインターフェイスを大幅に強化し、後に標準アーキテクチャとして生き続けることとなる。
同年にはAppleのMacintoshが発売されている。MacintoshのGUIは洗練されたイメージがあり、価格帯も $2,495 と決して高くはなかった。しかし、メモリ容量128KBと少なく、フロッピードライブの容量も400KBと少なすぎたのが原因で目標をはるかに下回る販売台数 の低迷に苦しめられた。ハードウェアの問題以外にも、ソフトウェアが少なすぎたという事も上げられる。グラフィックスをメインに使うコンピュータの割にはRAM容量が少なすぎたのである。

キラーソフト、日本語ワープロ登場
 1985年に Justsystemは 元々PC/JX用だったソフトウェアを、PC-9801に移植したjX-WORD太郎という名前で発売。同年8月には、PC-9801用のワードプロセッサとして 一太郎 を発売。 一太郎の発売は大成功し、MS-DOS普及に大きく貢献した。この時点で、PC-9801は日本で圧倒的なシェアを占めていた。1980年代からおよそ10年間の間の話である。日本IBMからPC/ATに日本語を表示できるOS、DOS/Vが発表されるまでは、この状態が続いた。1995年までに、PC-9801シリーズは累計で1000万台の出荷を記録していった。

Microsoft Windows の発売と現在
1995年になると、Microsoft Windows95が発表されます。Windows95はWindows3.1の後継OSで、パソコンの普及に多大な貢献をすることになった。Windowsは、MS-DOS上にGUIを提供することを目的として開発されたもので、Windowsの源型ともいえる Windows1.0 は1983年に発売されている。しかし、Windows1.0はMacintoshのGUIなどと比べると桁外れに劣っていた。当時 8086 などのCPUでは、Windowsを動かす為には力不足だったためである。1987年には、ウインドウを重ね合わせることが出来る Windows2.0 を発表。しかし、Macintoshの見かけと使い勝手をコピーしていると訴えられ、Windowsの足を引っ張った。その後、1990年になってWindows3.0を発表。日本では 1993年の Windows3.1 によって、広く普及した。Windows95は、Windows3.1の使い勝手をさらに高めたOSで、機種間の差を取り払うために作られたOSである。 機種間の差を取り払うことは以前のバージョンでも行われていましたが、きちんとした規格を定めていなかったために、あまり機種間の差は取り除かれいなかった為、機種ごとOSが異なるといった状況も見られた。
Windowsは画面の情報をすべてグラフィックに任せるため、PC-9801の利点であるテキスト処理が生かされなくなる。そのため、PC-9801はDOS/Vの発表と共に徐々にシェアを落としていった。この時点で98の独自性は損なわれたのである。
 1997年10月、NECはついに PC-9801 のアーキテクチャを捨て、PC/ATのアーキテクチャを取り入れたPC98-NXを発表、現在に至っている。これは、PC-9801を採用し続ける意味が問われたためです。この時点で、PC-9801のシェアは非常に落ちていた。現在では、WindowsXPの発売もあり、ユーザーはハードウェアとの密接な関係を知らなくても操作できるまでに便利になってきている。