探求☆散策記

見たこと、聞いたこと、思ったことを綴った、日常探検記録。

谷口父子による日本建築の美とモダニズム洗練の極致2

2003年03月20日 22時48分31秒 | 建築探訪
谷口吉生
(1)土門拳記念館
 日本海に注ぐ最上川の河口に開けた山形県酒田市は、江戸時代から栄えた港町である。街には本間家や鐙屋などのかっての大地主や豪商の旧宅が今でも残り、往時の繁栄を伝えている。「土門拳記念館」は、この酒田市の南西の広々とした飯森山公園の一角にある。白鳥や家鴨が羽を休める池(人工池)のほとりに建ち、周囲の環境と見事に調和したシンプルな直線美による美しい建物は、それだけでも見るに値する。吉田五十八賞、日本芸術院賞を受賞した建築である。
 同館はその名の通り、日本の写真界の第一人者として、海外でも幅広くその名を知られた写真家、土門拳の美術館である。昭和49年(1974)に酒田市の名誉市民第一号に推された土門拳は、その顕彰式で白身の全作品を市に寄贈することを提案し、これを受けた酒田市は、昭和58年に完成させた。個人の写真美術館としては当時、世界初のもので、同館では彼の生涯にわたる作品、約7万点を収め、順次紹介を行なっている。詩人の高村光太郎も、「土門拳のレンズは人や物を底まであばく」と評している。代表作には『古寺巡礼』、『室生寺』、『ヒロシマ』、『筑豊のこどもたち』、『風貌』、『文楽』、『日本名匠伝』などがある
 土門拳の大作が飾られる主要展示室。同館では彼の作品の保存・公開をするほか、作品の研究や写真研究の場としての機能も備えている。 展示にあたっては、年4回のサイクルで作品構成を替え、館内の3つの展示会場で紹介を行なっている。主要展示室で主に飾られるのは、2度の脳血栓を乗り越え、最後は車椅子で撮影を続けながら、完成させた執念のライフワーク、『古寺巡礼』。大判に伸ばされた作品は、まさに肉眼を超えた圧倒的なパワーで見る者に迫ってくる。
 同館には彼と交友の深かった人々も、いくつか作品を寄せている。ギャラリーへと進む中庭に、世界的な彫刻家イサム・ノグチが彫刻の「土門さん」を、企画展示室Ⅱからの庭には草月流家元・勅使河原宏が最上川の平石を敷き詰めた庭園「流れ」を作庭している。そして、グラフィック・デザイナーの亀倉雄策は、同館の銘版とポスターのデザインを手がけている。いずれも、同館の完成時に3度目の脳血栓で、意識不明の状態にあった土門拳の再起を願って作られたものである。
 土門拳は同館の完成から7年後に、残念ながら自身の美術館を一度も見ることなく意識不明のまま生涯を閉じた。享年80歳であった。
 建築は飯森山自然公園の雄大な自然美と、記念館の直線的外観が、絶妙な調和を見せている。RC打放しの箱型の建物で、型枠の打続きラインがキューブの積み重ねにも見える。重量感を感じさせる質感である。中に入ると廊下のようなギャラリーを抜けて離れのような展示室があり、その奥には勅使河原宏氏デザインの迫力ある庭園が見える。その反対方向には池があり、不思議と落ち着く空間になっていた。また、この記念館は市民に大変愛されているようで、池の周りにある遊歩道にはアジサイが咲き、大勢の人が散策している。見学後、階段を上がってブリッジを渡ると建物の裏へ出る。池を回遊し対岸からベストショットを眺める事になる。記念館の池に面した休憩室外のテラス部分に出るサッシュのドアには注意書きがされ若干興ざめである。保存状況はメンテナンス非常に良く、建築が大切に取り扱われ、地域に同化している点は好感が持てる。
 作品の背景にふさわしく簡素な意匠と言える。展示空間は写真保存の観点から自然光は入らないが、ラウンジは人工池に浮かぶかのように配置され非常に明るい。来館者は土中に一部埋められた展示空間から、土門作品の永久性を感じ取り、水に浮かぶラウンジで日差しで変わる水の色や四季の移ろいと共に鑑賞の余韻を楽しむ。二つの空間は対比を見せている。繊細で鋭角的な意匠で統一されている。

(2)酒田市国体記念体育舘
 土門拳記念館と同じく酒田市飯森山公園の中にある市の建築した体育館である。先に建設された土門拳記念館とはスケールや施工素材が異なり対比を見せながら調和している。土門拳記念館が小さくとも重量感を感じさせるのし対し、体育館は大きいが軽やかで公式競技用の大アリーナと練習用小アリーナ及び弓道場からなる。最大の特徴は大空間を成立させる架構構造にある。大小アリーナ共に観客席の下部構造の上に張弦梁を乗せる構造となっている。これが建築の高さを抑える為に有効である。体育館の屋根外面は金属幕面で覆われ軽快な感じである。内部は構造体をそのまま意匠として表している。水平方向に連続する梁の先端は、翼のように拡がり、地上に反射する光を間接的に取り入れている。二つの体育館の屋根から張り出すウイングが並ぶ姿が軽快である。手前の体育館側には円弧状に目隠しをした内側に野外ホールのようなものをつくり奥の体育館側には弓道場を配置している。なかなか工夫が凝らしてあるが、予算の都合かやはり「土門拳記念館」を見てしまうと印象は薄れてしまう。体育館は、シルバーの外壁が腐食してきていて残念である。美術館より新しいが、手入れの仕方の為に少し古びて見える。内部は、体育館らしい臭いがした。用務員の方の話しでは空調が後付けとの事で換気が悪くせいた匂いが篭っている。右側にグラウンドを挟んで土門拳記念館がある。記念館から観ると庇部分が光っており宇宙船の不時着のようでもあり、軽やかに綺麗である。

(3)長野県信濃美術館/東山魁夷館
 風景画家東山画伯の美術館として、来館者が展示空間を中心とした施設内を一巡することによって、作品鑑賞および周辺環境との視覚的な関係を通して、東山作品に深く思いを巡らす事ができる構成としている。外観の意匠は、既存の商業施設等との意匠的競合を避け、単純な幾何学的形態とすると同時に、周辺の海辺や小島の美しい自然と呼応して、新しい景観を形成している。展示空間も展示される作品の背景に適した簡潔な意匠とされ、貴重な作品を広く公開すると同時に、永久保存を行うための高い機能性と恒久性を持った空間としている。展示空間に加えて、東山魁夷画伯の人となりや画業を紹介するためのコーナー、作品鑑賞の余韻を楽しむための場所としてラウンジなどを設け、それぞれが特徴のある空間となっている。
 昭和62年、東山魁夷画伯は、信州の豊かな自然が自身の作品を育てた事から、自家所有の作品などの全てを長野県に寄贈された。県は東山魁夷美術館を計画したが、その敷地は善光寺の賑わいや野球場の喧噪に隣り合わせた日常的な公園の風景の一角の窮屈な場所で、東山芸術にふさわしい敷地とは思えないものであったが、画伯自身から設計者に指名された建築家・谷口吉生は、この地に全く新しい風景を描き出している。建物は一切の装飾性を排し、伝統的な材料をひとつも使わずに侘びも寂びもしないモダニズム仕立ての中で、日本の美意識をみごとに表現しているのである。緊張した雰囲気を醸すエントランスは、駐車場に車を停めて階段を数段上ったとたん、市街地の渋滞を抜けてきたばかりの猥雑な気持ちを、瞬く間に浄化する。館内に入ると正面の吹抜の階段で2階の展示室に導かれる。内部は直線的な壁と水平な天井とで四角く簡潔に構成されているが、展示室を進むのにしたがい切りかえされていく空間は、期待感と充実感を演出し、深い満足感をもたらしてくれる。展示室を廻り吹抜のギャラリーから1階に戻ると、その先で水の張られた庭に張り出した逆光のラウンジに放り出される。ラウンジにあふれる水面に反射した自然光の乱舞に包まれていると一瞬、東山芸術に同化したかに錯覚するようだ。
 その外観は単純な幾何学形的とアルミパネルによって、東山画伯の作品の背景として清冽な風景を映し出している。また、エントランスからの中庭の風景は精錬された建築美を眼にすることができる。善光寺の東側城山公園内、北は東山魁夷館、南は信濃美術館と渡り廊下で繋がった二つの建物からなっている。入り口までのスペースには梓川をイメージした水と石で出来ている。外観と同様、内部空間も一切の装飾を排し、無駄な線を消し去り淡白なデザインである。しかしながらプランニング、空間の切り取り方、面や空間のプロポーションは洗練されて、妥協することがない。
 白銀に輝く外壁と中庭の水面との対比だけが印象的であるが、美術作品を鑑賞して館内を散策していると、まるで、野山の自然の中を歩いているような静寂な心地よさにつつまれてくる。技術的には、開口部や建具あるいは床・壁・天井の納まりの無駄な線を消し去り、外部空間や内部空間同士を効果的に演出するように平面・断面計画と開口の開け方が意図してされているということなのだが、よほど、そうした設計作法に通じていなければ出来ない技であろう。建築に素材感や量感を持たせず、存在感ですら消し去った独特の手法は、展示芸術を引き立てる装置としての建築である美術館にこそふさわしい。作者の意図の一端を見た気がした。隣にたつ日建設計の長野県信濃美術館は、あくが強い建物だけに、このシンプルな形と材料には、ほっとするものを感じる。池に張り出した庇とラウンジから池越しに見える松の樹からも『和』を感じさせる。ラウンジに座って池を眺めていると陽の光が反射して天井に当たり、その光が風と共にゆらいで、いかにも水音がきこえてきそうであった。

(4)東京国立博物館/法隆寺宝物館
上野公園の中にある東京国立博物館の敷地内につくられた宝物館である。これまで保存中心とされてきた展示物を、さらに保存機能を高めつつ広く一般公開する事を目的としている。この永久保存と公開展示という二律背反する条件を同時に達成する為に、展示室や収蔵庫は外界遮断する分厚い壁で囲い、ロビーやラウンジはその外側にガラスで覆われた明るい解放的な空間を配している。そのため内箱、外箱のような外観になっているのであろう。これまで手狭であったため週一でしか見られなかった法隆寺の宝物を常に見られるようにということでつくられた建物である。左右及び天井を囲った箱をつくってそこに柱を立てるという彼の作品の特徴が今回も見られる。これも必ずといっていいほど見られるのだが、建物の横に併設するように小振りの喫茶室がある。内部は全面黒の部屋にガラスの展示ケースが並べられている。建物の前にある噴水もマッチしており気持ちが良い。
 この建築の美しさは誰の目にも判り易いであろう。20世紀モダニズムの極致のような凛然たる存在感と心地よいプロポーションによるものだと思う。そこには構想からディテールに至るまで終始一貫して緊張感とこだわりのあるものづくりとしての鋭い姿勢がみえる。選びぬかれた素材によるシンプルな構成と寡黙な表現は、そのために費やされたであろう膨大なエネルギーを微塵も感じさせず洗練の限界を極めており、そこに佇む者の背筋を硬直させる。東京国立博物館にはこの他に本館、表慶館、東洋館などがある。法隆寺宝物館は以前からあったが保存を主目的にしており、その貴重な資料を保存し且つ公開することを目的に建て替えられた。
 ここでは大きな額縁の中に縦繁格子のガラスの箱をはめこんだようなデザインになっている。このキャノピーは建築と前面の外部空間を一体的に接続する役割を果たしており、この場合は手前に広い静かな水盤がある。キャノピーを支える柱はいつものように細い。縦繁格子とそれを支えるマリオンは葛西のレストハウスと同様に無垢のスチールのようだ。エントランスホールに入ると縦繁格子が外から見たよりも和風の印象で父谷口吉郎氏のデザインを彷彿とさせる。展示室は宝物を保存するため外光を入れていない。暗い展示室の中に仏像や彫刻などが浮かび上がるように展示されている。どうしてもディテールに目がいってしまう。コンクリート打放しの柱にPコンの跡がない。枠や格子などの納まりもシンプルに見せるために、役物という発想はないように見える。

(5)葛西臨海公園
①レストハウス
 東京湾埋め立て事業の完成を記念して、公園の展望、休憩施設として建設された。記念建築としての象徴性に加え、以前に完成している水族館との調和も図られている。建築は巾7M、長さ75M、高さ11Mのガラス直方体と下部コンクリート基礎部分で構成されている。海辺のロケーションであり、建築高さは無いが、充分に展望はひらける高さであり、水平方向の導線が空中を散策している感覚を与える。
人は動いている様子が手に取る様に見えてとても面白い。建物のイメージは極限まで薄められ、残ったのは人のイメージだけで、ここまで人の印象が出てくる建築は他には無いだろう。
②水族館
 東京都が上野動物公園100周年を記念して建設した水族館である。本館は直径100Mの円盤状であり、上部の入り口広場のみ外観上姿を現すが、以下地中に埋まっておりエスカレーターで水中に向かって降りて行くようになっている。
 マグロの回遊している姿を見られるというのであっという間に人気の水族館になった葛西臨海水族園のある海上公園。水族館だけではなく、ホテルシーサイド江戸川というプチホテル、野鳥園、西のなぎさ、クリスタルヴューなど80haという広大な面積の公園の中にゆったりとしたスペースでつくられている。水族館はマグロやカツオが回遊しているからすごいというだけではなく建物もわくわくさせてくれるから素敵なのだ。階段を上がって一番上まで行きそこに広がるのが水の景色。クリスタルの棟が水の中に浮き、そのまま海に繋がる。その水の扱い方がすごい。光あふれる最上階からエスカレータで暗闇に降りると巨大な青い光が目に飛び込んでくる。全周が80~90メートルもある巨大な水槽の中で魚はゆっくりと泳いでいる。こんな幸せな東京の水辺の風景はどこにもない。建築は何も主張していない。
 ただし水族館ゆえに小学生の団体が多いので賑やかである。なんと年間200万人以上の人が見に来るという人気の水族館ですから。別に水族館を見なくてもここではのんびりと時間を過ごせる。芝生の上でワインとサンドウィッチを広げる。西なぎさで貝拾いをする。鳥類園でバードウォッチングを楽しむ。でも何もしなくても気持ち良くいられるのはやはり水辺だからなのかも知れない。

谷口父子による日本建築の美とモダニズム洗練の極致1

2003年03月20日 22時47分43秒 | 建築探訪
谷口吉朗(1904-1979)

(1)東京国立博物館/東洋館
 展示はシルクロード終着駅としての日本における東洋美術の宝庫である。欧米やアジアの国々に設けられている美術館と異なる日本人の美術眼を示す展示スペースと言える。絶妙で繊細な演出が東洋各国の本国以上の特質を発揮させているのではないだろうか。日本の東洋美に対する美意識と情熱を造形的に表現している建築である。
 重要展示品には無窓展示室が用意されているが、有窓部分はまさに障子格子であり、縁廊、庇納、など至る所に木造日本建築の美がそのままモチーフとして用いられている。本館を3ブロックに分かち二つの無窓ブロックの中間に有窓ブロックを配置し、参観者は無窓部と有窓部を交互に順覧する。それにより、明暗の変化による照明効果と、気分転換が図られている。本館は地上3階であるが、M2階、M3階があり、半層ずつの昇降となり、脚の疲労は感じなかった。さらに中央の有窓部は上下3層が吹き抜けとなっており、室内空間の視覚に変化をもたらしている。地下部分はB1が特別陳列室、B2は設備室となっている。照明色彩は温和であり、美的効果に対し建築は干渉していない。

(2)帝国劇場
建物は三菱地所設計の事務所建築「国際ビル」と共同である為、外観は地上9階のエレベーションに包含されている。東京の中心地でありながら、皇居のお濠に面し、景観に恵またロケーションとなっている。
意匠は舞台の劇的印象を効果的にする為、視覚、聴覚への間接的な訴えかけ感じる。オーデトリアム内部の装飾は一切排除し、天井と壁面の形状及び材料に配慮されている。天井の折り紙のような幾何学構成も、壁面の不規則な縞模様もそれによる為と思われる。色彩も落ち着いた色調を基調とし、側壁はチーク材の素地、天井は淡い褐色、床はグレーの絨毯、椅子の布地は古代紫としている。オーデトリアムの落ち着いた雰囲気の意匠に対し、ロビーでは華やかな観劇気分を醸し出している。中央の高い吹き抜け空間の上部には大きなステンドグラス6面が並び、鮮やかに色光を投影している。吹き抜けの左右には非対称の階段が二つ相対し、その中途にはステンドグラスの色を写す金属製のすだれが天井から下がっている。ロビー周囲の壁にはボーダータイルが張られ、その土色が人肌を感じさせる。天井は白木の板張り、床の絨毯は暗青色、柱は黒みかげ、であり日本の造形感覚に浸透している色調と質感と言える。伝統的な素材配置から由緒ある格調を感じさせる建築である。

(3)ホテルオークラ
 ホテルオークラは、赤坂葵町の高台に建てられた日本を代表するホテルの一つである。霞ヶ関の官庁街、新橋・銀座の娯楽商店街にも近く、ホテルも云わば一種の商店建築である上で、申し分のない立地条件である。当時、設計委員会が設けられ、委員長に谷口吉郎氏、委員に小坂秀雄、清水一、岩間旭、伊藤喜三郎の各氏が参加したとの事。主としてメインロビーが谷口吉郎、外観および大宴会場は小坂秀雄、和室客室は清水一、中宴会場は伊藤喜三郎の各氏のデザインによるものである。
 日本のホテルの場合、アメリカと違って宿泊料収入より飲食料収入の方がかなり多い為、このホテルも宿泊部分よりパブリックスペースに建設費の配分からも、面積比からもかなり用意されている。客室550室、大小宴会室合わせて22室、その他結婚式場、各種バー、ラウンジ、グリル、和食、中華の食堂、コーヒーショップ、店舗という内容となっている。
 意匠的には坂倉準三がパリ万国博覧会、日本館において木製の菱目格子を至る所に使ってその稠密さにより日本的イメージを表現していたが、モダニズム建築の表現で当時のオリンピック選手団にアピールする為の”日本の顔”を具現するにあたり、コンクリート駆体の外壁に日本瓦を張った生子壁の仕上げにしている。建築の水平性を強調するようなモダニズム的なコンクリートの庇を周囲に回しているが、それが垂直方向に連続し、中心の塔が城郭の楼閣のようにも見えることから東洋的な様子を見せている。
 戦後の復興期において1964年の東京オリンピックの開催にあたり、来日する各国選手団とそれに付随する役員、報道関係者および観光客が宿泊できるホテルがほとんど無かった為、オリンピックに間に合わせるように造られたホテルの第一号がホテルオークラであり、同時期には東京ヒルトンホテル、ホテルニューオータニ、羽田東急ホテル、東京プリンスホテルなどがある。

(4)良寛記念舘
 出雲崎は、江戸時代に佐渡金山で採掘された金を陸揚げされた場所として、あるいは柏崎、寺泊をつなぐ宿場町として栄え、良寛は橘屋という庄屋の長男として、宝暦八年(1758年)ここに生まれた。「いにしへに変はらぬものは荒磯海と向かひに見ゆる佐渡の島なり」と詠った越後の日本海沿いに広がる分水-出雲崎間の景観は、良寛の歌そのままである。この出雲崎の海岸沿いに小高い丘陵があり、その中腹に良寛記念館がる。
 当時は飢きん続き。良寛は生活必需品を無心し、詩を米塩に換えたといわれる。行乞の上での清貧だった。しかし、良寛は、「飯乞ふと我が来しかども春の野に 菫つみつつ時を経にけり この里に手毬つきつつ子供らと 遊ぶ春日はくれずともよし」と詠う天真の人であった。佐渡まで遠望がきく「にいがた景勝百選」一位選出の「良寛と夕日の丘公園」真下の地点に、良寛記念館はある。山門を入って左手にもうひとつ復元された五合庵(名札は耐雪庵)。同記念館生みの親、佐藤耐雪にちなむ命名だった。
 同館の展示は、良寛初期の文献や経典・詩歌の遺墨、横山大観、安田靫彦らの美術品である。良寛記念館には復元された五合庵があり、展示室には良寛愛用の硯や、手紙、書などが展示されています。書のおおらかな書きぶりは彼の人柄を彷彿とさる。
 建築は外観が「八王子乗泉寺霊園」に似た意匠で回廊、庭園、記念館本館からなる。回廊から眺める日本海は絶景である。回廊と庭園を導線とする配置は、あたかも眼下に見える日本海と建築のある丘の縮図にも見える。互いの導線選択により庭園側からは建築が、回廊からは絶景が望めるようになっている。展示スペースについては至ってシンプルであった。天井は白木で、太い棟木が真一文字に両妻を貫いている。それを挟んで左右に電灯が垂れ、床のタイルは黒い。時代は違うが庭で遊ぶ子供たちを微笑ましく、かつ荒波を見つめる良寛の姿が思い浮かぶ建築である。

(5)東京会館
 事務所と宴会場からなる建物で,1,2階の外壁には朱泥タイルと黒御影石が,3階以上ではカーテンウォールが用いられている.ロビー内部はトラバーチン,その一部に猪熊弦一郎作のモザイク壁画になっている.なおホールのガラスモザイクは脇田和作となっている。高い天井から「金還」と題する円形シャンデリアが下がり、真鍮板を張った曲面に、豆電灯の点灯が反射して、童話的雰囲気を醸している。会合や会食を目的とする機能的スペースであるが、思い出のシーンを記憶の余韻として残していたい空間である。

(6)山種美術館
 山種証券の創立者、山崎種二氏創設、日本画の名作を多く所蔵する美術館。収蔵品の数は約1800点との事。横山大観や安田靱彦、速見御舟、奥村土牛などなど、巨匠から現代作家まで勢揃いしている。これらの所蔵品を常時50点ずつ企画展示しているのである。山種美術館は証券会社およびヤマタネの創業者・故山崎種二翁が長年にわたって蒐集した美術品の寄附により、山種美術財団を設立し、日本画の一層の向上普及を願って「近代・現代日本画専門の美術館」として1966年7月に東京都中央区日本橋兜町に開館された美術館である。しかし、30数年を経て設備の老朽化に伴い、1998年7月、に東京都千代田区三番町へ仮移転し、緑豊かな環境のもと、館蔵品企画展を続けている。内装は奥座敷の応接室といった落ち着いた面持ちである。床はフラットで参観者の愉しみを阻害しない。縦横の統一された仕切りのイメージがより一層静寂な視覚を導く。

(7)出光美術館
 出光興産を興した実業家・出光佐三が東京・丸の内に開館した美術館である。主な収蔵品は、日本・中国の陶磁器を中心に、伴大納言絵巻をはじめとする日本の書画作品、ジョルジュ・ルオー、浮世絵、文人画、など多岐にわたり、年5回ほどの企画展で公開している。三鷹の中近東文化センターのほか出光美術館(大阪)や出光美術館(門司)など分館も存在する。
 展示は3つの展示室(第1~3展示室)で行われる。また、ロビーでは、ムンクとルオーの作品を展示するコーナーを設けている。展示施設以外では、その他、陶片資料を紹介する「陶片資料室」や、茶道具などを展示する茶室、さらに皇居を臨む休憩コーナーがある。ビルの9階にあって天井が低いことは残念であるが、スペースも十分である。意匠は土間と座敷のような関係でなっており、過去に研修旅行で訪れた豪農の土間~座敷と囲炉裏のようなデジャブを感じた。

(8)千鳥ヶ淵戦没者墓地
満州や南方、その他各地の戦線で戦死した無名戦没者の遺骨が埋葬されている。敷地は旧江戸城に近く、濠を隔てて古い石垣や森が遠望される。地下の納骨堂には三万体の遺骨が静かに眠っている。それを六角形の「上屋」蔽っている。参道は二箇所あって式典などの混雑時には参詣者の流れを一方向にしている。二つの順路が交流する位置に管理事務所があり、受付が案内所となっている。参詣者はそこから「六角堂」の正面に向かって進むのであるが、その中間に休憩所の建物が配置され、それが中門の如き働きをする。つまり、柱の間から奥を望む事によって、参詣者の視界に奥行きが増し、梁の下をくぐる事によって、歩行に聖なるものへの接近が感じられる。休憩所の建物は左右に細長く伸び、その両翼の室内には、休憩と沈思のために腰掛が設けてある。石造りの水のみ場の他に喫煙場も設けてある。そこからの眺めには遠近法的な視覚が考慮され、パースの焦点に六角堂が見えるようになっている。六角堂の背後には、市街の道路がすぐに走っているが、路面と敷地との高低さと、庭園の植え込みによって街路の雑踏は休憩所からは見えない。そのために遠くの森の石垣が借景となって、奥深く参詣者の目に展開する。逆に街路の歩行者や車からは六角堂の軒がすぐ近くに認められるので、通りすがりの目にも墓苑の存在をすぐ知る事が出来る。普通の宗教建築の配置と異なり本殿の位置を街路に近ずけ、拝殿を奥に設けているが、無名戦没者を親しみのある敬慕とする意図を感じる。内部には「陶棺」が一基、床の中心に据えてある。その成型のは遺族の方々が参加したそうである。六角堂の前には広い石畳の広場が設けられ、宗教式典が催され、反戦の思いが心に響く。