イタリアから連想されるイメージを映画ジャンルに絞って述べる。
イタリア映画のイメージを思い浮かべると、古くはジュゼッペ・デ・サンティスの「にがい米」、ヴィットーリオ・デ・スィーカの「自転車泥棒」、ピエートロ・ジェルミの「刑事」。いわずと知られたフェリーニ、ヴィスコンティ、ベルトルチ、ゼッフィレッリ、ローズィ等など。無声映画時代より現代までに超一流の映画芸術作家を数多く輩出しています。イタリアは西洋文化発祥の原点であると共に映画表現の歴史に措いてもその祖を成しているといえる。イタリア芸術のディテールの数々はきら星のごとく輝いておりますが、絵画作品、建築物だけでなく、ブルクハルトの示したように、「文化とは芸術や哲学だけでなく、政治や商業の活動であっても、そこに自発性と個性があるならば、文化の中に含まれる」ということ、つまりイタリア映画人たちの残した様々な活動成果そのものが鑑賞に堪えうる一個の芸術品だと言えるのではないでしょうか。映画が芸術文化に昇華する過程を次に大まかに述べる。
無声映画時代(1910年代)というのは、フランスの映画史家ジョルジュ・サドール氏の言葉をかりれば「映画が芸術になった」時代であり、イタリア映画が世界の映画史上において最も重要な役割を果たした時代である。すなわち、イタリア映画が技術面においても、製作面においても他のどの国よりも一歩先んじていた時代といえる。
映画が発明されてからの十数年の間に映画がどんなに進歩したでしょうか。
1894年にエジソンがのぞき箱の形をしたキネトスコープを作ったことで映画の原型が発明される。
翌1895年にはリュミエールが、映像をスクリーンに映し出し、多数の人が同時に見ることのできるシネマトグラフを作る。
1902年にジョルジュ・メリエスが『月世界旅行』を製作する。
1903年にエドウィン・S・ポーターが『大列車強盗』を作り、以前まではただ単に風景を撮影しただけだった映画が、これらの作品によってストーリーのある、10分から15分ぐらいですが、ドラマ仕立てになりました。
こうした段階を経て、映画が新しい表現手段の一つであることがわかると、映画を作る側からも、映画を単なる見世物から芸術に発展させようという動きが生れ、そこで頭角を現したのが、エジソンやポーターがいるアメリカでも、リュミエールやメリエスのいるフランスでもなく、イタリアであったのです。
当時のイタリア映画の主流は、歴史劇、古典劇です。イタリアに残る史蹟、遺跡がそのまま映画に巨大な野外舞台を提供したわけです。いうまでも無く歴史・文化・伝統は史跡の建築技術といい、空前のスケールであり、それをセットでの再現でなく、本物の迫力で映画に使うことが出来たというのは、表現力(環境)の面でも、又、資金の面でも他国よりずっと有利だったという事、言い替えれば、イタリア映画が史劇、古典劇を主に製作したと言うのは自分の国の特色をうまく映画に生かすことが出来たのであって、その成功が他国より一歩も二歩も抜き出た結果につながったと言えます。
また、イタリア芸術の発展との共通点として挙げられる点であるが、イタリア映画が他国より抜き出たその他の理由として、自分の利益と娯楽のために、パトロン的な心意気をみせて映画産業に賭けてみようと自ら資金を投下しようとする貴族階級や大ブルジョアジーの実業家といった、今までの映画界(特に他国)にはいなかった新しいタイプの人間がイタリアの映画会社の経営陣に加わったことで、資金面の調達が楽になったことも挙げることが出来ます。
この点でアメリカ等の商業映画発展の過程とは違った形態を確認する事が出来ます。
イタリアのパトロン達は商業的「実」より芸術性の「質」をよしとしたと見ることは出来ないでしょうか。
こうした文化的資源やパトロンの資金援助の下、次々と大作が製作されて行きました。
10分から20分程度の作品が世界中の映画の大半だった時代に1時間を超える作品が続々と登場してきます。
その中でも特筆すべき作品を2本挙げますと、
1本は1912年の『クォ・ヴァディス』、これは『アントニーとクレオパトラ』と同じエンリコ・グァッツォーニが監督しています。物語は1世紀のローマにおける古代的世界観とキリスト教信仰の闘争という歴史的大事件が背景となる恋愛物で、原作は世界的ベスト・セラーとなり、ノーベル文学賞を受賞しています。30頭のライオン、3千人の出演者を使い、又、ローマ市街の大火災などのスペクタクル・シーンなどを随所に織込んで、映画の可能性、「映画ではこんなことが出来るんだ」又は「映像でこんな表現が可能だ」ということを世間に知らせた作品です。
そしてもう1本は1914年に作られたジョヴァンニ・パストローネ監督の『カビリア』でしょう。これはイタリア無声映画史上で最高の傑作と言われています。ローマ対カルタゴの宿命の戦いを描いたロマンチックな歴史劇、大群衆劇ということです。『カビリア』は3年前に東京のイタリア文化会館で上映されていますが、その時の上映時間が、プログラムによりますと実に176分、3時間近くもある巨篇です。東京では1916年、大正5年に帝国劇場で公開され、その時の入場料が普通の映画の十倍の5円だったそうです。
近年話題になりました『イントレランス』は、この『カビリア』以上の作品を作ろうと製作されたとも言われています。
過去、芸術に投資していたパトロンの存在無しには存在しえない映像芸術であり、採算度外視の職人気質でしか無し得ない業績が史跡文化と共通した背景の下にイタリア映画文化の歴史に存在するといえるのではないでしょうか。イタリア芸術の現場を支える職人芸の世界においても伝統的な職人の世界が長い歴史を誇るイタリアの土壌において、イタリア映画界においても、さらに結びつきの強い実の親子の関係は非常に多く見受けられます。
代表的な例を挙げると、イタリアン・ホラーの巨匠マリオ・バーヴァのファミリーが象徴的と言えるでしょう。マリオの父エウジェニオ・バーヴァはイタリア映画草創期を代表する名カメラマンで、イタリア映画界における特殊効果のパイオニアです。そして、そのエウジェニオから撮影のノウハウを学んだマリオが撮影監督、そして映画監督となり、そのマリオの助監督として修行を積んだランベルト・バーヴァが「デモンズ」などで80年代にホラー監督として一世を風靡するに至ったのでした。
そのマリオ・バーヴァの次の世代であるダリオ・アルジェントも、父が映画プロデューサーのサルヴァトーレ・アルジェント。弟のクラウディオも父サルヴァトーレの跡を継いで映画プロデューサーとして活躍しています。そして、ダリオの長女フィオーレは「フェノミナ」や「デモンズ」の女優を経て現在は父のアシスタントに、次女のアーシアは今やハリウッドでも活躍する国際的なトップ女優となりました。
先述したように、師弟制度の伝統が根強いイタリア映画界、これからもこうした父親のもとで修行を積んだ映画人が登場してくることと思われます。家業的側面においてもファミリー重視の相伝譜系が頑なな職人気質のイメージと強く結び付きます。
イタリア映画のイメージを思い浮かべると、古くはジュゼッペ・デ・サンティスの「にがい米」、ヴィットーリオ・デ・スィーカの「自転車泥棒」、ピエートロ・ジェルミの「刑事」。いわずと知られたフェリーニ、ヴィスコンティ、ベルトルチ、ゼッフィレッリ、ローズィ等など。無声映画時代より現代までに超一流の映画芸術作家を数多く輩出しています。イタリアは西洋文化発祥の原点であると共に映画表現の歴史に措いてもその祖を成しているといえる。イタリア芸術のディテールの数々はきら星のごとく輝いておりますが、絵画作品、建築物だけでなく、ブルクハルトの示したように、「文化とは芸術や哲学だけでなく、政治や商業の活動であっても、そこに自発性と個性があるならば、文化の中に含まれる」ということ、つまりイタリア映画人たちの残した様々な活動成果そのものが鑑賞に堪えうる一個の芸術品だと言えるのではないでしょうか。映画が芸術文化に昇華する過程を次に大まかに述べる。
無声映画時代(1910年代)というのは、フランスの映画史家ジョルジュ・サドール氏の言葉をかりれば「映画が芸術になった」時代であり、イタリア映画が世界の映画史上において最も重要な役割を果たした時代である。すなわち、イタリア映画が技術面においても、製作面においても他のどの国よりも一歩先んじていた時代といえる。
映画が発明されてからの十数年の間に映画がどんなに進歩したでしょうか。
1894年にエジソンがのぞき箱の形をしたキネトスコープを作ったことで映画の原型が発明される。
翌1895年にはリュミエールが、映像をスクリーンに映し出し、多数の人が同時に見ることのできるシネマトグラフを作る。
1902年にジョルジュ・メリエスが『月世界旅行』を製作する。
1903年にエドウィン・S・ポーターが『大列車強盗』を作り、以前まではただ単に風景を撮影しただけだった映画が、これらの作品によってストーリーのある、10分から15分ぐらいですが、ドラマ仕立てになりました。
こうした段階を経て、映画が新しい表現手段の一つであることがわかると、映画を作る側からも、映画を単なる見世物から芸術に発展させようという動きが生れ、そこで頭角を現したのが、エジソンやポーターがいるアメリカでも、リュミエールやメリエスのいるフランスでもなく、イタリアであったのです。
当時のイタリア映画の主流は、歴史劇、古典劇です。イタリアに残る史蹟、遺跡がそのまま映画に巨大な野外舞台を提供したわけです。いうまでも無く歴史・文化・伝統は史跡の建築技術といい、空前のスケールであり、それをセットでの再現でなく、本物の迫力で映画に使うことが出来たというのは、表現力(環境)の面でも、又、資金の面でも他国よりずっと有利だったという事、言い替えれば、イタリア映画が史劇、古典劇を主に製作したと言うのは自分の国の特色をうまく映画に生かすことが出来たのであって、その成功が他国より一歩も二歩も抜き出た結果につながったと言えます。
また、イタリア芸術の発展との共通点として挙げられる点であるが、イタリア映画が他国より抜き出たその他の理由として、自分の利益と娯楽のために、パトロン的な心意気をみせて映画産業に賭けてみようと自ら資金を投下しようとする貴族階級や大ブルジョアジーの実業家といった、今までの映画界(特に他国)にはいなかった新しいタイプの人間がイタリアの映画会社の経営陣に加わったことで、資金面の調達が楽になったことも挙げることが出来ます。
この点でアメリカ等の商業映画発展の過程とは違った形態を確認する事が出来ます。
イタリアのパトロン達は商業的「実」より芸術性の「質」をよしとしたと見ることは出来ないでしょうか。
こうした文化的資源やパトロンの資金援助の下、次々と大作が製作されて行きました。
10分から20分程度の作品が世界中の映画の大半だった時代に1時間を超える作品が続々と登場してきます。
その中でも特筆すべき作品を2本挙げますと、
1本は1912年の『クォ・ヴァディス』、これは『アントニーとクレオパトラ』と同じエンリコ・グァッツォーニが監督しています。物語は1世紀のローマにおける古代的世界観とキリスト教信仰の闘争という歴史的大事件が背景となる恋愛物で、原作は世界的ベスト・セラーとなり、ノーベル文学賞を受賞しています。30頭のライオン、3千人の出演者を使い、又、ローマ市街の大火災などのスペクタクル・シーンなどを随所に織込んで、映画の可能性、「映画ではこんなことが出来るんだ」又は「映像でこんな表現が可能だ」ということを世間に知らせた作品です。
そしてもう1本は1914年に作られたジョヴァンニ・パストローネ監督の『カビリア』でしょう。これはイタリア無声映画史上で最高の傑作と言われています。ローマ対カルタゴの宿命の戦いを描いたロマンチックな歴史劇、大群衆劇ということです。『カビリア』は3年前に東京のイタリア文化会館で上映されていますが、その時の上映時間が、プログラムによりますと実に176分、3時間近くもある巨篇です。東京では1916年、大正5年に帝国劇場で公開され、その時の入場料が普通の映画の十倍の5円だったそうです。
近年話題になりました『イントレランス』は、この『カビリア』以上の作品を作ろうと製作されたとも言われています。
過去、芸術に投資していたパトロンの存在無しには存在しえない映像芸術であり、採算度外視の職人気質でしか無し得ない業績が史跡文化と共通した背景の下にイタリア映画文化の歴史に存在するといえるのではないでしょうか。イタリア芸術の現場を支える職人芸の世界においても伝統的な職人の世界が長い歴史を誇るイタリアの土壌において、イタリア映画界においても、さらに結びつきの強い実の親子の関係は非常に多く見受けられます。
代表的な例を挙げると、イタリアン・ホラーの巨匠マリオ・バーヴァのファミリーが象徴的と言えるでしょう。マリオの父エウジェニオ・バーヴァはイタリア映画草創期を代表する名カメラマンで、イタリア映画界における特殊効果のパイオニアです。そして、そのエウジェニオから撮影のノウハウを学んだマリオが撮影監督、そして映画監督となり、そのマリオの助監督として修行を積んだランベルト・バーヴァが「デモンズ」などで80年代にホラー監督として一世を風靡するに至ったのでした。
そのマリオ・バーヴァの次の世代であるダリオ・アルジェントも、父が映画プロデューサーのサルヴァトーレ・アルジェント。弟のクラウディオも父サルヴァトーレの跡を継いで映画プロデューサーとして活躍しています。そして、ダリオの長女フィオーレは「フェノミナ」や「デモンズ」の女優を経て現在は父のアシスタントに、次女のアーシアは今やハリウッドでも活躍する国際的なトップ女優となりました。
先述したように、師弟制度の伝統が根強いイタリア映画界、これからもこうした父親のもとで修行を積んだ映画人が登場してくることと思われます。家業的側面においてもファミリー重視の相伝譜系が頑なな職人気質のイメージと強く結び付きます。