ゆっくりと世界が沈む水辺で

きしの字間漫遊記。読んでも読んでも、まだ読みたい。

遠藤周作【死海のほとり】

2012-11-15 | 新潮社
 
「まだ、あんた、あの男のことが気になるの」
これは主人公に旧友が言った言葉です。
『あの男』、すなわちイエス。

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 死海のほとり
 著者:遠藤周作
 発行:新潮社
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戦時下の弾圧の中で信仰につまずき、キリストを棄てようとした小説家の「私」。エルサレムを訪れた「私」は大学時代の友人戸田に会う。聖書学者の戸田は妻と別れ、イラスエルに渡り、いまは国連の仕事で食いつないでいる。戸田に案内された「私」は、真実のイエスを求め、死海のほとりにその足跡を追う。そこで「私」が見出し得たイエスの姿は?愛と信仰の原点を探る長編。
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あとがきには「『イエスの生涯』は本作と表裏をなすもの」とありました。
まさにそのとおりの印象です。
作品は、小説家の「私」のエルサレムでの旅を描く「巡礼」のパートと、イエスと同時代を生きた人々を描く「群衆」のパートが交互に配置され進んでいきます。

「巡礼」のパートでは、洗礼を受けてはいるものの教会からも遠ざかっている「私」がエルサレムを旅します。
案内してくれながらも、戸田は、エルサレムの町は何度も破壊され、その上にまた新しく町が作られることを繰り返しているのだから、イエスがいた頃そのままの場所などなく、聖書にも本当のイエスの言動を記した部分はごくわずかなのだと語ります。
やがて、巡礼の旅は、イエスと、もうひとり、彼らの大学時代にいた「ねずみ」と呼ばれたユダヤ系ポーランド人の修道士の足跡をたどるものになっていきます。

一方、「群衆」のパート。
こちらは、「私」がやがて書く小説「十三番目の弟子」なのかもしれないと思わせる部分で、磔刑に至るまでのイエスを、彼に関わることになった人々がそれぞれの立場、視点から描写していきます。
救世主としての期待に応えられぬイエスを目の当たりにして思い惑う弟子たち。
彼が成そうとしていることの重さに気づき、それぞれに心を揺さぶられる大司教や百率長。
避けることができたはずの死に自ら赴くかのようなイエスの行動の真意、彼が行おうとしたのはどのようなことだったのか。その行動が彼の死の後を生きる人々に残したものはなにか。
そこに、著者の思うイエスが現れます。

半ば棄教している「私」、奇跡を否定する戸田。
そうでありながら、「私」の机の引き出しにはイエスの名もなき弟子の葛藤を描く「十三番目の弟子」という書きかけの小説があり、戸田も聖書学者としてイエスを探し続けています。
疑いながらもイエスという存在を忘れられずいるふたりの会話は著者の自問自答。
この「死海のほとり」を書いたのは「私」である著者であり、「戸田」である著者が『イエスの生涯』と『キリストの誕生』を書かせたのかもしれません。
どちらの作品でもイエスは奇跡を起こさず、また、起こす力も持たない人、不幸を取り除いてくれる人ではなく、不幸をともに苦しみ耐えてくれる存在として描かれています。
弱き者、孤独な者に寄り添うことの究極として磔刑に臨むイエス。
ここに描かれる磔刑はあまりに酷く、イエスの「愛」は激しすぎて空恐ろしいようでもありますが、これをキリスト教の「救い」の拠り所とする著者の解釈は宗教としてわかりやすいと思えます。
奇跡を行わないイエス像は聖書の記述を事実と信じるなら否定されるものなのでしょうけれど。




[読了:2012-11-11]



 

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