『狐狸庵食道楽』を読んでいたとき、そういえば、この方はクリスチャンだったのだと思い出していた。
私自身は特定の宗教を信仰していない。
葬儀の様式としては仏教。時宗(一遍上人さんのところ。南無阿弥陀仏と唱えます。)の寺が菩提寺だが、おそらく地の利の問題でお墓を求めた結果だろうと思う。
生きて在り、日々無事に過ごせていることの恩恵に対して、漠然とした「何か」に感謝している。
けれども、切実な思いで宗教に触れたことのない日本人の大多数の一人で、葬祭儀式としてだけではない信仰を持つということに実感がない。
記憶に近いところでは『ダヴィンチコード』など、キリストにまつわる謎や聖遺物を題材にした物語には枚挙に暇がなく、奇跡は起きたのか、磔刑から3日後の復活とはいったいどういうことなのかは、いまだ大きな謎でありつづけている。
復活そのものよりも、なぜ彼はあのように死を迎えなければならず、それを受け容れたのかが気になる。
その死の場面には仏陀の入滅のような穏やかさの欠片もない。
ということで、狐狸庵先生こと遠藤周作。
クリスチャンであることが作品に色濃く反映しているこの作家は、イエスをどう捉えているのだろうと思ったのだ。
キリスト教の浸透の度合いが西洋とは異なる国に住む日本人である彼が、何をどう信じているのか、それが知りたかった。
で、『イエスの生涯』である。
イエスの生涯
著者:遠藤周作
発行:新潮社
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小説ではなく、書名のとおり、著者がイエスがヨハネの洗礼を受けた頃から磔刑までの期間を、福音書や神学者達の著書、そして何よりも著者自身の想像力を頼りにたどっていく。
著者の読み取るイエスのなんと孤独なことか。
イエスは、現世の王としての救世主を求める誰をも責めず、死に至る。
著者は、心弱き人々の永遠の「同伴者」たるべく、イエスは辛いが上になお辛いその道を選んだとする。
そうすることで、現実に対して無力ではあっても、キリスト教の「愛」、アガペーを体現しうる存在となることを望んだのだと。
なるほど、と思う。
教えを説く「人」として正しいような気がする。
このイエスなら、踏み絵で踏んでも許す、それよりも、むしろ、踏めというのではないだろうか。
著者はこの本の中で、「事実」と「真実」を分ける考えを示している。
病が治ったこと、パンが増えたこと。イエスが復活したとされること。
それが実際に起こったかどうか、「事実」かどうかはわからない。
けれども、そういう衝撃と同等のことが人々の心に起こったならば、それは「真実」なのだと。
この本自体は、書物にはイエスの墓は空になっていたとしかないとして、「事実」としての復活を否定するでも肯定するでもない。
ただ、それが裏切りの弟子たちに与えた衝撃は「真実」であったろうとしている。
詭弁の匂いがしないでもないが、「事実」と人の心の中にある「真実」が異なることは確かにあることだと、私にもわかる。
その上で、「事実」にこだわるかどうかは考え方ひとつだろう。
どうやら、この本は「以下に続く」の本だったらしい。
イエスの磔刑以後の弟子たち、イエスを神格化した人たちに焦点をあてた本『キリストの誕生』があるようだ。
キリストの誕生
著者:遠藤周作
発行:新潮社
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読んでみるか。
と、こういう記事を書いていると、心配されそうな気がする。(特にS・M夫人に。)
大丈夫。元気ですから。
きしちゃんは本を一冊読んだからといって、そうそう無防備に感化されたりはしないと思ってますから。
そして割合と容易く感化されがちなアタシも大丈夫。元気です。
そうです。色々と面倒なことが多くて、大変生きにくい世の中ですが、それでも大抵のことが大丈夫なんです。
ふぅむ…こんなコメントの方が心配…かなぁ?
大丈夫な気がしてきます。
>本を一冊読んだからといって
そうなの。読んだからといって吸収できない。
撥水性高し?