夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

理念と現実─主辞と賓辞

2014年11月06日 | 概念論

§ 269 政治的心的態度は、その特定の内容を、国家の有機的組織が持つ様々の面から( aus den  verschiedenen  Seiten  des  Organismus  des  Staats )手に入れる。この有機体は、理念が自己の区別へと発展し、さらにこの区別が客観的現実性と発展したのである。これら区別された種々の部面がかくて種々の権力であり、またそれらの権力の職務であり活動である。a


これらによって普遍的なものは、絶えず、しかもこれらは概念の本性によって規定されているので、必然的に、自己を産出し、かつそれがまさに自己の産出に前提されているのであるから、自己を失うことなく保持している。 ──このような有機体が政治的国家体制(die politiche Verfassung)である。 b (ibid s 216 )


※先の§ 267においても、この§ 269においても翻訳者である高峯一愚氏は、この両節の訳注のなかで、ヘーゲルが「理念を主辞とし現実を賓辞」としていることに対して、「主辞と賓辞を転倒している」というマルクスの批判をそのまま引用しながら、ヘーゲルのこの個所の記述を批判している。


しかし、これらの批判はいずれも的外れなもので、ヘーゲルの「概念観」を正しく理解し得なかったマルクスに、訳者の高峯氏も無批判に追随しているにすぎない。


【補注】 〔国家の有機的組織〕国家は有機的組織、すなわち理念がその区別へと向かう発展である。これら区別された部面はかくて種々の権力であり、その職業と活動とであり、これらによって普遍的なものは絶えず必然的に産み出されるのである。また、それがまさに自己の産出において a


前提されていることによって、失われることなく保持されるのである。この有機体が政治的国家体制である。この政治的国家体制は永遠に国家から生ずるが、これはまさに国家がこの政治的国家体制によって保持されるのと同様である。もし両者がバラバラとなり、区別された面が勝手な方向に向かえば、b


国家体制がもたらす統一はもはや定立されない。これはあたかも胃袋とその他の身体の部分との寓話に当てはまる。すべての部分が同一性へと向かわない場合、 一部分が独立したものとして定立される場合には、全部が滅亡せねばならないというのが、有機的組織の本性である。c


述語や公理をもってしては国家の評価において一歩も進めることをできない。国家は有機的組織として把握されねばならないから。それはあたかも述語を以てしては神の本性は理解されないのと同様である。神の生命はむしろ、私はこれをそれ自身において直観しなければならないから。 d( s216)


※悟性的思考家である橋下徹氏や大前研一氏、また悟性的憲法学者、奥平康弘氏などは、ここで述べられているヘーゲルの国家有機体説に理解が及ばない。したがって、彼らには立憲君主国家体制もまた理解できない。


 
 
※追記20141106
 
「普遍的なものは、絶えず、しかもこれら(国家など)は概念の本性によって規定されているので、必然的に、自己を産出し、かつそれがまさに自己の産出に前提されているのであるから、自己を失うことなく保持している。 ──このような有機体が政治的国家体制である。」
※注
「普遍的なものは、概念の本性によって規定されながら、必然的に自己を産出する。」この個所をヘーゲルの字義通り解するか、マルクスのように「主辞と賓辞」を倒錯させているとみるか。ヘーゲルの概念観を前提にすれば、当然に上記のような記述になる。この論点がマルクスの誤解、ヘーゲル「観念論」批判の核心だと思われるので、あらためて想起しておきたい。
 
 
 
 
 
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